Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

ウィリアム・ギャディス『JR』と四角のうちにすむ芸術家たち

——三年がかりで模索し洗練し修正し拒絶し選択し続けてできあがった文章が、
あかの他人に、三十分にも足らない時間で、味わわれたり、読まれたりする
ポール・ヴァレリー

 

JR

JR

 

  

 ウィリアム・ギャディス『JR』は特徴的な文体の小説だ。その叙述の特徴を見、それがどのような方針に基づいているのかを確認しよう。その方針はどのような問題意識から要請されているのかを考察しよう。そしてその叙述の特徴は物語内容となんらかの関係を持つのか、持つとすればそれはどのようなものなのかをみてみよう。

 

1. 特徴

・ほとんど会話文から構成されている。(F1)
・間投詞、言い間違い、繰り返し、口癖、口ごもり、等、現実の会話では普通に見られるが小説では通常刈り取られてしまう表現の多用。(F2)
・改行、カギカッコ、省略形のピリオドといった発音されない記号の忌避。(F3)
・場面転換を登場人物の移動や電話によって行う。(すべてのシーンは空間、時間、登場人物のいずれかによって前のシーンと連続する。)(F4)
・地の文(としてみなせる)描写では「ものや人の動き」などが、誰が書いても同じようになる文体でごくわずかに書かれるのみである。(F5)

2. 方針

・物語世界内の音声をメインに描写を組み立てること。(P1
・音声によって説明できないことはいわゆる「地の文」によって説明してもよい、ただし、物語内、物語外の「語り手」の存在を想起させるような表現は廃する。(P2

 
 まずは特徴と方針を列挙した。以下で少し詳しく説明する。

 P1 について。物語世界内の音声*1とは物語世界内の登場人物が聞き得る音のことである。そして、P1 の徹底から F1~F3 が出てくる。

・小説という物語世界内において音声はほとんど会話であることから、会話文が主体となる。(F1)
・聞こえた音声はそのまま*2文字にされる。(F2)
・「ジェイアール」という発音を J. R. と記述したとしたらそれはたとえば「ジェイアール」を「J からはじまるファーストネームと R からはじまるミドルネームが省略された愛称として認識する」という解釈が(どこかで)行われていることが含意されてしまう。「ジェイアール」という発音だけからでは J. R. という表記は導くことができない。こうして非音声的な記号は極力退けられる*3。(F3)

 P2 について。物語世界内の描写は 基本的に P1 に基づく音声的な描写でなされなければならない。そのため、ほとんど会話文だけであらゆることを描写するためにいくつかの特徴が出てくる。

・発話者を示す「――と○○は言った」のような標識はもちろん書かれないため、そのままでは無意味な口癖や間投詞が発話者の特定に用いられる。(F2)
・大きな出来事ですらその事件が起こっている場面を直接描写されず、事後的に登場人物が話題に出したタイミングで読者に情報が与えられることがある。(F6
 そして、たとえ会話文だけで描写することができない場合補助的に地の文が用いられるが、この地の文は限りなく透明な*4ものでなければならない。
・場面転換が登場人物の移動や電話のコールなど、「物語世界内で起こること」に付随して行われるのは「語り手」が「場面転換」という行為を行うことができないためである。(F4)
・地の文におけるすべての文は単純な構文の命題で表され、モダリティ*5表現は用いられない。(F5)

 

3. 問題意識

  さて、ではなぜ『JR』はこんなややこしい*6文体を採用したのだろうか。ポストモダン文学だから?
 たしかに錯綜した文体がエントロピーうんぬんを表している*7みたいな観方が無効なわけではない。ジャック・ギブズは熱力学第二法則を説明しながら物語に現れる。というかエントロピーといえばピンチョンだし。とはいえ、小説が閉じた系かどうかはよくわからない*8し、そもそも文体のエントロピーってなんなのかもよくわからない*9。作家ギャディス自身にそうした意図があったとしても、あまり面白くない隠喩なのでここでは取り上げない。
 あるいは、この文体はそのままアメリカの現代の喧噪や金融業界を表現しているとする意見もある。こちらはまだ有望な見方だ。

 しかし、ギャディスがこんな文体を用いたのは積極的になにかを表現するためでなく、むしろこうすることしかできなかったからではないかと考えたほうが納得がいく。ギャディスはふつうに小説を書くことに耐えられないのだ。そのことを確認するために以下かなり遠回りをすることになる。


3.1 全知の語り手を殺す―—フローベール

 いきなり文学史の話になるが*10、小説における文体はディエゲーシスからミメーシスへと移行していったという歴史がある*11。そもそもディエゲーシスとミメーシスとはなにか、説明すると逸脱がひどくなるので註で簡単に説明するにとどめる*12が、ディケンズのような典型的ディエゲーシス優位の文体を破壊するために19世紀後半からの作家たちはさまざまな手法を開発した。

 全知の語り手たる作家が自由に場所や時間を移動し、あらゆる登場人物の心中に立ち入って、物語世界をなめらかに語り尽くす。19世紀前半までの小説とはそういうものであった*13。この時期までの作家にとって語り方 discours は物語 histoire を伝えるための手段にすぎない。

 とはいっても、地の文で「かれは……と思った」と書いたその数行後に「彼女は……と思った」と書けるお前は何様なのだ?
 語り手の都合で物語世界を語らせないこと。そのためには、語られるべきことを物語内にある材料で表現しなければならない。19 世紀後半からの作家たちにとって、新しい語り方の開発が急務であった。

 こうして、地の文に作中人物の視点を溶け込ませるために発明されたのが先の注の中で言及した自由間接話法だ。

 芳川泰久訳『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、2015)の訳者解説では

階段に足音が聞こえた、レオンだわ。

という文が自由間接話法の例として挙げられている。自由間接話法が用いられているのは「レオンだわ」の部分である。この「レオンだわ」は全知の語り手による物語世界内事実の描写ではなく、ボヴァリー夫人がそう思った、という情報である。
 これのどこが文学上の技法の一大変革なのか。それは情報を登場人物の視点から制御するようになったことである。
 日本語だと直接法のセリフをただ地の文に紛れ込ませただけのようにしか見えないが、フランス語原文では地の文の語りと時制が一致しているのがわかる*14。三人称を用いて語られる地の文が、ボヴァリー夫人という作中人物の視点による情報量の制約を受けるのである。
 この場面でエンマは部屋の暖炉のそばで夕食を食べているので、階段の足音を聞いた時点ではそれがレオンであると確信することはできない。これがもし「階段に足音が聞こえた。レオンだった」と書かれていれば*15、それは神の視点がエンマの知らない情報を語っているということになる。小説をじっさいに自分でも書いてみればわかる。そういった書き方をすると、というか、していることに気づくと*16、なぜか気持ちが悪くなる。

 なぜわれわれは全知の語り手を物語から追放したいのか。全知の語り手がすべてを知ったうえで、読者にとって知る価値のある情報をかれの望む順序で与えることによって物語世界を想起させるというやり方は、物語世界の語り手に対する従属を意味するからである。
 小説を読む人間は当然それが作り話であることを知っているが、それが作り話でないと信じているフリをしながら読んでいる。物語世界のリアリティを信じようとするその努力を無駄にするのが全知の語り手による説明的な描写なのだ。全知の語り手が物語世界をディエゲーシスするごとに語り手の作為性や編集が鼻につくのなら、物語世界内の声に語らせる=ミメーシス度を高めることで抗うしかない。

 

3.2 全知の語り手を殺したら――ジェイムズ

 全知の語り手の亡き後を語る前に少しだけもっと過去のことを見ておく必要がある。
 実は、19 世紀的な全知の語り手による三人称小説というのは 18 世紀までの一人称の報告体による小説へのアンチテーゼとして生まれたものだった。一人称の報告体小説というのはつまりロビンソン・クルーソーを想像すれば早い。そこでは語る人物が視点人物であり(事後的な報告だから物語世界内の時間と語りの時間にずれはあるが)、先に説明したような物語世界のリアリティを損なうような陥穽はない*17。ではなぜ作家たちは全知の語り手による多元的三人称の語りを生み出したのだろうか。
 話は単純で、一人称小説では書けることが私的なスケールにとどまるからである*18

 というわけで、先述の全知の語り手が物語世界の実在性を脅かすことの解決策として、ただ過去の一人称小説に回帰することはできない。
 そこで現れたのが自由間接話法なわけだが、作家たちの創造性はさらに次の手を繰り出す。たとえば意識の流れがそうだ。自由間接話法を取り入れて発展したこの手法では個人の意識を書くことそのものを主題化した。というより、個人の意識を書く手法を主題化した。

 ここではモダニズム直前の作家、ヘンリー・ジェイムズを取り上げよう。「メイジーの知ったこと」である。

 メイジーは幼い女の子で、両親は離婚したが互いに親権を譲らない。そのためメイジーは半年ごとに両親の家を往ったり来たりするという複雑な生活を送る羽目になるのだが……というあらすじの小説だが、あらすじよりも重要なのはこの小説の地の文がメイジーの視点から書かれていることだ。とはいっても、六歳の女児の語りによる一人称小説という意味ではなく、この小説の語り手はメイジーの視点から物語世界を語るという意味である*19
 三人称を用いて書かれた小説で、かつ物語世界内の一人の人物の視点、情報を用いて語るという手法は 19 世紀の小説の語りを超えるものだが、「メイジーの知ったこと」の面白いところはその手法を主題のために奉仕させたところにある。
 物語のはじめのメイジーは六歳児なので当然その現実認識や価値判断は大人のように判明ではない。そんなメイジーを視点に据えることで大人たちの汚い欲望渦巻く世界を相対化し、思いっきり皮肉を利かせることができる。愛憎渦巻く世界を、その愛憎からもっとも離れた登場人物から描くことがジェイムズの目論見であった。そして、この小説は当然メイジーが「知る」ことで変化するという話でもあるが、これも視点を固定することによって成功している。

