Akosmismus

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理想の犯人当てについて

 さいきん犯人当てミステリを書いて公開しました。以下は寝言です。

 
0. 消極的要件

 理想の犯人当てがすべからく有すべき性質とはなにかと問われたら、たいていのひとは論理性とか解の唯一性とか、ちょっとキマってるオタクなら健全性と完全性とか答えるのではないでしょうか。数学あるいは数理論理学との類比でミステリを語る試みってなんだか昔から人をひきつけるみたいで議論の蓄積もはなはだしくて、そこに屋上屋を架する必要もないとおもうんですが、それはともかく、そういう数学的な意味での「論理性」ってたしかに理想の犯人当てには求められるけど、あくまでも消極的要件であって、積極的要件ではないですよね、つまり、複数人(あるいはゼロ人)妥当な単独犯の候補がでてきたり、推論ではなく神託で犯人を当てていたとしたら理想の犯人当てではないというだけであって、数学的な意味で論理的だからといって「理想の」犯人当てになるとは限らないということです。たとえば容疑者はふたり、片方は右利き、各種証拠から犯人が左利きなのは明らか、よって犯人はもう片方――利き手モデルとします――というような謎解きは、論理的ですがおもしろくなくて、まったく理想ではありません。

 もちろんこの消極的要件こそが満たすのが難しいわけで、各作家は苦心惨憺するし、評論家による哲学的な議論があるわけです。たとえば利き手モデルでいえば飲めば一時的に利き手が逆転する薬が存在する世界ではないことを証明する必要があるのでしょうか? ただ、けっきょく数学的な論理性を用いた議論は、あらゆる犯人当ては不完全でしかありえないという結論にいたるとおもいます。べつにゲーデルは必要ないです。

 うえに挙げたような数学的な論理性はその性質上、備えているか備えていないかのどちらかであって、グラデーションではありません。小学生が書いたピタゴラスの定理の証明も成功しさえしていれば完全に論理的です。

 現実的(現実に起こり得そうな)な事件を有限の文章で表現するフィクションにおいて、数学的な論理性を備えることは難しい(公理にも推論規則にも諸前提にも必要なだけの表現力と抽象性と厳密性を持たせることができないでしょうから)ことを考えると、実作者にとっては理想の犯人当ての積極的要件を追求するほうが生産的でしょう。

 上記の問題意識を踏まえて、理想の犯人当ての要件を、消極的要件のみならず積極的要件についても考慮しながら検討していきましょう。

1. 論理性(消極的要件)
2. 意外性(積極的要件)

 -a 距離

 -b 前提の再検討
3. 競技性
 -a 公平性(消極的要件)
 -b 困難さ(積極的要件)

4. 芸術性(積極的要件)

 

1. 論理性

 まずは消極的要件としての論理性を検討しましょう。
 いやいや、論理性はミステリにおいて成立しなかったんじゃないのか――それはそう、数学的な論理性は成立しないでしょう。ただ(この名称がふさわしいかどうかはわかりませんが)、文学的な論理性は別です。説得性といいかえてもいいでしょう。

 文学的な論理は、たとえば無矛盾律*1排中律*2を採用し、演繹的な外形を持ちます。

  演繹的な推論とはどのような形を持つものでしょうか? いちれいとして三段論法が挙げられるでしょう。「すべての P は M である、ある S は M ではない、よってある S は P ではない」というような推論形式*3が存在しますが、これを模倣する形で、たとえば、文学的に論理的な推論は「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」というような形を取ります*4

 ぎゃくに、「さきの事件でも鈴木が犯人だった、今回の事件でも鈴木が犯人に違いない」「神託があった、犯人は鈴木である」は演繹的な推論ではありませんから文学的な論理においても認められません*5

 なぜ認められないか? 適切な反論のしかたが存在しないからです。非演繹的な推論(枚挙帰納法でもアブダクションでもなんでもいいですが)においては、前提が真でも結論は必ずしも真ではありませんから、いくらでも言い逃れができてしまいます。ところが、演繹的な推論であれば大前提か小前提の真偽を問うことができ(文学的に論理的な推論は演繹的な外形を持っていますが、繰り返すように数学的に演繹的なわけではないので、その証明するところが真かどうかはほんとはわからないのですが、そのへんはいまはとりあえずおいておきます)、かつ、前提の真偽さえ合意が取れれば、結論の真偽についてはさらに疑いを容れることはできません。われわれが演繹的な推論に求めるのはこの結論の強制性、言い逃れのできなさです。

