Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』「ラブレターを分析する」を分析する

 技巧的な論証は、ほかの技巧的なものがすべてそうであるように、ただ選択の問題です。
何を話し、何をいい残すかを心得ていさえすれば、どんなことでも好きなように、
しかも充分に説得力をもって、論証することができるものですよ。

——アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』

 

 

赤村崎葵子の分析はデタラメ (電撃文庫)
 

 

0.

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』(以下『赤村崎葵子の分析はデタラメ』を「正」、『赤村崎葵子の分析はデタラメ 続』を「続」と略記する)は多重解決ものかつ信頼できない語り手ものの小説とみなされているし、じっさいにそうである。しかも、多重解決ものでありながら、作中ですべての真相が開示されるわけではない。作中のテルの分析、章間の(おもに Wilhelm による)再分析、巻末の裏分析を経て、なお作品世界の事実は組み尽くされていない、というか、記述には無数の矛盾や不整合が残されている。それは語り手のトキオを含めた登場人物たちが事実を歪曲、隠蔽しているため、そして、テルや三雫の分析が、彼女たちの実力不足ないし上記の歪曲及び隠蔽のために不正確かつ不徹底だったためである。

 にもかかわらず大半の読者は裏分析の水準で満足し、矛盾の数々を等閑視するか、そもそも気づかない。深読みをするのは面倒だし、難しいし、時間がかかるし、それに見合うほど楽しく有益なことである保証がない*1からである。とはいえ深読みや真相に拘泥することを忌避するのはべつだんおかしなことでも悪いことでもない。与えられた解釈を疑わず、それに安住する(できる)という人間の機能がまさに信頼できない語り手という文学の技法を可能にし、それに価値を与えてさえいるのだから。

 そういうわけで以下でわたしが行うのはなくもがなの落ち穂拾いであり、それが作中世界の事実と一致する保証はないし、もちろんすべての未解決点を網羅するものでもない。なのになんでそんなことをするかといえば、わたしが黒胆汁質の人間だからにほかならないし、(これは『ウィトゲンシュタインの愛人』の感想でも書いたようなきがするけど)「この作品には深読みや解釈の余地がある」とだけいってじっさいに深読みも解釈もしない(できない?)ここ掘れワンワン型の人間にはなりたくないからでもある。

 

1. 「ラブレターを分析する」を分析する

1.1 作中分析の矛盾

 正・分析 1 の「ラブレターを分析する」事件は、作中で「神田なつみがトミノに宛てて送ったラブレターをトミノが兄のトキオに転送した」と分析されているが、この物語が作中の事実だとしたら以下のように作中の記述と矛盾する、あるいは不自然さが残ることになる。まずはそのことを確認しよう。

a) なぜ神田なつみが屋上におらず、それどころか教室のなかにいたのか。

b) なぜ4 月に入学してきたばかりの高校一年生に「あなたは私のことをよく 知らないと思いますが私はあなたのことをよく知っています」「学校ではいつもあなたを目で追っていました」という内容のラブレターが届いたのか。

c) なぜテルは変装し、カメラを持って屋上にいたのか。

 a) から。神田なつみは屋上にいなかった。トキオとトミノが屋上に着いたとき、そこにはテルしかいなかった。屋上には隠れられそうな場所といっても給水タンクの陰くらいだが、テルはそこにいたのであり、しかもテルは放課後すぐに屋上に来たというが、それから誰も屋上には来なかったという。つまり放課後すぐテルが屋上に来てから、トキオとトミノが来るまで、神田なつみのみならず、だれも屋上には来なかったと考えられる。

 屋上にいなかったのならば神田なつみはどこにいたのか。教室だ。トミノがトキオの腕を取って見せびらかすように一年の教室が並ぶ廊下を歩いていたとき、「信じられないものをみたように顔をひきつらせる女子」がいたが、これが神田なつみである。そもそも高校一年生の女子生徒が男子生徒の腕を取って歩いていたところで、ふつうは囃したてこそすれど、それが「信じられない」ものであるとは思わないはずで、この描写が当てはまるのは、思い込みが激しく、嫉妬心の強い神田なつみだけである。

 しかも、神田なつみがラブレターの差出人だとしたら、教室に残っているのはおかしい。時間指定が「放課後」だけだった場合、テルのように放課後すぐに屋上に行くのがふつうである。神田なつみとトミノは同じクラスであるから、トミノが教室を出ていくのも確認できたはずで、そのあとも教室に残っているわけがない。よって神田なつみはラブレターの差出人ではない。

 

 続いて b) だが、トミノは「四月に入学したばかり」である。四月に入学してきたばかりの人間が通常「いつも見ていました」という内容のラブレターを受け取ることはない。あるとすれば中学、あるいはそれ以前から所属が同じだった場合だが、だとすれば差出人はその属性を隠す必要がない。舞台となる高校は私立高校であり、同じ中学から来た生徒が皆無ではないにしても多数ではないことが予想されるし、どうせ相対すれば誰だかわかってしまうのだから、手紙の時点でじぶんが以前からトミノのことを知っていることをアピールしたほうがよい。

 あるいはこのラブレターが真摯な思いを伝えるためのものではなく、狙撃でも嘲弄でもなんでもいいが、トミノを屋上に呼び出すためのものだった場合でも、「いつもあなたを目で追っていました」は不適切だ。高校一年生を相手にそういったいたずらを仕掛けるならば「一目見てあなたに興味を持ちました」のほうがふさわしいだろう。よってトミノはラブレターの名宛人ではない。

 

 c) テルは長いかつらで変装し、カメラを持って屋上で待機していた。それは「分析調査」「部活動」の一環で、かつその変装は「人に好かれやすい外見的シンボル」として選ばれたものであるらしい。しかし、テルがじっさいにトキオたちの前で行った分析といえば、スーパーボールを利用した傾斜の測定で、これには変装もカメラも必要がない。つまり、テルは屋上にいる理由をふたりに隠している。

 

1.2 真の差出人

 a), b), c), を総合するとラブレターの差出人は神田なつみではなく、名宛人はトミノではなく、しかもテルは屋上にいる理由を隠している。ところでトミノが名宛人でないならば残りの「加茂」はトキオだけであり、ラブレターの名宛人はトキオだと考えられる。差出人はだれか。その日の放課後屋上にいたのはトキオとトミノを除けばテルだけである。よって差出人=呼出人はテルだと考えられる。目的は? 魅力的な女子生徒からラブレターを受け取ったトキオの反応と表情を観察するためだろう。(じっさいにはすぐ変装を見破られたとはいえ、)魅力的にみえるような変装をしたこと、カメラを持っていたことがそれを裏付ける(カツラについて訊かれたとき、「もちろん、分析結果の検証をするためだ」と答えている)。

 ようするに、テルはトキオを放課後屋上に呼び出すためにラブレターを書いた。呼び出すためのものであるから差出人の名前がなく、具体的なエピソードや思いに欠け、便せん二枚という分量でありながら「屋上にこい」としかまとめようがない文面になってしまったのである。トキオがトミノを伴って現れたため当初の予定は崩れ、自らの真の動機を隠すためにいい加減な分析で煙に巻いたのだ。

 

  

 ところで。こんな分析で説得されているようではまだまだ甘い。この物語を採用したくとも、即座に次の疑問が浮かぶはずである。

d) だとすればなぜトミノは兄が告白を受けに行く場についてきたのか。

e) 封筒と便箋の折れ目はなぜ一致しないのか。

 トミノ転送説では問題にならなかったが、トミノがトキオに着いてくる d) のは明らかにおかしい。トミノは人を信じやすいが非常識ではない。すくなくとも、兄が告白を受けに行く場に、いくら兄が断るつもりだとはいえ、同行するような人物ではない。占いの結果を信じ込んでいるから? まさか、身内に優しくするのが目的なら、なおさら兄の人間関係にひびを入れるような行動をする意味がない。一緒に帰りたければ告白が終わるまで待っていればいいだけの話である。

 さらに、転送説を破棄した場合、封筒と便箋の折れ目が一致しないのも問題として残る。いくらテルでもラブレターを装った手紙を作るにあたってそれらしい封筒を用意しないわけがない。無骨な封筒に入れるというのはありえない。

 結論からいおう。トミノからトキオへの転送は行われた。だとすればなぜトキオ宛てのラブレターがなぜトミノの下駄箱に入れられたのか。テルが誤配したからである。

 

1.3 誤配

 なぜテルは誤配したのか?