 

  まとめよう。あまり紹介するといくら時間があっても足りないので割愛するが、ジェイムズやそのあとのモダニズム作家たち*20は 19 世紀的な小説の語りの節操のなさへの批判から、語り方のスタイル、形式に強烈な執着を見せた。かれらが物語るときは、「誰が」「どこから」「なんの資格で」語っているのか、常に自覚的であったと言っていい。
 全知の語り手が成形した物語世界は消え、「誰か」の視点から物語世界を描くことが可能になった。しかも、えてして説明的な(ディエゲーシス度の高い)心理描写は抑えられ、物語世界に現れた素材(セリフ、身振り)からそれを推察させたり、三人称の語りに自然と物語世界内の人物の内心を溶け込ませることで、かなりの程度小説から「作り話」感を味わわせるような興ざめは消えた、はずだった。

 
4. そして物語世界が歌い出す

——くそ、問題は声に出して書かれる、、、、ために読まれた、、、、文章じゃないってこと。(744 ページ)

 こんなに物語とその語り方は進歩したのに、ギャディスはまだ気持ち悪さを覚えていた。かれの目にはそれまでの文学における語りがすべて嘘に見えている。
 語り手が存在する限りこの気持ち悪さは消えそうにない。語り手はどうやったって物語世界内にある素材から自由にそれを取捨選択し、配列し、加工し、編集する。さきの「メイジーの知ったこと」の例で言えば、たしかに物語世界の語り手はメイジーの視点からつつましく自らの判断を交えずに物語世界を描いている。しかし、メイジーの見聞きしたものからテーマに関連するものを選んで記述したこと、そもそもメイジーの視点を採用したこと、文章表現上に直接現れないところに語り手の権力は依然強く働いている。
 文学はその表現の細部でディエゲーシスすることをやめ、ミメーシスするようになってきたが、小説全体の構造としては相変わらず物語世界をディエゲーシスするなにものかがいる。ギャディスにはそれが耐えられなかった。
 ギャディスの頭の中に物語世界はある。この物語世界にそのまま語らせたいというのがギャディスの願いだった。語りの作為性から逃れたがるギャディスの潔癖な戦いがはじまる。
 物語世界にそのまま語らせたいのであれば、盗聴器と隠しカメラ*21を使うのが一番である。こうして『JR』の語り手(そう、どれだけあがいても語り手は存在するのだが)は『JR』の物語世界における舞台のそれぞれに盗聴器と隠しカメラをセットし、マサピーカ郊外のバスト邸からその録画と録音を再生し、息をひそめる*22。以降この語り手はシーンを移動するわずかな瞬間のみ顔を見せることになる。

 盗聴器は物語内の音をすべて録音し、再生する。語り手は手を加えずにそれを文字に移す。注 3 のようなルールも使えば、声を文字にするのはそんなに難しくない。小説というのは単線的な表現形式なので、一度に描写できるのはどうしても一場面である。そのため、場面は移動する必要があるのだが、F4 のように、物語世界内の人物の移動や電話によってこっそりと場面移動を行うことで、語り手の都合によって場面が切り替えられた、という印象は極力抑えられる。
 ある場面で語るべきことをすべて語ったら、改行を挟んで、「別の日……」式の場面転換は語り手の強権の乱用に他ならない。ギャディスは視点移動においてすら、語りの内的論理より物語世界の秩序を重んじた。
 さすがに音声だけでは描写しきれない*23ので隠しカメラも使う。ただし、そこに語り手の主観的な評価はさしはさまず、誰が描写しても同じになるように、「○○が××した」とだけ描写する*24。価値語でない、客観的な形容詞や副詞は用いてもいい。

 ところで、なぜ視覚情報より音声情報を優先するのか。答えは音声情報のほうが文字列に変換する際の齟齬が抑えられるためである。

 発話するという行為それ自体は「音を出す」行為である。発話された「音」は高低や強弱などのイントネーション、声色、話すスピードなどの文字列に移し替えられない要素を多々持っているとはいえ、われわれが発話するときに想定されている「音素の並び順」そのものはアルファベットによって完全に写し取ることができる*25
 ところが、視覚情報は一度抽象されないことにはまず文にすることができない。今あなたが見ている景色そのものを文章化することを考えてみてほしい。いや、あなたは今わたしのブログを読んでいるのだが、視界の端にはモニタのベゼルが移っているかもしれない。机の上には『JR』もあるはずだし、この本は大きいから視界に入っている可能性も高い。それなのに、あなたはいま見ている景色を「わたしはいま『JR』について書かれたブログを読んでいる」とだけ表現するかもしれない。しかもこの表現には無数のヴァリエーションがありうる。この記事を読んでいないなら、「『JR』について書かれたブログをモニタが表示している」と書いてもいい。結局のところ視覚情報の文章化はそれを抽象化して語る人間の当座の関心によって大幅にぶれるのだ。

 そのため『JR』の語り手は、よりミメーシス度の高い音声情報に重点を置き、視覚情報はあくまでその補助として用いることを決めた。音声情報によって物語られる物語世界の補助という目的に限れば視覚情報の文章化にも一定の制約がかけられる。

 強烈なまでのミメーシスへの欲求、と、いうよりも、語ることへの忌避感がなければ、こんな特異な叙述形態にはならなかったということが理解できるだろうか。 

4.1 補足 

「地の文が視覚情報を「○○が××した」という形式で描写するのならば、それはディエゲーシスではないのか?」という疑問は当然であるが、ここで「○○が××した」という文がミメーシスである会話文の補足という性質を持っていることを考慮してほしい。物語世界内で起こっている無数のことから語り手の判断によって抽象、把握され、語られた文であればそれはディエゲーシス度が高いと言えるが、『JR』における「地の文」は事情が少し違うことがわかるだろう。もちろん完全なミメーシスではないが、完全なディエゲーシスでもない。

 

 5. 『JR』の物語世界

  ここまで『JR』の叙述の特徴とその方針、背景にある問題意識を見てきたが、これでやっと『JR』の物語世界そのものについて話をできることになる。

 さて、『JR』の叙述の特異さがじつはなんらかの積極的表現を追求する実験というよりも、ギャディスの潔癖が要求するものであったといちおう結論しているわけだが、潔癖が要求したというだけでこんな文体の小説を書かれても、ただちにそれが美的な価値を持つわけでは全くない。ギャディスの潔癖をよく表現しているから美なのだとするのであれば別だが*26、この表現様式は当初の目的とは別のところで積極的な意味を持つようになったと考えた方がひとまず有益であるように思える。

 では『JR』の主題は? 金と芸術だ。

 

5.1 文学史と金

 なぜ文学は金の問題を扱うのだろうか? もっと深い人間理解に到達するために、たとえば愛のことだけ書いたらよいではないか。それでも作家たちは執拗に金の問題を描写し続けた。
 リアリズム作家にとって金銭の問題を描くことは現実世界とそこに生きる人々を写し取るのに必須だったし、リアリズムや自然主義者たちの手法がモダニストたちに否定されたところで、当のモダニストたちが金銭の問題を好んで描いている。

 なぜ金か? わたしは昔から文学作品において登場人物が金の話をするシーンを見ると興奮してしまうところがあった*27ボヴァリー夫人がルルーに金を借りる描写は何度も繰り返され、しかもそのやり取りの細部への執関心は執拗としかいいようがない。ゾラの『獲物の分け前』なんかはそのまま 19 世紀半ばのパリの経済ゲームを主題にしている。ヘンリー・ジェイムズの後期作品、とくに『黄金の盃』はアメリカの富を扱っている。ヴァージニア・ウルフなんか作品どころか本人が年収 500 ポンドを欲しがっている。日本文学でも事情は同じだ。夏目漱石はとくに金銭の貸し借りに執着した作家だ。『三四郎』では「三四郎、美穪子、宗八」の三角関係より「三四郎、美穪子、与次郎」の三角関係(つまり三四郎は与次郎に金を貸し、そのため金がなくなった三四郎は美穪子から金を借りる)のほうがよっぽどエロティックだ。三四郎は美穪子に三十円の借りがあるが、そういえば西洋文明の根幹にはれいの銀貨三十枚分の借りがあるのであった。

 金の貸し借りのあるところには人間同士の強い結びつきが生まれる。その結びつきは愛情や友情、あるいは敵意などの感情的なものからくる結びつきよりよっぽど強い。作家たちはそれに気づいていたからこそ、むしろ金銭的な力関係を軸に人間関係を描けると考えたのではないか。
 ロドルフは平然とボヴァリー夫人を捨てることができた。その絆がたかが恋愛であって、金銭でなかったからだ。反対に、ルルーとボヴァリー夫人の結びつきはロドルフとボヴァリー夫人のそれの何倍も強い。結局のところボヴァリー夫人が破滅するのはルルーのせいなのだ。

 しかし、愛よりも金のほうが重い、この事実にいち早く気づいたのはリアリズムを待つまでもなく、まずゲーテその人だった。
 H. C. ビンスヴァンガーは『金と魔術*28』の中でゲーテの『ファウスト』が「近代の経済現象の本質は錬金術的なものである」というテーゼの元に構成されていると主張した。

