Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

シャーリイ・ジャクスン「くじ」について

 完璧な短編小説とはなにか? そう問われたらわたしは悩んでからシャーリイ・ジャクスン「くじ」*1を挙げると思う。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

 

 

0.
 Shirley Jackson "The Lottery" は 1948 年 6 月 26 日に The New Yorker 誌上で発表された短編である*2。ジャクスンはすでに短編をいくつか発表していたし、1944 年には高名なアンソロジー(The Best American Short Stories)に作品が収録されている。とはいえ、彼女の名が文学史上に現れたのは、なんといってもこの「くじ」によって、である。

 「くじ」が発表されるや否や、ニューヨーカー誌編集部にはそれまで受け取ったことのないほど大量の投書が舞い込んだ。曰く、「野蛮で、ナンセンスだ」「こんな風習が実際に行われているのか」「これ以上雑誌を購読したくない」*3

 ストラヴィンスキーの『春の祭典』も初演は歴史的な大失敗だったといわれている。「くじ」も同じだ。ジャクスンが受け取った手紙は 300 通を超えるが、そのうち好意的なものはわずか 13 通(それも、友人からのものがほとんど)だったという。しかし、なぜそこまで批判を集めたのだろうか? ただ批判されるだけでなく、誰もがこぞって批判したくなる、受け入れたくないと思わせるなにかがあったのだろうか。

 登場と同時に古典であった作品はいくつかあるが、「くじ」もまさにその類の作品である。それら優れた作品は善良な趣味人の感性を逆なでする真に新しいなにかと、芸術上の緊密な構成のどちらをも持ち合わせている。そのため、人々はそれを無視できないが、その場ですぐさま受け入れることもできない。この摩擦は激烈な批判となって噴出する。

 さて、本稿はまず「くじ」が持つ「芸術上の緊密な構成」を検討する。のちに、「感性を逆なで」した「なにか」とはなにであったか、考察する。

 

1.
 「くじ」のストーリーは単純である。村人が広場に集まり、くじを引き、当選したテシー・ハッチンスンは村人全員から石で打たれることになる。以上だ。

 ところで、われわれがくじと聞いて想像するものはおおむね肯定的なイメージで捉えられるものである。くじに当選*4すればプレゼントだったり、賞金だったり、王様になる権利だったり、競争入札において同額を示した入札者が複数いた場合には落札する権利が与えられる*5。というわけで、短編小説「くじ」は

からりと晴れて、暖かく明るい陽射しも澄んだ、夏らしい日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。

 情景から始まる。なにか楽しいことが起こりそうなイメージ。

 しかし、このくじがもたらす殺人という結末と、この牧歌的な情景はミスマッチだ。では、これは単なるミスリード、あるいは、結末の衝撃を増すためにあえてそうしたのだろうか、というと、もちろんそうではない。

 「くじ」を一度読んだ人間は、結末の衝撃に苛立ちを覚える。そして、二度目に読むと、その結末が周到に貼られた伏線の上に成り立っていたことを知る。まずはこの「二度読み」の過程を逐語的なスタイルで体験してみよう。「くじ」の結末が殺人であり、その犠牲者がハッチンスン夫人であることは十分に伏線で暗示されていることを確認する。

