Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

 実家の犬が逝った。2006 年 3 月1 日生まれの赤の柴犬で、十五年とちょっと生きた。名前はジョンといって、これはレノンが由来だが、途中からロックだったことになって、わたしのペンネームもロックから取ることにした。まあ、レノンもロックのジョンだけど。

 そもそも三年くらい前から徐々に心臓を病み、肺に水がたまり、と健康を損なってはいて、そのたびにお医者さんからもらう薬の種類は増えたが、その代わりに薬はまあまあ効いて、散歩も距離を控えて続けていたし、エサもそこそこ食べていた。まあ爺さんだし持病が増えるのはしょうがないな、くらいの気分でいた。わたしとしては病気をきっかけに外飼いをやめて室内飼いになったのが楽しかった。ずっと庭で気楽な一人暮らしをしていた犬はしばらくリビングで居心地悪そうにしていたが、そのうち定位置を作り出して、人間が毛布をかけてテレビをみているとわざとその上に乗ってくるようになった。

 夜中にたまに粗相をするようになったから、リビングの南半分をペットシーツが占めるようになっても、すぐに疲れてしまうから散歩をやめても――もとからそんなに散歩が好きな犬じゃなかったし――、だからといって死ぬかもしれないと考えた考えたことはなかった。けっきょく四本の足で歩いてご飯を食べて、起きてるときは漏らさなければそんなに心配にならないものだし。

 様子がおかしくなったのは今月の 15 日くらいからで、まずトイレに行かせても尿が出なくなった。エサも食べなくなって、水も飲まなくなった。吐くようになった。腎不全だそうだ。というのを、19 日に実家に帰ったわたしは母親から聞いた。勤め人をはじめて数年前に 23 区内で独居をはじめたわたしだったが、犬に会いに毎週末実家に帰っていたのだ。また犬でも揉むか、とおもって帰ったら、母親からもうそろそろかもしれない、と、とつぜん聞かされたことになる。

 その日はまだ危篤というのを実感していなかったとおもう。たしかに帰宅したわたしの目の前で吐いたし、夜中にトイレに出してやったときはふらふらしていたが、これまでも何回か病気になったし、そのたびになんだかんだでまた日常に戻っていったから、こんかいもまた薬が効いて、ちょっと元気を失うけれどもまだ生きていくのだろうとかおもっていた。

 次の日の朝起きてきたらまた目の前で吐いた。腎不全ってどういう病気なんだ? とおもって検索した。腎臓は 25 % 残っていれば機能するらしく、症状がでるということは 75 % 以上ダメになっているということなのだそうだ。また、腎臓の機能は回復しないのだそうだ。ようするにいままでとは事情が違うらしい。心臓病と肺水腫から立ち直った犬が、腎臓みたいななんだかよくわからない臓器のせいで、尿が出せなくなって体に毒が溜まるくらいのことで死ぬなんて信じられなかった。

 ことさらにことさらなことをするのは気が進まなかったから、横たわる犬に一日中よりそって優しく語り掛けたりはしなかった。家族全員そんなかんじだった。仮に死ぬのだとしても、もう 15 年生きたのだから、動じずに送り出してやろうとおもっていた。そうできるとおもっていた。シャワーを浴びていたら、いま泣いてもだれにも気づかれないな、とおもって、その瞬間に涙が止まらなくなった。

 日曜日になって区内の自宅に帰った。もしものことがあったら平日でも帰ってくるか? と両親に訊かれたので、そうする、と答えた。自宅でタンスに服をしまいながら涙が止まらなくなったのでもう一度実家に帰ることにした。べつに実家からでも職場に通えないことはない。

