Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

「生者の妻たち」?――ホーソーンの「死者の妻たち」における夢の不在について

以下はMark Harris の
The Wives of the Living?: Absence of Dreams inHawthorne's "The Wives of the Dead*1"
の全訳である。

「生者の妻たち」?――ホーソーンの「死者の妻たち」における夢の不在について

マーク・ハリス

 不相応にも無視されてきた「死者の妻たち」にいくらかでも注意を向けた少数のホーソーン注釈者たちは、その作品が扱っているのが夢なのか現実なのかという問いを無視するか、あるいは問いを認識はしていても、一、二文程度の謎めいた叙述でそれを等閑に伏してしまっていた。物語の細部にある程度以上深く注目しようとした人たちでさえ、解決を求めている謎から目を背けるか、小説が現に有している細部と矛盾するような謝った結論を引き出してしまってきたのだ。H・J・ラングはこの作品のために二ページ以上(これでも比較的多い方だ)を割いて、わたしが示した最初の二つのタイプの批評を要約している。

アーリン・ターナーは「単なる」物語を、もう一人は不幸に沈んだままだと思いながら幸福なニュースを受取る姉妹それぞれの反応を描いた話として要約している。マーク・ヴァン・ドーレンは「ホーソーンのもっとも魅力的な短編の一つ。悲しみと死の雰囲気を持つ物語で、その結末は――主人公たちに与えた完全な影響は最終的にわたしたちから取り上げられているが――豊かで、奇妙な仕方で幸せで、心強いものだ」とみなしている。これらの、あるいはほかの批評によれば、この小説は薄っぺらく、平板で、現実的だが複雑でないものとなる。

 残念ながら、そのあとラングは「『死者の妻たち』は」「彼女たちの夫の帰還をむなしく夢見る」という説明不足の主張をしたハリー・レヴィンを称賛する。ラングは「この物語は……未亡人の夢として読まれるべきである」と断言し、物語の根本的な問題、「妻たちは夢を見ていたのか?」という問いを「タイトルは……そのままの形で用をなしているはず」と簡潔に切り捨ててしまう。(説明もなしに)夫の「幸福な帰還は単なる夢で、現実は実際と同じように残酷である」と示してラングはこの物語の「夢/現実」問題を離れ、作中の光と闇がキーになっていること、「物語の中心的な象徴はランプである」ということを我々に述べる。説明もなしに。

 マイケル・コラカーチオはある程度この物語を深く掘り下げている。しかし、ほかの批評家と同じように、プロット解釈においていくつか誤りを犯している(たとえば、ふたりの夫が「同じ日に」死んだとか、「いま話題に挙げている二人の女は、続けて眠りについた」、とか)し、議論の大部分を姉妹の個性に割いている。トマス・フリードマンはラング同様に妻の夢であるというレヴィンの論点に同意している。しかし、フリードマンは過激派のなかでもさらに先を行っている。過剰に想像的な主張は物語の細部を無視したりゆがめたりしている。物語を丹念に分析すれば「どちらの(妻も)夫が生存しているというシナリオの夢を見ている」という読みは単純に支持できないはずだ。しかし、リチャード・ポワリエは一方でこの物語について寡黙で、物語の主な狙いを「ホーソーンは……我々を宙ぶらりんにしようとしている……現実性と夢の間で」と位置づけている。

 「死者の妻たち」はポーが言うところの「あらゆる言葉に意味があり、意味のないような言葉がない」ようなものを書く人物によって書かれている。われわれはこれらの出来事が夢なのか現実なのかといった問いを(そして答えをも)提起するこの物語の細部をもっと詳しく点検する必要がある。