 錬金術は二つの目的を持つ。一つ目の目的はエリクサーを作り出し、永遠の若さと長寿、精力を生み出すこと。二つ目は固体の金を作り出すこと。
 戯曲『ファウスト』は周知のとおりファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの賭けをめぐる物語である。メフィストーフェレスの勝利条件はファウストを心の底から満足させること、その人生最高の瞬間に対して「とまれ、お前はいかにも美しい」と言わせることである。
 かくして『ファウスト』の第一部は錬金術の一つ目の目的に対応する。メフィスト―フェレスは永遠の若さ、長寿、精力をもったファウストがグレートヒェンとの愛の享楽を経験することで先のセリフを言わせようとした。しかしこの試みはもちろん失敗する。
 第二部は二つ目の目的に対応する。地中に埋蔵されたありもしない財貨を担保に兌換紙幣を発行する(!)というきわめて経済学的なあらすじだ。途中を端折ると、結局のところファウストが上記の「とまれ、……」を言ってしまうのは、かれが皇帝から得た土地が繁栄するヴィジョンを幻視したときである*29

 愛の享楽よりも経済的な達成こそを人間が欲求することをゲーテは描いていた。

 

 じつに脱線だらけだが、文学が金の問題を書くことがそれほど奇妙なことでも、邪道なわけでもない、むしろそれが伝統的な素材であることが確認できたとしよう。

 

5.2 『JR』と金

  JR もまた金に取りつかれたキャラクターである。JR のお金もうけは確かに最初はかれの金銭的欲求によって始動されたが、そのあとの展開はむしろ金の動きそのものに JR が引きずりまわされていると言った方がふさわしいようなものになる。JR の金儲けはストックを増やすことではない。フローを拡大し続けることだ。というか、近代以降の経済におけるすべての金儲けはこういう形をとるしかない。そこでは人間が経済を動かすだけではなく、むしろ経済が人間を動かしている。

 JR のひたすら拡大し続ける事業は必然的に周囲の人間を巻き込む。この小説の語り手は前述のように非常に限られた権力しか持たないので、ストーリーを展開させる力が非常に弱い。ギャディスはこの経済が拡大しようとする力を物語の進行に使うことにした。また、エドワード・バストが JR の事業に手を貸すことになったのは金銭の貸し借りが原因だ。経済の前に進んでいく力と、金銭の貸し借りが人を縛る力の二つを用いてこの小説は物語られていく。

  そして、なぜ JR は子どもなのか? 大人が金を求めるときには動機がある(ようにふるまう)からである。JR においては金の流れの自律性こそがテーマであったから、金が金を求めることを表現するためには、まったく無目的に、金をそれが金であるという理由で求める子どもを主人公に据える必要があったからだ。

 

5.3 『JR』の芸術家と金

——して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、
三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
夏目漱石草枕

 

 『JR』のもう一つの大きな主題が、こうした暴力的な現代の経済の中に芸術家はいかに生きているのかという点にあるのは明白だろう。

 『JR』には五人の芸術家が登場する。エドワード・バスト、ジャック・ギブズ、トマス・アイゲン、シェパーマン、シュラムだ。かれらはそれぞれに挫折している。バストは金がないために自分の創作をすることができない。トマス・アイゲンは一度傑作をものしたが、今では生活のためにスピーチ原稿を作成している。シェパーマンは絵を描くために血を売り、金を持っているパトロンに認められずに苦悩する。

 ウルフが挙げた年収 500 ポンドと鍵のかかる部屋という条件を取り上げてみよう。ウルフが述べたのは女性が文学をものするための必要条件だったが、エドワード・バストの創作活動を阻害しているのもこのふたつの条件だ。ただし、ウルフの言う年収が不労所得で、鍵のかかる部屋はプライバシーのために必要だったのに対して、バストが求める年収というのは JR からの賃金やスポンサーからの収入だった。バストが求めているのはプライバシーなどという高尚なものではなく、静寂な自分だけの時間だった。バストの部屋には鍵がかかるが、多くの人間が訪れるし、無数の郵便物が届くし、そもそも鍵がかかっていたところで電話はかかってくる。
 ウルフの時代から数十年、芸術家の要求はだいぶ慎ましくなった。芸術はほかに不労所得のあるものが余暇でするものではなくなり、芸術家は自らの芸術を社会やパトロンに認めさせることで、あるいは芸術とは全く関係のない仕事で生計を立てることを自然に受け入れている。

 そんなふうに世間と経済的なかかわりを持ちながら生活することを受け入れた芸術家たちにとって、世間に自らの芸術を、評価させることは大きな関心事となる。芸術が好評を博し、金銭的な見返りを得ることは、次の創作のために必要なことであるからだ。

 そんなわけでエドワード・バストは JR に芸術の価値を認めさせようとするが、JR にはもちろんカンタータの良さがわからない。映画のために作曲を依頼してきたクローリーは楽器の違いさえわからない。それでもかれらは金を渡してくれる。

 では、『JR』は、美的には愚鈍だが金を持っている層にへつらって芸術の世界に生きようとする崇高な芸術家たちに希望を見出すという筋書きなのだろうか。『JR』のテクストはむしろ芸術家たちにも冷めた目線を注いでいるように見える。

 現代世界で芸術を成り立たせているのは金を持っている側だ。エドワードが芸術の価値を人に語るとき、それが金のためであるとは認めないだろうし、本人もそうは思っていないだろう。しかし、かれらの真の動機を金を持っている側は見抜いている。

そしてバスト君、わしの信頼を示す証拠として、手付金を二倍に引き上げさせてもらおう。(551 ページ)

芸術だの文学だのとご託を並べている連中が本当に言いたいのは原稿料の前払いをたんまりよこせってこと、(638 ページ)

 しかも、かれら芸術家たちはじっさいに芸術的に優れた能力を持っているかという点についても『JR』の記述はあいまいだ。バストの作曲は難航し、オペラを作るはずが最後には組曲を作る計画にまで後退している。ギブズの文章はどうみても浅薄な引用の寄せ集めでしかない。

 じつは、『JR』の中で真に芸術的な世界に生きている存在は、一人しかいない。知的障害を持つフレディ・モンクリーフである。フレディについて、自身芸術家であるはずのギブズが寄宿学校時代を思い出してこう言っている。

ところがト長調メヌエットを聞くときになると俺達には聞こえない何かが明らかにそいつには聞こえてた(615 ページ)

  知恵が遅れ*30ていることによって理性という一角を欠いた三角の世界に住んでいるフレディのみが真に芸術家であると読み取るのはいきすぎだろうか?

 とにかく、『JR』は四角の世界に生きる芸術家たちとそれを取り巻く資本主義社会についてできるだけ中立な観察をしようと試みている。そう結論付けておきたい。

 

 6. まとめ

 いろいろあって、『JR』は複雑化した現代経済、現代社会の混沌を描いており、またそこに生きる芸術家の姿を描こうとしている、というきわめて穏当な、というかたぶん常識的な読み方に落ち着いた*31
 ギャディスはたぶんポストモダン作家ではない*32。一目には強烈に特異な文体も、形式へのこだわりから生まれたものであって、しかも物語世界に対する愛着やテーマに対する真摯さはかれのなかで非常に強いものだ。
 モダニズム文学はどれだけ実験的な手法を用いても、それは表現を真に迫らせるためであり、作品に統一的な意味を持たせるためだった。文学におけるポストモダニズム*33ある種の開き直りから、不確定性や虚構性に耽溺し、書くことは真剣な主張をすることではなく、それまでの文学のまじめさに対する批判的な目線を持って、自覚的に言語で遊ぶことになっていった。そういう意味で、ギャディスはポストモダン作家ではない。

 ギャディスはたぶん大真面目に現代社会で芸術をするとはどういうことなのか、について考えていた。『JR』の描写はまじめすぎて、明白な答えを与えてくれるわけではない。『JR』は資本家にも芸術家にも等しく辛辣であるし、とはいえ現代社会から遊離して生きることはできない。

 加速し続ける資本主義経済と喧騒のアメリカ社会のうちで、いかに芸術家は存在できるのか。それでももしこの問いに答えらしきものがあるとするならば、はじめて世に問うた著作が無視され、賃金労働をしながら、諦めずに自らのやりたいことを追求した大作を完成させることができたウィリアム・ギャディスという作家そのものに求めるべきだろうか? それではロマンチックすぎるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:映画論で diegetic sound と呼ばれるもの。ただし映画論における diegetic という単語はもちろん diegesis に由来するが、ナラトロジーにおける Diegesis とは違う意味合いを持っているため混乱のもとかもしれないと思って注に回した。

*2:「音声をそのまま文字にする」ことが可能であるのかは別に論じる必要がある。後述。

*3:また、日本語訳では適宜補われているが、原文では句読法も標準的な用法からかけ離れている。
竹本憲昭「 雑音と断片 : ウイリアム・ギャディスの「JR」について」(『 奈良女子大学文学部研究年報』42巻、1998 年)
たとえばこの論文で紹介されている
——Yes no wait look listen Mister Davidoff {...}
という箇所は木原訳では
——ええ、いえ、待って、あの、聞いてください。デビドフさん、
と訳されている。
原文においてダッシュ "——"  はおそらく発話者が変更されたタイミングで挿入され、リーダ "..." はその箇所では(たとえば電話先の)相手がしゃべっているため沈黙していることを表している。電話の相手がその場にいないために盗聴器が録音できなかった沈黙を埋める記号ということだ**¹。また、カンマは文の意味とは無関係に、息継ぎのタイミングで挿入されている。つまり、発音されない記号もすべて音声を機械的に反映する形で用いられていると考えられる。
 **1 ただし、電話相手の声が叙述に現れるシーンもある。736 ページ下段のような例だが、ここでは受話器が地面に落ちていることに注意。受話器が落ちることでその場面の盗聴器は電話相手の声を拾うことができるようになったのだ。