 同じ苗字とはいえ、学年の違う兄妹の下駄箱を間違えたりはしない――ふつうは。しかし、この事件が起こったのは四月である。四月といえばだいたいのひとがやったことがあるとおもうが、前のクラスの教室や下駄箱に足を運びがちなものである。それと同じことが投函時に起きた。

 しかし、テルも二年生なのに、一年生の下駄箱と混同するだろうか? とはいっても、たとえばラブレターを下駄箱に入れるとき、登校して自分の下駄箱に靴をいれ、その足で鞄からラブレターを取り出して投函するだろうか?

 テルは寮暮らしで三雫と同室だが、寮で便せん二枚もの分量の手紙を三雫にバレずに認めるのは難しそうだ。学校の、たとえば分析部(将棋部)の活動場所である第二会議室で書いたと考えてもよい。テルは一度登校してから、第二会議室かどこかに事前に書いてあった手紙を回収し、それから下駄箱に入れに行こうとしたのではないか。その際、まだ学年が変わってすぐということもあり、誤って一年生の下駄箱へ向かってしまった。二年生の下駄箱には学籍番号の記載しかないらしいが、「他学年のところはどうなっているか知らないけれど」というトキオの記述が示唆しているように、トミノの下駄箱には「加茂」の記名があったのではないだろうか。去年トキオが使っていた下駄箱、あるいはその近くにある下駄箱は、苗字が同じトミノが偶然――といっても、もしトミノのクラスが去年トキオの在籍していたクラスだったとしたら、苗字が同じなのだから学籍番号、あるいは下駄箱の位置が同じ、もしくは近い位置になることはそう低い確率とも思えないが――使っていたのではないだろうか。

 こうしてテルはトキオ宛の手紙をトミノの下駄箱へ誤配した。もちろんすぐに誤りに気づいたかもしれないが、確認しにいったときにはすでに登校したトミノが回収してしまっていた。

 トミノは誤配された手紙を開封する。通常ラブレターを受け取っても見て見ぬふりをするトミノだが、無記名で「ずっと見ていた」という内容のラブレターが入学したての自分に届けられたという事実にはさすがに違和感というか、恐怖を覚えた。ストーカーに近い人物に狙われていると考えても不思議はない。あるいは、そういったことをしそうな人間――神田なつみ――のことが脳裏をよぎったかもしれない。いつものように見て見ぬふりをするのは不安だ。だから兄を使ってどのような人物が差出人なのか確認し、親密さをアピールすることで推定ストーカー氏を牽制しようとしたのである。

 トキオの下駄箱に届けられたラブレターの封筒と便箋の折り目が一致しなかったのは、封筒に差出人の名前が記載されていたため再利用できず、転送時に別の封筒を用意する必要があった、という理由ではなく、(むしろ封筒も無記名であった可能性が高いのだから、)単純に、常識的に考えて、トミノ開封済みの封筒を再利用するほど非常識ではなかったからだ。カッターで切ったか、糊を手で破ったか、いずれにせよ開封済みの封筒を再利用すれば形跡は明らかで、だからトミノは無骨でも新規に封筒を用意しなければなかったのである。

 しかし、そういう事情ならなぜトミノは正直に兄に経緯を説明しなかったのか? 彼氏のフリ作戦は迂遠で失敗する可能性も高いのに。それはトミノが二年前の事件をトキオが起こした暴力事件として認識しているからである。トミノは当時の記憶を失っており、あの事件について、兄弟の別居の理由について、トキオが発作的に暴力事件を起こし、母親を事故に合わせた、という物語で認識している。じっさいにはそうではなかったのだが。そんなトキオにストーカー被害を告げたら、暴力的な手段をよもやまた取るのではないか、そう慮ったかもしれない。そうでなくとも、いったい誰が自分の兄に、自分がラブレターをもらったと教えたがるだろうか。トミノが天真爛漫に見えて策を弄しがちなことは続第一話でも描かれており、とくにキャラクター設定と矛盾するわけではない。

 

1.4 囁き

 これだけ辻褄合わせをすればさすがに矛盾や不自然さはなくなっただろうかといえば、なんと、まだある。正・分析 3「ディテクティブを分析する」では神田なつみが差出人でトミノが名宛人、かつトキオに転送されたという説が前提として犯人の分析が進められているのだ*2。この点を解消してようやく誤配・転送説は成立するといえよう。

 

 ところで、「ヴィルヘルムがそう囁いている」――これはテルのキメ台詞だが、このセリフが出てくるタイミングには明白な法則がある。ふつう探偵がキメ台詞を吐いたら、それは真相を言い当てることの前兆だが、分析者にすぎないテルのキメ台詞は、そんなつまらない物語上の機能なんて一切担っていない。「ヴィルヘルム」のことをトキオはさいしょテルの副人格かなにかだと勘違いしていたが、それは自殺した大戸輝明のことだった。ヴィルヘルムの囁きがテルの耳に告げているのは真相ではない。助けを求めるひそやかな声だ。正の分析 2 であればサラリーマンが自殺を考えているのではないか、という懸念が囁きとして聞こえたし*3、だれかの苦しみがテルにはヴィルヘルムの囁きとして聞こえるというのは正・続のほかの用例をみても明らかだ。

 ところで、であれば、ラブレター事件においてテルはだれのどんな声を聞いたのだろうか。もちろんトミノが助けを求める声だろう。

 

 そもそも、誤配した時点でテルは誤配された「加茂」氏を屋上で待つ理由はなかった。それをわざわざ屋上で待っていたのはもし「加茂」氏が呼び出しを受けて屋上に来てしまった場合に説明をするつもりだったからだろう(正・分析 2 で善意の募金者に返金しているように、テルは分析活動のために他人に迷惑をかけても、道理を通すことは忘れていない)。だが、屋上への階段を上る足音がふたつ、そして、呼び出しに失敗したはずのトキオの声と、知らない女の声がするとあって、給水塔の陰に隠れた。

 トミノがトキオの妹であることは会話の流れですぐにわかった。であれば、テルにはすぐトミノがトキオにラブレターを転送したことがわかったはずだ。手紙が兄宛であることに気づいて、気を利かせて転送してくれたのか? それだったらトミノがついてくるはずがない、とすれば、トミノは誤配されたラブレターを自分宛だと思っていることになる。自分宛のラブレターを兄に転送し、その兄について屋上に来たトミノの真の目的は……。

 胡乱な分析をしながら、テルはトミノが誰かに好かれており、そのために迷惑、困惑していて、兄を使ってそれを牽制しようとしていることに気づいた。この段階でテルの目的は「兄のトキオにそれを悟らせずにこの状況に説明を付けること」になり、それは見事に成功した。テルはほんとうにトミノの状況に気づいていたのか? 気づいていたことは作中の記述から明らかだ。「書いた人間と送った人間は別なのでは?」と一度転送説の真相に触れているし、それにトミノが「な、なるほど!」と肯定的な反応を見せている。かつ、その直後に「ではトミノちゃん、いま付き合ってる人か、気になってる人がいる?」と訊いている。これにトミノがイエスと答えたことで、テルはトミノが誰かに迷惑な行為を向けられて困惑していると確信した。確信した以上、あとは真相に触れずにトキオを騙してこの場を収束させるだけでよく、こうしてはじめてテルは「狙撃/嘲笑説」を唱える。トキオは気づいていないが、狙撃説は「書いた人間と送った人間は別」という従前の分析を破棄している。

 また、おそらくテルはその後アフターケアとしてトミノに事情を説明したに違いない。テルが分析の実力の一端を示し、トミノの事情に気づいていることを仄めかしさえしていなければ、正・分析 3 でトミノが分析部に助けを求める動機がないからだ。

 そして、正・分析 3 でラブレターの著者が神田なつみであるとされていることが矛盾であると先にいったが、これはトキオからのまた聞きで勘違いしている三雫だけが採用している結論だ。【ケイタイ電話の通話にて】で、テルは一度も「神田なつみがラブレターの差出人だった」とは言っていない。

 

