Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

去年書いた小説について (2)

まえのやつの続きです。

 

桐始めて華を結ぶ

結華って「推しに一早く認知されること」が特技らしいです*1。その割に結華のことを知っているアイドルの描写ってあんまりありません。美琴も結華のことを「認知」はしてないみたいですし(「アイドル同士の会話:美琴→結華」)。原作でそういうエピソードが回避されてるのは、そんなの書いたらややこしくなりそうだから、というのが大きいんでしょうが、じゃあややこしいことに、するか……となっていろいろ考え始めました。

 ところでわたしはあんまりアイドルとか配信者とか、ようするに生きている人間という形のコンテンツを熱心に推した経験が(あまり)ありません。でもそういうの推してるひとはまわりにけっこういて、しかもだいたい死ぬほど楽しそうで、死ぬほど苦しそうでした。

 理由は明らかで、趣味はいつか飽きるからです。わたしは小説が趣味でわりとずっとやってますが、それでもあんまり読まなくなったジャンルとかやっぱりあります。

 さて、人間は小説よりタチが悪くて、昔はよかったのにいまの芸風は嫌い、とか、パフォーマンスはいまでも好きだけどスキャンダルで炎上して……とか、そういう理由でもかんたんに冷めることができます。そういうのがなくてもやっぱり飽きます。人間を愛し続けることは難しいのです。人間にハマることのタチの悪さはまだ続きます。ものに飽きてもそんなに罪悪感ってありません。せいぜい、おなじ趣味を持っていた人たちと、今後どう付き合っていこうかな、となるくらいでしょう。でも人間に飽きてしまったら? アイドルも木石にあらねば――もう好きでいてあげられなくてごめんね、どうしてもそうなるんじゃないでしょうか。罪悪感に終着しない好意がこの世にいったいどれだけあるでしょうか。

 そういうわけで、ヤフー知恵袋をちょっと検索すれば冷め期を迎えたかわいそうなオタクの鳴き声が無数に出てきます。好き嫌いやたぬきはとんでもない勢いで書き込み数を伸ばします。やはり、ひとびとは推し事からとんでもない量の苦しみを得ているようです。

「推しは推せるときに推せ」みたいなフレーズが一時期流行りました。これが「いま好きなアイドルもいつ卒業したりグループが解散したりするかわからないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、「あなたの推したいという気持ちがそもそも永遠ではないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、わたしはよく知らないのですが、どちらの意味だったとしてもずいぶん悲しい格言です。

 こんな悲しい世界で、ひとはどうして推しに認知されたがるのでしょうか。いつか飽きたとき、もっと苦しくなるだけなのに。  事態は逆で、認知されたいと思ってしまうほどの愛が、いつか衰弱して消えてしまうほどに、それほどまでに飽きの力は強大なのでしょうか。結華はオタクとして生きてきて、そんな「飽き」の強大な力に晒され続けて、すこしも歪まなかったのでしょうか。

【NOT≠EQUAL】の結華はこうして好きであること、好きになることに臆病です。彼女が選んだ(ひとまずの)結論は、立場に由来する関係でした。アイドルとプロデューサーという関係であれば、すくなくともコントロールが効きます。結華がアイドルを全うする限り、プロデューサーとしてのかれは傍にい続けるはずです。ただ、その立場はすでに同カードの TRUE END「……頼ってもいいですか?」でまっさきにほころびをみせるわけで、ようするに結華はこわごわと咲くタイミングをうかがっているつぼみのようなものなのでしょう。

 なにかを好きになってもそれが続くとは限らないこと、それでもなにかを好きになってしまうこと、そのジレンマをどうしたら癒せるかは――むずかしい話だと思います。いまのところ、わたしはああいうことを考えています。きれいごとに騙されたり、目を覚ましたりしているうちに人生は終わるのでしょう。

 れいの四字熟語については名前をみた瞬間からわりと思いついていました。出身も福島で、福島といったら会津桐ですしね。結華の出身が福島のどこなのかって議論はありますが――アニメイトのある郡山だろ説とか――ここでは都合よく捏造しました。すみません。

 

聴こえなくても鳴っている

 透といえば生物デッキと五感だなと思ったので安直に行きました。いうほど安直か?