 ところで論理性と 2. の意外性はまったくもって噛み合いが悪いです。数学的に論理的で妥当な推論において、結論は諸前提のうちに潜性的にすでに含まれています。個々の推論はあたりまえの結論しか導き出せないということです。しかし、推論の全体に意外性を持たせる手段は複数あります。以下にみていきましょう。

 

2. 意外性

 積極的要件としての意外性を検討しましょう。

2-a. 距離

 意外性を出すもっともかんたんな手段は推論を連続させること、つまり、推論 A の結論をつぎの推論 B の前提とすることです。たとえば、
「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」だけでは意外性がありませんが、「すべての右利きの人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は右利きではない(=すべての犯人は左利きである)」という推論*6が前に追加されたらどうでしょう(この推論が妥当かどうかはともかく*7)。こうして推論はいくらでも延長することができ、さいしょの推論の前提と最後の推論の結論はパッと見でははなはだ無関係なものにみえることでしょう。にもかかわらず、1. で議論したように、演繹的(にみえる)推論がもつ結論の強制性によって、パッと見無関係な前提と結論のつながりを認めざるを得ません。これが意外性につながります。桶屋が儲かるでも九マイルは遠すぎるでもなんでもいいですが、論理性と意外性を結びつける古典的な方法のひとつです。

2-b. 前提の(再)検討

 さきに演繹的な推論は諸前提の真偽を問うことで反論の余地があるといいましたが、文学的に論理的な推論は登場する単語の定義が明確でないため、これを逆用して前提の真偽を問います。

 たとえば、
「ある現場は密室であった。すべての密室は脱出不可能である。ある現場は脱出不可能であった」という推論があり、そのせいで犯行が可能だった人物が存在しなくなってしまったとしましょう。この場合探偵がやるべきことはなんでしょうか?

「ある現場は密室であった」という大前提を否定することです*8。たいていの場合、密室の定義を定めていないでしょうから、トリックの解明などを付け加えることで「ある現場は密室ではなかった」が真であることを新たに示せばよいのです。

 作者の書き方に誘導されて自明だとおもっていた前提が覆されるわけだから、とうぜん意外性があります。これもまた古典的な意外性の演出といえるでしょう。

 さて、この「前提の(再)検討」で行われているのは、論理的な操作ではありません。具体的にここで行われているのは、「密室」という単語の意味するところの解明です。これは根本的に論理的な操作ではないのでじっさいなにをやってもいいわけですが、だからといって、解決編にいたってとつぜん新事実が追加されたり、特殊な知識を要したりするのはアンフェアとみなされる危険が高いです。

 

3. 競技性

 アンフェアではなぜいけないかというと、それが競技性要件に反するからです。理想的な読者は犯人を指摘することが可能でなければなりません。が、かといってそれが著しく容易であってもいけません。
競技性要件ははなはだ心理的なもので、明確に定義することは難しいですが、およそ以下のような要素から構成されるでしょう。

a) 公正性(消極的要件)
b) 難易度(積極的要件)

3-a. 公正性

 およそ世の中で論理的でないといわれている犯人当てのほとんどは公正でないだけだとおもいます*9。では公正さとはどのようにすれば担保されるのか。必要なすべての情報を読者に提示することで担保されるでしょう。

 さて即座に問われなければならないのが「必要なすべての情報」と「提示する」の実態です。

 もちろん、犯人を特定する推論に登場する前提を構成する証拠はすべて提示されている必要があるでしょう。また、1., 2. から、探偵あるいは読者が行う推論は前提の(再)検討を含みますから、その再検討の材料となるべき証拠も問題編の段階ですべて提示されているべきです。

「提示する」とはどのような意味なのでしょうか。「被害者がカレーの匂いに気づかず、なにを作っているのか確認しようとして料理中の鍋を覗き込んだ」という情報が地の文に書かれていたら、それは「被害者は嗅覚障害者である」という命題を真とするに足る記述でしょうか。そうでしょう。これはかなり(巧妙ですが)直接的な記述です*10

