Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『信念の呪縛』

0.

 わたしは意外と*1オカルトやスピリチュアル系や新宗教疑似科学が好きなたちだ。本棚の最下段にはとうぜんエリアーデ・オカルト事典と新宗教事典があるし*2辛酸なめ子のスピリチュアル系図鑑もよく読む。それでいて、大本神諭も人間革命も一行だって読んでいないし、御朱印帳は持っていないし、水素水は飲んだことがないし、飲み会でわたしの血液型が AB 型であることに言及されると素直に腹を立てる。カッパ捕獲許可証は一時期保有していたが。
 冒頭に挙げたオカルト以下略というグループを、現実*3に対応するために用いられる、超自然的な要素をそのうちに持つ信念や実践のセットと言ってもよいだろう*4。わたしはようするに、こういったものを、すでに(科学的(とは?)な視点から)相対化されて、観察されたものとしてみるのが好きなのである。
 もちろんわたしは、かれらのことを見下したり、異常な信念を持っている異常者として好奇の目で見ているわけではないという留保を小賢しくも入れることができる、いや、好奇の目で見てはいるのだが、とにかく、ことはそう単純ではない。
 かれらの持つ世界に対する信念はわたしから見ればたしかに奇異だが、かれらからみればわたしの世界観のほうがよっぽど奇異である。それでもあらゆる場合においてどちらか一方を採用すべき理由はない。どうせならいろんな世界制作の方法を試してみたいではないか。物体は万有引力があるから落ちるのではない、地球の中心に対する愛のためにもとの場所へと帰るのだ。この世はでっかいビリヤード台ではない。

1.

 というわけで読んだ。本書はまずもってケニア海岸部のドゥルマ Duruma 人社会における妖術 utsai の体系と実践について書かれた民族誌であると同時に、この世には妖術という超自然的な術があるという信念が、いかにして人々にとって現実的なものとなるかという仕組みを説明しようとするものでもあり、そうした信念と実践の体系が現実の社会の変化(ここでは植民地支配)に応じて形を変えていく姿が描かれる。
 各章の構成やその梗概は近藤によるやたらと懇切丁寧な書評*5があるので、時間のある方はそれを見ていただいたほうがよいとおもう。

1.1

 さっきから信念信念と言っているが、あることを信じることとあることを知っていることはなにが違うのだろうか。妖術の話がなんだか急にテアイテトスじみてきた。
 本書の序論における議論とほぼ同趣旨の議論が展開される同著者の論文ではこう整理されている。

「SはPを信じている」はSがPに真という評価をあたえ,かつ話者が自分が所属する言説空間においてPを真と評価しない立場が存在すると判断しているというのと等価である。Sが話者と一致している場合,それは「私はPを信じる」という一人称の言明となり,一致しない場合「彼(彼女,S)はPを信じている」という三人称を主語とした言明となる。「SはPを知っている」はSがPに真という評価をあたえ,かつ話者が自分の所属する言説空間においてPを真と評価しない立場を見出さないということと等価である。Sが話者と一致する場合は一人称を主語とした言明となり,一致しない場合は三人称を主語とした言明となる。*6

 こうした意味である命題を「信じる」ことは、主張者がその命題を「あてにして」行動することを意味する。これは一種の賭けのようなもので、ひとびとは世界に対する複数の説明可能性のうちからいくつかを選んでそれぞれに認識論的なものから金銭的なものまでコストを割いている。
 そして、ある種の信念はそれを信じることで取るようになる行動が、当の信念を強化するように働くのではないか、妖術とはまさにそうした信念のひとつなのではないか。

1.2

 そういった、ある種の信念を持ち、その信念に基づいて行動することで当の信念自体が強化されていくような仕組みを、本書は信念による真理化と呼ぶ。もっとも簡単な例はこうだ。
 何をやってもうまくいかないと感じるペシミスティックな人は、実行に身が入らず、準備や配慮が怠りがちになる。その結果うまく事が運ばず、ますますこの観念に呪縛されていく。
 プラシーボ効果でもバーナム効果でも自己成就予言でもなんでもいいがこうした機序はいくらでも思いつくだろうから細かいことは省略する。

2.