 はじめに、語り手はわれわれを余りにも早く物語の細部に連れていくことで、なにが夢でなにが現実なのかについて欺こうとする。

 たとえば、なぜ語り手は「死者の妻たち」で起こる出来事について「わざわざ語るに値しない」と述べるのだろうか。このようにすかさず言うことで、「これほど時間がたったあと」をおいてから語り手がそれを語ることに説明がつくからだ。つい今しがたそう言ったにもかかわらず、おそらく我々に語ろうとすることを説明するために、語り手は続けて、その話が「百年前……なにがしかの興味をかきたてた」と言う。それから語り手はわれわれを物語世界の中に連れていき、かれ自身は後景へと退き、それまでの記述と、それが含意する警告に十分な注意を払うことなく、われわれはあまりに早く物語に入り込んでしまう。たとえば、語り手は物語の中で起きる出来事が百年前に起こったとは言っていない。かれはそれが百年前に「興味をかきたてた」と言っただけで、ここから物語が事実に基づいているのか、あるいは基づいているとみなされていたのかという疑問が呈される。かくして、物語の鍵は導入にある。現実と被現実を峻別する困難を解決する鍵は。語り手は幾度もわれわれをミスリードしようと、夢のように見えるものの下に現実を埋めようとし、われわれは夢と現実をかれの提供する手掛かりに基づいて峻別しなければならない。

 マーガレットは姉妹のうち、彼女の夫が死んでいないとの報告を先に受け取った方だ。この訪問者が正しかったのかどうかを確かめるまえに、われわれはまずマーガレットがこの訪問を夢見ていたのか、それとも実際にそれは起こったのかを確かめなければならない。語り手のミスリードにもかかわらず、これは比較的容易に決まる。マーガレットは訪問者の夢を見ていない、なぜならそれが起こるまで彼女は眠りに落ちていないからである。彼女の「精神」は穏やかなメアリーよりも「状況に即していた」からであるが、しかし物語は同じことが彼女の心についてもいえるかどうかについては触れていない。メアリーと違って、マーガレットは訪問があるまで眠りに落ちなかった。彼女はいまだに深い悲しみにさいなまれていたからである。これは彼女が「ドアをノックする」音を聞く場面でのマーガレットの状態についての記述に表れている。

マーガレットの方は、深く静かな時間が流れ夜が更けてゆくにつれてますます心が乱れ落着きをなくしていきました。彼女は横になったまま、風のそよぎにも乱れずに物憂く続く雨音に耳を傾けていました。神経が高ぶり絶えず枕から頭を上げては、メアリーの部屋と、中間にある居間を覗き込みました……マーガレットが苦しい呻きを漏らしていますと、玄関のドアをノックする音が聞こえてきました。 (50-51)

 この箇所はマーガレットが寝ていたということを示すような記述を含んでいない。メアリーとは違い、マーガレットは最初に訪問者がノックしたとき目が覚めていたことがはっきりとしている。マーガレットは最初から「どうやら握ったこぶしの柔らかな一端で……何重もの壁を通って」聞こえただけにもかかわらず、呼び出しに気づいていた。彼女はすぐさま考えを表明する。「呼吸は早くなり、もう一度ノックの音が聞こえてこぬかと耳をそばだてるのでした」そして、ベッドを明晰で、覚醒した状態で出る。はっきりと、マーガレットは訪問者がきたときに目覚めていたといえる。

 メアリーの訪問についても同様だが、マーガレットの際立った覚醒状態と、訪問の現実味は、訪問者が本当のことを言っていることとは関係がない。しかし、マーガレットの訪問を検討してみると、訪問者とかれのもたらす情報が信用できないとほのめかすようなものはみあたらない。語り手が戸外の描写に用いる巧みな光と闇、色の描写にもかかわらず。訪問者のグッドマン・パーカーはマーガレットに「親切な町の旅籠の主人」として知られていて、「実直な」と語り手によっても呼ばれている。かれが「早飛脚」「辺境地帯の情報」から得た、マーガレットの夫とほかの十二人が生きていたということを含む情報には、疑わしく、あいまいな点はどこにもない。パーカーからマーガレットへの報告は直截で、単純だ。それは確かなのだが、メアリーの場合とは違って、グッドマン・パーカーは人づてに聞いた情報を話している。語り手は「東部管区」から旅してきたというパーカーの情報源についていかなる疑いも投げかけていない。

