Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者(翻訳)

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者

ジョン・ケッセル
(SHORT FORM, vol. 2, issue 1, June 1989)

 (コニー・ウィリスの短編小説「クリアリー家からの手紙」について SF 作家/批評家のジョン・ケッセルが書いた批評文、"‘A Letter from the Cleary's’ and the Science Fiction Audience" を翻訳*1した*2SHORT FORM というのはオースン・スコット・カードの編によるファンジンである。
SF というジャンルは現在の日本において人気があるとは言えないがそれでもおそらく人口の半分、6000 万人程度は SF を読んでいるはずであるし、そのうち半分くらいはウィリスのファンだろう。あなたがた 3000 万人にお届けする*3。)



 コニー・ウィリスの短編「クリアリー家からの手紙」は1982年のネビュラ賞を受賞した。しかし、こう言っても間違いではないと思うのだが、読者の多くはこの物語をあまりにも慣れ親しんだテーマ、つまり核戦争後の生存競争というテーマを、見事に書き直しただけのものと見做していて、あまり入れ込んではいないようだ。ロバート・シルヴァーバーグは「『クリアリー家からの手紙』は核戦争がいかにわれわれの社会のはたらきをおかしくしてしまうかということについて、驚くべき考え方を示してくれる。それは1941年にハインラインがやったとき*4は、SFが扱うにあたってもっともなテーマだった――コニー、気を悪くしないでほしいのだが――しかし、今や、そういった時代ではない。」と書いた。ブライアン・オールディスの『一兆年の宴』 のもやもやしたコメントから「クリアリー家」について書いてあるんだろうと読み取れたところによると、ウィリスは「(アメリカの)新しい作家たちをおそった愛国的な感傷の波」にあてられてしまったそうだ。いくぶんか同情的なガードナー・ドゾアのような読者でも、このストーリーを「辛辣*5だ」という一言でまとめてしまった。

 私にはむしろ「クリアリー家」は辛辣で、刺激的だというよりも、ぞくっとするほど非感傷的なものにおもえる。政治的に抜け目がなく、心理学的には鋭敏なテロリズムについての研究であって、われわれのジャンルの他の作品とは比べるべくもない物語構成のスキルをみせている。これは核戦争の影響を書いているのではなく――ボブ*6、気を悪くしないでくれ――原因について書いている。読者の先入観によっていかに物語が誤読されているかのよい実例として、この作品は短編作家に厄介な難問を突き付けている。

 「クリアリー家」は 1982 年の 7 月 に『アイザック・アシモフズ SF』誌上で発表された。ロバート・シルヴァーバーグの編による「第 18 回ネビュラ賞アンソロジー」にも収録され、ウィリスの短編集、『見張り』にも収録されている*7。  語り手は十四歳の少女、リン。彼女は両親と兄のデイヴィッド、友人のミセス・タルボットといっしょに、パイクスピークを見晴らすロッキー山脈中の町に住んでいる。ティーンエイジャーのご多分に漏れず、リンはいろんなことに文句を言う。ミセス・タルボットの雑誌を取りに郵便局に行かなきゃいけないし、飼い犬のラスティは死んでしまったし、天気は寒いし、父親の温室づくりも手伝わなきゃいけない。兄は薪を小さく切ってくれず、両親も新しいストーヴを買ってくれないから、ストーヴのふちでよく手の甲を火傷してしまう。リンが物語を語り進めるにつれて、細部は積み重なり、この話がふつうの中流家庭の話ではないことが示唆される。かれらは名もなき襲撃者に見つかることを恐れていて、リンの父親は武器の装填を怠らないし、リンが雪道の上に足跡を残すことに神経質になっている。送電線は切れていたが、そもそも電気が流れることはない*8。パイクスピークは冠雪していないが、その代わり焦土と化している。家が隣にあるにもかかわらずミセス・タルボットとリンの家族が同居しているのは、彼女の夫が行方不明だからだ。デイヴィッドの妻と幼い娘もそうである。まもなく、これは核戦争後の世界であり、この五人は町に残された最後の五人で、サバイバルにもがいているのだということにわれわれは気付く。

 この日、リンはクリアリー家からの手紙を郵便局で発見する。クリアリー家はイリノイ州に住む、リンの一家の友人だ。クリアリー家の人たちは戦争の始まるちょうど一か月前にコロラド州を訪れることになっていた。しかし、かれらは現れなかった。リンは、悲劇の直前に投函された手紙を、家族に向かって読み上げる。 死者からの手紙は皮肉にも、痛々しい記憶――例えば、リンには、この物語のどこにも一切言及のなかった、メリッサという妹がいたということなど――を呼び起こす。リンが手紙を読み終えると、「危険すぎるから」という理由で、父親はリンを二度と郵便局にやらないことを決めた。彼女は走って逃げだそうとしたが、兄に止められてしまう。最後のパラグラフで、リンは手紙を偶然見つけたわけではないことを明らかにする。彼女は届けられなかった手紙のうちからそれを何か月もの間探し続けていたのだ。