 そもそもドゥルマの人たちは妖術を「知って」いるわけではない。かれらにとっても妖術は「不思議」に属することなのである。「そんなことありえない」「もしかしたら起こるかもしれない」「きっとあるに違いない」のグラデーションに属することがらなのだ*7
 そんなかれらはいつ妖術の存在を感じるのだろうか。これは大事なことなのだが、妖術使い mutsai は実在しない。もし仮に妖術を行う人間がいたとしても、それは闇夜に隠れて行われ、しかも対象に現実にはなんの効果も及ぼさないので、人に知られることがない。
 妖術を実行した結果不幸になる人間がいるのではなく、不幸になった人間がいて、その不幸の原因を求めるために妖術を行った誰かが想定されるのである。

 ドゥルマの人びとは不幸を経験すると妖術にかけられたと思う。だれもが自らに妖術をかけそうな妖術使いの心当たりが一人、二人はあるらしい。
 不幸の内容はさまざまであり、現代日本に住む我々からすると「うつ病では?」とか「熟年夫婦にありがちな不和では?」とか「エイズでは?」とか思うわけだが*8、とにかくかれらは妖術をかけられたと思い、占いによって攻撃者を探し、防御施術やカウンター施術を試みるのである。
 妖術使いが実在しないのに対して、妖術攻撃に対処する施術師は実在する。かれらはかけられたと考えられる妖術と驚くほど似た施術を行う。怪しげな薬を使い、歩き回るひょうたんなどのガジェットが登場し、全裸になるなど、規範を逸脱する行為も見られる。施術師のふるまいは存在しないはずの妖術使いのイメージにあまりにも似通っている。
 また、施術師の術は100%成功するわけではない。それは妖術使いと施術師の勝負であって、打率三割でもバッターとしては優秀とみなされるように、妖術の体系にとって、施術が失敗することは織り込み済みである。もし施術が成功すればその原因となった妖術の実在性は増す。施術が失敗すれば相手の妖術使いの力が強かったということになり、それはそれで妖術使いの脅威は増すことになる。
 妖術が存在せず、したがって防御施術も因果的な効力がないんだから、施術が「成功」するわけないではないか、そう思うかもしれない。だが、施術をしてもらったことで気が楽になり、気分障害が改善するかもしれない、施術のタイミングとマラリアの熱が引くタイミングが重なるかもしれない、そういう意味では施術の効果が現れることはままあると思われる。

2.1

 施術師の存在が妖術師の存在をリアルなものとして実感させる。妖術師は“いる”のだから、探すことができる。だれかを妖術師として告発することはハードルが高いこととされているものの、占い師の占い結果が一致した場合、妖術使いとみなされた人物を試罪施術 chirapho にかけることができる。たとえば、パパイヤのキラボ chirapho cha payu と呼ばれる施術では、切り分けたパパイヤに薬を塗って告発者と被告発者の双方に食べさせ*9、口が腫れたほうが嘘をついていることになる。もし告発された方の口が腫れれば妖術使いとみなされ、共同体から追放されることが多いという。
 こうした「不幸→防御、占い→(あれば)告発」というプロセスで妖術信仰の実践がいかに当の妖術信仰を強化するかという実例を本書は三つの実例を挙げて説明している。めっぽう面白いのはこの談話の書き起こしで構成される実例部分で、めっぽう面白いので詳しくは紹介しない。読んでみてほしい*10

2.2

 ここまでが第三部までの内容で、それはミクロな妖術実践に焦点を当てるものだったが、第四部、第五部ではこうした妖術実践をドゥルマ人の現代社会の中にあるものとした観察が行われている。
 第四部では、植民地支配が行われるようになった 1930 年代以降にこの地域で見られるようになった、さまざまな抗妖術運動 anti-witchcraft movement が取り上げられる。
 ここまでの記述でなんとなく想像がつこうものだが、妖術使いなんてものは、その存在を信じている人びとにとってはもちろん存在しない方がいいものである。そこで、数年に一度、妖術を地域から一掃しようとする運動が発生する。この抗妖術運動には二種類ある。
A タイプ 埋設薬を使い、妖術を封印するもの。妖術使いの活動を封じることが狙いで、妖術使いの正体は必ずしも暴かれない。
B タイプ 地域に住む妖術使いを文字通り個別に狩り出し検挙するもの。西洋の魔女狩りに近い。ケニア独立後、1963 年以降に見られるようになった。
 これまた個別の例は本書を読んでいただくことにして、それでまた実例部分がめっぽう面白い。ともかく、四章全体の結論は抗妖術運動は内部に矛盾を抱えており、失敗することが運命づけられているということである。
 A タイプの抗妖術運動は実施されてからしばらくの間は人びとは妖術の脅威から逃れることができるが、これまで妖術の結果とされていた不幸な出来事は(実際には妖術の結果ではないので)起こり続ける。そうなると、不幸を説明する方途が絶たれている以上、その不幸の当事者、往々にして死者であるが、その死者自身が妖術使いだったということにせざるを得ないのである。
 そして、不幸を妖術の結果として説明づけるために一掃されたはずの妖術使いが復活することになる。こうして A タイプの抗妖術運動は失敗に終わる。
 では B タイプはどうだろうか。B タイプの抗妖術運動は特定の人間を妖術使いとして指名し、施術師と妖術使いの直接対決が行われる点でドラマティックである。しかし、地域で妖術使いとみなされている人間はランダムに選ばれているわけではない。ある地域の妖術使い容疑者は、地域に存在する屋敷 mudzi*11や個人の、日ごろの利害や感情的な対立によって妖術使いと目されるようになっていることが多い。そのため、地域の「妖術使い」を「一掃」することは原理的に不可能だ。それぞれの屋敷や個人はべつべつの人物を妖術使いとみなしているからだ。施術師が地域で有力視されている妖術使いの容疑者たちと戦いを終えたあと、けっきょく全員が納得いくことはない。むしろ、ほとんどの人びとは自らの敵であった「妖術使い」が捕縛の網を逃れたと知るだけなのである。