ボビー・マーティンのポケットは、早くも石でいっぱいで

 集まってきた子どもたちは石を集める。いわゆるチェーホフの銃というやつで、最終的に殺害に使われる石は、冒頭ですでに登場している。

ときおり誰かが冗談を口にしても、大笑いする者はおらず、せいぜいが笑みを浮かべて見せるぐらいだ。

 次に男たちが集まってくる。子どもたちとは違い、大人はこのあとに起こることとその帰結を知っているので、ジョークに大笑いすることはない。

ハッチンスン夫人が、広場に通じる道をバタバタと駆けてきた。

 犠牲者となるハッチンスン夫人はこの行事に遅れてやってくる。

 「このあたしに流しに皿を置きっぱなしにさせとくつもり、ジョー

  ハッチンスン夫人は、村の有力者であるサマーズ氏にジョーク交じりとはいえ、反論するような女である。

「北の方の村じゃ、くじを止めにしようとかいう話が持ち上がってるんだそうだ」

 そして、くじを引く過程で、北の方の村ではくじをやめることが検討されていると噂される。この村の人間たちも、くじをやめたいと思っていなくはないらしい。

「ああ、早く終わってほしいよ」
「走って父ちゃんに知らせに行くんだからね。いいね」
「父ちゃんに言ってきな」

 これは家長が怪我のため、妻が代わりにくじを引いたダンバー夫人のセリフ。「当たった」ことではなく、「外れた」ことを真っ先に父ちゃんに伝えたくなる、ということは?

 このように、「くじ」に当選することが望ましい結末をもたらすものではない、ということは、この短さの小説でありながら、堂々と示されていた。そして、その犠牲者がハッチンスン夫人であることも。彼女は村の協調を乱すような存在として最初から最後まで書かれていた。

 

2.
 さて、二度目の読みでわれわれは「くじ」の結末がアンフェアなものではない、作劇として卑怯な唐突さで読者を驚かすただのびっくり箱ではないことを確認した。

 しかし、まだ安心することはできない。ここまで周到に書かれた殺人は、いかなる意味を持つのか? 「くじ」とはいかなる性格の儀式なのか? それを探るために三度目の読みに入ろう。

 三度目の読みでは「くじ」の性格が以下の 3 点にまとめられることが明らかになるであろう。

(1) 村人たちにとって生活の一部と化していること
(2) 宗教的な起源をもつが、現在は宗教的な儀式ではないこと
(3) 村の利益に通じるものであること
 -(3a) 村人の結束を強めるものであること
 -(3b) 人口増を目的としていること

 

 (1)について。村人たちがこの儀式をどのような態度でとらえているか考えてみよう。

 「くじ引き」は昼前に開始され、お昼ご飯までには終わる。つまり、かれら村人は石で犠牲者を打ち殺した後、ほのぼのとした午餐の席に着く。さらに、

「さっさと取りかかって終わらせてしまうとしようじゃないか。そうすれば仕事にも戻れる」

 

村人たちはもう何度も同じことをやってきていたので、指示など話半分にしか聞いていなかった。

 

「くじとくじの間なんてあっという間のような気がするよ」

といった描写からは、村人がこの残虐なイベントに慣れすぎている様子が見て取れる。もちろん緊張感もあるのだが、終わってしまえばそれまでの定例行事としてみなされていると言っていいだろう。

 さて、なぜ殺人という結果を伴うようなくじ引きは村人に平然と受け入れられているのだろうか。その理由を探るために(2) について検討する。

 くじ引きは村の広場で行われる。村の広場には郵便局と銀行がある。ところで、これがアメリカの伝統的な村であれば、広場には当然教会があるはずであるが、それは描写されない。あるいは、教会などもともと存在しないのか。なんにせよ、この物語に教会が登場しないことが重要である。ところが、この物語世界に宗教が存在しないわけではない。くじ引きの儀式を描写する際に用いられる単語は chant 等の宗教的な語彙を含んでいる。また、くじを最初にひく男性の名は "Adams" である。そもそも、くじ引きと旧約聖書的な世界観が通底することはキリスト教徒にとっては常識だろうと思われる*6。いや、日本人にとってすら、くじ引きは神の意思の表れとみなされている*7

 さて、ではなぜジャクスンは「くじ」の儀式からキリスト教的な匂いを脱臭したのだろうか。現実のキリスト教会への配慮だろうか。特定の宗教への依存を否定することで、普遍性を求めたのだろうか。これらの解釈は一面の真理をとらえていようが、やはり重要な点を見落としている。先述の通り、「くじ」は「宗教的な起源をもつ」が、「今や世俗的なイベントとなっている」のである。起源と現状のずれの意味を考えなければならない。