 状況がはっきりとわかれば、物語の個々のディテールは無垢なものからおぞましいものにその意味を変える。たとえば、リンは物語のなかで、手の甲の同じ個所を薪ストーブでやけどしてしまうことにずっと不平を言っているのだが、そのたびごとに彼女はこんなことを言うのである。「最高。この水ぶくれで古いかさぶたがはがれて、また最初からやりなおしってわけ」すぐに我々は、リンが放射線病を患っているのではないかとおそれていて、なにかがおかしいと勘づいている母親から彼女の傷の本当の理由(被曝による炎症)を隠すために手の甲をわざとやけどしていることに気づく。リンの言う「最高」はティーンエイジャーの皮肉な*9発言のようにみえるが、実は彼女が成し遂げたことへの満足を表す発言なのである。そして、同時に、彼女が直面したくない事実に対する防衛機制でもある。

 彼女が周囲と自分をごまかす動機は、リンの人格の全体を象徴している。リンは彼女自身のことを、この恐ろしい苦境に立ち向かおうとしている家族の一員だと思っている。誰も自分たちの生活が絶望的で、大きな喪失に苦しめられていて、その苦しみが毎日続いているということを認めようとしない。彼女は未来について考えたくない。彼女は過去と現在にすでに傷つけられすぎているからだ。デイヴィッドは事故で彼女の犬のラスティを撃ち殺し、あやうく彼女も死ぬところだったのだ。

 リンは激怒したが、それを見せることはなかった。彼女が手紙を見つけて読み上げたのは家族のごまかしを強調するためだ。彼女は恐怖を感じているが、それを家族には隠したがっている。そして、同時に、かれらが恐怖を感じていることを認めさせようとしている。彼女は自分自身のことを無力だと感じているが、これが彼女の権力の握り方なのだ。家族にあれをしろ、これをしろということができない代わりに、心理学的な力を行使する。 彼女は手紙を読み上げたことで、かれらに対する優越を得た。彼女はデイヴィッドに死んだ妻と子供のことを、両親にはリンではない方の娘の死を、ミセス・タルボットには死んだ夫のことを、そして全員に、かれらがもし生き延びることができても、昔と同じような生活は戻ってこないのだということを認めさせようとした。しかし、リンの戦略は彼女に望んだ自由を与えたわけではなかった。リンが兄に手の甲のやけどのことで文句を言っているとき、同時に彼女はその傷の真実の原因が戦争によって発生した放射線であることを知っていて、つまり、かれらにはどうすることもできない力によって苦しめられていることを家族に向かって文句を言っていたのだ。彼女はかれらを傷つけることで復讐をしたが、それによって痛みが癒やされることはなかった。

 リンの行動の裏にある動機を理解することで、物語を別のレベルで理解することができる。ミステリーであり、心理学的な探求であることに付け加えて、「クリアリー家」は政治的な寓喩でもあるのだ。このことは、リンが手紙を読み上げた後、父親がリンを外に連れ出してこう語ったことからも明らかである。「おととしの夏の出来事については、わしなりの考えがある」「ロシア人がはじめたとも、合衆国がはじめたとも思わん。どこかの小さなテロリスト・グループか、ひょっとしたらたったひとりの人間がやったんだろう。爆弾を落としたらどうなるか、なんにも考えてなかったんだと思う。世の中のありさまに傷つき、怒り、おびえて、すべてをご破算にしようとしたんだ――爆弾一発で。この考えをどう思う、リン?」「いったでしょ。タルボットさんの雑誌をさがしてて、偶然あの手紙を見つけたのよ」

 リンはテロリストだ。テロリストとは、リンのように、自分のことを無力だと思っていて、自分の悲しみを正当な手段によっては癒すことができないと思っているような人たちのことだ。テロリストは政治的な手続きによっては達成することのできない目標を成し遂げるために暴力的な手段に訴えかける。テロリストにはほんとうの敵がいないから一般人を攻撃し、かれの抑圧の従犯としての責任を一般人に押し付ける。どれだけ暴力的で、誰が傷つけられようとも、かれが不当に苦しめられている痛みによってその行為は正当化される。「クリアリー家」はテロリストの行動根拠に対する批判だ。ウィリスの主張はわたしが「リベラル・デモクラティック」と呼ぶ――革命家たちはそれを「保守的」と呼ぶ――それだ。テロリズムは、かれらにはほとんど、あるいはまったくどうすることもできない状況についてひとびとに責任を負わせるものであり、テロリストは誰もそんなものは持っていないはずの道徳的権威を持ち合わせていると思い込んでおり、テロリズムはもし短期的には成功したとしても、当初の意図とかけ離れた邪悪に走ってしまう。  最終的に、家族の力関係について書かれているように見えた物語が、偉大な政治的主張を為す。フェミニスト運動が「個人的な問題が政治的な問題だ」というのであれば、ウィリスは「政治的な問題とは個人的な問題だ」と示唆している。「クリアリー家」は SF の使い古された舞台装置に、主流文学的な個人の物語で装飾をほどこしたものとみなされてきたが、じっさいのところ、キャラクターの性格付けは SF 的背景を生み出す政治的主張に結び付けられていたのだ。ポスト・ホロコースト設定を取り除いてしまえばこの物語は政治的な主張を失ってしまうだろう。あるいは、登場人物の複雑な動機を取り除いてしまっても同じことである。キャラクターの性格描写は、古臭い SF のケーキにほどこされた糖衣だと思われていたが、そうではなく、材料そのものなのだ。

