Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

記憶と思い出について、あるいは金魚と腹痛と短編小説

始皇帝

 中国は広い国だ。秦の始皇帝は紀元前三世紀にこれを統一したという。あれだけ広大な土地をひとりの男が支配するというのは、じっさいにはどういう現象なのだろうか。わたしが支配しているといえそうなのは都内の七畳程度のワンルームにすぎないが、といってもこれはもちろん大家さんの持ち物なわけだし、家賃もたまに払い忘れる。それに比べて始皇帝はすごいな、十年もあれだけの土地を支配していたわけだから。しかし、いかにして?

 中学生のころ、こうした疑問を持ったわたしは先生に質問した。こんなあいまいなかたちで質問しても伝わらないとおもって、もうちょっと具体的なかたちに質問を成形したんじゃないかとおもう。「通信手段が限られる古代に、始皇帝が広大な中原を統一したというのは、ほんとうにわれわれが『統一』ということばからイメージするほどに『統一』だったんでしょうか? それとも中原の第一人者になったくらいの意味にすぎないんでしょうか?」みたいなかんじだっただろう。

 ふつうの教師なら郡県制だとか官僚制だとかの説明をはじめるだろう。じっさい先生もその説明はしてくれた。統治の困難を分割することで統一が可能になったという説明の方針は悪くない。じっさいかなり悪くない。とはいっても、そんなことくらいわたしが知っていることくらい先生も知っている。なんとなくすっきりしないままのわたしの顔をみて、先生はこう続けた。「広いっていっても川と都市を抑えるだけだからねえ」

 なるほど! 中国は確かに広い国だ。とはいっても、川のほとりや海沿いにぽつぽつ街があって、その周辺に村があって、残りの大部分は霧深い山や森や沼地や砂漠が埋め尽くしている。ひたすら市街地が続く関東平野に育ったせいか、わたしはそういった国土のあり方を想像できていなかったのである。統治の方法を分割するだけではダメで、統治の対象となる国土(のイメージ)を分割する必要があったわけだ。

 記憶と思い出の話をする予定だったのになぜ中国の話をしているのか、いや、もうちょっと続けて話を聞いてほしい。

 一般に、ひとりの人間の手に負えなさそうなほど巨大なものを取り扱う場合には、取り扱いかたを分割する(多人数で分担する、など)か、対象を分割する(対象を細分化して優先順位を付け、重要でないことは無視するとか)かのどちらかである。たとえば、人生はあきらかにひとりの人間の手には負えないほど巨大である。にもかかわらずわれわれ(のほとんど)は人生を(だいたいのばあいにおいて)ほどほどにうまく取り扱えている。自分の人生を多人数で分担することはできない(たとえパートナーがいたとしても、それは「パートナーがいる人生」をじぶんひとりで取り扱わなくてはいけなくなるというだけのことであって、パートナーが真の意味で相手の人生を背負うことはない、できない)以上、われわれは人生そのものをなんらかのやりかたで分割していることになる。その分割は、思い出という名前で呼ばれている。

 

思い出の諸特徴

 ここで思い出の特徴を考えてみよう。

1. 思い出はみずからの記憶に基づいている。
2. すべての記憶が思い出になるわけではない。
3. 思い出は必ずしも真ではない。
4. 思い出は人生の節々で自発的に思い出されるものである。
5. 思い出の細部はある程度固定されている。
6. 思い出には意味がある。

  みずからの記憶に基づかない思い出はあり得ない。これはほとんど自明のことだ。もし他人の思い出話を聞いて、それを長い時間ののちに自分の思い出と混同することがあったとしても、それは他人の思い出話をじっさいに聞いた記憶に基づいている。当たり前ではないか、そういいたくなるだろうが、1. が要請されるのは、みずからのものでないと理解している記憶*1や、まったくの虚偽であるとみずから理解している観念を思い出の素材から排除するためである。

 とはいえ、すべての記憶が思い出になるわけではない(2.)。たとえば四日前の晩ご飯は、もし仮に覚えていたとしても思い出ではない。これは 6. にも関連する。

 さらに、思い出は記憶に基づいて作られるが、必ずしも事実と一致しない(3.*2)。記憶が事実に基づいて作られるにもかかわらず事実と一致しない――人間の認識能力、記憶能力には限界や欠陥が多々あるため――のとはまた異なる事情でそうなのだが、これは後述する。

 4. も自明であろう、思い出さなければ思い出ではない。しかも、この思い出すという動作はなかば自発的なものであって、意識的なものではない。「よし、思い出を思い出そう」と思ってするものではなくて、ふとしたときに、あるいはなにかをきっかけに「思い出される」ものなのである。ところで「思い出」は「思い出す」の連用形の名詞化ではなく、「思ひ出づ」の連用形「思ひ出で」が名詞化したものである。いわれてみればあたりまえのことだが、「出す」が根本的に他動詞であって、「出づ」が自動詞(他動詞もあるけど)であることは、「思い出」が自発のニュアンスを伴うことに寄与しているといえるだろう*3