2.3 開発と妖術

 抗妖術運動はそもそもドゥルマの妖術信仰の性格からすると不自然な点がある。妖術は私秘的なもので、誰それが妖術使いであるとおおっぴらに口に出すことははばかられるような性質のものなのである。第五章はこうした抗妖術運動が地域ぐるみで行われるようになった経緯を植民地時代からの政治、地方行政、開発の観点から解き明かす。
 19 世紀末からこの地に入植してきた白人宣教師たちは当初妖術信仰そのものを文明化に伴って自然と消滅する、単なる遅れた風習とみなしていたが、この想定はまったく当たらなかった。妖術信仰をキリスト教化と文明化の妨げになる迷信と断定した植民地政府は 1925 年に妖術法 witchcraft act を制定し、妖術信仰そのものを取り締まろうとする*12
 しかし、住民はこの法律を「妖術使い」を取り締まるものとしてしか認識できない。植民地政府は妖術信仰が発展の妨げになると考えているために「妖術など存在しないのだから施術(かれらにとってはこれも「妖術」である)を行ってはならない」と主張するのだが、ドゥルマとしては「施術をしてはいけないというのなら、まずは妖術使いをなんとかしてくれ」となってしまう。植民地政府は妖術全体を認めておらず、妖術使いの存在を認めるわけにもいかないが、ドゥルマの現実認識は不幸とその原因としての妖術使い、その対抗策としての施術という図式のもとに成り立っている。
 植民地政府は人びとの抱える問題(不幸への対処)を認識せず、自らの問題(開発の妨げとなる妖術信仰の除去)のみの観点から妖術信仰の実践を取り締まり、そのことによってむしろ人びとの妖術問題は深刻化し、行政は「うまい手」を思いつく。ほかならぬ妖術信仰そのものを逆手にとって、人びとの妖術に対する迷信的な恐れを取り除くことならできるのではないか。こうして四章で見たような抗妖術運動が登場するわけである。

3.

 あけっぴろげで流暢な文体と不安になるほどの明晰さ*13に支えられた叙述は文化人類学の素養なしにも読みやすいものである。なにか自分には理解できないことを信じている人のことを理解したい人、なにかを信じてみたい人、自分がなにかを信じているときになにが起こっているのかを見つめてみたい人、あとはもちろんケニアの海岸地域で行われてる妖術について知りたい人にはおすすめしやすい*14本だ。

 通り一遍のまとめをしたところで以下自由感想。

3.1

 妖術のような超自然的な信念はそういった信念を抱くこと、保持することの両方に困難を抱えている、ようにわれわれの視点からは見える。本書全体を通じて、いざ妖術の信念を持ってしまえばそれは実践を通して真理化するということは説明されたので、前者の問題が残る。
 ただ、ドゥルマ人は全員が妖術信仰の二世信者のようなもので、わたしだってドゥルマ人社会に生まれていたら何の問題もなく妖術を信仰できていたと思う。わたしにとっての根本問題は、周囲の人間が採用している信念体系と異なるどころか相反する信念体系を人はいかにして受け入れるか? ということである。
 