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「大げさだな、ジョン。結局、ネビュラ賞取ったんだろ。なにが問題なんだよ。ていうか誰の問題なんだよ」  大した問題である。この小説について、「衝撃の結末」以上の理解がなされているとは思えない。この小説を気に入らなかった人たちにとって、こういった趣向はすでに見覚えのあるものだったからだ。あるいは、若い女の子*10によって語られたという特徴以外にはなんの目新しさもない、ポスト・ホロコーストを描いた感傷的な小品のように見えたからかも。この小説に投票した人でさえ、ほとんどはこんなふうに考えていただろうと私は疑っている。前者*11にとっては、この作品がネビュラ賞を取ったことは SF 読者たちが知的厳格さに欠けることの証拠であったし、後者*12にとっては、アイディアよりも感情を温かく書き込むことが勝利したと受け止められた。

 「クリアリー家」の平坦な筆致が技巧的な深みを隠蔽し、誤読を誘っているとして批判することも可能だろう。(しかし、)ウィリスはこの物語を書くにあたってこの形式を選んだのだ。ほかの作家にとっては飾り物に過ぎない描写の細部というのは、この作品においては、読者が最後の一行まで読み通したあとに思い出さなければ完全には明らかにならないような意味のために、細心の注意を払って書き込まれている。もっといいのは再読することだ。再読すれば、「パラノイアは、十四歳の女の子の死因ナンバーワンよ」という一行が繰り返されていることや、リンの温室に対する不満が「あんなもの、爆弾で吹っとばしてやりたい。ときどき、そんな気分になることがある」と表現されていることが、お茶目でキュートというよりは、苦く皮肉なものに思えるだろう。この物語は刃渡り 6 インチの飛び出しナイフと同じくらい感傷的だが、そのことを理解するためには読者は注意深くならなければならない。一体どれだけの SF 読者がこの物語を再読しただろうか?

 なにが問題なんだ? 問題は多くの SF 読者は信頼できない語り手によって語られた物語を理解できないということにある。SF には威勢のいい若いヒーローとヒロインがたくさんいて、読者にウィリスの小説をデイヴィッド・パーマーの "Emergence" やデイヴィッド・ブリンの『ポストマン』と同じように分類させてしまう*13。これがブライアン・オールディスが彼女の作品を見誤ってしまった理由である。いかなる SF 作家もかれの期待される読者層に反して皮肉に満ちた書き方をしようとはしないし、ましてや誤読されようとなんて思わないし、「クリアリー家」の場合においては真実だと思うが、間違った理由でメジャーな賞を取ろうとなんて考えないはずだ。

 誰の問題なんだ? 難しい問題だ。おそらく、SF の読者層に対してこういった書き方がなされたところで、まともに取り合う必要なんてないのかもしれない。しかし、「クリアリー家」において示された技巧はわたしには非凡なもののように思えた。複雑な構成を持ち、力強い含意を持っている。文体においても、中身においても。これは価値のある仕事だ。そして、コニー・ウィリスはいったいどこに行けばいいというのだ。これは SF でなければならなかった物語だ。これは SF の雑誌以外で発表することはできなかった物語だ。

 皮肉*14について話そう。ある作家には潰瘍のもととなり、他の作家を飲酒に駆り立てるようなある種の皮肉についてである。ウィリスの「わが愛しき娘たちよ」が数年後に発表されたとき、われわれはこの小説の持つ苦みや怒りがウィリスのキャリアの新境地を示していると考えるに至った。ある人は言う。「コニー・ウィリスはたちが悪くなったな」他の者はこう言う。「コニー・ウィリスもようやく目覚めたか」

 コニー・ウィリスはつねに目覚めていた。眠りこけていたのは読者たちの方だ。

*1:http://www4.ncsu.edu/~tenshi/Clearywhite.html ネットに転がってた。

*2:権利者の許可は当然取っていない。

*3:といいつつわたしの英語力もあって翻訳は非常にお粗末なものである

*4:"Solution Unsatisfactory" のことか。邦訳存在せず。

*5:poignant

*6:もちろん、ロバート・シルヴァーバーグのこと。

*7:日本では『わが愛しき娘たちよ』『空襲警報』(いずれも早川書房刊)に収録されている。

*8:発電を行っている施設がもはや存在しないから?