 ところで、宗教的な儀式は理性的な吟味を必要としない。理性的な吟味が不可能なわけではないが、信仰はそれを必ずしも求めない。ところが、世俗的な儀式は、しかも、それが不利益――死――をもたらすものであれば、参加者は必ず自問自答する。なぜこのような儀式に参加しなければならないのか、と。

 この問いは意識的なものではないかもしれない。だが、ここでは、世俗的な儀式は理性的な基礎づけが可能でない限り存続しない、としたい*8

 「くじ引き」のような残虐な儀式は正統性と正当性の両方がなければ存続しえない。正統性についてはそれが持つ宗教的な背景が保証している。ところで正当性は? ジャクスンがここで「くじ引き」を「かつては宗教的であったが、いまや無宗教的になったもの」として描いた理由は、村人たちがこの儀式をある種の正当性をもって受け入れていることを示唆している。

 さて、(3) について。「くじ引き」はなんのために行われるのか? その答えはすでに小説内であからさまに示されている。それは「豊作」のためだ。

 (3a) くじの廃止が話題に上がったとき、ワーナーじいさんが持ち出す反論は、くじをやめると、「洞穴暮らし」に戻ってしまい、「はこべとどんぐりのシチューを食わにゃならん」から、というものだった。また、くじを引くことで、『六月にくじ引きゃ、とうもろこしはじき実る』らしい。

 ここでは狩猟採集生活と定住農耕生活が対置されている。定住農耕生活が求めるのはひとえに村人の団結である。農業は狩猟採集と違い、家族的な規模の小事業ではなく、一族が一丸となって行う大事業だ。

 くじ引きはこのように定住農耕生活に必要とされる団結を強化するものとして描かれている。それはくじ引きの結果としての殺人に用いられるのが「石」であることを思い起こせば簡単に理由が説明できる。

 くじ引きの犠牲者は別にギロチンで処刑されてもかまわないわけだが、なぜあえて村人全員から石で打たれて死ななければならないのだろうか。

 囲んで石を投げつけることは致命傷を与えたのが誰であるかを隠蔽するからだ。あなたの石はあの哀れな犠牲者を殺さなかったかもしれない。だが、あなたは石を投げたのだ。罪悪感と連帯感によって、村人たちはこの儀式に釘づけにされる。

 軍紀に違反したものを処罰するために、ガントレットと呼ばれる方法を取るところがある。二列に並んだ兵士の間を違反した兵は歩かされる。その間、両脇に並ぶ兵士たちはその違反者を棒で殴りつける。歩きとおしたことで釈放とする場合もあれば、死ぬまで往復させる場合もある。なんにせよ、これが軍隊の結束を高め、綱紀を粛正するために一番効率が良いのだそうである。くじ引きも同じメカニズムである。

 また、ハッチンソンが犠牲になっていることも「くじ」が団結のための儀式であることを物語の構造上から支持する。前述の通り、ハッチンソンは周到な伏線で描写されるように、村の秩序を乱す存在である。他にも、作中の語りは、夫が怪我のため妻がくじを引くことになったダンバー家や、(おそらく)父親が早くに亡くなったため、息子が一族を代表して母親の分のくじも引くことになったワトソンの息子、ジャックなどに視線をそそぐ。「くじ」はもちろん運任せだが、物語的には(そして、村人たちも気づいているのかもしれないが)、「壮健な男性によって強くまとまった一族」という枠から外れたアウトサイダーを選び出す装置として描かれている。

 (3b) また、くじ引きにはもう一つ決定的に重要な役割がある。それは「人口を増やす」ことである。
 うかつに読むとくじを「口減らし」の一形態だと捉えてしまいがちであるが、それではこの小説の趣旨を大きく見誤ってしまう。くじは死の儀式ではない。生と死の儀式なのである。くじ引きの日の天気を描写した箇所を再度引用しよう。