 グッドマン・パーカーが去ると、語り手は「ランタンが通りをほのかに照らしながら遠ざかります。形の定かでない物体や、この世の様々な断片を浮かび上がらせるそのさまは、混沌を貫いて輝く秩序、或いは過去を彷徨よう記憶に似ています」とわれわれに言う。語り手はここで、今起こったことはなにか現実でないということを伝えようとしているのだろうか。違う。メアリーが訪問を受けた後に、はっきりとメアリーの考えとしてこれは記されているが、「夢ではなく現実なのだろうかと疑」ったのとは違って、マーガレットは「まるで絵のようなこの光景をいつまでも見つめたりはし」なかった。メアリーがしたように、交互に浮かぶ疑念と希望にあふれた考えからいろいろと思い付きはしなかった。マーガレットへの訪問は実際に起こり、訪問者は真摯で、かれの報告は性格だということを確認したから、マーガレットについて「非現実的」と言えるのはいまだに実感がわいている途中の歓迎すべき衝撃、彼女の夫が結局生きていたということだけだった。

 訪問を受けた後、マーガレットはメアリーに走って告げに行こうとするが、そんなことをすればメアリーに悪いということに気づき、彼女は「引き返しました」「やがて眠りがそっと訪れ」るまで「心はうれしい物思いで一杯でした」。読者を急かすように、語り手はメアリーの体験を詳述することに移る。  語り手は、メアリーがベッドに行く前に、

温和しくて優しくてそれでいてめめしくはない性格の持ち主なので、喜ぶにしろ悲しむにしろ大げさではありません。その人は信心のお蔭でならい覚えた諦めと忍耐が大切だという教えをだんだん思い出しました。……彼女の不幸のほうが早く知らされたのですから、それが日常生活の邪魔をするのも一足先にやめさせなくてはならない……

 この下りにおけるわずかに皮肉な調子は、語り手が先に表明した、「一人、また一人と聖書から引いた数々の慰めの言葉を囁いて(尤も聞き手は一層熱い涙にかきくれたのですが)」いく、表面的な同情を見せる弔問客への微妙な批判を忍ばせる。しかし、語り手は同時におそらくメアリーがあまりにも早く「あきらめと忍耐が大切だという教え」に身をゆだねることを微妙に叱ってもいる。まだ彼女の喪失に非常に動揺していることがはっきりとしているマーガレットには、おそらくこの語り手の語り方においてだけだが、事実として夫が帰ってきたのだろう。では、もっと彼女の喪失に対して受容的に見えるメアリーは、夫がいないままなのだろうか。メアリーは食事を作り、マーガレットを食事と忍従に誘う。「お願い、立ってわたしたちに下しおかれたお食事に祝福をお願いしましょう*2」マーガレットは「あたしのために残っている祝福なんてない」と抗議する。これはマーガレットへの訪問が希望にすがる考えからの想像ではないことのさらなる証拠だ。一方メアリーはまだ人生が続くと感じており、まだ他の祝福が彼女に下されると考えている。彼女はほかの祝福を希う気持ちから訪問を受ける夢を作り出したのだろうか?

 マーガレットが訪問を受けた後、メアリーの部屋に入って何が起こったかを話そうとしたときの描写が以下の通り。

顔に穏やかな満足しきった表情が浮かんでいます。 彼女の心は深い湖に似て、その死者を深く深く沈ませて再び静謐を取り戻したかのようでした。嬉しくもあり不思議でもあるのですが、軽い悲しみこそ夢を織りなす主な材料なのです。