 こうしてすくなくとも正・分析 1 についてはようやっと作中の明示的な記述と矛盾しない物語を作り出すことができたようである。おなじような遊びはたぶんほかの章についても行えるし、行うべきなのだろうが――ちょっと疲れたのでまたこんど。

 

2. 続きます

 すくなくとも『赤村崎葵子の分析はデタラメ』についてはもっともっともっともっと語るべきことが山のように残されている。今のところ、二年前の夏の事件の表に出てこなかった真相についてまとめたいと思っているし、それを踏まえたうえで、ヴィルヘルムから託されたウィリアム・テルの帽子の意味をテルが勘違いしていることを証明したいとも思っている。がんばりま~す。

*1:し、ほかに読みたい本も読まなきゃいけない新刊もいっぱいある。

*2:ちなみにべつに神田なつみじっさいにはラブレターを書いていなかったとして、第三話の分析にはなんの影響もない。

*3:裏分析でトミノが「笑っているから気づいていない」と主張しているが、笑いの意味はどうとでも取れるのであって――たとえばこの程度のことで自殺を疑う自分の神経過敏を自嘲した、とか――、そう重篤な指摘とは思われない。

記憶と思い出について、あるいは金魚と腹痛と短編小説

始皇帝

 中国は広い国だ。秦の始皇帝は紀元前三世紀にこれを統一したという。あれだけ広大な土地をひとりの男が支配するというのは、じっさいにはどういう現象なのだろうか。わたしが支配しているといえそうなのは都内の七畳程度のワンルームにすぎないが、といってもこれはもちろん大家さんの持ち物なわけだし、家賃もたまに払い忘れる。それに比べて始皇帝はすごいな、十年もあれだけの土地を支配していたわけだから。しかし、いかにして?

 中学生のころ、こうした疑問を持ったわたしは先生に質問した。こんなあいまいなかたちで質問しても伝わらないとおもって、もうちょっと具体的なかたちに質問を成形したんじゃないかとおもう。「通信手段が限られる古代に、始皇帝が広大な中原を統一したというのは、ほんとうにわれわれが『統一』ということばからイメージするほどに『統一』だったんでしょうか? それとも中原の第一人者になったくらいの意味にすぎないんでしょうか?」みたいなかんじだっただろう。

 ふつうの教師なら郡県制だとか官僚制だとかの説明をはじめるだろう。じっさい先生もその説明はしてくれた。統治の困難を分割することで統一が可能になったという説明の方針は悪くない。じっさいかなり悪くない。とはいっても、そんなことくらいわたしが知っていることくらい先生も知っている。なんとなくすっきりしないままのわたしの顔をみて、先生はこう続けた。「広いっていっても川と都市を抑えるだけだからねえ」

 なるほど! 中国は確かに広い国だ。とはいっても、川のほとりや海沿いにぽつぽつ街があって、その周辺に村があって、残りの大部分は霧深い山や森や沼地や砂漠が埋め尽くしている。ひたすら市街地が続く関東平野に育ったせいか、わたしはそういった国土のあり方を想像できていなかったのである。統治の方法を分割するだけではダメで、統治の対象となる国土(のイメージ)を分割する必要があったわけだ。

 記憶と思い出の話をする予定だったのになぜ中国の話をしているのか、いや、もうちょっと続けて話を聞いてほしい。

 一般に、ひとりの人間の手に負えなさそうなほど巨大なものを取り扱う場合には、取り扱いかたを分割する(多人数で分担する、など)か、対象を分割する(対象を細分化して優先順位を付け、重要でないことは無視するとか)かのどちらかである。たとえば、人生はあきらかにひとりの人間の手には負えないほど巨大である。にもかかわらずわれわれ(のほとんど)は人生を(だいたいのばあいにおいて)ほどほどにうまく取り扱えている。自分の人生を多人数で分担することはできない(たとえパートナーがいたとしても、それは「パートナーがいる人生」をじぶんひとりで取り扱わなくてはいけなくなるというだけのことであって、パートナーが真の意味で相手の人生を背負うことはない、できない)以上、われわれは人生そのものをなんらかのやりかたで分割していることになる。その分割は、思い出という名前で呼ばれている。

 

思い出の諸特徴

 ここで思い出の特徴を考えてみよう。

1. 思い出はみずからの記憶に基づいている。
2. すべての記憶が思い出になるわけではない。
3. 思い出は必ずしも真ではない。
4. 思い出は人生の節々で自発的に思い出されるものである。
5. 思い出の細部はある程度固定されている。
6. 思い出には意味がある。

  みずからの記憶に基づかない思い出はあり得ない。これはほとんど自明のことだ。もし他人の思い出話を聞いて、それを長い時間ののちに自分の思い出と混同することがあったとしても、それは他人の思い出話をじっさいに聞いた記憶に基づいている。当たり前ではないか、そういいたくなるだろうが、1. が要請されるのは、みずからのものでないと理解している記憶*1や、まったくの虚偽であるとみずから理解している観念を思い出の素材から排除するためである。

 とはいえ、すべての記憶が思い出になるわけではない(2.)。たとえば四日前の晩ご飯は、もし仮に覚えていたとしても思い出ではない。これは 6. にも関連する。

 さらに、思い出は記憶に基づいて作られるが、必ずしも事実と一致しない(3.*2)。記憶が事実に基づいて作られるにもかかわらず事実と一致しない――人間の認識能力、記憶能力には限界や欠陥が多々あるため――のとはまた異なる事情でそうなのだが、これは後述する。

 4. も自明であろう、思い出さなければ思い出ではない。しかも、この思い出すという動作はなかば自発的なものであって、意識的なものではない。「よし、思い出を思い出そう」と思ってするものではなくて、ふとしたときに、あるいはなにかをきっかけに「思い出される」ものなのである。ところで「思い出」は「思い出す」の連用形の名詞化ではなく、「思ひ出づ」の連用形「思ひ出で」が名詞化したものである。いわれてみればあたりまえのことだが、「出す」が根本的に他動詞であって、「出づ」が自動詞(他動詞もあるけど)であることは、「思い出」が自発のニュアンスを伴うことに寄与しているといえるだろう*3

 さらに、折に触れて「思い出される」思い出は、思い出されるたびに毎回細部が異なるのではいけない。思い出は登場人物も、話の展開も、結末も、すべて固定されている。いやもちろん、ある思い出が長いあいだのうちに変質していくことはある。しかし、それは思い出 A を素材として思い出 A' が作られたのであって、ジェミニー・クリケット事件のイギリス版とアメリカ版がそれぞれ違う作品であるのとおなじ理由でそれぞれ違う思い出なのである。

 いっぽう記憶は時間が経って薄れたり歪められたりしたとしても同一性を失わない。おなじ事実に紐づく記憶はおなじものだからだ。記憶の同一性は対象となる事実の同一性に由来する。しかし、同一の記憶をもとに作られた思い出は、細部が変化すれば別の思い出となる。思い出の同一性は素材となった記憶ではなく、思い出の細部そのものに由来するからである。

 

思い出の形成

 こうした思い出はいかにして作られるのだろうか。すべての記憶が思い出になるわけではない (2.) のだとすれば、どのような記憶が思い出になるのだろうか。

 じぶんで書いた小説の話をするのもあれだが、「リングワンダリング」に出てくる金魚のエピソードは実話だ。

 幼少期のわたしは母親と姉といっしょに帰省した。そのあいだ金魚(じっさいはメダカだったが)の世話は父親に任せた。二週間後に帰宅したときメダカは病気になって死んでいた。

 この記憶はなぜ思い出になったのだろうか。あのときの父親の情けない表情が、糸くずのようになった魚の死骸が、洗濯は済んでいるが畳まれていない洗濯物が、当時小学生だったわたしに、父親の人間としての不完全さを痛感させたからだ。……というストーリーを、長じてからのちに思いついたからだ。

 成長したわたしはいつの間にか父親と同程度にじぶんが社会的な責任を負っていることにきづいた。このきづきは、じぶんとおなじように不完全な父親が、それでも社会的な責任を果たしているということへのきづきともちろん同期していた。わたしは父親の不完全さにきづいたときのことを記憶のなかから探した。こうして、メダカの死は、父親の不完全さを象徴するものとして記憶から思い出化された。

 記憶が思い出と化する機序には、現在の自己認識がおおきくかかわっている。じぶんはいまこういう人間である。じぶんはいまこういう状況にある。アイデンティティの原因やきっかけをじぶんの記憶のなかに求めて、ひとは思い出を作り出す。