からりと晴れて、暖かく明るい陽射しも澄んだ、夏らしい日となった。花は一面に咲き乱れ、草は青々と繁っている。 

この描写はミスやミスリードではない。また、儀式を執り行う人物の名が生命力を象徴する Summers であり、村の長老格の老人の名前が死を意味する Graves であり、この二人が儀式の中心にいることも、もちろん偶然ではない。

 くじの持つ二面性の意味についてはのちに回すとして、それが「人口増」のための仕掛けであることを先に証明しよう。

 まず、端的に「人口も三百人を越し、さらに成長を続けるなかにあっては……」と書かれている。そう、あくまでもこの村は繁栄を続けているのである。明言はされないとはいえ、それが「くじ」の恩恵であることは明らかである。なぜか?

 ここで「くじ」のルールを確認しよう。

・一族の長がまず一族を代表してくじを引く
・当選した一族に含まれる家族の代表がさらにくじを引く*9
・当選した家族の構成員がくじを引く
・当選したものが石で打たれる

 以上である。お分かりだろうか。そう、人口 300 人の村において、くじの当選確率は 1/300 ではない。より大きな家族に、そして、より大きな一族に所属すればするほど、最終的な当選確率は低下する。逆に、独身者や、一族から外れたものは、当選確率が跳ね上がる。

 このシステムが村人たちに婚姻と出産をうながす強烈なプレッシャーとなるであろうことは想像に難くない。

 

3.
 さて、三度も読んだことで、「くじ」の構成の緊密さと、その設定の細部についてはある程度分かってきたのではないだろうか。材料は出そろったことにして、なぜこの作品が読者に強烈な不快感を与えたのかを検討しよう。

 あなたはこの話をどのようなジャンルとして読んだだろうか。「奇妙な味」? ここまでロジカルに書かれたものを奇妙な味と呼べれば、だが。むしろ、「ホラー」として読んだ人が多いのではないだろうか。

 おそらく 1948 年の読者はこれを「実話」かそれに近いものとして読んだはずだ。「くじ」の行われる日は 6 月 27 日であるが、ところで、この記事の冒頭で述べたように、「くじ」がニューヨーカー誌上で発表されたのは 6 月 26 日であった。*10「くじ」の読者がジャクスンに送った手紙のうちには「どこに行けばこの野蛮な儀式が見られるのか」といったものも多かったという。

 「田舎では野蛮な風習が生き残っている」という話はいつでも都会に住む人びとを興奮させるものだ。しかし、ただの実話風創作が文学史上に名を残すわけがない。人びとはこの話を心の底から「有り得る」と思い、その上でしかも「嫌だ」と感じたのだ。

 さきほどホラーという単語を出した。一般的なホラーでは恐怖を引き起こす原因は割合はっきりしている。妖怪に出くわしたから、あるいは一人で森の中を歩いたから、因縁のある洋館を買ったから、等々。恐怖の原因は外在化されていて、後知恵とはいえ、読後に我々は「こうすればよかったはずだ」との予想を立てることができる。通常のホラーを読む経験においては、恐怖と、読後の合理化がワンセットとなっている。

 一方くじの恐怖は回避することが不可能である。村人たちが一年に一度死の恐怖にさらされることは、村が村として成立している限り、受け入れざるを得ないこととして描かれている。あるいは、村の風習を捨てて逃げることもできるかもしれない。しかし、近隣でも同じように「くじ」引きの風習があることが作中では描かれている。くじは「この」村に特有の問題ではないのだ。では、くじ引きに参加することを拒否するか。くじを引かずに村の構成員で居続けることはできるだろうか? それとも、穴の中でどんぐりのシチューを食べる暮らしに戻るか?

