完璧な短編小説とはなにか? そう問われたらわたしは悩んでからシャーリイ・ジャクスン「くじ」*1を挙げると思う。
*1:ハヤカワ・ミステリ文庫から同名短編集が出た。異色作家短編集の復刊。また、この短編に限って言えば陰陽師という方による個人訳がインターネット上に存在する。「くじ」
本記事中の引用はこちらによった。コピペができて楽だったので。
『夫婦の中のよそもの』を読んだ。著者のエミール・クストリッツァと言えば知らぬものはいない名映画監督であるが、というか、あるらしいが、ともかくわたしも名前は知っている。映画は観たことがあることになっている。でもどちらかといえばノー・スモーキング・オーケストラの活動のほうで認知している。そういえば、キルミーベイベーのOPはクストリッツァの音作りを参考にしているらしい*1。ふーん。
つまり映画を撮ったり映画に出たりバンドをやったり小説を書いたりするクソ強い星野源みたいなもんである。
というのはまぁどうでもよくて、今回は『夫婦の中のよそもの』を読みましたというお話。初の短編集ということになるらしい。よく知らないけど長編は書いてるってこと?
ボスニア・ヘルツェゴビナ……というか、旧ユーゴを舞台にした短編が六つ収録されていて、うち独立したものが二つ、残りの四つは主人公が同じで、ゆるやかに連関している。各話あらすじとかは出版社サイトとかを見てね。今回は冒頭の一篇についてのみ書きます。初読のインパクトがすごいのでできれば読んでから読んでほしいけど、マァその辺はお好きにどうぞ。
で、「すごくヤなこと」がすごい小説で、やたらと感心してしまった。
文体はきわめてシンプルで、シーンの切り替えは素早い。読者は、読み始めてわずか数ページで主人公のゼコが理想的なものと現実的なものの乖離に傷ついている側の人間であること、父親が現実を表していながら、その愛を求めてしまうという形で同時に理想的なものも表していることを理解させられる。現実的なものへの絶望が極に達したタイミングでゼコを愛する少女ミリヤナが登場する。しかし、救済は束の間で、ミリヤナとは運命によって引き裂かれる。将来再び巡り合うことがあれば結婚しようという約束をして。
わたしを含め、うかつな読者は早合点する。こうして理想と現実の間の折り合いをつけて少年が成長する、そういうお話になるのだと。
当然そうではない。時系列は急に跳び、すでに大人になったゼコがわれわれの前に現れる。かれは「弁護士」などというおカタい職業の女と結婚し、子供まで設けている。モノローグ内のかれは、さも達観したかのように現実に暮らす決心を固めている。少し理想的なものへの留保を残しながら。
そこにふたたびミリヤナが現れる。このあたりのスピード感が最高だ。ミリヤナはチェスプレイヤーで、高価そうな装身具を身にまとっている。弁護士とは対照的、なんともロマンティックで、理想的な女。そんなミリヤナを抱きしめると、しかし、娘を乗せた乳母車が坂道を転がり落ちる。今更理想に手を伸ばした代償は現実的な生活、幸せの地歩である。
要約すればこんなふうになってしまうのに、それを凡百の文学的アイロニーに陥らせないコミカルで映像的な筆致! 坂道を乳母車が転がり落ちる、壁にぶつかって赤子がジャンプする、それを美女がキャッチする、映画のワンシーンとして脳裏に浮かべてみればこれはもう笑いどころにしかならない。そのあとゼコは自宅の呼び鈴でピンポンダッシュする——今日は日曜日だから、妻は家にいるはずである——。「自分だとバレなかったろうかという不安でいっぱいになって」。不用意に理想的な世界のものに手を伸ばしたことに対するしっぺ返しを現実的な世界に知られてはいけない。しかしこれもまた、あまりにもコミカル。
楽観と悲観、現実と理想、能天気と露骨のどちらをも回避しながら、リズムとスピードと笑いで逃げ切ってしまうその卑怯さと意地悪さに、怯えながら残りの五篇を読み進めることになる。