 この箇所をさっさと読み飛ばしていた読者は、あとになってからメアリーが幸せそうに見えるのはこのとき彼女の夫が生きている夢を見ていたからだと想像する。しかし、この箇所はメアリーが幸せに見えるとは言っていない。語り手は彼女の表情を、「満足しきった*3」ものだったと言っていて、これは悲しみに暮れた妻が彼女の最愛の人がまだ生きているのを見て喜んでいるところを表現しているというよりは、彼女の夫の死に対する「諦め*4」を反映しているといった方がいいだろう。残りの文章もこの見解を支持する。メアリーの心は「その死者を深く深く沈ませて再び」「静謐を取り戻」して(これもまた穏やかな諦めの境地、状況を受容しているイメージを想起させる)いるからだ。もし語り手が "deadness" という単語を使っていたら、メアリーの感じていた悲しみと受け取っていただろう。しかし、ここではおそらくメアリーの死んだ夫を指すものとして "dead" という名詞が使われていて、そのため、マーガレットの観点からは、かれはメアリーの心の中に「深く深く沈」んでいて、「静謐を取り戻し」ているのだ。どちらにせよ、文章全体としては、特にベッドに入る前のメアリーの行動と合わせて考えれば、メアリーはほとんど彼女の喪失を乗り越えている、少なくとも諦めて、なにより満足しきっているのだ。さて、ここまでの分析を踏まえてこの部分の最後の文を考えると、完全に意味が通る。「嬉しくもあり不思議でもあるのですが、軽い悲しみこそ夢を織りなす主な材料なのです」。次の段落でわれわれはメアリーが実際に夢を見ていて、彼女の嘆きはマーガレットのそれに比べて「軽い悲しみ」であって、彼女はもはやそれとは戦っていなかったということがわかる。このことがメアリーの訪問の真実味、あるいは非現実性を決定するのにどう役に立つのかに注意して続きを読む必要がある。 「つい今しがたまで、鮮明な夢に誘われその非日常的な世界に巻き込まれていたのに」という描写や、メアリーがドアをノックする音に気付いたときの描写は、その人がはっきりと今まで寝ていたことを示しているにもかかわらず、語り手は明白に「メアリーが不意にハッとして目覚めました」と付け加えている。彼女ははっきりと目が覚めるまで、呼び出しに答えなかった(つまり訪問者との会話はまだ実際にははじまっていなかった)。「眠りのとばりを苦悩の顔から吹き飛ばしました。……目を覚まし……窓に急ぎました」しかし、メアリーが訪問のあったときに目を覚ましていたということは、マーガレットの時と同じく、訪問者が真実を語っているということを必ずしも意味しない。そして、メアリーへの訪問者とかれの話を検討すると、情報の信頼性を示すような証拠は薄く、スティーヴンが嘘をついて、あるいは誤っている可能性がより強く示されているように見える。

 スティーヴンを描写する最初の段落の中の短いが重要な細部がわれわれを助けてくれる。「嵐はおさまり、月が出ていました」、そして、スティーヴンが「近海航路の船に乗って暮らしを立てている」と書かれている。いかにして、そしてなぜ、スティーヴンは「まるで海の底からあがってきたみたいに、ぐっしょり濡れ」ているのか? このフレーズからは、スティーヴンは単に雨に降られただけとか、浅い岸辺の水で濡れただけとはいいがたい。ならば、可能な説明はスティーヴンは溺れていたということだ(メアリーの夫もまた溺れたのかどうかはともかくとして)。そして、亡霊としてメアリーに真実を(懺悔のために?)、あるいは嘘を(復讐のために)告げに来たのだ。スティーヴンに関するすべての情報は語り手のミスリードかもしれないが、しかし、語り手がスティーヴンに疑いを投げかけていることは確かである。この疑念は語り手によってさらに強められる。