 さらに、折に触れて「思い出される」思い出は、思い出されるたびに毎回細部が異なるのではいけない。思い出は登場人物も、話の展開も、結末も、すべて固定されている。いやもちろん、ある思い出が長いあいだのうちに変質していくことはある。しかし、それは思い出 A を素材として思い出 A' が作られたのであって、ジェミニー・クリケット事件のイギリス版とアメリカ版がそれぞれ違う作品であるのとおなじ理由でそれぞれ違う思い出なのである。

 いっぽう記憶は時間が経って薄れたり歪められたりしたとしても同一性を失わない。おなじ事実に紐づく記憶はおなじものだからだ。記憶の同一性は対象となる事実の同一性に由来する。しかし、同一の記憶をもとに作られた思い出は、細部が変化すれば別の思い出となる。思い出の同一性は素材となった記憶ではなく、思い出の細部そのものに由来するからである。

 

思い出の形成

 こうした思い出はいかにして作られるのだろうか。すべての記憶が思い出になるわけではない (2.) のだとすれば、どのような記憶が思い出になるのだろうか。

 じぶんで書いた小説の話をするのもあれだが、「リングワンダリング」に出てくる金魚のエピソードは実話だ。

 幼少期のわたしは母親と姉といっしょに帰省した。そのあいだ金魚(じっさいはメダカだったが)の世話は父親に任せた。二週間後に帰宅したときメダカは病気になって死んでいた。

 この記憶はなぜ思い出になったのだろうか。あのときの父親の情けない表情が、糸くずのようになった魚の死骸が、洗濯は済んでいるが畳まれていない洗濯物が、当時小学生だったわたしに、父親の人間としての不完全さを痛感させたからだ。……というストーリーを、長じてからのちに思いついたからだ。

 成長したわたしはいつの間にか父親と同程度にじぶんが社会的な責任を負っていることにきづいた。このきづきは、じぶんとおなじように不完全な父親が、それでも社会的な責任を果たしているということへのきづきともちろん同期していた。わたしは父親の不完全さにきづいたときのことを記憶のなかから探した。こうして、メダカの死は、父親の不完全さを象徴するものとして記憶から思い出化された。

 記憶が思い出と化する機序には、現在の自己認識がおおきくかかわっている。じぶんはいまこういう人間である。じぶんはいまこういう状況にある。アイデンティティの原因やきっかけをじぶんの記憶のなかに求めて、ひとは思い出を作り出す。

 こうして作られた思い出は記憶や事実と往々にして一致しない。現在の自己認識を表現することが思い出の第一目標であるから、多少の歪曲や脚色は許容される。じっさい、メダカを殺したのが父親だったのかどうかすらいまとなっては定かではない。メダカの世話に失敗したのはわたしではなかったか? カブトムシに白カビみたいなのが生えてきて死んだのを庭に埋めた記憶と混同していないだろうか? いまとなってはもうわからないが、それでいてこの思い出の価値はわたしにとってひとつも傷つくことはない。思い出は真理であることよりも、意味を持つことで人生に貢献するからである。

 

 冒頭で秦の話をしたのはそういうわけだ。人生はきわめて長く、わたしが生まれてからすでに 8 億秒以上が経過しているらしいが(恐ろしいな)、そのあいだに起こったすべてのことが記憶として保存されているわけではない。人生の大半の瞬間は森や山や砂漠のようなもので、人間にとって有意味でない。ただ、まれにある有意味な瞬間の記憶が自己認識を形作り、自己認識が記憶を思い出として成形し、変容させていく。都市国家の集合が帝国をつくり、帝国が都市に命令を下したり、山野を開拓して新しい都市を築くように。ようするに、人生という国は、思い出という都市の集まりでできているのだ。

 

何を見ても何かを思い出す

 思い出は思い出されるものである (4.)。たとえばきょう、というかこの文章を書いているいま、おなかが痛い。けっこう痛い。そしてわたしはとつぜん小児科の診察室でのことを思い出した。「ズキズキと痛い? キリキリ? それともシクシク?」

 痛みはとうぜん私秘的なもので、私秘的なものを形容する単語を、なぜ意思疎通に用いることができるくらいわれわれは共有できているのだろうか。たとえば、ズキズキと痛いのであれば、尖った棒で刺されたときと同じような痛み、キリキリと痛いのであればベルトで締め付けられたときと同じような痛み、と外的な基準に還元することができるかもしれないが、シクシクと痛い場合、この痛みはただただ内的だ。シクシクとした痛みは胃腸が炎症を起こしているという、まさにそのことで定義するしかないように思えるし、しかし、医者はそのとうの胃腸炎の有無を知りたくて痛みの形容詞を欲しているのだ。そして、それでいて、わたしはたしかにあのとき小児科の宮田先生に「シクシクと痛みます」と回答したのだ! この痛みをシクシクと痛むと表現することは正しいのだろうか? 先生はこの痛みを感じたとしたらシクシクと痛むと表現するのだろうか? そもそも、わたしはなんでこの痛みをシクシクと痛むという表現で表せると思うに至ったのだろうか?