 ところで五感とその対象の存在論的身分については現象論的立場と実在論的立場があると思いますが、透のシナリオにおいて意識されてるのは明確に外界の対象についての実在論だと思います。というのも、【10 個、光】「2 こめ」において、透はバスの停車ボタンについて「昼光ってるものって 見えないんだね 夜なら見えるのに」と述べています。それに対してプロデューサーは「もう光ってるもののこと―― 昼の間も、ちゃんと光ってるもののこと」の話をします。こうして透は現象ではなく、現象の向こうにある(はずの)実在――それは一番星だったりセミだったりミジンコだったりしますが——に目を向けるようになります。

 というような話を視覚じゃなくて聴覚でやりたいなと思ってできたのがこの話です。ただおなじ話をしてもしょうがないので、存在論の話を無理やり存在感の話に拡張しました。透と聴覚の話はおもに【つづく】で行われていますが、『海に出るつもりじゃなかったし』第 2 話「風のない夜」で透がいっていた、「どれだけ先の音も伝えられる 透明な空気」というセリフも見落とせません。音が実在と現象を仲介するメディアであるなら、音のメディア(媒質)である空気は透明でなければならない、音は歪んでいてはいけない――そんなニュアンスがかんじられますね(もちろんぜんぶ妄想です)?

 さて、ノクチル、とくに透は透明感をモチーフにしていますが、にもかかわらずキャッチコピーは「さよなら、透明だった僕たち」です。いつか透明でなくなる媒質は、透の音を歪ませるでしょう。そのときに歪む音は、でもポジティヴなものだろうなと思いますし、そうであるべきでしょう。

 悪ふざけみたいな萩原朔太郎の引用はべつに空中からでてきたわけじゃなくて、【途方もない午後】「所感:」で「とーるくん、とーるくんって 音みたいな感じで……」といっているように、透がじぶんの名前の響きそのものを弄んでいたらいいなと思ったところからでてきました。やっぱりほとんど霊感じゃん! すみません。

 語りが現在形なのはいちおう理由があって、透はへんな語順でしゃべるわけですが、あれはべつに正文があってその語順を入れ替えてるわけではなくて、あの通りにリアルタイムに単語が浮かんで、そのまま並べているんだろうな、と考えると、透の主観は現在時制が支配的なんだろうなという、そういうところからきています。まぁ日本語のル形/タ形って必ずしも現在/完了じゃないんですけどね。あとは透の名前がそもそもル形だから。というとさすがに与太すぎますが。

 

 

いつか壊れるしかくい祈り

 人間は一日で小説を書けるのかチャレンジの成果として生まれた産物です。大晦日の AM 2:00 にとつぜん小説を書きたくなって、元旦の AM 1:00 に完成しました。じゃっかん間に合ってないのがご愛敬だね。摩美々のやつ書いてたときは、ほとんど毎日数時間くらいかけて、それでも一か月まるまるかかったことを考えると、だいぶ手は早くなった気がする。

 お正月といえば小糸ちゃん、ということで小糸ちゃんを出すことはすぐに決まって、まぁノクチルのみなさんがワイワイいってれば書きやすいだろうということも決まって、初詣に行かせて、女連れの P でも目撃させるか! となりました。『明るい部屋』のパクりっちゃパクりですが、ノクチルのひとたちってそう素直に脳を破壊されてくれなさそうですよね。

 タイトルは【思い出にもならない】「いつか忘れる本の題名」からです。わたしはこの【思い出にもならない】がぜんぶ好きすぎて、それは小糸が「当たり前」が「当たり前じゃない」(『今しかない瞬間を』)ことを自覚していることがはっきり伝わってくるからなんですが、じゃあなんでこういう話を書くんですか? すみません。

 頂点が移動する四辺形というアイディアは Vi ノクチルを手持ちで組もうとしてリンクアピールの経路を書いていたら思いつきました。ただ、その頂点の移動は自由なものではなくて、なんらかの制約があるはずで――そう考えたら、やっぱり円周上にあるのかな、と、これまた安直ですが思いつきました。原点 Origin と点 Point はまったくべつのものであることに小糸が気づいていることに気づいてくれた読者がいて、わたしはいい読者に恵まれているなぁと思いました。ちなみにノクチルは偶数ユニットでセンターがいないという理由で原点は O であって C ではありません。

 あとアングレカム花言葉は「祈り」「いつまでもいっしょに」です。まぁ、べつに、それはどうでもいいんですけど。

 

 

 

 

 今年もいろいろ書けたらいいなと思います。よろしくね。

 

 

 

 

*1:公式プロフィールの「特技」欄って、いちおうあの世界での公式プロフィールらしく、たとえば灯織は透の特技が「人の顔を覚えること」であることを知っています(「アイドル同士の会話:灯織→透」)。それを考えると結華がプロフィールでこういったことを書くとは思えないのですが、まぁ初期は公式プロフィールの扱いとかがそう定まっていなかったのでしょう。