 仕事が終わって家に帰るたびに容態は悪くなっていった。口内炎で口から血を流すようになったし、白く不健康そうな目やにが大量に出た。トイレはなんとしても外でしようとふらふらの足で立ち上がったが、廊下で力尽きて漏らすこともあった。なんといってもわたしが心配だったのはエサをまったく口にしないことで、吐いてる量を考えたら、病気でなくとも死んでしまうのは明らかだった。ちゅーるかなにか、あるいは点滴とか、そううろたえるわたしを横目に、母親は「食べたくなかったら、食べなくてもいいよ」といいながらジョンをなでていた。心の底から道徳的だと思った。うちの両親の実践理性は、そのはたらきかたを知悉しているからこそうまく働くタイプのものではなかったが、かといって原理を知らぬままに微分積分の小テストに完答する高校生のようなしかたでもなくて、なんど放っても的に当たる達人の矢のようにかならず正しくふるまうのだ。

 22 日に桜が満開になって、職場の前の道路の桜の写真を見せてやった。数年前のちょうどこのころ、わざわざいつもの散歩コースとはちがうコースをたどって、近所の体育館の裏手の桜並木をみせてやったことを思い出した。24 日はわたしの誕生日で、朝起きたとき犬がまだ生きていたので安心した。数値はまったくよくなっていなかったが、対症療法としての各種の薬が効いているのか、静かに寝ている時間も多かった。このままあと一か月くらいいられるのかな、とおもっていたら、金曜日に帰ってきたときは起きようともがいて立ち上がれないみたいだった。深夜にはタール便が出た。

 今朝、わたしが昼頃に起きてくると、姉が犬の前足を握っていた。痙攣が止まらないようだった。大丈夫? と声をかけながら頭をなでていてやったら、その数分後に動かなくなった。正午ちょうどだった。苦しみのときが短かったことだけが幸いかもしれない。犬は隠しきれなくなるまで体調不良を隠すというから、もっとずっと苦しんでいたのかもしれないが。それでも逝くときは眠るようだった。

 誕生日を待ってくれたんかな、起きるまで待っててくれたんかな。あんまり撫でられるのが好きな犬じゃなかったが、耳の後ろだけは嫌がらずに触らせたから、そこばっかり撫でてやった。お疲れさまとありがとう以外の言葉はでてこなかった。死んでも驚くほどかわいかった。毛布にくるんで、抱いて車にいっしょに乗ってお寺まで行った。ぐうぜん空きがあって、すぐに焼いてもらえた。お経もあげてもらえた。骨壺のなかに収まっている。お寺の駐車場では境内の桜が散り始めていた。ちょうど釈迦や西行とおなじころに死んだわけだな、とおもった。

 お骨はしばらくしたら床の間に置いてやろうとおもうが、いまのところリビングのれいの定位置――南東側の隅――に置いている。スマホをいじりながら、風呂から上がって髪の毛を乾かしながら、利き手とは反対側の手が一瞬犬を探して空中をためらった。

 二千回は毛をむしり、五千回は散歩に行き、一万回はエサをやった犬がいないというのはやっぱりいまでも信じられない。そういえばジョンが家にきたときに、業務用の六千枚つづりのポリ袋のロールを買った。あまりにも太くて、これを使い切るのなんて無理だと思った。それでも、あまりに太いそのポリ袋のロールをみながら、糞を拾ったり、むしった毛を入れておく用で、およそ平均して一日に一枚使うわけだから、これを使い切るころにはもう寿命だということだ、というようなことをうっすらと考えた。さっきみたらそのフェルミ推定はおよそ正しくて、のこりは数十枚くらいになっていた。

 とにかく眠るのが好きな犬だった。名前はなんでもいいが、死後の世界というものがあって、そこはわれわれの住んでいる世界よりもよっぽどすばらしい場所で、あらゆる苦痛から解放されていて、そこではジョンが幸せにずっと大好きな昼寝を続けているのだという紋切り型の観念が、ここまで心を安らかにするとはおもっていなかった。

 ケイタイをスマホに変えた時からすべての写真が Googleクラウドにかってに保存されているから、2009 年からはすべての写真がカメラロールに残っている。まだふわふわで暖かい匂いがしたころの写真をみながら、焼きすぎたチーズケーキみたいな色をした、四本足の、わたしの唯一の友だちのことを考えている。