*9:sarcastic

*10:直接的にはリンのことだが、この作品が書かれた当時ウィリスが 29 歳だったことを考えてもよい。

*11:この作品に投票しなかった人たち

*12:この作品に投票した人たち

*13:この一文、上手に訳出できなかった。

*14:irony

『未必のマクベス』の文体論

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

(※この文章は第二十五回文学フリマにおいて東京大学新月お茶の会会誌『月猫通り 2158号』を購入された方に配布したペーパーに掲載した書評をほんのわずかに修正したものである。)


 物語の必要性に追いかけられて書けば文章は窮屈になる。文彩にばかり気をとられれば物語は停滞する。一人称視点の文体はカメラの移動に制約をかけ、下手をすれば情報の密度は下がりかねない。その上、この小説はとにかく多くの情報を扱う必要があるプロットを持っている。それでも気軽に神の視点を入れるわけにはいかない。この物語は旅する王の僭称者が自分語りをしていることに意味があるのだから。
 さて、『未必のマクベス』が文庫化した。単行本発売時には不幸にも多くの人に届かなかったらしいこの小説が、この機会に読み込まれることを切に願う。さいわいにもこれは「読めばわかる」小説だ。そして、そのわかりやすさは著者の早瀬が注ぎ込んだ技巧によって実現されている。効果的な技巧というのはそれが用いられていると気づいていない人にも効果を与えるからこそ優れていて、それを分析するのはフィギュアスケート選手の跳躍の瞬間、足元をコマ送りでチェックするような無粋であることは承知しているが、それでも物語の美しさを表現するための技巧も極まればそれ自身美しさを持つものだとわたしは信じている。

 本題に入る。ここではii章冒頭部のみを取り扱う。『未必のマクベス』における語りの技法と、テーマとの関わりがもっとも特徴的に表れている箇所だからである。
 i章が物語全体の予言とビジュアルイメージの提示のために費やされたため、ii章が実質的なストーリーの起点となっているが、やるべきことは伴と鍋島(と中井)を物語に導入し、伴=バンクォーであることを示唆し、鍋島と主人公の中井の間にあった情緒的なものの萌芽を示すことだ。そして、早瀬はこれをたったの7ページで手際よくやってみせる。
 「中井」は席が二つ後ろの「伴」の自己紹介を聞くために後ろを向く。席順は五十音順だから、必然的に、、、、「鍋島」のことが視界に入る。章の冒頭でかれらの入学した高校が旧制高校から続く中堅高であると描写されたことは、最初は描写として、次にはシェイクスピアを引用する老英語教師を登場させるための伏線として機能する。さらに、中堅高という設定は受験期の文理別クラスという設定を自然に導入する。この文理の別と、中井と鍋島の席が連続している描写を用いて、「三年間中井と鍋島の席の配置が変わらなかった」というエピソードが生み出される。鍋島は理系であるにもかかわらず、中井と同じクラスになるために文系クラスを選択したのである。
 このように、視線の移動/誘導は論理的かつ物理的で、一度使われた描写が次の展開のための伏線となる。属調に転調すればもとの調の主和音トニック下属和音サブドミナントになるように。しかも、描写の直後に展開が来るのではなく、あくまでも無意味に、楽しく読んだ描写が、少しの間隔をおいて次の展開へつながることが、文体をリズミカルで、音楽的なものにしている。その小気味よさの繰り返しでこの小説はできている。描写と情報開示が読む楽しみとスピード感を失わせないまま、寸分の隙なく続いていく。
 一度ある意味を持って読まれた文章が、別の意味をまとって再度用いられる。あるいは、再度用いられることで別の意味になる。この構造は今分析したようなミクロな規模だけでなく、マクロにも当てはまることをみていこう。
 たとえば、ii章冒頭の7ページで鍋島がとるアプローチはすべて中途半端で、期待する効果をあげることはなかった。ここまでなら青春のほろ甘いエピソードとしか映らない。(おそらくほろ苦くはない。鍋島の用意した義理チョコは甘いだけの不二家の板チョコレートである。)しかし、鍋島はこの物語全体を通してこうなのだ。鍋島は控えめに手を伸ばす。目いっぱい腕を伸ばせば届く距離だというのに。この届かなさは作中で何度も繰り返される。それは最初のうち変奏であることを隠してなされる以上、ここでネタを割るわけにはいかないが、勘のいい読者なら、あるいは幸せな再読者であれば、ある登場人物との初対面のシーン、マホガニィの大きな机を挟んで*1なされた会話がすでにその変奏であることを悟るであろう。
 ii章冒頭の分析においてわれわれが席順に注目したのも当然無意味な深読みではない。数百ページをおいて、541ページには「中井の背中を見る鍋島」というこの席順が物語全体を占っていたことの答え合わせがある*2

 一度使った文章を印象的に再登場させる技巧は、心ある作家ならだれでも行っているというのも真実ではあるが、『未必のマクベス』においてはそれがあらゆる規模において徹底されている。われわれはいま鍋島についてみてきたが、同じようなことは中井についても、伴についてもできる。フィクション世界には、書かれていない細部が決定されていないという根本的な弱点があるが、本書のような、文章同士が有機的に絡み合う文体は、この世界を実在世界であるかのように錯覚させる*3
 また、この著者にとってはひたすら負担となる文体が採用されたことにはもうひとつ理由がある。
 ここまで文体について強調してきた、『再登場』とそれに伴う『意味の変容』という技巧、これはこの物語全体のトリックにもなっている。最終盤になってある人物が物語に登場することで、ある人物との数百ページにわたるすべてのエピソードは何倍もの意味を獲得する*4文体が全体と対応している、、、、、、、、、、、、のだ。というわけで、タイトルにある「未必」というのは、少なくとも著者の創作に対する態度としては大嘘である。すべては確定的故意のもと書かれているからだ。
 
