Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者(翻訳)

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者

ジョン・ケッセル
(SHORT FORM, vol. 2, issue 1, June 1989)

 (コニー・ウィリスの短編小説「クリアリー家からの手紙」について SF 作家/批評家のジョン・ケッセルが書いた批評文、"‘A Letter from the Cleary's’ and the Science Fiction Audience" を翻訳*1した*2SHORT FORM というのはオースン・スコット・カードの編によるファンジンである。
SF というジャンルは現在の日本において人気があるとは言えないがそれでもおそらく人口の半分、6000 万人程度は SF を読んでいるはずであるし、そのうち半分くらいはウィリスのファンだろう。あなたがた 3000 万人にお届けする*3。)



 コニー・ウィリスの短編「クリアリー家からの手紙」は1982年のネビュラ賞を受賞した。しかし、こう言っても間違いではないと思うのだが、読者の多くはこの物語をあまりにも慣れ親しんだテーマ、つまり核戦争後の生存競争というテーマを、見事に書き直しただけのものと見做していて、あまり入れ込んではいないようだ。ロバート・シルヴァーバーグは「『クリアリー家からの手紙』は核戦争がいかにわれわれの社会のはたらきをおかしくしてしまうかということについて、驚くべき考え方を示してくれる。それは1941年にハインラインがやったとき*4は、SFが扱うにあたってもっともなテーマだった――コニー、気を悪くしないでほしいのだが――しかし、今や、そういった時代ではない。」と書いた。ブライアン・オールディスの『一兆年の宴』 のもやもやしたコメントから「クリアリー家」について書いてあるんだろうと読み取れたところによると、ウィリスは「(アメリカの)新しい作家たちをおそった愛国的な感傷の波」にあてられてしまったそうだ。いくぶんか同情的なガードナー・ドゾアのような読者でも、このストーリーを「辛辣*5だ」という一言でまとめてしまった。

 私にはむしろ「クリアリー家」は辛辣で、刺激的だというよりも、ぞくっとするほど非感傷的なものにおもえる。政治的に抜け目がなく、心理学的には鋭敏なテロリズムについての研究であって、われわれのジャンルの他の作品とは比べるべくもない物語構成のスキルをみせている。これは核戦争の影響を書いているのではなく――ボブ*6、気を悪くしないでくれ――原因について書いている。読者の先入観によっていかに物語が誤読されているかのよい実例として、この作品は短編作家に厄介な難問を突き付けている。

 「クリアリー家」は 1982 年の 7 月 に『アイザック・アシモフズ SF』誌上で発表された。ロバート・シルヴァーバーグの編による「第 18 回ネビュラ賞アンソロジー」にも収録され、ウィリスの短編集、『見張り』にも収録されている*7。  語り手は十四歳の少女、リン。彼女は両親と兄のデイヴィッド、友人のミセス・タルボットといっしょに、パイクスピークを見晴らすロッキー山脈中の町に住んでいる。ティーンエイジャーのご多分に漏れず、リンはいろんなことに文句を言う。ミセス・タルボットの雑誌を取りに郵便局に行かなきゃいけないし、飼い犬のラスティは死んでしまったし、天気は寒いし、父親の温室づくりも手伝わなきゃいけない。兄は薪を小さく切ってくれず、両親も新しいストーヴを買ってくれないから、ストーヴのふちでよく手の甲を火傷してしまう。リンが物語を語り進めるにつれて、細部は積み重なり、この話がふつうの中流家庭の話ではないことが示唆される。かれらは名もなき襲撃者に見つかることを恐れていて、リンの父親は武器の装填を怠らないし、リンが雪道の上に足跡を残すことに神経質になっている。送電線は切れていたが、そもそも電気が流れることはない*8。パイクスピークは冠雪していないが、その代わり焦土と化している。家が隣にあるにもかかわらずミセス・タルボットとリンの家族が同居しているのは、彼女の夫が行方不明だからだ。デイヴィッドの妻と幼い娘もそうである。まもなく、これは核戦争後の世界であり、この五人は町に残された最後の五人で、サバイバルにもがいているのだということにわれわれは気付く。

 この日、リンはクリアリー家からの手紙を郵便局で発見する。クリアリー家はイリノイ州に住む、リンの一家の友人だ。クリアリー家の人たちは戦争の始まるちょうど一か月前にコロラド州を訪れることになっていた。しかし、かれらは現れなかった。リンは、悲劇の直前に投函された手紙を、家族に向かって読み上げる。 死者からの手紙は皮肉にも、痛々しい記憶――例えば、リンには、この物語のどこにも一切言及のなかった、メリッサという妹がいたということなど――を呼び起こす。リンが手紙を読み終えると、「危険すぎるから」という理由で、父親はリンを二度と郵便局にやらないことを決めた。彼女は走って逃げだそうとしたが、兄に止められてしまう。最後のパラグラフで、リンは手紙を偶然見つけたわけではないことを明らかにする。彼女は届けられなかった手紙のうちからそれを何か月もの間探し続けていたのだ。