動きと急転直下で読者を正確に引きずり回すすべはほかのすべての短編でも発揮されているのでいちいち取り上げることはしない(めんどくさいし)が、もちろん見せ方にバリエーションに欠けるわけではない。「蛇に抱かれて」なんかの宗教的な崇高さもよい。
家族愛がどうのとか生命力がどうのみたいな話は私がやらなくてもそのうちほかの人がやってくれそうなのでこの辺で終わり。
本屋大賞は超信じられるのか?読書ジプシーが信じられる文学賞ってなに? - カプリスのかたちをしたアラベスク
なんかこの記事がキモいらしい。
「読書ジプシーって造語(?)まで作って訴えるような話じゃない。あとキモい。」
「「少数の選民だけがこの本の価値を理解できる面」をした自称読書エリート様」
「読書ジプシーって妙に力強い攻めた造語を作り出したわりに、本文はいっぱい本読んでる自分を評価してほしいということ以外伝わってこないうっすい内容」
「それだけの数の本を読んでいながらそんな結論に達するなんて」
「空疎な言葉を並べたてただけの選民思想がにじみ出ちゃってますし、そういう造語によって逆に権威化しようとしてるんじゃないの」
などの反応を見た。
わたしはこの記事を読んでむしろわかるなあという気持ちになったのだが、この記事をキモいと感じる気持ちもわからなくもない。なんでこの記事が上記のような理解/誤解をされたのか、ちょっと考えた。
◆この記事はなにを言っているのか
字面を愚直に追った場合の要点は以下の二つ。
a. 作家や批評家の選ぶ文学賞というのは「難しい」ものを押し付けてくるかのように思える(=権威的である)ため、そういった権威から自由であるものとして「本屋大賞」が存在する、という理解は誤っている。
b. 「商業的に成功しない本」を好きな人間向けの賞があればいいなぁ。
(わたしはこう理解するため、「そんな結論に達するなんて」という反応がよくわからない。「そんな結論」とはどんなひどい結論のことを指すのだろうか。)
◆なぜキモがられるのか
問題はこの記事から選民意識を読み取れるかどうか、という一点に尽きる。結論として、無理すれば読み込める。
論点 a. についてこの記事の筆者が語るとき、潮見惣右介という方のツイートが引用されている。このツイートは明確に本屋大賞を批判している。そのうえ、「あまり本を読まない人間」をバカにしている。
・賞の存在意義はない
・平積みの本 "しか" 読まないような書店員
引用するからには共感しているんだろうという(粗雑な)推定をするならば、この記事の筆者にも上記のような意見を持っていると考えることはできる。ところで、これらのツイートを受けて記事の筆者が行ったツイートで述べられている内容は
「素人読者の感じるおもしろさはすべての読書人にとってのおもしろさではない」
ということを主張しているに過ぎない。
「本屋大賞」=あまり本を読まない人間のための賞
これをバカにしている、という誤解から選民意識を持っていると結論しているのではないか。
◆読書ジプシー
たぶんこの単語がまずい。
記事の筆者はジプシーという単語を「孤独に旅を続ける」という意味で用いているが、ジプシーという単語はべつの歴史的な事情を当然想起させる。
ジプシーは被差別者である。こういった単語を使っているという事実から、「大して本も読まない趣味の悪い一般人が俺たち高尚な読書人を迫害している」という陰の主張を読み取ることは不可能ではない。もし仮にこうした主張をしているとすれば、それは選民意識だろう。
「あなたは「読書ジプシー」?」という節そのものが、そもそも良識派の人間には嫌われそうな書かれ方をしている。読書量をアピールすることは、それだけで嫌われる。べつにこの節は読書量の少ない人を直接バカにしているわけではない、そういった記述は全くないのだが、論点 a. の記述の際行った引用ツイートに含まれる意見をこの筆者の意見でもあるとみなせば、バカにしているように読めるかもしれない。