 こうして作られた思い出は記憶や事実と往々にして一致しない。現在の自己認識を表現することが思い出の第一目標であるから、多少の歪曲や脚色は許容される。じっさい、メダカを殺したのが父親だったのかどうかすらいまとなっては定かではない。メダカの世話に失敗したのはわたしではなかったか? カブトムシに白カビみたいなのが生えてきて死んだのを庭に埋めた記憶と混同していないだろうか? いまとなってはもうわからないが、それでいてこの思い出の価値はわたしにとってひとつも傷つくことはない。思い出は真理であることよりも、意味を持つことで人生に貢献するからである。

 

 冒頭で秦の話をしたのはそういうわけだ。人生はきわめて長く、わたしが生まれてからすでに 8 億秒以上が経過しているらしいが(恐ろしいな)、そのあいだに起こったすべてのことが記憶として保存されているわけではない。人生の大半の瞬間は森や山や砂漠のようなもので、人間にとって有意味でない。ただ、まれにある有意味な瞬間の記憶が自己認識を形作り、自己認識が記憶を思い出として成形し、変容させていく。都市国家の集合が帝国をつくり、帝国が都市に命令を下したり、山野を開拓して新しい都市を築くように。ようするに、人生という国は、思い出という都市の集まりでできているのだ。

 

何を見ても何かを思い出す

 思い出は思い出されるものである (4.)。たとえばきょう、というかこの文章を書いているいま、おなかが痛い。けっこう痛い。そしてわたしはとつぜん小児科の診察室でのことを思い出した。「ズキズキと痛い? キリキリ? それともシクシク?」

 痛みはとうぜん私秘的なもので、私秘的なものを形容する単語を、なぜ意思疎通に用いることができるくらいわれわれは共有できているのだろうか。たとえば、ズキズキと痛いのであれば、尖った棒で刺されたときと同じような痛み、キリキリと痛いのであればベルトで締め付けられたときと同じような痛み、と外的な基準に還元することができるかもしれないが、シクシクと痛い場合、この痛みはただただ内的だ。シクシクとした痛みは胃腸が炎症を起こしているという、まさにそのことで定義するしかないように思えるし、しかし、医者はそのとうの胃腸炎の有無を知りたくて痛みの形容詞を欲しているのだ。そして、それでいて、わたしはたしかにあのとき小児科の宮田先生に「シクシクと痛みます」と回答したのだ! この痛みをシクシクと痛むと表現することは正しいのだろうか? 先生はこの痛みを感じたとしたらシクシクと痛むと表現するのだろうか? そもそも、わたしはなんでこの痛みをシクシクと痛むという表現で表せると思うに至ったのだろうか?

 なんだかウィトゲンシュタインみたいな小学生でたいへん不愉快だが、これについてはほんとうに嘘はついていない*4、あのとき、小児科の診察室でわたしはじぶんが単語の意味を知っていることの不思議について考えていた*5。これもまた思い出であって、この思い出はどういう自己認識を反映していて、なにを表現しているかというと、どうでもいいことで考え込むというみずからの性格についてなにごとかを表現しているといっていいだろう。

 こんかいは痛覚だったが、思い出を惹起するのはあるいは景色や匂い*6、品物だったりするだろう。このことを反映して「思い出の場所」「思い出の品」などの表現が成立している。なにかにつけわたしたちは思い出を思い出し、そのたびに自分がどういう人間であるかを確認する。

 こういったパターンもあるだろう。なにか現実の出来事で自己認識を強化、あるいは否定されたようにかんじたとき、わたしたちはその自己認識を支えている思い出を思い出す。たとえばなにか道徳的に看過できないようなタイプのジョークをいった同僚に対して、柄にもなく声を荒げてそれを指摘してしまったとき、あなたはじぶんの高潔さを支えるような思い出を思い出すかもしれない。

 

思い出の細部と短編小説

 思い出はこのようにしてなんども思い出される。その細部はおおむね固定されている (5.)。細部こそが自己認識を表現するからだ。自己認識がおおむね固定されているのと同程度に思い出の細部も固定されている。細部というか、描写が固定されている。思い出においては、だれが登場して、どういう順序でなにをして、小物としてなにが用いられるのか、すべてが重要な要素である。メダカの例であれば、もし父親がメダカでなく犬を死なせていたとしたら、わたしが父親に抱く印象は不完全さではなく、むしろ積極的な悪であろう。腹痛の例でいえば、もしあのときわたしのおなかがシクシクと痛んでいなければ、外的に定義することがむずかしい形容詞についての考察には至らなかっただろう。なんだか挙げてきた例があまり典型的じゃなくてびみょうだが、みなさんも各々好きな思い出を思い出してみてほしい。初恋のひとはいつもおなじ服を着ていないだろうか?

 細部とその描写が意味を持つ。こういった特徴を持つものがとうぜん想起されてよい。そう、思い出は小説、とくに短編小説によく似ている。優れた短編小説は人生の機微を語らない。素材の配列や描写の細部でそれを示すだけである。

 ひとは優れた短編小説を読むことで、よりすぐれた思い出で人生を彩ることができるようになる。と、いうよりも、人間の自己認識と思い出の関係そのものが、ひとに短編小説を読む喜びを与えているのかもしれない。

 

人生の意味

 すべての思い出は意味を持つ。現在の自己認識を反映するというしかたで。そして、われわれはだらだらと続く何億秒の記憶に生きているのではない。われわれの人生は思い出の総体である。こうして、人生は思い出と同じように意味を持つ。しかし、その有意味性から、思い出は容易にひとを呪縛する。けっきょくのところ、思い出なんて現在から過去を眺めて記憶を再構成して脚色を加えたものに過ぎないのに。

 思い出の呪縛から逃れるために、小説は役に立つ。みずからの思い出を短編小説として読めば、それがどのような自己認識を反映しているのかがわかる。わかったからといってどうすることもできないかもしれないこともあるかもしれないが、もうその幽霊には名前がついている。

 

幸や不幸はもういい、どちらにも等しく価値がある。人生には明らかに意味がある。

——業田良家自虐の詩

 

 

 

 

*1:「記憶」という語がすでに「みずからの記憶」を意味しているというのであれば「エピソード」と言い換えてもよいが。

*2:真理の対応説を無批判に採用しているが、整合説だと話は変わってきそう。そうでもないか?

*3:この点で日本語の「思い出」は英語の memories やそれに対応する印欧語よりニュアンスが豊富だといえる。ほかの語族はよく知りません。

*4:、と思っている。

*5:待合室でガラスの仮面を読んでいたことも覚えている。

*6:プルースト効果ってやつですね。

ヤスミナ・カドラ『カブールの燕たち』

 

  ブックプラネット全部読む第 2 弾

 

 كابلがカーブル表記じゃないと全身がムズムズしてくるが、フランス語だと Kaboul なんですね、じゃあカブルの燕ですか*1? まぁそれはどうでもよくて、アルジェリア軍の上級将校をやりながら妻の名前で覆面作家をやっていて、正体を明らかにしたときは衝撃が走ったという経歴の持ち主であるヤスミナ・カドラが、イスラム原理主義タリバン支配下アフガニスタンを舞台に書いたのが本書である。

 カドラはほかにも原理主義を扱った小説を書いていて、『テロル』はおなじくハヤカワ epi ブック・プラネットから邦訳がある。未訳の Les sirenes de Bagdad と合わせて三部作を構成するらしい。『テロル』はパレスチナLes sirenes de Bagdadイラクが舞台で、みずからの出身であるアルジェリアの問題は避けているのか? ともおもわれていたようだが、ついに『昼が夜に負うもの』ではアルジェリアを扱った。これもブック・プラネットから邦訳がある。

 

『カブールの燕たち』はターリバーン支配下のカブールに暮らす二組の夫婦を描いている。

 死刑囚を収監する拘置所の看守であるアティクは、重い病に冒された妻ムサラトのことでおもい悩んでいる。友人は離縁を勧めるが、ムジャーヒディーン時代の命の恩人である妻を捨てることなどできそうもない。
 零落したエリートのモフセンは広場で行われた売春婦の公開処刑でふだんの――あるいはいままでの――自分からは考えられないような行動をとってしまう。処刑に先立って用意されていた石を手に取って、女にむかって投げつけたのだ。この呵責を妻ズナイラに打ち明けたことで、夫婦の関係は決定的に変わっていってしまう。関係改善のために、タリバンが女性に強要するチャドリ(全身を覆うローブ。肌や髪をみせることを忌避するイスラーム圏での女性の衣装。)をきらって外出しようとしないズナイラを、モフセンは無理に外に連れ出そうとするが……。
 

 

*1:以下固有名詞は本書中の表記に準拠。でもタリバンはターリバーンだろ!