 では、あることを記述しないことで、それが存在しなかったことを証明するのはどうでしょうか。

 たとえば、「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた」という情報から「財布から何者かが金を抜き取った」という命題は導き出せるでしょうか? それで物取りを疑い始めた警察に探偵が「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた、つまり持ち主以外の第三者の皮膚片などは入っていなかった、よって金を抜き取った何者かなど存在しない」と推理を披露したらどうなるでしょうか*11

 ということで、公正な証拠の提示方法には一定の基準が求められるでしょう。ただ、その基準の探索はもはや論理学ではなく、認識論(知識論)に譲るべきでしょう。(古典)論理学における結論は真偽の二値ですが、認識論にはグラデーションがありますから、「この作品は〝ある程度〟論理的である」というような意味不明なものいいをやめて、「この作品における諸前提の認識論的正当化はある程度の妥当性を持っている」というようなきもちのいい言葉遣いをすることもできるというメリットもあります。

3-b. 難易度

 演繹的な外形を持つ推論を作り、必要に応じて認識論的に正当な諸証拠による推論の前提の再検討を行い、より適切な推論を作り上げ、それを繰り返すという、文学的に論理的かつ意外性がありかつ公正な謎解きを作ることができたとしましょう。それでもまだこの犯人当ては理想の犯人当てではありません。そのプロセスがあまりにも容易だったり、至難だったりしてはいけないからです。

 公正性要件を満たすためにはおそらく情報の提示をできるだけ明示的に行った方がよいでしょう。さらに、書かれていない細部はすべて常識(現実世界の常識でも、作品が属するジャンルの世界観の常識でもかまいませんが)と一致していたほうがよいでしょう。

 そのうえで難易度を上げるためにはどうしたらよいか? 方法論としてわかりやすいものが存在したとしたらだれでもベストセラー作家でしょうからここではわかりやすいものしか挙げられませんが、

i. 手がかりを増やす
ii. 手がかりを間接的にする

などは単純で効果的でしょう。

3-b-i. 手がかりを増やす

 容疑者の数が増えれば検討する材料が増え、認知的な負荷で謎解きは難しくなるでしょう。たとえば、ある容疑者がコンタクトレンズをしていたことが犯人特定の重大な情報になる場合、ほかの登場人物の眼鏡やピアスなどについても平等に言及することで焦点となる情報から目をそらさせることができます。

3-b-ii. 手がかりを間接的にする

 さきに意外性を出すために推論を延長するという方法について言及しました (2-a) が、難易度を上げるためにもこの手法は使えます。たとえば、「ある容疑者 A だけがコンタクトレンズをしていた、現場にコンタクトレンズが落ちていた、よって犯人は A だ」というような推理はかんたんすぎますが、「現場の血痕にはその上に膝をついたようなあとがあった、血痕にあとが残るのはそれが乾くまでの短時間のあいだだから、あとを残したのは犯人だとおもわれる、血痕のうえにわざわざあとを残してまで膝をつくようなシチュエーションとして、犯人と被害者がもみあってコンタクトレンズがその拍子に外れたというものしか考えられない」という推理はどうでしょうか*12

 

4. 芸術点

 ここから先は美意識の問題になるでしょう。どのような犯人当てであれば美しいと感じるか?

4-1. 共犯、外部犯、自殺の可能性を否定すること

 犯人当てであればこの辺は自明視するというか、読者への挑戦*13であらかじめ断っておくこともあるでしょう。それでも、できるならば作中の推論でこれらの可能性を消去するような理屈を立てておいたほうがよいとおもいます。

4-2. 別解を用意し、別解潰しをすること

 けっきょくのところ真犯人以外の容疑者は難易度を上げるための道具に過ぎないのですが、別解を用意することでかれらにも存在する意義が与えられます。別解潰しのメリットはやると推理の見かけ上の妥当性が上がることで、デメリットは読者のほうがさらなる別解の可能性の追求に目が行って、その後の推理に求められる妥当性の水準が上がることです。

