Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

陸秋槎『元年春之祭』について

 

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

 

 

ネタバレ注意:未読の人間が読んでも得るところは一つもないので興味本位で見ることも薦めない。

 

 

要約:本書は表面的に見ればゴテゴテの新本格ミステリで、しかも新本格ミステリとしては失敗し不格好なものになっているが、わざとらしい「読者への挑戦状」の発話媒介行為に注目することで小説として一定の評価が可能となる。

 

 

 


 「読者への挑戦状」とは誰が誰に対して言っているのであろうか、当然作者から読者に対してである。ただわれわれは素直に作者が読者に対して知能比べを挑んでいるとばかり思いこむわけではない。ふつうは読者はみずからを探偵に比定し、ということは知能比べを挑む相手は狡知をめぐらす犯人なのである。という態度で本書の「挑戦状」をとらえると肩透かしを食らう。犯人は狡知をめぐらせていないし、探偵は存在しない。この小説の謎が成立したのは若英の縄恐怖症という(犯人が意図していなかったという意味での)偶然によるもので、犯人である小休のたくらみによるものではない。探偵と目されていた葵は犯人の自白によって真相を確かめる。ということで探偵対犯人という構図はこの小説に存在しない。

 だったら「挑戦状」を探偵対犯人という構図ではなく、作者対読者という元の形に戻してみよう。その場合作者は読者に対して伏線の妙や構成の巧みさで勝負をしかけるわけだが、フェアさと意想外さは両立しているだろうか? 縄恐怖症とそれに基づく観夫人殺しの真犯人特定の方はまだいい*1としても、本書の(おそらく)メインテーマである動機についてはどうだろうか。古野まほろの言葉を借りれば、「論理的には当てられません。しかし、合理的には当てることができます。*2」というのがせいぜいではなかろうか。

 じゃあ本書は、推理によって排他的な結論を導き出すことにそぐわないホワイダニットに、不適切にも読者への挑戦状を二回もつけてしまった不格好なミステリなのだろうか? ミステリとしてはそう言わざるを得ないだろう。
 ただ、ミステリというジャンルを利用した小説としてみた場合はどうだろうか。

 

 「読者への挑戦状」は「挑戦」という発語内行為をもちろん遂行しているが、同時に発話媒介行為*3として、物語内容の細部に目を凝らし、別の観点から物語をとらえなおすことを読者に要求し、特に動機を推測させる「挑戦状」は、登場人物の機微について考えることを要求する。要するに、本書の「読者への挑戦状」は犯人である小休の、つまり奴隷の心中に気づき、寄り添うことを要求している。

 本書に対する批判として葵の小休に対する仕打ちがひどすぎて読めない、というものがあった。解決篇に至るまでであれば当然そう思われても仕方ない描写なのだが(というかそういう風に書いてあるのだが)、わたしは賢しらにもこれは古代中国の「まっとうな」倫理観を反映しているのであって、現代の観点からこの関係を断罪してもナンセンスである、くらいに思いながら読んでいた。とんでもない、古代中国の人間ももちろん人間である。小休の内部はからっぽではない。

 この小説が百合と呼ばれていることは知っているが、それもミスリーディングである。大多数の人は葵と露申が物語全体を通しての主人公だと思いながら読むだろう。葵と小休のペアはサブプロットだと思い込む。これが大間違いで、もちろん本書の主人公は後者のペアだ。

 舞台設定や叙述によって後景に退いた葵と小休の関係に注目させること。この関係が最初から表面化させて書かれていたとしたら、不出来なアンクル・トムの小屋に成り下がっていただろう。動機不十分として早々に容疑者から外されていた小休が、突然「犯人」という特権的な位置を持つこと、無視していた登場人物の内面を知ることを強要されること、そもそも無視していたことに気づかされること、第二の「挑戦状」以降の展開はとても力強く(というか暴力的で)わたしは粗削りなこの小説をそこにおいて気に入った。

 ミステリとしては失敗していても、ミステリの道具立てを使って小説に劇的な効果が現れている。わたしは「挑戦」に応えられなかった、葵と同じように。

 

 

 

 

 

*1:けっきょく真相に気づけなかったわたしがいっても無様なだけだが、蛇とかは伏線だろうなと思った。まぁわたしが想像したのはまだらの紐とか堕天使拷問刑なのだが……(あさはか)。白先生殺しについてはダイイングメッセージも動機も推論不可能で、たぶん観夫人殺しに付随して白先生と江離の殺人については解かれる前提だったのだろう。

*2:古野まほろ『臨床真実士ユイカの論理 文渡家の一族』(講談社文庫タイガ、2016年)「読者への挑戦状」

*3:不良グループのJKによる「ちょっとジャンプしてみろよ」という発話は「ちょっとジャンプしてみろよ」という音声を発するという「発話行為」と、「ジャンプしろという命令」という「発話内行為」と、「オタクくんに金をよこさせる」という「発話媒介行為」に分析できる。