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デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』

 

  つまら~ん。

 『論考』の世界観をパロディしたというよりは、論考を最大限に誤読したアホの世界観をパロディしたようなかんじがする。論考の独我論を現象主義的なそれとして真に受けて、それを表現するために世界に一人だけという設定にして、さらに5.6~5.641あたりを目いっぱい誤読して「私の言語」が世界を記述する唯一の方法だということにして*1、そういう世界観で書いたことを自分でどんどん自己否定することで世界の像がぼやけていくかんじを出したかったのかもしれないが、なにもかもおもしろくない。ぜんぶありがちな誤解だし。誤解に基づいているから愛人なのか? しょうもな~。

 ツイッターとかで感想みても「何がなんだかわからないが、すげえ」*2みたいな感想ばっかでうんざりする。何がなんだかわからないのはわたしも一緒だが、どこがすごいんだかさっぱりわからない。みんな無理して読んで、若島正柴田元幸*3と DFW が褒めてるんだから褒めないわけにはいかないとおもってがんばって感想ひねり出してないか? 感想に困った人間はだいたい「孤独感」がどうのこうのと言い出すが、それは前述のように悪質なパロディで表現されてて評価する気になれないし、ほかにも文体のリズム感とかグルーブ感がどうのとかいってるけど、これはだれにでも真似できる文体じゃんね、やらないけどたとえば『愛人』と同じような文体で書かれた文と『愛人』そのものを比較して、なぜ後者のほうが優れているのか具体的に説明できないかぎりは『愛人』の文体がすごいとは言いたくない。ていうかほんとにこの小説の文章読んでておもしろかったか? ほんとに? それとも『愛人』はこういうコンセプトとそれを表現するための文体をおもいついたことそのものが評価の対象になるべきであって、実作を読む必要がない——デュシャンの泉を十全に正当に評価するために美術館に行く必要がないように——ってこと?

 けっきょく絶対的本質ってなんだったんすか? なんか INTERPRET-ME 文学がどうのこうのいってだれも一ミリも INTERPRET しようとしてないし、わたしもわたしにわからないものが即座に価値がないというほど愚かなわけではないけど、現状だれもこの小説の良さとか成功した狙いとか文体の美しさとかを説明してくれないので、集団幻覚やってるようにしかおもえない、国書刊行会は万人受けしなさそうな本を出すのは大歓迎だけどミーハーな読書人を恐喝して無理やり褒めなきゃいけない空気を作るのをやめろ! どう考えても難解な小説を「知っている作家や画家がところどころで言及されるのを楽しむのも一つの読書法だし、記憶の不確かな語り手の話が行ったり来たりする様を客観的に眺めるのも別の楽しみ方だ」みたいな言い訳を用意してやることで雑に読み飛ばしてしまったひとにもそれっぽい感想で言い逃れられるようにしてあげたりとかそういうのって優しさなんですか? ほんとに知ってる作家や画家の名前が出てきたらうれしいか? センスのある人間なら実験的な文学のよさを細かいことはよくわからなくても感得できるはず! みたいな素朴な美的センスへの信仰をくすぐるのはやめろ! この本の良さがわかってるセンスのあるはずの人間たちみんなセンスのある感想書いてませんが。

 いやまあみるに値しそうな評が出てきたらまた考えを改めるかもしれませんが、いまのところは海外文学界隈の下品さに嫌気がさしましたとしかいいようがないです。おわり。

*1:原文確認してないからあれだけど、TLP 1 が「世界はそこで起きることのすべてだ」とか意味不明な訳をされてるのもそういう誤解に引っ張っていく感じがして気持ち悪い。 この本を読んだあと「少しだけウィトゲンシュタインが近づきやすくな」ることは絶対にないことだけは断言できる。

*2:これは冬木糸一。

https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2020/07/22/080000

*3:『愛の見切り発車』で『愛人』について触れてるけど、オチが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」で笑った。「語りえぬものについては~」を「よくわかんないことについては黙っといた方がいいぜ」くらいのしょうもない道徳的な要請を述べた箴言だとおもってるタイプの人間にはおすすめできます。

パオロ・ジョルダーノ『素数たちの孤独』

 

素数たちの孤独 (ハヤカワepi文庫)
 

  ハヤカワ epi ブック・プラネットという海外文学の叢書がかつてあって、2007 年から 2010 年のあいだに 16 冊刊行して終わった。名前からして明らかなようにハヤカワ epi 文庫の姉妹編みたいな枠だったんだとおもう。とつぜん 16 冊なら手ごろだし全部読むかみたいなきぶんになったので読んでいきます。『観光』だけ前に読んだことあるけど。

 さいしょは『素数たちの孤独』。これは epi 文庫に入った。ちなみにブック・プラネットで epi 文庫に入ったのはこれと『観光』と『バルザック小さな中国のお針子』 とカーレド・ホッセイニ

 

 

素数たちの孤独』の作者パオロ・ジョルダーノはイタリアの作家で、大学で素粒子物理学の博士号を取って、ようするに文学系の畑の出身じゃないわけだが、処女作のこれがいきなりストレーガ賞を取った。イタリアでは 200 万部売れたらしい。イタリアの人口(6,000 万人くらい)を考えるとけっこうなもんである。日本だったら 400 万部くらいになるが、これは『世界の中心で愛を叫ぶ』レベルということになる(2004 年時点で 321 万部だったらしい、いまどのくらいかはわからない)。で読んでみたらまぁセカチューみたいな読後感だった。

 幼少期に知的障害を持つ双子の妹を公園に置き去りにしてしまい、その結果妹が行方不明になってしまったという過去からリストカットをするようになったマッティア(数学の天才らしい)。

 スキー中の事故で足が不自由になり、多感な少女時代をうまくサバイブすることができなかった拒食症のアリーチェ。

 心に闇を抱える二人は高校で出会い、惹かれ合うが、運命のめぐりあわせかふたりの人生が交差することはなく、アリーチェは母親の入院している病院の医師と結婚し、マッティアは北欧の大学で研究を続けることになる。

 マッティアが北欧で童貞を捨てたり数学上の大発見をしたりなんやかやするいっぽう、アリーチェは結婚後も拒食を続け、それに起因する不妊症で夫とトラブルになる。ぐうぜんマッティアに似た女性をみかけたアリーチェはそれがマッティアの妹なんじゃないかとおもっていてもたってもいられなくなり、マッティアに手紙を送る。マッティアはイタリアにとんぼ返りしてうんぬんかんぬん。

 

 なんだかなあ~。書かれている痛みや孤独はたしかにどういうものだか理解できる、ご都合主義のハッピーエンドというわけでもない、だからといってものわかりよく褒めておけばいいやというきぶんにはなれないのである。

 ムカつくのがアリーチェの夫のファビオで、かれが物語に登場するのはちょうどマッティアとアリーチェのすれ違いがはっきり確定する*1直前であり、これはようするにファビオの役割は「敵」なのである。

 わかりやすくいうと、この小説ではスポットライトのあたるマッティアとアリーチェだけが人格を備えた人間で、ほかの登場人物はこのふたりの関係がすんなりうまくいかないようにするためだけにパチンコ台に植え付けられた釘みたいなもんなのである。読者がこの小説を読み進める動機はこのふたりの抱える問題がじぶんのことのように思えるからではなくて、どうせさいごにはくっつくであろう(と読者は想定している)ふたりが、都合のいいタイミングで喧嘩したりほかの人間と恋愛関係に陥ったりして、適度に緊張感を持たせてくれるからなのだ。