*4:後述。

*5:「きっと」「もちろん」「まさに」「~ね」など、「話し手の判断や感じ方、主観的な態度」を表す部分。文は命題を表す部分とモダリティを表す部分でできていると考えられる。

*6:ただし、発話の内容や形態(敬語法など)から発言者や状況を推測する必要があり、句読点やカギカッコに頼ることができない点だけでいえば日本語の古文と大差ない。

*7:Thomas M. Sawyer "JR: The Narrative of Entropy" International Fiction Review 10 (2), 1983
木原善彦『実験する小説たち』(彩流社、2017)

*8:定義による。

*9:定義による。

*10:以下、文学史に詳しい方は 4. まで読み飛ばしていただいてかまわない。

*11:阿部吉雄「ディエゲーシスからミメーシスへ : 虚構言語における状況定位表現の歴史的変遷」(1)~(5)『独仏文學研究』他に掲載。

*12:「ディエゲーシスとミメーシス」は「説明と描写」「語ることと見せること」と言われるとわかりやすいことが多いようだ。ディエゲーシスにおいては物語世界内の出来事は物語世界の外から客体化して語られる(物語世界内の始点が物語世界を客体化して語ることもできるが)。ミメーシスにおいては物語世界内の事物がそのまま模倣される。「メロスは激怒した」という地の文がディエゲーシスで、「「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ」」というセリフがミメーシスである。セリフは完全にミメーシスだが、地の文がすべて完全なディエゲーシスであるわけではない。たとえば自由間接話法は地の文にミメーシス性を持たせる試みの一つとみなせるだろう。

*13:物語世界外の語り手が異質物語世界的で焦点化ゼロの語りを行う。

*14:« Elle entendit des pas dans l'escalier: c'était Léon. »

*15:ちなみに筑摩版全集の伊吹武彦訳では「階段に足音が聞えた。レオンであった。」となっている。

*16:だいたいは自分が語っている物語に夢中で気づかないだけ。

*17:ただし、一人称の報告体小説においては語り手がみずからの体験=物語世界をディエゲーシスしていることには注意が必要だろう。語り手はその体験を語る価値があると思っていて、物語の形に編集している。そこでは物語世界が直接語るのではなく、あくまでも語り手が体験をもとに創作した物語を語っている。

*18:デフォーの、つまり近代小説の起源には決義論の影響が見られる。一人称小説が最初に主題にしたことは一人称の語りによって扱える、かつ一人称の語りで扱うのがふさわしい題材、つまり良心の問題であった。
河崎良二「デフォーと十六、十七世紀イギリスの決義論」『人間文化学部研究年報』8(帝塚山学院大学、2006)

*19:物語世界外の語り手が異質物語世界的だが固定内的焦点化された語りを行う。ちなみに、『ボヴァリー夫人』の語りは不定内的焦点化に分類できる。ただし、語りの水準と人称は極めて複雑。

*20:マルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフウィリアム・フォークナーアーネスト・ヘミングウェイ……

*21:登場人物に意識されない感覚器官であればなんでもよかったので最初は「一個の不可視の耳と目」とか言おうと思っていたのだが、『実験する小説たち』で「盗聴マイク」という比喩が使われていて便利だと思ったのでマネすることにする。

*22:いわば、物語世界内の非人格的な装置異質物語世界的で外的焦点化された語りを行う、とまとめられよう。

*23:面白いのはこれだけ寡黙な地の文が、セックスを描写するときだけやたらと饒舌になることである。人は行為中にあまりペラペラとしゃべるものではないので仕方ないが、それにしてもこの表現上の外れ値はなにか注目すべきであるようにも思える。たとえば 594 ページからの描写はほとんど普通の小説みたいではないか?

*24:注 4 の「透明な地の文」とはこれを指している。

*25:ただし、再現されたアルファベットの並びからもとの音素の並び順を再現することが完全に可能というだけで、発話された音素の並び順から一意にあるアルファベットの並びを導くことはできない。同音異綴語や、わかち書きの問題を考えれば明らかだ。結局のところ語り手は実際に発話された音声だけから文を作っているように見えて、発話者の頭の中にある言語をこっそりと参照している。書かれたことばと話されたことばについては
野間秀樹『言語存在論』(岩波書店、2018)が参考になる。

*26:じっさいそう結論することは可能ではあるが。

*27:誰にも趣味を理解されたことがない。

*28:ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー『金と魔術』(法政大学出版局、1992)

*29:かれが干拓工事の進捗する音と聞き間違えたのは、じっさいにはかれじしんの墓穴を掘る音であった。

*30:原文ママ

*31:まだ一回読んだだけなので二回目、三回目と読んだら感想は大いに変わることだと思う。

*32:ちなみにこんな益体もないリストが存在する。けっこうおもしろい。『JR』もポストモダン文学に括られているが、まぁ『ハムレット』もここではポストモダン文学だとされているようだし……。

*33:といってもじつはあんまり読んだことないが……。

第 27 回文学フリマ東京に出ます

文フリに出ます。

 

いつ:11 月 25 日(日)

どこで: 東京流通センター 第二展示場

スペース:1F B-11 « Carte Blanche »

なに出すの:純文学小説合同誌 « Enfants d'Hiver »

Carte Blanche [第二十七回文学フリマ東京・小説|純文学] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

わたし(田村らさ)のほかに知り合い二名(白井惣七氏と八枝ひいろ氏)が書いてくれます。お二人のカクヨムのアカウント貼っておきます。

白井惣七(@s_shirai) - カクヨム

八枝ひいろ(@yae_hiiro) - カクヨム

わたしのはこれ

田村らさ(@Tamula_Rasa) - カクヨム

 

テーマは「冬の子供たち」です。深い人間理解に到達することが目標です。よろしくお願いいたします。

たぶん 120 ページくらいです。500 円で頒布しようと思います*1

 

わたし以外がなにを書いているのかはよくわかりませんが(11/7 現在まだ原稿が上がってきていないため)、ひとまず私の書く小説を紹介します。

 

 「リングワンダリング」

 イリノイ州に住む少年デイヴィッドは《冬の子供たち》だ。人間ではない。母親も《冬の子供たち》だった。父親とはうまくいっていない。母親は去年死んだ。幼馴染の女の子は最近別の男と付き合いはじめた。この二人と山に登ることになった。低い山だ。とても低い。まだ九月だから、雪が降るはずはなかった。

 

じつは書きはじめたのはもう二年くらい前になります。着手しただけでとちゅうに一年九か月くらいなにもしていない時期が挟まります。現代アメリカの女性作家が好きなのでそういうかんじを目指しました。内容やテーマの細かい説明は気恥ずかしいのと読めばわかるということで省きますが、サムエル記に通じているとよいです。シャーウッド・アンダーソンにも似たようなのありましたね。

 

「冬の子供たち」と言えばマイクル・コニイや Eric Brown に同名の小説がありますし、そもそも « Enfants d'Hiver » はジェーン・バーキンのアルバムからの借用なわけですが、じゃあなんで « Enfants d'Hiver » を合同誌のタイトルにしたかというと、それが "Fictions" のつぎに発表されたアルバムだからです。

 

以上です。当日はよろしくお願いいたします。

*1:大赤字

おすすめの SF について

 おすすめする SF 作品のリストを作れと言われた。そんなものわたしの普段の発言からだいたい明らかだろうとも思ったが、普段の発言に注視されているのもなんだかいやなので素直に作っておくことにした。だから普段からわたしの発言に注視している人にとっては面白みのないリストになると思う*1。というかかなり素直な選び方をしているので誰がみてもそう面白みのあるリストではないと思う。

 特に方途の指定はなかったので一作家一冊で選んだ。二重カギカッコ『』でなくカギカッコ「」になっているものは短編である。収録されている本、雑誌は各自で調べていただきたい。

 ◎となっているものは特に薦めるものである。

 

アイザック・アシモフ『夜来たる』
ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』
ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』◎
ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』
コニー・ウィリス『空襲警報』◎
ケイト・ウィルヘイム『鳥の歌いまは絶え』
ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』
ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
ハーラン・エリスン『死の鳥』◎
ブライアン・オールディス地球の長い午後
オースン・スコット・カード無伴奏ソナタ
ヘンリイ・カットナー『ボロゴーヴはミムジイ』(銀背の方)
アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』◎
ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』
ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』◎
ジェイムズ・パトリック・ケリー「夏至祭」◎
マイクル・コニイ『ハローサマー、グッドバイ』◎
K・W・ジーター『悪魔の機械』
ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』
クリフォード・D・シマック『都市』
ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』◎
キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』
シオドア・スタージョン『海を失った男』
ブルース・スターリング『蝉の女王』
ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』
オラフ・ステープルドンシリウス
ニール・スティーヴンスンスノウ・クラッシュ』◎
コードウェイナー・スミス『鼠と竜のゲーム』◎
マイクル・スワンウィック『グリュフォンの卵』
ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』◎
マーガレット・セント・クレア『どこからなりとも月にひとつの卵』
ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』
ジェイムズ・ティプトリー・Jr. 『輝くもの天より墜ち』◎
トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』『334』『歌の翼に』◎◎◎
サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』◎
アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』
ウォルター・テヴィス『ふるさと遠く』
コリイ・ドクトロウ『マジック・キングダムで落ちぶれて』
ガードナー・ドゾワ「海の鎖」
クリス・ネヴィル『ベティアンよ帰れ』
ロバート・A・ハインライン『月を売った男』
パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』
J・G・バラード『溺れた巨人』
テリー・ビッスン『ふたりジャネット』
バート・K・ファイラー「時のいたみ」
ロバート・L・フォワード『竜の卵』
フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』◎
クリストファー・プリースト『逆転世界』
グレッグ・ベア「鏖戦」
バリントン・J・ベイリー『シティ 5 からの脱出』
ルフレッド・ベスタ―『虎よ、虎よ!』
ゼナ・ヘンダースン『悪魔はぼくのペット』
クリス・ボイス『キャッチワールド』
イアン・マクドナルド『火星夜想曲
ジョージ・R・R・マーティン洋梨型の男』
チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』
ウォード・ムーア「ロト」◎
ロバート・F・ヤング『ジョナサンと宇宙クジラ
フリッツ・ライバー『バケツ一杯の空気』
トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』
キット・リード「お待ち」
アーシュラ・K・ル=グウィン『風の十二方位』
キース・ロバーツ『パヴァーヌ
イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア「彼らの生涯の最愛の時」