 一点だけ不可解なことを挙げてこの小文を終えよう。一人称小説であるはずなのに、なぜ中井は全体を前提とした文体を用いることができるのか? この小説は自分語りであることに意味があると言ったが、あくまでも、作者早瀬による中井の自分語りの再構成にすぎないのか?
 xiv章のラストによって、この文章そのものを「物理的に」中井が書いたという解釈は否定される。あとに残るのは中井の内心で起こった語りを、作者という神が拾い上げたという可能性と、中井の語りを作者がねつ造したという可能性の二つ。自分語りであるということに意味を持たせている以上、前者の解釈を取りたいが、前述の通り、結末を予知した技巧がその解釈を許さない。しょうがない、意図する作者の存在を認めてやるしかないか。いや、諦めるのはまだ早い。では、こう考えるのはどうだろう。
 中井は娼婦の占いを、秘書の後ろ姿に感じた予感を、自己成就予言としたのだ*5

*1:この距離感は最終的にスターバックスの二人がけのテーブル一つにまで縮められる。

*2:涼宮ハルヒか?

*3:ここまで一切触れてこなかったが、エキゾチックな固有名詞の多用もおそらく同様の効果を企図している。

*4:堕天使拷問刑か?

*5:もちろんこれは放言であって、実際にはxiv章までを中井が事後に構成的に書いた/考えたもの、xiv章ついてはリアルタイムの内心を神が拾い上げたものとして、語りの性格になんらかの変化があったものとして読むのが穏当かと思われる。xiv章の最後の†以降における語りがほぼ現在形で書かれていることがこの説を補強する。

シャーリイ・ジャクスン「くじ」について

 完璧な短編小説とはなにか? そう問われたらわたしは悩んでからシャーリイ・ジャクスン「くじ」*1を挙げると思う。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

*1:ハヤカワ・ミステリ文庫から同名短編集が出た。異色作家短編集の復刊。また、この短編に限って言えば陰陽師という方による個人訳がインターネット上に存在する。「くじ
本記事中の引用はこちらによった。コピペができて楽だったので。

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繋がれた犬に二回も咬まれるなんて

『夫婦の中のよそもの』を読んだ。著者のエミール・クストリッツァと言えば知らぬものはいない名映画監督であるが、というか、あるらしいが、ともかくわたしも名前は知っている。映画は観たことがあることになっている。でもどちらかといえばノー・スモーキング・オーケストラの活動のほうで認知している。そういえば、キルミーベイベーのOPはクストリッツァの音作りを参考にしているらしい*1。ふーん。
つまり映画を撮ったり映画に出たりバンドをやったり小説を書いたりするクソ強い星野源みたいなもんである。

というのはまぁどうでもよくて、今回は『夫婦の中のよそもの』を読みましたというお話。初の短編集ということになるらしい。よく知らないけど長編は書いてるってこと?
ボスニア・ヘルツェゴビナ……というか、旧ユーゴを舞台にした短編が六つ収録されていて、うち独立したものが二つ、残りの四つは主人公が同じで、ゆるやかに連関している。各話あらすじとかは出版社サイトとかを見てね。今回は冒頭の一篇についてのみ書きます。初読のインパクトがすごいのでできれば読んでから読んでほしいけど、マァその辺はお好きにどうぞ。

 

で、「すごくヤなこと」がすごい小説で、やたらと感心してしまった。
文体はきわめてシンプルで、シーンの切り替えは素早い。読者は、読み始めてわずか数ページで主人公のゼコが理想的なものと現実的なものの乖離に傷ついている側の人間であること、父親が現実を表していながら、その愛を求めてしまうという形で同時に理想的なものも表していることを理解させられる。現実的なものへの絶望が極に達したタイミングでゼコを愛する少女ミリヤナが登場する。しかし、救済は束の間で、ミリヤナとは運命によって引き裂かれる。将来再び巡り合うことがあれば結婚しようという約束をして。
わたしを含め、うかつな読者は早合点する。こうして理想と現実の間の折り合いをつけて少年が成長する、そういうお話になるのだと。
当然そうではない。時系列は急に跳び、すでに大人になったゼコがわれわれの前に現れる。かれは「弁護士」などというおカタい職業の女と結婚し、子供まで設けている。モノローグ内のかれは、さも達観したかのように現実に暮らす決心を固めている。少し理想的なものへの留保を残しながら。
そこにふたたびミリヤナが現れる。このあたりのスピード感が最高だ。ミリヤナはチェスプレイヤーで、高価そうな装身具を身にまとっている。弁護士とは対照的、なんともロマンティックで、理想的な女。そんなミリヤナを抱きしめると、しかし、娘を乗せた乳母車が坂道を転がり落ちる。今更理想に手を伸ばした代償は現実的な生活、幸せの地歩である。
要約すればこんなふうになってしまうのに、それを凡百の文学的アイロニーに陥らせないコミカルで映像的な筆致! 坂道を乳母車が転がり落ちる、壁にぶつかって赤子がジャンプする、それを美女がキャッチする、映画のワンシーンとして脳裏に浮かべてみればこれはもう笑いどころにしかならない。そのあとゼコは自宅の呼び鈴でピンポンダッシュする——今日は日曜日だから、妻は家にいるはずである——。「自分だとバレなかったろうかという不安でいっぱいになって」。不用意に理想的な世界のものに手を伸ばしたことに対するしっぺ返しを現実的な世界に知られてはいけない。しかしこれもまた、あまりにもコミカル。
楽観と悲観、現実と理想、能天気と露骨のどちらをも回避しながら、リズムとスピードと笑いで逃げ切ってしまうその卑怯さと意地悪さに、怯えながら残りの五篇を読み進めることになる。