3.2

 苦難の原因はなぜ同じ共同体に属する誰かなのだろうか? 日本人だったら悪霊のせいにしてもよさそうな場合でもドゥルマ社会では悪意ある隣人の妖術攻撃を疑う。妖術攻撃は三重の被害者を生み出す。妖術による攻撃を受けた被害者、妖術使いとして疑われる被害者、妖術攻撃という悪意がいつでも降り注ぐ世界に住むことを強いられる被害者だ。
 そうはいっても妖術信仰は実在する攻撃者の観念から分離して考えることはできないし、妖術使いとして誰が告発されるかはまったくのランダムではない。妖術使いとして告発された人間は、以前から共同体でそうみなされるようなふるまいをしていたのかもしれない*15。そう考えるとかなり遠回しではあるが紛争解決の手段としても機能している。倫理的なことにはあんまり関心がないが、それでもスケープゴーティングをみるとどうしても山羊タイプのわれわれとしては*16心穏やかならぬ気持ちになるが、正義や公正に則っていないというだけではある習慣をやめる十分な理由にはならないし、そもそもそれが不正義や不公正であるとみなされてはいないかもしれない。妖術使いとして告発された人は、「妖術はかけていないが、もしかしたら口に出した悪口がそのまま呪いとなるような妖術を持っていて、かつそうした悪口ととらえられかねないような悪口を言ったかもしれない」というラインまで後退することによって、自らを妖術使いとみなしているかもしれないのである(273-274頁)。
 スケープゴーティングが全くなく、すべての人はやっていないことについて責任を取る必要が全くなく、あらゆる人が実体的真実発見主義を取る世界であれば、人々は瓜田に履を納れるようになるのかもしれないし。まああと悪霊とか鬼より隣人の方が想像しやすいし。

3.3

 序章の「知っている」と「信じている」の区別に関する議論では、ある信念が知識であるかどうかはそれを判断する語り手の言説空間内に異論が存在するかに依存することになってしまうが、知識について枠組み相対主義を取るのか。真理についても枠組み相対主義を取るのかはわからないが、もし取らない場合は知識が真理ではないこともありえるのだな。とかいろいろ考えたが、あくまでもここでなされているのは哲学やさんが言うところの「知識」「信念」「真理」概念の分析ではなく、むしろ人びとが「信じている」という言葉を使うとき、それはじっさいになにを意味しているのか、という分析であるらしい。しかし

信念と知識との違いについてすら、それを2つの異なるものの間の違いとして示すことに、哲学は一貫して失敗しているように見える。(14頁)

 は言い過ぎでは?

4.

 結局のところ自分の属するものとは異なる信念体系を理解するためにはやってみるしかない。
 わたしの主な悩みは友人が一人もいないことなので、誰かに妖術をかけられていることにする。さいきんはアプリで占い師に相談することもできるので、自らがどのような攻撃を受けているのかを占ってもらい、必要であればクブェンドゥラを行う。鶏も殺す。攻撃が止まなければ占いによって誰が攻撃者であるかを探し出す。必要であれキラボも行う。攻撃者は震えて眠れ。

*1:言うほど意外か?

*2:読んでないが。

*3:えてして現実の苦難

*4:疑似科学はちょっと違うけど。

*5:近藤英俊、2015年 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005733109

*6:浜本満「他者の信念を記述すること――人類学における一つの擬似問題とその解消試案」『大学院教育学研究紀要』9巻, 2007年

*7:いっぽう神やエイリアンの実在を「知って」いる人がいる。かれらにとってかれらの属する言説空間内ではこういった命題に異論がない。わたしにとって興味があるのはむしろこうした人たちがこういった命題を信じる(わたしが属する言説空間からはかれらは神の実在を「信じて」いるとしか言えない)にいたるプロセスである。

*8:もちろんうつ病、不和、エイズであっても、かれらにとってはそれが妖術にかけられた結果であるという説明は依然として説得力を持つのであるが。

*9:施術師の判断で片方にしか薬を塗らない場合もあるらしい。

*10:日本人にはなじみのない固有名詞が多すぎてそもそも要約しづらいというのもある。

*11:男とかれの複数の妻、その子どもたちからなるドゥルマの生活の基本単位。

*12:妖術法そのものが妖術を否定しておきながら、付帯条項で「妖術を用いることによって、あるいは試罪施術を行うという名目のもとで、またはその他任意の呪物の仕様によって、故意の殺害を行った者」に対して死刑を適用すると定めていて、まるで妖術の実在を認めているかのような記述になっているのがめちゃくちゃおもしろい。Impotentia excusat legem ではないのか?

*13:含みのあるニュアンスだがわたし的には手放しの賛辞である。

*14:価格を除けば

*15:「くじ」じゃん。

*16:メエメエ