天野邉『プシスファイラ』◎
石川英輔『プロジェクト・ゼロ』
上田早夕里『リリエンタールの末裔』◎
小川一水『天涯の砦』
オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』◎
神林長平『魂の駆動体』
今日泊亜蘭『縹渺譚』◎
久米康之『猫の尻尾も借りてきて』◎
小林泰三『海を見る人』
菅浩江『誰に見しょとて』
瀬名秀明『希望』
高野史緒ヴェネツィアの恋人』◎
籘真千歳スワロウテイル人工少女販売処』◎
飛浩隆『グラン・ヴァカンス』◎
中里友香『黒十字サナトリウム
仁木稔『ミカイールの階梯』
野尻抱介『ピニェルの振り子』
長谷敏司『あなたのための物語』
広瀬正『マイナス・ゼロ』
藤崎慎吾『レフト・アローン』
堀晃『梅田地下オデッセイ』
柾悟郎『ヴィーナス・シティ』
水見稜夢魔のふる夜』
宮内悠介『盤上の夜』
六冬和生『みずは無間』
森下一仁『コスモス・ホテル』
山尾悠子山尾悠子作品集成』
山野浩一『花と機械とゲシタルト』◎

*1:なんでこれが入ってないんだ、みたいな作家や作品がいたらたぶん忘れてるだけなのでこっそり教えてください。

「マジック・フォー・ビギナーズ」、読むこと、演じることと解釈すること

 

 

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

 

 

0.

 アメリカの家庭はしょっちゅう崩壊しては再生する。あるいは、再生しようとする。わたしはじっさいのアメリカ文化を見聞きして知っているわけではないので、これはアメリカ文学を読んだ限りでわたしが認識するアメリカ家庭の話である。

 ケリー・リンクの代表的中編「マジック・フォー・ビギナーズ*1」においても家庭は一瞥して崩壊しかけている。その崩壊はなにに由来するのか。その再生はなにを頼りに行われるのか。愚直に直截的で、もはやデリカシーに欠けるテーマ設定といってもよさそうだが、リンクを読むときにその綺想*2に引きずられて独創的な読みをしようとしたり、曖昧性や解釈の透らなさに積極的な意味を見出すべきではない。批評というのは常に負け戦で、たとえ作家に勝つ*3ことができても作品に勝つ*4ことは原理上できないものであるが、だからと言ってこちらから首を垂れてやる必要は全くないのである。

 そういうわけで、本論の 1. から 4. では「マジック・フォー・ビギナーズ」における家庭の崩壊と再生、そして片手間に未成年男子とはなにか、というつまらない、、、、、問題を、本文に即して扱っていく。くわえて、そこで得られた議論や印象を手掛かりに、5. で議論は一段階跳躍する。


1. 寓意(ジェレミー/ゴードン/アリスの三角関係における)

 細部から始めよう。主人公ジェレミー・マーズとはなにであるか。本である。
 かれはテレビドラマ『図書館』の登場人物である。図書館の中にあるものといえば、ふつうはまず本であると考えられる。また、かれの父親のゴードンは作家であり、母親のアリスは司書である。作家によって生み出され、司書によって管理されるものをわたしたちはふつう本という。

 ジェレミーが本であり、両親が作家と司書であることは、どのように家庭の崩壊につながるのであろうか。ここでまずは本の「書かれた存在であり、解釈されることを待っている」という性質に着目してみよう*5

 ジェレミー・マーズが本の寓意であることはどのように家庭の問題を反映しているのだろうか。

 ジェレミーは父親によって書かれた本である。そして、たいていのことは水に流してうまくやってきたアリスが、決定的にゴードンを否定するのは、「ゴードンがジェレミーのことを小説に登場させ、しかも殺した」ことによる。

 登場人物への歪んだ愛においては右に出る者のいないジョージ・R・R・マーティンが、自らの業について書いた歪んだ小説が「子供たちの肖像」である。レイプされた娘のことを小説として書いてしまった作家/父親の業がここでは描かれているが、ジェレミーについても問題は同じである。作者は自作の登場人物に対して好むと好まざるにかかわらず神のような力を持つが、ゴードンがこの力を行使して、しかも息子を殺すのに使ったことに対して、司書のアリスは激怒せざるを得なかったのである。

 ゴードンが「書店から本を万引きすること」もまた象徴的な意味を持つ。というか、375 ページではもっと直接的に、

僕の人生を盗んじゃったのもいかにも父さんらしい

と書き込まれている。

 このように、作者としてゴードンは子どもであり本であるジェレミーに対してメタに立つ。子どもから見た父親の像を、本からみた作者という構図に象徴しているわけである。

 一方、司書たる母親と本たるジェレミーの関係はどのようなものであろうか。
 司書は本を通読しない。管理し、部分的に利用するだけである。それは彼女の人生に対する態度として表されていて、たとえばシャワーの時間を気にする夫のけち臭さを彼女は努めて無視することができる。万引き癖にも目をつむることができる。ゴードンがアリスに「怖いページを糊で貼りあわせて読めなくした特別版を贈る」のもまた印象的だ。アリスはものごとには良い面と悪い面、自らの趣味に合う面とそうでない面があることを知っていて、それでもものごとを全体的には良いものとして受け入れる術を知っている。(そして、そんなアリスですらゴードンの今回の暴挙には耐えられなかったのである。)

 ただし、この態度は息子のジェレミーに対して全的な承認を与えられていないという感慨や、どこかつかみどころのなさを与えている。

ジェレミーの母親は、何かを隠しているように、秘密にしているように思える人物である。(354 ページ)

 ジェレミーは母親によって十二分に解釈されている(≒全的な承認を与えられている)ように感じられていないし、母親を十分に解釈できているとも思えないのである。


2. 寓意(ジェレミー/エリザベス/タリスの三角関係における)

 両親と子のすれ違いがさまざまな寓意で表現されていることは上で見てきたが、ところでこの小説はもちろんジェレミーと二人の女の子をめぐる青春小説でもある。こちらについて触れないのは片手落ちになろう。

 ジェレミー・マーズは火星である。Mars なんだから火星なのは当たり前だろというのはさておき、このことはこの作品の舞台がヴァーモント州プランタジネットを舞台にしていることからも裏付けられる。というのもヴァーモント州にプランタジネット Plantagenet なる地名は存在しないが*6、存在しない地名をわざわざ使ったのは、Plantagenet が Planet を暗示するからである。

 ではジェレミーはなぜ火星でなければならないのか。火星の惑星記号が♂だからだ。ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。

火星についての本があるみたいに、女の子についての本があったらいいのにとジェレミーは思う。(中略)ただし、「火星」という言葉をつねに「女の子」に置き換えて。

(325-6 ページ)

 ジェレミー・マーズは女の子の対義語なのだ。

 また、惑星とは Planet つまり Wandering Star の直訳であるが、これらの名称は惑星が天球上の固定された一点を占めず、ときに逆行することから名づけられたものである。ジェレミーも二人の女の子の間を揺れ動く。

 ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。ジェレミーはタリスに言う。

でも君、透明じゃないじゃない。(388 ページ)

 ジェレミーには女の子の内面が見えない。女の子がわからないので、エリザベスとタリスのどちらに恋をしているのかわからない。ただし、エリザベスとタリスはどちらもジェレミーに好意を抱いているようだ。

 そして、この小説の中ではAがBを愛することは反射としてBがAを愛することをほのめかす*7。愛に能動性と受動性のどちらをも見出す*8それは、おそらくわたしたちの実感ともそう異ならないだろうが、ジェレミーはもっと主体的に人を愛したいはずだ。わかったうえで、愛したいはずだ。


3. ジェレミーと主体性の問題

 主体的に? そう、ジェレミーの抱える問題はほぼすべて、かれの主体性のなさ、受動性に由来する。それもそのはずで、基本的には「本」として表象されるジェレミーがなんらかの主体的能動性を発揮することはあまりない。ジェレミーは自己認識においても自らを「テニスボール」だと認識している。

なんだか自分が、プレーヤーたちにものすごく愛されているテニスボールになった気がする(362-3 ページ)

 ジェレミーは父親によって書かれ、母親によって(部分的に)解釈され、女の子たちに愛され、しかし自らはそういった周囲に対してどのような態度を取るのが正解なのかわからない。

 ところで、『図書館』に登場する飲み物、ユーフォリアのキャッチコピーは

図書館員にパワーを 注意深さだけでは不十分なときに(345 ページ)

で、これは物語を象徴するフレーズとして作品が始まる前にも掲げられている。注意深い観察的態度から能動的、主体的動きへの変化が作中で重要視されていることは明らかだ。

 そもそもジェレミー Jeremy という名前は旧約の預言者 Jeremiah に由来するが、Jeremiah には悲観論者という意味がある*9。とはいえエレミヤは与えられた祖国滅亡の預言に唯々諾々と従うばかりではなかった。さて、ジェレミーの問題解決はどのようにして行われるのであろうか?