動きと急転直下で読者を正確に引きずり回すすべはほかのすべての短編でも発揮されているのでいちいち取り上げることはしない(めんどくさいし)が、もちろん見せ方にバリエーションに欠けるわけではない。「蛇に抱かれて」なんかの宗教的な崇高さもよい。

家族愛がどうのとか生命力がどうのみたいな話は私がやらなくてもそのうちほかの人がやってくれそうなのでこの辺で終わり。

本屋大賞とジプシー

本屋大賞は超信じられるのか?読書ジプシーが信じられる文学賞ってなに? - カプリスのかたちをしたアラベスク

 

なんかこの記事がキモいらしい。

「読書ジプシーって造語(?)まで作って訴えるような話じゃない。あとキモい。」

「「少数の選民だけがこの本の価値を理解できる面」をした自称読書エリート様」

「読書ジプシーって妙に力強い攻めた造語を作り出したわりに、本文はいっぱい本読んでる自分を評価してほしいということ以外伝わってこないうっすい内容」

「それだけの数の本を読んでいながらそんな結論に達するなんて」

「空疎な言葉を並べたてただけの選民思想がにじみ出ちゃってますし、そういう造語によって逆に権威化しようとしてるんじゃないの」

などの反応を見た。

 

わたしはこの記事を読んでむしろわかるなあという気持ちになったのだが、この記事をキモいと感じる気持ちもわからなくもない。なんでこの記事が上記のような理解/誤解をされたのか、ちょっと考えた。

 

 

◆この記事はなにを言っているのか

字面を愚直に追った場合の要点は以下の二つ。

a. 作家や批評家の選ぶ文学賞というのは「難しい」ものを押し付けてくるかのように思える(=権威的である)ため、そういった権威から自由であるものとして「本屋大賞」が存在する、という理解は誤っている。

b. 「商業的に成功しない本」を好きな人間向けの賞があればいいなぁ。

(わたしはこう理解するため、「そんな結論に達するなんて」という反応がよくわからない。「そんな結論」とはどんなひどい結論のことを指すのだろうか。)

 

◆なぜキモがられるのか

問題はこの記事から選民意識を読み取れるかどうか、という一点に尽きる。結論として、無理すれば読み込める。

 

論点 a. についてこの記事の筆者が語るとき、潮見惣右介という方のツイートが引用されている。このツイートは明確に本屋大賞を批判している。そのうえ、「あまり本を読まない人間」をバカにしている。

・賞の存在意義はない

・平積みの本 "しか" 読まないような書店員

引用するからには共感しているんだろうという(粗雑な)推定をするならば、この記事の筆者にも上記のような意見を持っていると考えることはできる。ところで、これらのツイートを受けて記事の筆者が行ったツイートで述べられている内容は

「素人読者の感じるおもしろさはすべての読書人にとってのおもしろさではない」

ということを主張しているに過ぎない。

 

本屋大賞」=あまり本を読まない人間のための賞

これをバカにしている、という誤解から選民意識を持っていると結論しているのではないか。

 

◆読書ジプシー

たぶんこの単語がまずい。

記事の筆者はジプシーという単語を「孤独に旅を続ける」という意味で用いているが、ジプシーという単語はべつの歴史的な事情を当然想起させる。

ジプシーは被差別者である。こういった単語を使っているという事実から、「大して本も読まない趣味の悪い一般人が俺たち高尚な読書人を迫害している」という陰の主張を読み取ることは不可能ではない。もし仮にこうした主張をしているとすれば、それは選民意識だろう。

「あなたは「読書ジプシー」?」という節そのものが、そもそも良識派の人間には嫌われそうな書かれ方をしている。読書量をアピールすることは、それだけで嫌われる。べつにこの節は読書量の少ない人を直接バカにしているわけではない、そういった記述は全くないのだが、論点 a. の記述の際行った引用ツイートに含まれる意見をこの筆者の意見でもあるとみなせば、バカにしているように読めるかもしれない。

また、「読書ジプシー」という単語を作って読者を人種で区切る、という発想もよくないのかもしれない。人種で区切ることは、その区別が先天的で、不可変であることを想起させる。「読書ジプシー」の読みのほうが「その辺の読者」より優れている、とはもちろん書いていないが、わざわざ人種に区別したうえで、自分の属する人種のほうを否定すると考えて読む人間はなかなかいないと思われるので、この強い区別を持ち込んだ瞬間にそうとらえられても仕方ないとはいえる。