 状況がはっきりとわかれば、物語の個々のディテールは無垢なものからおぞましいものにその意味を変える。たとえば、リンは物語のなかで、手の甲の同じ個所を薪ストーブでやけどしてしまうことにずっと不平を言っているのだが、そのたびごとに彼女はこんなことを言うのである。「最高。この水ぶくれで古いかさぶたがはがれて、また最初からやりなおしってわけ」すぐに我々は、リンが放射線病を患っているのではないかとおそれていて、なにかがおかしいと勘づいている母親から彼女の傷の本当の理由(被曝による炎症)を隠すために手の甲をわざとやけどしていることに気づく。リンの言う「最高」はティーンエイジャーの皮肉な*9発言のようにみえるが、実は彼女が成し遂げたことへの満足を表す発言なのである。そして、同時に、彼女が直面したくない事実に対する防衛機制でもある。

 彼女が周囲と自分をごまかす動機は、リンの人格の全体を象徴している。リンは彼女自身のことを、この恐ろしい苦境に立ち向かおうとしている家族の一員だと思っている。誰も自分たちの生活が絶望的で、大きな喪失に苦しめられていて、その苦しみが毎日続いているということを認めようとしない。彼女は未来について考えたくない。彼女は過去と現在にすでに傷つけられすぎているからだ。デイヴィッドは事故で彼女の犬のラスティを撃ち殺し、あやうく彼女も死ぬところだったのだ。

 リンは激怒したが、それを見せることはなかった。彼女が手紙を見つけて読み上げたのは家族のごまかしを強調するためだ。彼女は恐怖を感じているが、それを家族には隠したがっている。そして、同時に、かれらが恐怖を感じていることを認めさせようとしている。彼女は自分自身のことを無力だと感じているが、これが彼女の権力の握り方なのだ。家族にあれをしろ、これをしろということができない代わりに、心理学的な力を行使する。 彼女は手紙を読み上げたことで、かれらに対する優越を得た。彼女はデイヴィッドに死んだ妻と子供のことを、両親にはリンではない方の娘の死を、ミセス・タルボットには死んだ夫のことを、そして全員に、かれらがもし生き延びることができても、昔と同じような生活は戻ってこないのだということを認めさせようとした。しかし、リンの戦略は彼女に望んだ自由を与えたわけではなかった。リンが兄に手の甲のやけどのことで文句を言っているとき、同時に彼女はその傷の真実の原因が戦争によって発生した放射線であることを知っていて、つまり、かれらにはどうすることもできない力によって苦しめられていることを家族に向かって文句を言っていたのだ。彼女はかれらを傷つけることで復讐をしたが、それによって痛みが癒やされることはなかった。

 リンの行動の裏にある動機を理解することで、物語を別のレベルで理解することができる。ミステリーであり、心理学的な探求であることに付け加えて、「クリアリー家」は政治的な寓喩でもあるのだ。このことは、リンが手紙を読み上げた後、父親がリンを外に連れ出してこう語ったことからも明らかである。「おととしの夏の出来事については、わしなりの考えがある」「ロシア人がはじめたとも、合衆国がはじめたとも思わん。どこかの小さなテロリスト・グループか、ひょっとしたらたったひとりの人間がやったんだろう。爆弾を落としたらどうなるか、なんにも考えてなかったんだと思う。世の中のありさまに傷つき、怒り、おびえて、すべてをご破算にしようとしたんだ――爆弾一発で。この考えをどう思う、リン?」「いったでしょ。タルボットさんの雑誌をさがしてて、偶然あの手紙を見つけたのよ」

 リンはテロリストだ。テロリストとは、リンのように、自分のことを無力だと思っていて、自分の悲しみを正当な手段によっては癒すことができないと思っているような人たちのことだ。テロリストは政治的な手続きによっては達成することのできない目標を成し遂げるために暴力的な手段に訴えかける。テロリストにはほんとうの敵がいないから一般人を攻撃し、かれの抑圧の従犯としての責任を一般人に押し付ける。どれだけ暴力的で、誰が傷つけられようとも、かれが不当に苦しめられている痛みによってその行為は正当化される。「クリアリー家」はテロリストの行動根拠に対する批判だ。ウィリスの主張はわたしが「リベラル・デモクラティック」と呼ぶ――革命家たちはそれを「保守的」と呼ぶ――それだ。テロリズムは、かれらにはほとんど、あるいはまったくどうすることもできない状況についてひとびとに責任を負わせるものであり、テロリストは誰もそんなものは持っていないはずの道徳的権威を持ち合わせていると思い込んでおり、テロリズムはもし短期的には成功したとしても、当初の意図とかけ離れた邪悪に走ってしまう。  最終的に、家族の力関係について書かれているように見えた物語が、偉大な政治的主張を為す。フェミニスト運動が「個人的な問題が政治的な問題だ」というのであれば、ウィリスは「政治的な問題とは個人的な問題だ」と示唆している。「クリアリー家」は SF の使い古された舞台装置に、主流文学的な個人の物語で装飾をほどこしたものとみなされてきたが、じっさいのところ、キャラクターの性格付けは SF 的背景を生み出す政治的主張に結び付けられていたのだ。ポスト・ホロコースト設定を取り除いてしまえばこの物語は政治的な主張を失ってしまうだろう。あるいは、登場人物の複雑な動機を取り除いてしまっても同じことである。キャラクターの性格描写は、古臭い SF のケーキにほどこされた糖衣だと思われていたが、そうではなく、材料そのものなのだ。