 といってもジェレミーの具体的行動によって家庭問題やエリザベス、タリスとの恋愛関係が即座に解決されるわけではない*10。問題が解決されるのかどうかはフォックスの生死が象徴する。


4. マジック・フォー・ビギナーズ

 Magic for Beginners の Magic とはなにか、Beginners とは誰のことか、ついでにいえば for は利益の for なのか用途の for なのか*11

 といっても第一の点については答えはすでに本文中にある。389 ページだ。

『図書館』ってただのテレビだよ


観る誰もが、これがただの演技でないことを願ってしまう。それが魔法であること、本物の魔法であることを。

 Magic は奇術と魔法の二通りに訳しうるが当然後者で、ここでは『図書館』がただのテレビ番組ではなく、登場人物たちの演技もただの演技でないこと、つまりは『図書館』とわたしたち(というのはひとまずは小説「マジック・フォー・ビギナーズ」の作中人物ということであるが、後述するようにそれは文字通り「わたしたち」のことにもなりうる)の生活する現実世界がなんらかの意味で地続きであることを指す。テレビ番組が現実世界と地続きであることがどう魔法なのか、通常の意味ではつかみづらいかもしれないが、これはそう積極的に混同していくことを魔法と呼んでいるのである。
 先に答えから述べた方が楽だという理由で残り二点についても解答してしまおう。Beginners とはジェレミーを含む人生の初心者であり、for は利益の for でもあり用途の for でもある。

 ジェレミーは主体性を獲得し、フォックスの命を救おうとする。ところがフォックスはジェレミーにとってはフィクションの中の人物である。ふつうに考えればジェレミーがフォックスに対してできることはなにもない。これを可能にするためには、フィクションと現実の境界を破壊する必要がある。
 作中ではまるで魔法の力が働いて『図書館』とジェレミーの住む現実が接続されたかのように見えるが、その端緒となったのは電話をかけたことである。夢の中のフォックス-エリザベスが電話をかけてくれと言ったことをきっかけに、ジェレミーは電話の向こうにフォックスがいるのではないかと想像しながら電話をかけるようになった。フォックスがジェレミーに電話をかけてきたのではない。ジェレミーがフォックスに電話をかけた、、、、、、、、、、、、、、、、、、のである。

 フィクションと現実の境界を積極的にあいまいにすることがこの魔法の中核をなす。とはいえそれはフィクションの中に逃避することを意味しない。逃避はあくまでも現実とフィクションの峻別を保ったままフィクション側に移行することであるが、この魔法においてはさっきまでフィクションであったものとさっきまで現実であったもののどちらをも包括する世界を創造し、そこで登場人物としてふるまうことになる。

 つまるところジェレミーは書かれた/死んだ/固着したテクストであることをやめ、登場人物となるのである。もちろん、ジェレミーは最初から『図書館』の登場人物だったのだが、かれはそのことに気づいたのだ。

 登場人物はもちろん創作物であるが、同時に台本=世界の解釈者であり、その表現者としての行動主体でもある。

 『図書館』の登場人物の演者は固定されていない。これは誰でも登場人物になりうるということでもある。つまり、世界を物語視し、解釈し、意味を与え、登場人物として関与していく魔法は誰だって使うことができるということだ。


5. 蛇足

 魔法は誰だって使うことができる。そう、わたしたちもだ。

 「マジック・フォー・ビギナーズ」の叙述について、一見奇妙な点を指摘して本論を終えよう。

 (少なくとも英語では)小説は過去時制で語られることが多い。それはそうだ。たいていの物語は起こったあとに話す必要があると認められてはじめて物語化される。じゃあ「マジック・フォー・ビギナーズ」が現在時制で書かれている、、、、、、、、、、、のには理由があると考えた方がいいんだろうか。

 さいきんのアメリカの(とくに短編)小説家はさしたる理由もなく現在時制を選択しているように思えることはたしかにある。ライヴ感を出すため? まあそれも理由の一つであることは間違いない。しかし、そのコスト*12に見合ったメリットを得ているだろうか。

 すくなくとも「マジック・フォー・ビギナーズ」において現在時制はかなり意図的、戦略的に選択されているし、というか、こういう書き方しかできなかった。

 なぜならこの小説はテレビ番組の実況中継だからである。書き出し二段落目からして「『図書館』のある回で」とはじまるこの小説は 399 ページにおいて「でもこれは本じゃない。テレビ番組だ。」と念押しまでしている*13

 ジェレミーが本からテレビ番組の登場人物になったように、この小説も小説でありながらテレビ番組であることを志向する。その中間点として実況スタイルが取られたのだ。

 さて実況スタイルを取ることでこの小説は現在時制で語られることになったわけだが、そのメリットはなにか、デメリットはエスケープされているのかどうか。

 デメリットから片付けよう。注 12 で現在時制は情報量の面で制約を受けると書いた。現在時制で書かれた小説の語り手は小説内時間より未来のことを語る権利を持たない。予言的な構成や伏線ですら嘘くさくなってしまうデメリットがある。とはいえ、これは現在時制は現在時制でも実況中継の時制だ。「マジック・フォー・ビギナーズ」と『図書館』のどちらに対してもメタに立っている実況者の「私」はすべての情報を自由に扱うことができる。

 「私」?

 そう、迂闊な読者は見逃していることであろうが、この小説は一人称、、、現在時制で書かれている。

ヘアカットはジェレミーも私もまあ許せる。私たちはただ、テレビ番組のことを訊きたいだけだ。(329 ページ)
喧嘩の原因をあなたに明かす権限を私は与えられていない。(336 ページ)

 「私」が顔を現すのは地の文中この二か所のみである。『ボヴァリー夫人』の « nous »のように*14、あるいは「エミリーに薔薇を」の "we" のようにひそやかに、しかし重大に。

 この二か所の「私」は当然無意味に挿入されたわけではない。そのどちらにもテクスト上の意味はある。

 前者は『図書館』を見る「私」が番組に対して抱く感想で、実況中継としてはこういった箇所がないとどうしても不自然になるという理由で挿入された。後者は「権限」という言葉遣いに明らかなように、「私」はこの物語を語るにあたって十全な知識を得ている(そして語りをコントロールしている)ことを示唆している。メタに立つ「私」にとって情報量問題は発生していないのだと。

 次は現在時制のメリットだ。といっても、現在時制を用いたことによるこの小説に特有のメリットはたった一つしかない。

 先に「魔法は誰だって使うことができる」と書いた。この魔法を「物語と現実を積極的に混同して、新しく生まれた世界の登場人物として生きること」と定義したが、この内容なら、わたしたちにも実践できる。

 この小説が現在時制で書かれたもっとも大きな理由はここにある。「私」はわたしたちに、魔法を使ってみろとうながしている。過去形ですでに物語られた物語に今から入りこんでいくことはできない。だからこそ、「マジック・フォー・ビギナーズ」は現在形なのだ。


 わたしたちの解釈は成功したのだろうか。「向こう側には沈黙があるのみ」(375 ページ)である。しかし、電話の向こうのその沈黙は、「穏やかな、こっちに興味を持ってくれている沈黙」なのだ。そしてこの沈黙は、解釈を受け入れる作品の沈黙でもあるし、魔法を使い、今や登場人物として表現者となったわたしたちの演技を観る観衆の沈黙でもある。

*1:ケリー・リンク著、柴田元幸訳『マジック・フォー・ビギナーズ』(ハヤカワ epi 文庫、2012)収録。翻訳、引用ページ数表記等も同文庫に拠った。

*2:十分定義づけされていて、そのうえでなんらかの意味を持つ単語であるとは到底思えないが。

*3:作家ですら知らなかった作品の魅力を見出す。

*4:作品が持つ美質以上のことを唱えればそれは「その作品の」「批評」として成功したわけではなくなってしまう。

*5:またテクストについてのテクストか! きっと心ある読書子はそう思ったことであろう。まあ諦めてついてきてほしい。

*6:389 ページで「プランタジネット」「それも実在の場所だよ」とわざわざ書かれていることからも、この地名が存在しないことがわかる。

*7:カールはタリスがジェレミーの夢を見たことからジェレミーがタリスを好いていることを推論する。346 ページ。また、「エリザベスがエイミーに言ったんだよ、お前のこと好きだって。だからお前もやっぱり、エリザベスのこと好きなのかなって」347 ページ。

*8:一種トマス・アクィナス的ですらある。

*9:もちろん 327 ページの「楽天家なのだ」は反語である。

*10:また、そんな小説をわたしたちは読みたいわけでもない。

*11:つまり、Beginners のためになる/あるような Magic なのか、Beginners が使うための Magic なのか。

*12:現在時制の語りは(とくに一人称の場合において)情報量の面で制約を受けることになるが、ひとびとは都合のいい時だけルールを無視することでこのデメリットと向き合っているように思える。

*13:もちろんこれは「マジック・フォー・ビギナーズ」が本ではなくテレビ番組であることと同時に、ジェレミーが本ではなくテレビ番組の登場人物であることも意味している。

*14:« Nous étions à l’étude. »

『アンナチュラル』 #7 「殺人遊戯」について

 TBS ドラマ『アンナチュラル』の七話を見た。面白かった。泣いた。以下ネタバレ感想*1

 