 

◆けっきょく

書き方を逐語的に見れば選民意識は読み取れないが、読み取ろうと思えば読み取れなくもないということを確認した。じゃあけっきょく、選民意識はあったの? という話になるが、わたしとしてはどうでもいい。わたしはこの書き方で問題がないと思うが、斟酌の得意なフレンズもいる。

ふつうはもっと転ばぬ先の杖を張り巡らせておくものだとは思うが。わたしはいわゆる「読書ジプシー」のことを「いけすかないオタク」と言って自虐みたいなフリをしている。また、随所に一般の読者の感性を尊重するような記述を織り交ぜておけばバランスを取りたがるみなさんにも満足のいく仕上がりとなったのではないか。

 

◆感性の問題

読書、映画鑑賞、音楽鑑賞などについて、過去の読書体験や鑑賞の質、量と、個々の作品を受容する際の体験の質に相関はないとする強い信仰がある。

「ほんとうにいいものは誰にでもわかる」メソッドである。(じゃあお前わたしがミシュランガイド作ってもいいのか?)

クオリアは私秘的なもので、当然比較することはできないので、この信仰は真とも偽とも定まらないが、そのことは直ちに感性の問題について議論が成り立たなくなることを意味しない。

否定と同意は感情を抜きにすれば等価の判断である。

ガルパンはいいぞ」がなりたつ次元では常に「ガルパンはクソ」が許容される。われわれは個々の発言に付随する理屈について個別に語ることしかできず、「はやりもの、大衆に受けるものを叩くアマノジャク」という架空のモンスターを条件反射で退治して事足れりとすることはできない。

 

◆そもそも

ガリ勉叩きみたいなことをするのが人間は好きである。

年収、身体能力、顔の美醜(金・暴力・SEX)というのは暴力なので、人間はその価値にあらがうことはできない。

ところが、知識や趣味というのは、その価値を受け入れる者にとってのみ価値になるという性質を持つため、ある人が価値を主張したとき、同じ土俵で争うか、ちゃぶ台をひっくり返すかの二択がある。

 

◆良識をやめよう

良識があるとよくものを読まずに類型的な結論を出しがち。

 

◆めんどくさくなってきた

◆おわり

いまさら、いまさら翼といわれても、といわれても

米澤穂信『いまさら翼といわれても』を読んだ*1
 
米澤穂信の(とくにさいきんの)小説をほめるのはとても難しくて、それはいわゆる美人さんをほめるときのあの難しさに似ている。要素をつかみ出してみれば特に目新しいところはない。この鼻の曲線が……とか、このトリックの独自性が……とか、この目の色と髪の色が……とか、このプロットのひねりが……とか、そういうことを言えないのだ。ただ遠くから眺めてみると、適切な位置に適切なパーツが整然と並んでいて、全体として統一感があるし、見ていてなんとなくさっぱりとした気持ちになる。性的ではない美しさというか。
というわけで、米澤穂信をほめる言説のだいたいは陳腐なものになる。キャラクターの行動の逐一を同人誌的関心から騒いでみたりだとか、青春のほろ苦さがどうのこうの言ってみるとか、まあ、どうでもいいようなことしか言えなくなってしまう。要するに評論向きじゃないのである。
とはいえなにかしゃべってみよう。というのも、ブログの更新をさぼると広告が出るようになってしまったらしいからである。
 
こんかい話したいことはひとつだけである。千反田えるについてである。
いままでの古典部シリーズはわりと奉太郎、里志、摩耶花(……名前を列挙していて思ったが、どれも変換しづらいが、不自然ではない名前であり、こういうところの細かい芸というかセンスが米澤穂信のキャラクタの実在感の九割を形作っている)について掘り下げられてきた。氷菓愚者のエンドロールあたりでこの三人の行動様式みたいなものはだいぶ周知されたので、それがいかにして形作られてきたか、歴史が少しづつ語られてきたというかんじ。「長い休日」で奉太郎のモットーの根っこが明かされたし、里志については「手作りチョコレート事件」があるし、摩耶花も「わたしたちの伝説の一冊」でわりと説明がついてきた。ところで、千反田えるは?
 
アニメ版氷菓の評価*2として、千反田えるが白痴的でとても見ていられないというようなのがあったとおもうが、あれはちょっと仕方のないことで、じっさいに千反田えるは中身をのぞき込むとちょっとぞっとするくらいなにもない。このなにもなさをアニメではああいう風に消化するしかなかったのだが、それは千反田のキャラ設定の失敗だったのか? 違う。
 
 
このまま高校を卒業して、大学に入って、サラリーマンになって、それでいいのか、というような人生の意味の欠落にたいする漠然とした不満みたいなのが奉太郎にはあって、そこに穴を空けるのが千反田えるだった。名家のお嬢様で、将来は家を継ぐという。じぶんの夢を持たない奉太郎はいともかんたんに千反田えるのこの人生設計に意味の体系を托卵する。この辺は『さよなら妖精』とまったくおなじ構図なわけだが、マーヤは首を撃たれて死ぬことになる。
 