 もちろんそれが悪いというわけではなくて、というか読者の興味を引くためにそういうことをするのはあたりまえなのだが、けっきょく読み終わったあとに残ったのはこの小説ってこういう映画のシナリオみたいな感情操作ばっかりだったなという虚しさだった。かなり好意的に登場人物にこちら側から感情移入してやればよかったんだろうが、そうするにはあまりにも筆致が淡白すぎたし、というか、マッティアの視点のあまりに空疎なところをみると、エゴイスティックに孤独を選択した人間の苦痛ってそもそも書くことなんてあんまりないのかもしれない、ただただ孤独なだけ、終わり、そうなってしまうからだ。

 個々のシーンに美しいものがないわけじゃない*2し、文章はかなり流暢で、社会的なテーマへの目配せが欠けているわけでもない、そういう意味ではどこにでもいる平均的に孤独な人間であれば*3まぁまぁ満足して読み終われそうだが、それでもなんとなく登場人物に容赦なく愚かさや欠陥を盛り込む度量だとか、極めつけに皮肉なものの見方からやっとにじみ出てくる人間存在への愛だとか、そういうのがないと満足できない体になってしまった、いやこれは直前にフランゼン読んでたからかもしれないが……。

*1:マッティアが北欧の大学からのオファーを受けて、行くべきか悩んでいると相談されたアリーチェは、わたしのことなんてどうでもいいんでしょ、行けばいいじゃないという態度を取ってしまう。

*2:高校の女子トイレでアリーチェが刺青を入れてしまったことを後悔して、体を傷つけることになら慣れてそうなマッティアに頼んで削り取らせようとするシーンだとか、ファビオの家にはじめて招かれて夕食を食べるアリーチェが、食べきれなかったトマトをこっそりトイレに流そうとして詰まらせてしまうシーンはとてもよい。医者のくせに拒食症を自分の正常な世界観に対する挑戦としてしか捉えられないファビオはどうなのとおもわなくもないが夫婦喧嘩のくだりは筆致がこの小説の中でもとくにねばついていて悪くない。

*3:海外文学なんか読んでるやつは全員孤独。

David Foster Wallace "Good Old Neon" について(続き)

前回の続き。

 

2. Good Old Neon について(もうちょっと細かく)

クリシェクリシェとしての身分を獲得するのは、
それらがあまりに明白に真実だからである。

——デイヴィッド・フォスター・ウォレス
(Infinite Jest, p. 1040)

2.1 GONe と明白な隠喩

 隠し立てや韜晦をするにはあまりにも自分のアイディアの普遍性と明晰さと決定力に自信がありすぎたのだろう、Good Old Neon を読むにあたって、隠喩を読み解くための微妙な官能や細部を検討するための陰湿な記憶力は求められていない。ニール Neal が自殺した理由は本文中に明記されているように明らかで、自身のきわめておおきな空虚感と、容易に操作される周囲への絶望と、愛することができないのではないかという恐怖と、これらすべてがアメリカ人の陳腐なクリシェにすぎなかったという事実である。GONeを読み解くにあたって、シーモア・グラスが自殺した理由を思い描くためにミュリエルの俗物性やシビルがすでにイノセンスを失いつつあることを描写の細部から読み解いたり*1、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ルージンを自殺に導いた強迫を理解するためにその小説が子ルージンが小学校に入学して名ではなく姓で呼ばれる存在になったところからはじめられたことを記憶しておいたり*2する、そうしたなかば手品か超能力めいた読書術を身につけている必要はない。もちろん GONe に隠喩をはじめとする表現の綾がないということにはまったくならない。さっきからかってに GONe と省略しているが、タイトルの頭文字をこうしてとればこの小説が「逝ってしまった」ニールの物語であることを表していることは明らかだし、ニール Neal がネオンサイン Neon によって象徴されているのは、ネオンサインが(たいしてよくもないものをよいものと誤認させて売るのが仕事である)広告業界の象徴であること、派手な光を発するネオン管はその内部がほとんど真空(姉のファーン Fern の名前がこれだけ頻繁に登場するのにもかかわらず、ニールの名前は一度しか登場しない)であることを考えれば巧妙というほかなく、DFW の文学的才能がメタファーの次元で劣るところがあったと主張するのには無理があって、じっさいあのミチコ・カクタニも「どうやらなんでもできるらしい超絶技巧の才能を持つ作家」と述べているわけだし*3、たださいしょに述べたように DFW はあまりにも自信がありすぎたのだろう、テーマを堂々と披歴して議論する(表現するというよりそういったほうがてきとうにおもえる)ことになんのためらいもなかったし、そのことでメタファー自明なものになるというちょっとしたパラドックスにはなんの掻痒もおぼえなかったらしい。ちなみに、これ以上続けてもお互い時間の無駄だろうから紹介するのは控えておくが、自明な、つまり本文中に明記されていることとまったく同内容のことしか伝えないメタファーや仄めかしならまだまだあって、たとえば、Neal はラテン語の nihil(無)の縮約形 nil と同音であるし、Neal が Neon であるとするならば、姉の名前、Fern は Ferrum(鉄)のことであろう。ネオンは希ガスできわめて安定性が高く、というよりまったく変化せず、ネオンについては化合物が発見されていないいっぽう、鉄は容易に化学変化する。これは4 歳のころから詐欺師的な人格で、そのまま変化することのなかったニールと、子どものころから変化しつつ成長し、内実の伴った(とうぜんだがネオンより鉄の方が比重は高い)魅力的な大人として成長したファーンの対比となっている、うんぬんかんぬん、というようなことである。

 

2.2 GONe と文体について

 このようにちょっと真似してみただけでぐったりしてきたが、GONe の文体は異常だ。もっとも長い文章で 450 単語以上ある。これは日本語に翻訳すればおよそ 2 ページ以上一文が続くということになる。DFW はなぜ異常な長文を採用したのだろうか? それが作風だから、というのがたぶん答えなのだが、DFW が書いたほかの文章を読んだことのない強みを活かして、すくなくともこの小説のなかでこの文体がどう作用しているのかを考えてみよう。

 

2.2.1 言語の再帰性 Reflexivity

 GONe の英語が長文になってしまうのにはいくつか理由があるが、そのひとつに従属節の多用が挙げられる*4

[H]is oblique, very dry way of indicating this to me betrayed a sort of serene indifference to whether I even understood that he saw right through me that I found incredibly impressive and genuine [...] (p. 164)

受験英語みたいだが、うえの文章を日本語にしてみてほしい。

かれがそれを示唆する遠回しでドライなやり方は、俺が信じられないほど印象的でほんとうらしいものをみつけたことをかれがお見通しだということに俺がきづいているかどうかにかれがある種の静かな無関心を保っていることを示していた(……)

 みたいなかんじになればひとまずよい*5

 日本語でも一読でどういう意味かつかむのはなかなか難しいのではないだろうか。

1) 俺が信じられないほど印象的でほんとうらしいものをみつけたこと
2) をかれがお見通しだということ
3) に俺が気づいているかどうか
4) にかれがある種の静かな無関心を保っていること

 という入れ子の構造になっている。whether や that を使えば、文を文の要素として使うことができる。言語のこうした再帰性 reflexivity*6は便利なものであり、たとえばカエサルガリア戦記が名文と呼ばれるのは「叙述の対象となる事実の本筋と、その背景や付帯状況とが、実に手際よく主節と従属節と独立奪格句とに振り分けられており、それらの従属節における接続詞や時制や法がすべて完璧なまでに適切である」からなのだそうである*7。とはいえ、この多重入れ子をやりすぎると人間はなにが書かれているのか理解できなくなってしまう*8。レーモン・ルーセルの『新アフリカの印象』なんかはそのよい例で(知らんひとは検索してみよう!)、さすがに DFW はルーセルほど極北に行ってしまったわけではないけれども、それでも人間の認知能力に負荷をかけるような文体をあえて採用していることは変わりない。

 なぜだろうか。詐欺師のパラドックスがまさにこうした入れ子の構造を取っているからである。詐欺師のパラドックスに取りつかれた人間は、自分のふるまいだけを考慮してふるまわず、つねに自分のふるまいが相手に与える印象や影響を考慮してふるまっていて、そうしてふるまっていることを気に病んでいる。詐欺師の頭のなかは "a vicious infinite regress (悪質な無限後退)" でいっぱいである。詐欺師はこの無限に高階に積み重なっていく認知に疲れきっていて、われわれはこの文体を通してその疲れを疑似的に体感することができる。言語の再帰性 reflexivity は内省的 reflective なこころのうちを表しているのである。