4-3. 犯人特定には二個以上のロジックを必要とすること

「これこれの条件から犯行ができたのは A だけ、よって犯人は A である」というような積極的な条件ひとつで犯人が一発で特定されてしまうと、ほかの要件を検討する意味がなくなってしまいます。たとえば容疑者が A, B, C, D, E の五人だったとして、「A, B は左利き」かつ「A, D, E がコンタクトレンズをしていた」とき、「犯人は左利きかつコンタクトレンズをしている」ということがわかれば、犯人が A であることがわかるでしょう。4-1 とあわせて、容疑者のスコープを特定したうえで、最低二回以上消去法を行うこと、といいかえてもいいかもしれません。

4-4. 正答への誘導があること

 たとえばハウダニットを追求するとフーダニットが解けるというのはシンプルながら王道パターンでしょう。じっさいに読者がどのような順番で推理をするかはともかく(こいつが怪しい、こいつが犯人だとしたらこうやったに違いない……という手順で解くパターンのほうが多いとおもいます)、理想解では推論 A の結論を前提として推論 B があり……というような形になっていると美しいとおもいます。

 

 

 

 

 なんだか考えていることをだらだら書いていたらあたりまえのことばかり書いてしまった気がします。とはいえ、これをすべて満たした犯人当てを書くのもそれはそれで至難のこととおもいますし、むしろ独創的なトリックや魅力的なキャラクター、奇抜なプロットを思いつく方がよっぽど重要かもしれません。それはそれとして、本格探偵小説のいちばん根っこの部分について考えていることをまとめるのもそれはそれで無駄ではないかなというきもする。みんなもじぶんだけのさいきょうの犯人当てを書いてみよう!

*1:A is B かつ A is not B ではありえない。

*2:A is B は真か偽のどちらかである。

*3:アリストテレスやさんのことばづかいでいえば第二格の Baroco です。

*4:「すべての犯人は左利きである」という文章に不自然さを覚えるかもしれませんが、「犯人であれば必ず左利きである」くらいの意味だとおもってください。

*5:もちろん、先の事件の犯人は今回の事件の犯人であるという大前提を付け加えることができるならば前者も演繹的な推論になりますし、神託の告げるものはすべて犯人であるという大前提を付け加えるなら後者も演繹的な推論になります。じっさいそういうことをやってるミステリもないわけではないでしょう。

*6:第二格 Cesare

*7:「¬右利き=左利き」ではない(両利きもある)ので、「すべての左利きでない(右利きあるいは両利きの)人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は左利きでないことはない(左利きである)のほうが妥当でしょうね。それにしたって右利きあるいは両利きにもかかわらずマウスの左右を反転させてるひともいるかもしれませんが。

*8:ほかにも、「脱出不可能な現場で殺人事件を起こすことはできない」という次の推論の前提となっているであろう命題の真偽を問うこともできます。たとえば遠隔殺人、機械殺人等の可能性を提出することで。

*9:ほんとに作中の推論が古典論理などの既存の論理体系の構文論からして破格で非論理的である可能性もありますが。たとえば「左利きでない人間はマウスの右左を反転させない」という命題から「左利きの人間であればマウスの右左を反転させている」を導き出したらまちがいです。

*10:ちなみにこれは有栖川有栖『双頭の悪魔』で用いられていた手がかりです。ネタバレかというと、この手がかりが登場し、かつそれが鼻づまりとかじゃなくて嗅覚障害であることが登場人物の口から確証されるのが解決篇より前なので、謎解きのネタバレではないとおもいます。

*11:ここで、適切な中項を導入して推論化すればその論理性を判定できるなどの寝言をいい出さないでください。なぜなら、当該推論も、推論の前提の再検討も、すでにそもそも数学的に論理的ではない、繰り返しになりますが、この推論に登場する概念はあらかじめ十分に定義づけされていないし、することもできない(フィクションの世界は細部の確定性を持たないから)、よって、やってることはさいしょからすべて認識論的妥当性をめぐるライン引きなのですから

*12:書いてて質の低い推理だなとおもいますが、質の高い推理をおもいついたらじぶんで使うので許してください。

*13:よく考えたら読者への挑戦は犯人当てに対してメタレベルですね。