*1:ツイッターでやろうかと思ったが、長いしネタバレがひどい。

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「クリアリー家からの手紙」と SF の読者(翻訳)

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者

ジョン・ケッセル
(SHORT FORM, vol. 2, issue 1, June 1989)

 (コニー・ウィリスの短編小説「クリアリー家からの手紙」について SF 作家/批評家のジョン・ケッセルが書いた批評文、"‘A Letter from the Cleary's’ and the Science Fiction Audience" を翻訳*1した*2SHORT FORM というのはオースン・スコット・カードの編によるファンジンである。
SF というジャンルは現在の日本において人気があるとは言えないがそれでもおそらく人口の半分、6000 万人程度は SF を読んでいるはずであるし、そのうち半分くらいはウィリスのファンだろう。あなたがた 3000 万人にお届けする*3。)



 コニー・ウィリスの短編「クリアリー家からの手紙」は1982年のネビュラ賞を受賞した。しかし、こう言っても間違いではないと思うのだが、読者の多くはこの物語をあまりにも慣れ親しんだテーマ、つまり核戦争後の生存競争というテーマを、見事に書き直しただけのものと見做していて、あまり入れ込んではいないようだ。ロバート・シルヴァーバーグは「『クリアリー家からの手紙』は核戦争がいかにわれわれの社会のはたらきをおかしくしてしまうかということについて、驚くべき考え方を示してくれる。それは1941年にハインラインがやったとき*4は、SFが扱うにあたってもっともなテーマだった――コニー、気を悪くしないでほしいのだが――しかし、今や、そういった時代ではない。」と書いた。ブライアン・オールディスの『一兆年の宴』 のもやもやしたコメントから「クリアリー家」について書いてあるんだろうと読み取れたところによると、ウィリスは「(アメリカの)新しい作家たちをおそった愛国的な感傷の波」にあてられてしまったそうだ。いくぶんか同情的なガードナー・ドゾアのような読者でも、このストーリーを「辛辣*5だ」という一言でまとめてしまった。

 私にはむしろ「クリアリー家」は辛辣で、刺激的だというよりも、ぞくっとするほど非感傷的なものにおもえる。政治的に抜け目がなく、心理学的には鋭敏なテロリズムについての研究であって、われわれのジャンルの他の作品とは比べるべくもない物語構成のスキルをみせている。これは核戦争の影響を書いているのではなく――ボブ*6、気を悪くしないでくれ――原因について書いている。読者の先入観によっていかに物語が誤読されているかのよい実例として、この作品は短編作家に厄介な難問を突き付けている。

 「クリアリー家」は 1982 年の 7 月 に『アイザック・アシモフズ SF』誌上で発表された。ロバート・シルヴァーバーグの編による「第 18 回ネビュラ賞アンソロジー」にも収録され、ウィリスの短編集、『見張り』にも収録されている*7。  語り手は十四歳の少女、リン。彼女は両親と兄のデイヴィッド、友人のミセス・タルボットといっしょに、パイクスピークを見晴らすロッキー山脈中の町に住んでいる。ティーンエイジャーのご多分に漏れず、リンはいろんなことに文句を言う。ミセス・タルボットの雑誌を取りに郵便局に行かなきゃいけないし、飼い犬のラスティは死んでしまったし、天気は寒いし、父親の温室づくりも手伝わなきゃいけない。兄は薪を小さく切ってくれず、両親も新しいストーヴを買ってくれないから、ストーヴのふちでよく手の甲を火傷してしまう。リンが物語を語り進めるにつれて、細部は積み重なり、この話がふつうの中流家庭の話ではないことが示唆される。かれらは名もなき襲撃者に見つかることを恐れていて、リンの父親は武器の装填を怠らないし、リンが雪道の上に足跡を残すことに神経質になっている。送電線は切れていたが、そもそも電気が流れることはない*8。パイクスピークは冠雪していないが、その代わり焦土と化している。家が隣にあるにもかかわらずミセス・タルボットとリンの家族が同居しているのは、彼女の夫が行方不明だからだ。デイヴィッドの妻と幼い娘もそうである。まもなく、これは核戦争後の世界であり、この五人は町に残された最後の五人で、サバイバルにもがいているのだということにわれわれは気付く。

 この日、リンはクリアリー家からの手紙を郵便局で発見する。クリアリー家はイリノイ州に住む、リンの一家の友人だ。クリアリー家の人たちは戦争の始まるちょうど一か月前にコロラド州を訪れることになっていた。しかし、かれらは現れなかった。リンは、悲劇の直前に投函された手紙を、家族に向かって読み上げる。 死者からの手紙は皮肉にも、痛々しい記憶――例えば、リンには、この物語のどこにも一切言及のなかった、メリッサという妹がいたということなど――を呼び起こす。リンが手紙を読み終えると、「危険すぎるから」という理由で、父親はリンを二度と郵便局にやらないことを決めた。彼女は走って逃げだそうとしたが、兄に止められてしまう。最後のパラグラフで、リンは手紙を偶然見つけたわけではないことを明らかにする。彼女は届けられなかった手紙のうちからそれを何か月もの間探し続けていたのだ。

 状況がはっきりとわかれば、物語の個々のディテールは無垢なものからおぞましいものにその意味を変える。たとえば、リンは物語のなかで、手の甲の同じ個所を薪ストーブでやけどしてしまうことにずっと不平を言っているのだが、そのたびごとに彼女はこんなことを言うのである。「最高。この水ぶくれで古いかさぶたがはがれて、また最初からやりなおしってわけ」すぐに我々は、リンが放射線病を患っているのではないかとおそれていて、なにかがおかしいと勘づいている母親から彼女の傷の本当の理由(被曝による炎症)を隠すために手の甲をわざとやけどしていることに気づく。リンの言う「最高」はティーンエイジャーの皮肉な*9発言のようにみえるが、実は彼女が成し遂げたことへの満足を表す発言なのである。そして、同時に、彼女が直面したくない事実に対する防衛機制でもある。

 彼女が周囲と自分をごまかす動機は、リンの人格の全体を象徴している。リンは彼女自身のことを、この恐ろしい苦境に立ち向かおうとしている家族の一員だと思っている。誰も自分たちの生活が絶望的で、大きな喪失に苦しめられていて、その苦しみが毎日続いているということを認めようとしない。彼女は未来について考えたくない。彼女は過去と現在にすでに傷つけられすぎているからだ。デイヴィッドは事故で彼女の犬のラスティを撃ち殺し、あやうく彼女も死ぬところだったのだ。

 リンは激怒したが、それを見せることはなかった。彼女が手紙を見つけて読み上げたのは家族のごまかしを強調するためだ。彼女は恐怖を感じているが、それを家族には隠したがっている。そして、同時に、かれらが恐怖を感じていることを認めさせようとしている。彼女は自分自身のことを無力だと感じているが、これが彼女の権力の握り方なのだ。家族にあれをしろ、これをしろということができない代わりに、心理学的な力を行使する。 彼女は手紙を読み上げたことで、かれらに対する優越を得た。彼女はデイヴィッドに死んだ妻と子供のことを、両親にはリンではない方の娘の死を、ミセス・タルボットには死んだ夫のことを、そして全員に、かれらがもし生き延びることができても、昔と同じような生活は戻ってこないのだということを認めさせようとした。しかし、リンの戦略は彼女に望んだ自由を与えたわけではなかった。リンが兄に手の甲のやけどのことで文句を言っているとき、同時に彼女はその傷の真実の原因が戦争によって発生した放射線であることを知っていて、つまり、かれらにはどうすることもできない力によって苦しめられていることを家族に向かって文句を言っていたのだ。彼女はかれらを傷つけることで復讐をしたが、それによって痛みが癒やされることはなかった。

 リンの行動の裏にある動機を理解することで、物語を別のレベルで理解することができる。ミステリーであり、心理学的な探求であることに付け加えて、「クリアリー家」は政治的な寓喩でもあるのだ。このことは、リンが手紙を読み上げた後、父親がリンを外に連れ出してこう語ったことからも明らかである。「おととしの夏の出来事については、わしなりの考えがある」「ロシア人がはじめたとも、合衆国がはじめたとも思わん。どこかの小さなテロリスト・グループか、ひょっとしたらたったひとりの人間がやったんだろう。爆弾を落としたらどうなるか、なんにも考えてなかったんだと思う。世の中のありさまに傷つき、怒り、おびえて、すべてをご破算にしようとしたんだ――爆弾一発で。この考えをどう思う、リン?」「いったでしょ。タルボットさんの雑誌をさがしてて、偶然あの手紙を見つけたのよ」

 リンはテロリストだ。テロリストとは、リンのように、自分のことを無力だと思っていて、自分の悲しみを正当な手段によっては癒すことができないと思っているような人たちのことだ。テロリストは政治的な手続きによっては達成することのできない目標を成し遂げるために暴力的な手段に訴えかける。テロリストにはほんとうの敵がいないから一般人を攻撃し、かれの抑圧の従犯としての責任を一般人に押し付ける。どれだけ暴力的で、誰が傷つけられようとも、かれが不当に苦しめられている痛みによってその行為は正当化される。「クリアリー家」はテロリストの行動根拠に対する批判だ。ウィリスの主張はわたしが「リベラル・デモクラティック」と呼ぶ――革命家たちはそれを「保守的」と呼ぶ――それだ。テロリズムは、かれらにはほとんど、あるいはまったくどうすることもできない状況についてひとびとに責任を負わせるものであり、テロリストは誰もそんなものは持っていないはずの道徳的権威を持ち合わせていると思い込んでおり、テロリズムはもし短期的には成功したとしても、当初の意図とかけ離れた邪悪に走ってしまう。  最終的に、家族の力関係について書かれているように見えた物語が、偉大な政治的主張を為す。フェミニスト運動が「個人的な問題が政治的な問題だ」というのであれば、ウィリスは「政治的な問題とは個人的な問題だ」と示唆している。「クリアリー家」は SF の使い古された舞台装置に、主流文学的な個人の物語で装飾をほどこしたものとみなされてきたが、じっさいのところ、キャラクターの性格付けは SF 的背景を生み出す政治的主張に結び付けられていたのだ。ポスト・ホロコースト設定を取り除いてしまえばこの物語は政治的な主張を失ってしまうだろう。あるいは、登場人物の複雑な動機を取り除いてしまっても同じことである。キャラクターの性格描写は、古臭い SF のケーキにほどこされた糖衣だと思われていたが、そうではなく、材料そのものなのだ。