 なんだかウィトゲンシュタインみたいな小学生でたいへん不愉快だが、これについてはほんとうに嘘はついていない*4、あのとき、小児科の診察室でわたしはじぶんが単語の意味を知っていることの不思議について考えていた*5。これもまた思い出であって、この思い出はどういう自己認識を反映していて、なにを表現しているかというと、どうでもいいことで考え込むというみずからの性格についてなにごとかを表現しているといっていいだろう。

 こんかいは痛覚だったが、思い出を惹起するのはあるいは景色や匂い*6、品物だったりするだろう。このことを反映して「思い出の場所」「思い出の品」などの表現が成立している。なにかにつけわたしたちは思い出を思い出し、そのたびに自分がどういう人間であるかを確認する。

 こういったパターンもあるだろう。なにか現実の出来事で自己認識を強化、あるいは否定されたようにかんじたとき、わたしたちはその自己認識を支えている思い出を思い出す。たとえばなにか道徳的に看過できないようなタイプのジョークをいった同僚に対して、柄にもなく声を荒げてそれを指摘してしまったとき、あなたはじぶんの高潔さを支えるような思い出を思い出すかもしれない。

 

思い出の細部と短編小説

 思い出はこのようにしてなんども思い出される。その細部はおおむね固定されている (5.)。細部こそが自己認識を表現するからだ。自己認識がおおむね固定されているのと同程度に思い出の細部も固定されている。細部というか、描写が固定されている。思い出においては、だれが登場して、どういう順序でなにをして、小物としてなにが用いられるのか、すべてが重要な要素である。メダカの例であれば、もし父親がメダカでなく犬を死なせていたとしたら、わたしが父親に抱く印象は不完全さではなく、むしろ積極的な悪であろう。腹痛の例でいえば、もしあのときわたしのおなかがシクシクと痛んでいなければ、外的に定義することがむずかしい形容詞についての考察には至らなかっただろう。なんだか挙げてきた例があまり典型的じゃなくてびみょうだが、みなさんも各々好きな思い出を思い出してみてほしい。初恋のひとはいつもおなじ服を着ていないだろうか?

 細部とその描写が意味を持つ。こういった特徴を持つものがとうぜん想起されてよい。そう、思い出は小説、とくに短編小説によく似ている。優れた短編小説は人生の機微を語らない。素材の配列や描写の細部でそれを示すだけである。

 ひとは優れた短編小説を読むことで、よりすぐれた思い出で人生を彩ることができるようになる。と、いうよりも、人間の自己認識と思い出の関係そのものが、ひとに短編小説を読む喜びを与えているのかもしれない。

 

人生の意味

 すべての思い出は意味を持つ。現在の自己認識を反映するというしかたで。そして、われわれはだらだらと続く何億秒の記憶に生きているのではない。われわれの人生は思い出の総体である。こうして、人生は思い出と同じように意味を持つ。しかし、その有意味性から、思い出は容易にひとを呪縛する。けっきょくのところ、思い出なんて現在から過去を眺めて記憶を再構成して脚色を加えたものに過ぎないのに。

 思い出の呪縛から逃れるために、小説は役に立つ。みずからの思い出を短編小説として読めば、それがどのような自己認識を反映しているのかがわかる。わかったからといってどうすることもできないかもしれないこともあるかもしれないが、もうその幽霊には名前がついている。

 

幸や不幸はもういい、どちらにも等しく価値がある。人生には明らかに意味がある。

——業田良家自虐の詩

 

 

 

 

*1:「記憶」という語がすでに「みずからの記憶」を意味しているというのであれば「エピソード」と言い換えてもよいが。

*2:真理の対応説を無批判に採用しているが、整合説だと話は変わってきそう。そうでもないか?

*3:この点で日本語の「思い出」は英語の memories やそれに対応する印欧語よりニュアンスが豊富だといえる。ほかの語族はよく知りません。

*4:、と思っている。

*5:待合室でガラスの仮面を読んでいたことも覚えている。

*6:プルースト効果ってやつですね。