 まず、メアリーはスティーヴンを「娘時代、求婚されて断ったこともあ」り、語り手はかれのことを「ふられ男」と言及する。メアリー自身がはじめはスティーヴンが何を意図しているのかについて懐疑的で、われわれも同様だ。「家に帰ったのは十分前かそこいら」の「ふられ男」が、かれを以前鼻であしらった女性に、かれの恋のライバルが死んだと報告する代わりに、かれはまだ生きているという事実を報告するために急ぐというのは奇妙な話だ。メアリーが「求婚されて断った」男が最もやりそうにないことではないか。われわれはメアリーがこのとき覚醒していたことを確かめているため、この訪問は実際に起こったと言える。われわれが問うべきは、スティーヴンがメアリーの元に「走って」きたかどうかではなく、なぜかれがそうしたかなのだ。スティーヴンが「ふられ男」であるということを考慮すると、かれが嘘を吐いていて、誤った期待を抱かせることで彼女がかれを拒絶したことへの復讐を果たしているか、あるいは、彼女にやさしくすることで彼女の愛を得るチャンスを復活させようとしているか、というのがもっともありそうな答えだろう。語り手はスティーヴンに関する下りの中ほどでスティーヴンを「心の広い船乗り」と言及していて、この表現からは、スティーヴンが意図的に嘘を吐いてはおらず、かれは彼が見聞きしたものについて間違っているか、誇張しているかもしれないが、メアリーを喜ばせようと思ってやっていることが窺われる。

 メアリーの夫の状態についてはマーガレットの夫のそれよりもはるかに証明するのが難しい、しかし、証拠はスティーヴンとかれの語る話の正当性に疑いを投げかけている。訪問のあと、メアリーはスティーヴンを見送りながら、

これは夢ではなく現実なのだろうかと疑いました。彼が家並みの影に入ったり、皓々たる月光の中に出てくるたびに現実味が強くなったり弱くなったりするように思われたからです。けれども次第に確信が洪水のように膨れ上がって彼女の心に流れ込んできました。もっと急激に増水すれば、彼女をすっかり呑みこんでしまうほどには消しいものでした。

 と書かれている。
 マーガレットが訪問者に対して抱く疑念なしの確信どころか、メアリーの肯定的な感情さえも、スティーヴンがそう見えたように、一貫性のないものだった。そして、ありそうなことだが、もし語り手がかれの見聞きした話をそのまま語りなおしているのではないとしたら、メアリーは誤った知らせを受けていて、語り手はメアリーがあまりに早く彼女が喪失から立ち直ったことの報いを受けていると思っていることになる。

 けっきょく、物語の最後の文の「彼女」はわざとあいまいなのだ。しかし、それは必然的にマーガレットのことを指している。メアリーはそのときすでにはっきりと起きていたのだし、その文章の文法と構文から、「彼女」がマーガレットのことを示しているのが適切だということがわかる。「死者の妻たち」は読者に「現実性」というものは非現実的な雰囲気のとばりの下にあって(そのことで必ずしも現実性が損なわれるわけではない)、神秘を滲ませ、実際には提示せずに夢を暗示しているということをはっきりと示している。もしわれわれが誤った仮説(たとえば妻たちは夢を見ていたに違いないというような)に屈してしまったとしたら、それは (1) その小説がホーソーンによって書かれたから、(2) 物語の中で起こることが妻たちがいかにも夢に見そうだったから、(3) 「ある雨模様の秋の日の黄昏時」といった言葉や、光と闇のイメージの全体的な使用によって、物語の雰囲気と設定が夢のなかのようであること、によるだろう。われわれは要点を見失い、語り手はわれわれを欺くことに成功したことになる。語り手の詐術はこうだ。夢見るホーソーンの物語、夢でいっぱいにみえる物語、そのたくさんの夢の解釈にその物語の解釈がかかってくるように思えるが、じっさいはその物語に一つしか夢は含まれていないし、それは記述されているわけでもなく、物語を解釈する野に直接重要なわけでもない。ゆえに、「死者の妻たち」は、絶望した妻たちの夢に関する暗く皮肉な論文ではなく、単純に、夢と現実を区別することに対する無知への警告であると言えるだろう。

*1:Harris, Mark, "The Wives of the Living?: Absence of Dreams in Hawthorne's "The Wives of the Dead"" (1992). Faculty Publications and Presentations. 28.

*2:と国重訳ではなっているが、原文は "Arise, I pray you, and let us ask a blessing on that which is provided for us" となっていて、pray は食前の祈りとも、彼女たちの置かれた状況への祈りとも解釈できるようになっている。

*3:contentment

*4:resignation