また、「読書ジプシー」という単語を作って読者を人種で区切る、という発想もよくないのかもしれない。人種で区切ることは、その区別が先天的で、不可変であることを想起させる。「読書ジプシー」の読みのほうが「その辺の読者」より優れている、とはもちろん書いていないが、わざわざ人種に区別したうえで、自分の属する人種のほうを否定すると考えて読む人間はなかなかいないと思われるので、この強い区別を持ち込んだ瞬間にそうとらえられても仕方ないとはいえる。
◆けっきょく
書き方を逐語的に見れば選民意識は読み取れないが、読み取ろうと思えば読み取れなくもないということを確認した。じゃあけっきょく、選民意識はあったの? という話になるが、わたしとしてはどうでもいい。わたしはこの書き方で問題がないと思うが、斟酌の得意なフレンズもいる。
ふつうはもっと転ばぬ先の杖を張り巡らせておくものだとは思うが。わたしはいわゆる「読書ジプシー」のことを「いけすかないオタク」と言って自虐みたいなフリをしている。また、随所に一般の読者の感性を尊重するような記述を織り交ぜておけばバランスを取りたがるみなさんにも満足のいく仕上がりとなったのではないか。
◆感性の問題
読書、映画鑑賞、音楽鑑賞などについて、過去の読書体験や鑑賞の質、量と、個々の作品を受容する際の体験の質に相関はないとする強い信仰がある。
「ほんとうにいいものは誰にでもわかる」メソッドである。(じゃあお前わたしがミシュランガイド作ってもいいのか?)
クオリアは私秘的なもので、当然比較することはできないので、この信仰は真とも偽とも定まらないが、そのことは直ちに感性の問題について議論が成り立たなくなることを意味しない。
否定と同意は感情を抜きにすれば等価の判断である。
「ガルパンはいいぞ」がなりたつ次元では常に「ガルパンはクソ」が許容される。われわれは個々の発言に付随する理屈について個別に語ることしかできず、「はやりもの、大衆に受けるものを叩くアマノジャク」という架空のモンスターを条件反射で退治して事足れりとすることはできない。
◆そもそも
ガリ勉叩きみたいなことをするのが人間は好きである。
年収、身体能力、顔の美醜(金・暴力・SEX)というのは暴力なので、人間はその価値にあらがうことはできない。
ところが、知識や趣味というのは、その価値を受け入れる者にとってのみ価値になるという性質を持つため、ある人が価値を主張したとき、同じ土俵で争うか、ちゃぶ台をひっくり返すかの二択がある。
◆良識をやめよう
良識があるとよくものを読まずに類型的な結論を出しがち。
◆めんどくさくなってきた
◆おわり
犬は車道の車と遊びたい。車は強そうな匂いがして、とても速く動ける。ご主人が家に連れ戻そうとしても、腰を下ろして動こうとしない。ご主人がリードを引っ張ると、首輪はするりと耳の上へと抜けて外れ、地面に落ちる。彼女*1はこれを見て、車道へ駆け出す。そして車に轢かれて死んでしまう。
先日田舎に帰った際、久々に会った親戚の小学生(四年生)が「ごん狐」の感想文をこしらえるのに困っていると訴えてきた。
読書感想文を書くのがうまかった(内容がよい、というよりは書くスピードが速い)わたしはかれの訴えに共感できず、へえ~そうですかと適当に聞き流しながら教科書を手に取って久々に『ごん狐』を読んだ。こんなに短かったのか。
小学生の頃は学芸発表会との名で演劇を披露するというカリキュラムがあった。よく覚えていないが、小一時間はある劇だったように思える。それが、こんな短いテクストだったとは。(ちなみに私は兵十の配役を希望したのだが、ごん狐をやらされる羽目になった。勘違いしてはいけない。ごん狐は物語の主人公とはいえ、六人がその配役に当てられていて、一人で最初から最後まで演じ切る兵十のほうがよっぽど花形なのである。)
で、以下は興の乗った私がかれの代わりに書いた感想文である。
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