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「大げさだな、ジョン。結局、ネビュラ賞取ったんだろ。なにが問題なんだよ。ていうか誰の問題なんだよ」  大した問題である。この小説について、「衝撃の結末」以上の理解がなされているとは思えない。この小説を気に入らなかった人たちにとって、こういった趣向はすでに見覚えのあるものだったからだ。あるいは、若い女の子*10によって語られたという特徴以外にはなんの目新しさもない、ポスト・ホロコーストを描いた感傷的な小品のように見えたからかも。この小説に投票した人でさえ、ほとんどはこんなふうに考えていただろうと私は疑っている。前者*11にとっては、この作品がネビュラ賞を取ったことは SF 読者たちが知的厳格さに欠けることの証拠であったし、後者*12にとっては、アイディアよりも感情を温かく書き込むことが勝利したと受け止められた。

 「クリアリー家」の平坦な筆致が技巧的な深みを隠蔽し、誤読を誘っているとして批判することも可能だろう。(しかし、)ウィリスはこの物語を書くにあたってこの形式を選んだのだ。ほかの作家にとっては飾り物に過ぎない描写の細部というのは、この作品においては、読者が最後の一行まで読み通したあとに思い出さなければ完全には明らかにならないような意味のために、細心の注意を払って書き込まれている。もっといいのは再読することだ。再読すれば、「パラノイアは、十四歳の女の子の死因ナンバーワンよ」という一行が繰り返されていることや、リンの温室に対する不満が「あんなもの、爆弾で吹っとばしてやりたい。ときどき、そんな気分になることがある」と表現されていることが、お茶目でキュートというよりは、苦く皮肉なものに思えるだろう。この物語は刃渡り 6 インチの飛び出しナイフと同じくらい感傷的だが、そのことを理解するためには読者は注意深くならなければならない。一体どれだけの SF 読者がこの物語を再読しただろうか?

 なにが問題なんだ? 問題は多くの SF 読者は信頼できない語り手によって語られた物語を理解できないということにある。SF には威勢のいい若いヒーローとヒロインがたくさんいて、読者にウィリスの小説をデイヴィッド・パーマーの "Emergence" やデイヴィッド・ブリンの『ポストマン』と同じように分類させてしまう*13。これがブライアン・オールディスが彼女の作品を見誤ってしまった理由である。いかなる SF 作家もかれの期待される読者層に反して皮肉に満ちた書き方をしようとはしないし、ましてや誤読されようとなんて思わないし、「クリアリー家」の場合においては真実だと思うが、間違った理由でメジャーな賞を取ろうとなんて考えないはずだ。

 誰の問題なんだ? 難しい問題だ。おそらく、SF の読者層に対してこういった書き方がなされたところで、まともに取り合う必要なんてないのかもしれない。しかし、「クリアリー家」において示された技巧はわたしには非凡なもののように思えた。複雑な構成を持ち、力強い含意を持っている。文体においても、中身においても。これは価値のある仕事だ。そして、コニー・ウィリスはいったいどこに行けばいいというのだ。これは SF でなければならなかった物語だ。これは SF の雑誌以外で発表することはできなかった物語だ。

 皮肉*14について話そう。ある作家には潰瘍のもととなり、他の作家を飲酒に駆り立てるようなある種の皮肉についてである。ウィリスの「わが愛しき娘たちよ」が数年後に発表されたとき、われわれはこの小説の持つ苦みや怒りがウィリスのキャリアの新境地を示していると考えるに至った。ある人は言う。「コニー・ウィリスはたちが悪くなったな」他の者はこう言う。「コニー・ウィリスもようやく目覚めたか」

 コニー・ウィリスはつねに目覚めていた。眠りこけていたのは読者たちの方だ。

*1:http://www4.ncsu.edu/~tenshi/Clearywhite.html ネットに転がってた。

*2:権利者の許可は当然取っていない。

*3:といいつつわたしの英語力もあって翻訳は非常にお粗末なものである

*4:"Solution Unsatisfactory" のことか。邦訳存在せず。

*5:poignant

*6:もちろん、ロバート・シルヴァーバーグのこと。

*7:日本では『わが愛しき娘たちよ』『空襲警報』(いずれも早川書房刊)に収録されている。

*8:発電を行っている施設がもはや存在しないから?

*9:sarcastic

*10:直接的にはリンのことだが、この作品が書かれた当時ウィリスが 29 歳だったことを考えてもよい。

*11:この作品に投票しなかった人たち

*12:この作品に投票した人たち

*13:この一文、上手に訳出できなかった。

*14:irony