さて、ワトスン役ですらない(語りが探偵だから)千反田えるがなぜ存在するのか。ミステリをやるのに千反田えるは必要ない。とはいえ、いると便利である。「気になります!」、これである。奉太郎が世界とのかかわりにおいて長い休日に入っている以上、だれかが謎を持ち込まないといけない。というわけで千反田は当初創造された。狂言回しとして作られた千反田をそれでも奉太郎は徐々に信仰するようになる。奉太郎のモノクロームの視界に、千反田えるは目的と興味に彩られた世界の持ち主として現れた。
 
ところが千反田えるの見ている世界はたしかに極彩色ではあったが、彼女がそこに住んでいるわけではなかったというのが問題である。
「気になります!」というのはテレビの向こう側への興味でしかない。千反田えるのあの無邪気さは観光客の無邪気さであった。千反田えるは、彼女の住む世界が今後一生大きな変化がないことを前提していた。マーヤもそうだったが、彼女たちは気軽に「知見を広める」みたいなことを言う。広げられる前の核となる世界観がすでにあるからだ。
 
 
「いまさら翼といわれても」、そういうわけで、極彩色のテレビ画面、枠付きの劇場のなかに千反田えるは放り込まれた。千反田は奉太郎の住んでいる側を劇場だと思っていたし、奉太郎だって千反田がいる方を劇場だと思っていた。第四の壁は崩壊し、世界はふたたび意味を失う。大道具や張りぼて、客席が取っ払われた暗闇の中でふたりは所在なさげに顔を見合わせている。千反田は「いまさら翼といわれても」と言う。奉太郎はこう言うはずだ。「いまさら、いまさら翼といわれても、といわれても」

*1:「箱の中の欠落」と表題作以外は既読。

*2:ダジャレ

犬を飼っている。柴犬で、今年で十歳になる。もう初老と言えそうだが、昔から元気のない犬だったのでよくわからない。ただ、耳の後ろが少し白くなった。しかし、食欲はある。夜鳴きはもうとっくにしなくなったが、早朝に軽く吠える。うるさいというほどではない。
頭はあまりよくない。わたしの怠慢もあって、しつけも芸も褒められたようなものではない。とはいえ迷惑な犬ではない。散歩中ほかの犬とすれ違ってもおとなしくしている。小学生が頭を触ってよいかと求めてきてもおとなしくしている。ビーフジャーキーがないとお座りができない。お手やおかわりもできることにはできるが、お手、おかわりというこの順番でしかできない。
 
 犬は車道の車と遊びたい。車は強そうな匂いがして、とても速く動ける。ご主人が家に連れ戻そうとしても、腰を下ろして動こうとしない。ご主人がリードを引っ張ると、首輪はするりと耳の上へと抜けて外れ、地面に落ちる。彼女*1はこれを見て、車道へ駆け出す。そして車に轢かれて死んでしまう。
 
ところで、これはキジ・ジョンスン「犬たちが進化させるトリックスターの物語」*2の中から引いてきた挿話であるが、犬を飼っている人間にはよくわかる描写だ。
犬を散歩させていると、横を車が通る。誰しも自分の犬が轢かれるところを見たくはないのでぐいっとリードを引っ張るし、それが正しいと思う。犬は馬鹿だから車が危険なことを知らないのだろうと理解して、犬の安全を守ってやったと満足する。
まあそうだろう。犬は馬鹿だし、車に轢かれれば死ぬ。リードを引っ張らずとも前に飛び出したりはそうそうしないだろうが、とはいえ飼い主が犬の安全を守っているのも事実だろう。
でも犬は車と遊びたい。目を見ればわかる。うちの犬も掃除機は怖がるくせして、車を見ると急に元気になる。
犬は車と遊びたい。でも遊べない。われわれ飼い主が許さないし、そもそも犬と車は遊べない。車はそういう生き物じゃないから。
可哀そうだなあと思う。相手が子どもなら言葉で説明できるのに、犬相手じゃどうしようもない。きょうも犬は車と遊びたがるし、わたしはリードを強く引く。犬はべつに強く抗議するわけでもない。
こういうときに人間には原罪がやっぱりあるのだと強く思う。
 
べつにペットの幸せについて考えたいわけじゃないけど。人間のエゴで人工的な環境にペットを押し込めてとかなんとか言って自罰的になったところで、東京には犬を放つ野がない。そもそも比較の問題じゃないだろう。自然が一番というなら人間も酋長のもとに同族が集って狩りをするのが良い。核家族を守るために利益で連帯した人間のみが集まる会社で働く必要はない。
 
ペットは説明を受け付けない。人間相手なら言葉でごまかしているところが通用しないのが楽しい。戦争は嫌いでも将棋は楽しい。
 
まあせめて頭でも撫でてやろうかと思って犬を見たらなにも考えていなさそうな目でこちらを見つめていた。近寄ったら逃げた。犬というのはそういうやつなのである。

*1:犬のこと

*2:『霧に橋を架ける』(創元 SF 文庫)