 

2.2.2 感情の表出として

 また、ピリオドを抽出してみるとわかるのだが、このやたらと一文が長い小説は、後半に行くほどさらに一文の平均文字数が多くなる。死の瞬間に圧縮された思考の様式が表されていると同時に、文体の粗密が内容の主観的な軽重とある種の連動を保っているとおもえる部分もある。たとえば、「At the same time, what actually led to it in causal terms, though... (しかし、いっぽうで、因果的にいって、なにがじっさいにそれに導いたかというと……)(p. 168)」からはじまる段落はそんなに長くないセンテンスが続いたあとに、「And, sitting there, when I suddenly realized that...(そして、座りながら、俺がふたたび自分自身を騙していて……)」という 333 words あるきわめて長いセンテンスがくる。ここの箇所はちょうどニールが自殺を決意する箇所である。

 あるいは、「Now we’re getting to the part where I actually kill myself.(いまや俺がじっさいに自殺するところまできている。)(p. 173)」からはじまる段落。これもそんなに長くないセンテンスが続いたあと、段落の最後、ファーンへ(じっさいに)まごころを込めた手紙を書きながら、同時にその情景がドラマのようであることを自覚している、最後の詐欺と自己嫌悪を表す場面ではとつぜん 453 words のセンテンスが登場する。

 異常な長文とちょっと長いセンテンスの粗密は、独特のリズム感をつくりながら、詐欺ばかり繰り返す男のナマの感情の揺れを伝えている、のかもしれない。

 

2.3 GONe と語り手の問題

 ちょっと待ってくれ、ここまでの内容をまとめると、GONe のメタファーや文体はニールの抱えている問題や感情の揺れを表すのに役に立っているらしいじゃないか、でも、この小説ってニールが書いたんじゃないんだろ?

 そう、この小説を読んでいてびっくりしてしまうのは、最後の段落にいきなりデイヴィッド・ウォレス David Wallace なる人物が登場することだ。あきらかに David Foster Wallace を思わせる(以下、実在人物としてのデイヴィッド・フォスター・ウォレスはいままで通り DFW と、作中人物のデイヴィッド・ウォレスはデイヴィッド・ウォレスあるいはウォレスと表記することにする)この男はだれなのか。かれはニールの死亡記事を読みながら、なにがかれを自殺に追いやったのか想像する。ウォレスがまばたきをする一瞬によぎったその考えが、まさにこの Good Old Neon のそれまでの記述であった、というのが素直な解釈である。

 しかしポストモダニスト連中がつぎつぎに繰り出すメタフィクションに慣れたわれわれはそんな語りのズレにいまさらビビったりはしない。ふむふむ、つまりこれは詐欺師のパラドックスにとらわれたままのニールが、みずからの詐欺師のパラドックスについて正直に語ることができないから、こうしてウォレスというメタを用意したのだな、とか、ウォレスが想像したニールの悩みがこうであるということは、つまるところこれはニールの抱えている悩みではなくて、ウォレスの抱えている問題でもあり、小説は全体としてウォレスが真の主人公だったわけだ、とか、こうしてまばたきのあいだに想像されるくらいでしかないこの悩みが陳腐なクリシェにすぎないということをアイロニカルに示唆しているのだ、とか、いろいろ考えることができる。でも、それって正解なのか?

 

2.3.1 デイヴィッド・ウォレス作者説

 ウォレス作者説を取った場合のデメリットは端的にいってひとつ、それまで抱いてきたニールへの共感が失われることである。われわれはこの小説を読みながら、ニールの抱える悩みの深刻な陳腐さに痛ましいまでの共感を覚えていたはずだが、それがウォレスの想像にすぎなかったとなれば、われわれは共感の対象を失ってしまう。DFW が創造したニールであればわれわれは真に共感することができるのに、ウォレスが想像したニールにはなぜ共感できないのか?

 現実世界に存在する DFW は物語世界内に存在するニールに対して真にメタに立っているのに対し、ウォレスはニールと同じ世界の存在者だからである。ウォレスが想像したニールは、ウォレスと同じ世界に存在するニール、じっさいに死んだニールとは実在的にはなんの関係もない、よって、ウォレスの想像したニールがいかにかなしい存在だったとしても、それはわれわれがその死を悼んでいるニールとはなんの関係もない。ウォレスにはニールを想像/創造する資格がないのである。

 

2.3.2 ニール作者説

 わたしが支持したいのはこちらである。数十ページにわたって語られた告白はやはりニールの口から出たものである。われわれは共感を捨てさることを求められない。そして、この解釈を維持するのはそう難しいことではないようにおもえる。

 たしかにこの小説の真の語り手は、最後の最後で、ニールの死亡記事をみて、まばたきする瞬間にいろいろなおもいをめぐらせているデイヴィッド・ウォレスに言及する。ただ、デイヴィッド・ウォレスのこのいろいろなおもいが、ここまでの語りと正確に一致する、つまり、ウォレスがここまでの文章の作者であったと想定する必要は全くない。なぜか。

 もしウォレスが真の作者であったならば、じぶんが真の作者であることに言及する必要がまったくないからである。もしウォレスが真の作者で、ニールの死の瞬間にかれのあたまのなかに去来したであろうものを想像して小説仕立てにしてみました、とここで告白していたとして——それがエンタメ的などんでん返し以上の効果を持つだろうか?

 また、ウォレスが真の作者であったとするならば、死の瞬間に起きる時間感覚の変容や、死後の「内側に一度に全宇宙のすべてのものが入るくらいおおきな空間があって、それでいて、出ようとしたら古いドアノブのしたにあるちいさな鍵穴からなんとかはい出さなきゃいけないような。まるで俺たちみんながおたがいをちいさな鍵穴を通してみているかのような (p. 178)」感覚について語る必要はない。なぜなら、ウォレスはじっさいには死んでいないからである。知らない感覚に嘘をついてまで、こうした描写を入れる積極的な動機がウォレスにはひとつもない。

 さらに、この小説の末尾は【→NMN.80.418】という暗号じみた文字列で終わっているが、これが "Neal, my given name. '80's, .418 hitter," つまり、「俺の名前はニール、80 年卒業、四割一分八厘打者」を表しているとしたら——ウォレスを主題化する解釈にわたしは賛同することができない。

 いっぽう、ニールが作者だった場合、つまり、小説全体がじっさいにニールの告白だった場合、問題になるのはウォレスの脳裏に去来したさまざまなおもいと、ニールの実人生が被るのか、という問題である。じっさい、かぶらなくたってまったく問題はない。ただ、ニールは死後の拡張された認識において、「自分自身の多様な形やアイディアや相のうちで、ドアを開けてだれの部屋にでも入っていけるだろう (p. 178)」と述べている。死んだニールは物語世界でまだ生きているウォレスに不思議な意味でメタに立っている。そして、これはまったくの無根拠なのだが——ウォレスが想像したニールの人生と死は、大枠で間違っていなかったのではないかとおもえるのである。そうした奇跡が起こったことを、ニールはわざわざウォレスに言及することで伝えたかったのではないかとおもえるのである。

 

2.3.3 あんた

 ところで、ニールが作者だとしたら、「あんた」ってだれのことなんだろう。この小説は、ニールが死後の世界から「あんた」に語りかける形式を取っている。

「あんた」が気にしているのは「死ぬのはどんなかんじで、なにが起こるのか (p. 178)」らしい。「あんた」はまさにニールが事故を起こした瞬間の車内で、ニールの隣に座って話を聴いているらしい(「高火力の機械のなかで俺の隣に座って、こうやって話してることについて……(p. 169)」)。

 さて、「あんた」はどういう人間だろうか?

 唯一の脚注のあと、この小説の本文は以下のように再開する。

 さあ、泣きたいだけ泣くがいい、だれにもいわないから。

 しかし、心変わりをしたとしても詐欺師だということにはならない。なんとなくそうしなければならないとおもってやるのは、悲しいことだろう。(p. 180)

なぜ「あんた」は泣くと思われているのか? なにから心変わりするというのだろうか。そうしなければならないとおもって、なにをやるというのだろうか。

 答えは明白である。ニールが語りかけている「あんた」は自殺を考えている。

 だからニールは「あんた」に死がどのようなものか、死後がどのようなものか、丁寧に教えてやる。そこにいたるまでの人生も、動機も。べつにニールは「あんた」に自殺をやめてほしいわけじゃない。じっさいにニールが自殺を決意したのはみずからの問題がクリシェにすぎないことを認識したからだった。「あんた」が抱える悩みもまたどうせクリシェだ。自殺に関するクリシェはひとを自殺に導くだろうか?