 「くじ」の読者は一般的なホラーを読んだときと同じように、回避する方法を探す。だが、そこに抜け道はない。くじを引かない選択肢はない。考えれば考えるほど、村人たちと同じように、くじを受け入れる方向に傾いてしまう。なんといってもくじは公正で、社会正義にかなったイベントで、村の結束を強め、人口を増やす最良の手立てなのだ。

 一般的なホラーとの相違はまだある。くじにおいて描かれるのはだれか特定の主人公の恐怖感ではない。三人称小説であっても中心の視点を受け持つ人物がいる場合が多いが、くじは完全に神の、あるいはジャーナリストの視点から描かれている。

 「くじ」を書くときに、主人公を作るという手法ももちろんあっただろう。たとえば、物心の付き始めた少女を主人公にして、くじを引くまでの心理のひだを描く。ハッチンスンが当選し、それに石を投げつける少女の豹変を描き、彼女がついに村のシステムに飲み込まれたことを示唆してもよい。ジャクスンの腕前なら十分それでも傑作になったはずだ。

 とはいえジャクスンはそうしなかった。それはなぜか。ジャクスンが描きたかったのは特定個人の心中に起こる恐怖や攻撃心の暴走ではなかったからである。

 通常のホラーは超常的な現象に巻き込まれる主人公の心理に読者が同化することで恐怖を得られる。ゴシックホラーのほとんどは怪しげな洋館でひどい目に合う婦人が主人公であるが、読者はこの婦人に感情移入することになる。読後には、「でも、わたしはこの女性とは違うのだから」と安堵して、現実世界に戻っていくことができる。

 「くじ」が書きたかったのはそういった感情のジェットコースターではない。恐怖を合理的に作り出す人間の理性と、構築された冷たいシステムそのものである。

 前述のように、「くじ」は二面性を持つ。それは「生」と「死」の儀式である。ただし、それが二面性を持つのは共同体にとって、あるいは、「くじにはずれたもの」にとってのみである。ひとたびくじに当選すれば、「くじ」はもはや「死」の儀式でしかない。

 

 しかし、われわれは腕を組んで考え込む。自らをこの広場に置いてみる。「くじ」の視点は、「くじ」とは無関係なジャーナリストの視点だ。だからこそ自由に我々は「くじ」の参加者の気持ちを想像することが許される。

 

 目の前に黒い箱がある。くじを引く時あなたは、すこしだけ、ほんのすこしだけ、自分が当籤することを思い描き、望むだろう。それは人類のほの暗い本能、気づきたくなかったそれなのだ。

 

 「くじ」の天才的な筆致の上で Lebenstrieb と Todestrieb は完全に均衡している。しかし、そのつり合いをテシー・ハッチンスンの "It isn't fair" の叫びが突き破る。

 

 

 

 

 

*1:ハヤカワ・ミステリ文庫から同名短編集が出た。異色作家短編集の復刊。また、この短編に限って言えば陰陽師という方による個人訳がインターネット上に存在する。「くじ
本記事中の引用はこちらによった。コピペができて楽だったので。

*2:落合和昭「Shirley Jackson の The Lottery と『旧約聖書』——「くじ引き」と「生け贄」と「石打の刑」」(『駒澤大学外国語部論集』63 巻, 2005 年)では 6 月28 日とされているが、誤りである。ジャクスン本人が「くじ」について語った講演 "Biography of a Story" の個人訳がインターネット上に存在するが (「 ある物語の顛末 」), こちらでも 28 日と誤訳されている。この違いはある意味で重大である。

*3:「くじ」に対する初期の反応は上述の「 ある物語の顛末 」に詳しい。

*4:当籤。

*5:予算決算及び会計令第八十三条

*6:くじ引きと旧約聖書的世界観については落合 (2005) を大いに参照した。とはいえ、議論を同じくするものではない。

*7:"神" 籤。

*8:現実には非宗教的な儀式も無理由のまま存続しうるとはいえ。

*9:作中ではハッチンソン家は一家族で一族を構成していたために、この段階はショートカットされた。

*10:ジャクスンがこの日付に設定したわけではない。この改稿はニューヨーカー誌編集部によって提案されたものである。元の日付がいつだったのかはわかっていない。