 

 どちらともいえない。切れ味の鋭いクリシェには、明らかにひとを生かす力がある。

 ウェルテルを書くまえ、ゲーテは婚約者のいる女に横恋慕して失恋し、自殺を考えたが、かれを自殺から救ったのは、友人が人妻への恋に失敗してピストル自殺したという報せだった。

 

 どちらともいえない。切れ味の鋭いクリシェには、明らかにひとを殺す力がある。

 デイヴィッド・フォスター・ウォレスは 2008 年に首を吊って自殺した。

 

 

 

 

 

 

*1:J. D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日

*2:ウラジーミル・ナボコフ『ルージン・ディフェンス』

*3:"a writer of virtuosic talents who can seemingly do anything,"
Kakutani, Michiko. "A Country Dying of Laughter. In 1,079 Pages." The New York Times. Feb. 13, 1996. http://www.nytimes.com/1996/02/13/books/books-of-the-times-a-country-dying-of-laughter-in-1079-pages.html

*4:等位節もあたりまえのように多用されるけれども。

*5:His...indicating this までを S, betrayed を V, a sort of serene indifference to wheter... を O とした。betray は「裏切る」ではなくて「秘密をうっかり漏らしてしまう」のほう。誤訳だったらこっそり教えてください。

*6:ここではひとまず recursivity ではない。

*7:文章家としてのカエサル - into the main

*8:イアン・ワトスンの『エンベディング』はまさにそれを扱った SF.

David Foster Wallace "Good Old Neon" について

0. David Foster Wallace について

 デイヴィッド・フォスター・ウォレス David Foster Wallace (DFW) は 1962 年 2 月 21 日生まれのアメリカ人作家で、生年月日がチャック・パラニュークとおなじなのだが、パラニュークとの共通点は生年月日だけでない、実験的な作風と、やたらとカルト的な人気も共通している。

 邦訳された小説は『ヴィトゲンシュタインの箒』(デビュー作)と『奇妙な髪の少女』(短編集)の二冊あるが、代表作の Infinite Jest は代表作であるにもかかわらず、タイム誌とかが選ぶ読むべき n 冊みたいなやつにもしょっちゅう挙げられているにもかかわらず、翻訳されていない、というのも、DFW の作風ははっきりいって異常で、IJ はスラングや略語、異常なほどの長文を多用した文体が 1,000 ページくらい続くうえに脚注が 388 個あって、文体だけでなく物語も複雑、らしい、それが原因だ。読む/読める気がしない*1、というのはわたしが日本人だからじゃなくて、アメリカ人にとってもそうであるらしく、The New Yorker には How to Read “Infinite Jest” | The New Yorker なるしょうもない*2エッセイが掲載されたことがあったりして、ようするに本棚に差しておくと箔がつくとか、ダールグレンというか、重力の虹というか、そういうたぐいの本である、ということでわたしも買って本棚に差してあるが安心してほしい、一ページも読んでいない。

 ただ DFW もちゃんとおもしろいからウケてるらしい、でも IJ を読むのはちょっとキツい、ということで短編を読むことにしたが、どれが短編での代表作なのかわからない、"Good Old Neon" は O. ヘンリー賞取ってるらしい、じゃあそれにするか、ということで "Good Old Neon" を読んだ。Oblivion: Stories に所収。翻訳もつくった(文学的、美的なそれではなくて読めればいいや式のそれ)ので興味があるひとは個人的に声をかけてください。

 

Oblivion: Stories (English Edition)

Oblivion: Stories (English Edition)

 

 

 

1. Good Old Neon について(あらすじ、かんたんな紹介)

 Good Old Neon は "fraudulence paradox"(詐欺師のパラドックス) についての小説だ。詐欺師のパラドックスとは、「他人に印象的に、魅力的にみせようとして、より時間を費やして努力すればするほど、内心では自分をより印象的でも魅力的でもなく感じてしまう――詐欺師であると感じてしまうことのことである。そして、詐欺師であると思えば思うほど、いかにじっさいの自分が空洞で、詐欺師的な人間であるかということを気づかれないようにするために、他人に印象的で、好感の持てるイメージを与えることに熱心になる」ことである。主人公は広告代理店につとめる Neal ニール、幼少期から勉強にスポーツに恋愛に活躍してきた将来有望な若者で、みずからが詐欺的な人格であることに苦しめられており、精神分析にかかっている。じぶんはほんとうに優れた、愛されるべき人間ではないのに、そうみられるようなふるまいを戦略的にとることで、周囲にそうおもわせているだけなのだ、かれはそうおもっていて、みずからの問題の解決のために、精神分析だけではなく瞑想教室やカリスマ派教会などいろいろなものも試してみたが、けっきょく意味がなかった、瞑想教室ではほんとうのマインドフルネスをかんじることよりも、インストラクターの東洋人や周囲の受講生にアピールするためだけに耐えがたい苦痛に耐えながら瞑想を続けることしかできなかったし、カリスマ派教会では異言らしきものをわざと口にし、打たれてすらいない聖霊に打たれて失神したフリをした。精神分析ではじぶんがじぶんじしんの問題に気づいていて、それを真剣に告白することで問題に対処しようとしている、というフリをすることで精神分析医の上位に立とうとする。しかし、詐欺師はじぶんがじっさいに詐欺師であることをどうすればひとに伝えられるのか? ひとにしょうじきにみずからの不可避的な詐欺師性とその悩みを伝えられるなら、そのひとはもはや詐欺師ではないのではないか?

 ニールはしかしこの悩みを、みずからが「とくに詐欺師的で空虚な人格であった」せいでそうなってしまったと考えていたが、それすらも事実ではなかった。ある眠れない夜ニールがテレビをザッピングしていると、むかしのシットコムが放送されていて、登場人物の精神科医が、まさにニールの抱えているような悩みはアメリカ人によくある悩みにすぎない(「いかに他人を愛せないかっていってわたしに泣きつくヤッピーがもうひとりでも入ってきたらお手上げだったわよ」)とジョークを述べ、観客席から笑いが起こる。ニールはこの瞬間に自殺することを決心した。

 物語ぜんたいは、こうして睡眠導入剤オーバードーズして車を暴走させて橋に突っ込んで自殺したニールが、みずからの人生を振り返り、そして、死の瞬間と死後の世界がどのようであるか、死後の世界から語るという形式をとっている。

 

 面白いのは(ちょっとネタバレになるが)この物語の視点がとつぜん移動するところだ。そこまでは、いってしまえば、自殺した男の乾いたユーモアで読ませる泣き言だったのが、詐欺師についての詐欺、自己言及についての自己言及、入れ子フラクタルになってしまって、この小説の扱うテーマがかなしいことに再帰構造を認識できるようになってしまった人間の悲哀であることをかんがえると、とくにかなしくなってしまった。

 メルヴィルの『信用詐欺師』やベルンハルトの『消去』のように、一度述べたはずのことを接続詞や関係代名詞に導かれる冗談みたいに息の長い従属文で裏切り、その陰で『人間失格』のように虚飾に気づかれることを恐れている、自分のことをきわめつけにからっぽだとおもっているが、そうおもわせないことにだけやたらと長けたインテリもどきが読むとこれアタシだ……となってしまうが、それこそがこの病気の陳腐さ、クリシェにすぎないのだ。こんなブログを読んでいるたぐいのみなさんにはとくにお勧めします。

 

2. Good Old Neon について(もうちょっと細かく)

こんど書きます。

書きました。

*1:えらいひとがみっちりとした書評を残してくれている。Infinite Jest by David Foster Wallace 桑垣孝平 - 戸山翻訳農場 ありがたいことである。われわれはこういうのを読んで IJ を読んだ気になるのがいいとおもう。

*2:たとえば「項番 6. 自撮りを取り、『偶然』本を背景に映り込ませる。SNS に投稿する。まばゆいばかりのコメントに「デカいのがちょっとね」と返信する。」とか。