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「大げさだな、ジョン。結局、ネビュラ賞取ったんだろ。なにが問題なんだよ。ていうか誰の問題なんだよ」  大した問題である。この小説について、「衝撃の結末」以上の理解がなされているとは思えない。この小説を気に入らなかった人たちにとって、こういった趣向はすでに見覚えのあるものだったからだ。あるいは、若い女の子*10によって語られたという特徴以外にはなんの目新しさもない、ポスト・ホロコーストを描いた感傷的な小品のように見えたからかも。この小説に投票した人でさえ、ほとんどはこんなふうに考えていただろうと私は疑っている。前者*11にとっては、この作品がネビュラ賞を取ったことは SF 読者たちが知的厳格さに欠けることの証拠であったし、後者*12にとっては、アイディアよりも感情を温かく書き込むことが勝利したと受け止められた。

 「クリアリー家」の平坦な筆致が技巧的な深みを隠蔽し、誤読を誘っているとして批判することも可能だろう。(しかし、)ウィリスはこの物語を書くにあたってこの形式を選んだのだ。ほかの作家にとっては飾り物に過ぎない描写の細部というのは、この作品においては、読者が最後の一行まで読み通したあとに思い出さなければ完全には明らかにならないような意味のために、細心の注意を払って書き込まれている。もっといいのは再読することだ。再読すれば、「パラノイアは、十四歳の女の子の死因ナンバーワンよ」という一行が繰り返されていることや、リンの温室に対する不満が「あんなもの、爆弾で吹っとばしてやりたい。ときどき、そんな気分になることがある」と表現されていることが、お茶目でキュートというよりは、苦く皮肉なものに思えるだろう。この物語は刃渡り 6 インチの飛び出しナイフと同じくらい感傷的だが、そのことを理解するためには読者は注意深くならなければならない。一体どれだけの SF 読者がこの物語を再読しただろうか?

 なにが問題なんだ? 問題は多くの SF 読者は信頼できない語り手によって語られた物語を理解できないということにある。SF には威勢のいい若いヒーローとヒロインがたくさんいて、読者にウィリスの小説をデイヴィッド・パーマーの "Emergence" やデイヴィッド・ブリンの『ポストマン』と同じように分類させてしまう*13。これがブライアン・オールディスが彼女の作品を見誤ってしまった理由である。いかなる SF 作家もかれの期待される読者層に反して皮肉に満ちた書き方をしようとはしないし、ましてや誤読されようとなんて思わないし、「クリアリー家」の場合においては真実だと思うが、間違った理由でメジャーな賞を取ろうとなんて考えないはずだ。

 誰の問題なんだ? 難しい問題だ。おそらく、SF の読者層に対してこういった書き方がなされたところで、まともに取り合う必要なんてないのかもしれない。しかし、「クリアリー家」において示された技巧はわたしには非凡なもののように思えた。複雑な構成を持ち、力強い含意を持っている。文体においても、中身においても。これは価値のある仕事だ。そして、コニー・ウィリスはいったいどこに行けばいいというのだ。これは SF でなければならなかった物語だ。これは SF の雑誌以外で発表することはできなかった物語だ。

 皮肉*14について話そう。ある作家には潰瘍のもととなり、他の作家を飲酒に駆り立てるようなある種の皮肉についてである。ウィリスの「わが愛しき娘たちよ」が数年後に発表されたとき、われわれはこの小説の持つ苦みや怒りがウィリスのキャリアの新境地を示していると考えるに至った。ある人は言う。「コニー・ウィリスはたちが悪くなったな」他の者はこう言う。「コニー・ウィリスもようやく目覚めたか」

 コニー・ウィリスはつねに目覚めていた。眠りこけていたのは読者たちの方だ。

*1:http://www4.ncsu.edu/~tenshi/Clearywhite.html ネットに転がってた。

*2:権利者の許可は当然取っていない。

*3:といいつつわたしの英語力もあって翻訳は非常にお粗末なものである

*4:"Solution Unsatisfactory" のことか。邦訳存在せず。

*5:poignant

*6:もちろん、ロバート・シルヴァーバーグのこと。

*7:日本では『わが愛しき娘たちよ』『空襲警報』(いずれも早川書房刊)に収録されている。

*8:発電を行っている施設がもはや存在しないから?

*9:sarcastic

*10:直接的にはリンのことだが、この作品が書かれた当時ウィリスが 29 歳だったことを考えてもよい。

*11:この作品に投票しなかった人たち

*12:この作品に投票した人たち

*13:この一文、上手に訳出できなかった。

*14:irony

『未必のマクベス』の文体論

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

(※この文章は第二十五回文学フリマにおいて東京大学新月お茶の会会誌『月猫通り 2158号』を購入された方に配布したペーパーに掲載した書評をほんのわずかに修正したものである。)


 物語の必要性に追いかけられて書けば文章は窮屈になる。文彩にばかり気をとられれば物語は停滞する。一人称視点の文体はカメラの移動に制約をかけ、下手をすれば情報の密度は下がりかねない。その上、この小説はとにかく多くの情報を扱う必要があるプロットを持っている。それでも気軽に神の視点を入れるわけにはいかない。この物語は旅する王の僭称者が自分語りをしていることに意味があるのだから。
 さて、『未必のマクベス』が文庫化した。単行本発売時には不幸にも多くの人に届かなかったらしいこの小説が、この機会に読み込まれることを切に願う。さいわいにもこれは「読めばわかる」小説だ。そして、そのわかりやすさは著者の早瀬が注ぎ込んだ技巧によって実現されている。効果的な技巧というのはそれが用いられていると気づいていない人にも効果を与えるからこそ優れていて、それを分析するのはフィギュアスケート選手の跳躍の瞬間、足元をコマ送りでチェックするような無粋であることは承知しているが、それでも物語の美しさを表現するための技巧も極まればそれ自身美しさを持つものだとわたしは信じている。

 本題に入る。ここではii章冒頭部のみを取り扱う。『未必のマクベス』における語りの技法と、テーマとの関わりがもっとも特徴的に表れている箇所だからである。
 i章が物語全体の予言とビジュアルイメージの提示のために費やされたため、ii章が実質的なストーリーの起点となっているが、やるべきことは伴と鍋島(と中井)を物語に導入し、伴=バンクォーであることを示唆し、鍋島と主人公の中井の間にあった情緒的なものの萌芽を示すことだ。そして、早瀬はこれをたったの7ページで手際よくやってみせる。
 「中井」は席が二つ後ろの「伴」の自己紹介を聞くために後ろを向く。席順は五十音順だから、必然的に、、、、「鍋島」のことが視界に入る。章の冒頭でかれらの入学した高校が旧制高校から続く中堅高であると描写されたことは、最初は描写として、次にはシェイクスピアを引用する老英語教師を登場させるための伏線として機能する。さらに、中堅高という設定は受験期の文理別クラスという設定を自然に導入する。この文理の別と、中井と鍋島の席が連続している描写を用いて、「三年間中井と鍋島の席の配置が変わらなかった」というエピソードが生み出される。鍋島は理系であるにもかかわらず、中井と同じクラスになるために文系クラスを選択したのである。
 このように、視線の移動/誘導は論理的かつ物理的で、一度使われた描写が次の展開のための伏線となる。属調に転調すればもとの調の主和音トニック下属和音サブドミナントになるように。しかも、描写の直後に展開が来るのではなく、あくまでも無意味に、楽しく読んだ描写が、少しの間隔をおいて次の展開へつながることが、文体をリズミカルで、音楽的なものにしている。その小気味よさの繰り返しでこの小説はできている。描写と情報開示が読む楽しみとスピード感を失わせないまま、寸分の隙なく続いていく。
 一度ある意味を持って読まれた文章が、別の意味をまとって再度用いられる。あるいは、再度用いられることで別の意味になる。この構造は今分析したようなミクロな規模だけでなく、マクロにも当てはまることをみていこう。
 たとえば、ii章冒頭の7ページで鍋島がとるアプローチはすべて中途半端で、期待する効果をあげることはなかった。ここまでなら青春のほろ甘いエピソードとしか映らない。(おそらくほろ苦くはない。鍋島の用意した義理チョコは甘いだけの不二家の板チョコレートである。)しかし、鍋島はこの物語全体を通してこうなのだ。鍋島は控えめに手を伸ばす。目いっぱい腕を伸ばせば届く距離だというのに。この届かなさは作中で何度も繰り返される。それは最初のうち変奏であることを隠してなされる以上、ここでネタを割るわけにはいかないが、勘のいい読者なら、あるいは幸せな再読者であれば、ある登場人物との初対面のシーン、マホガニィの大きな机を挟んで*1なされた会話がすでにその変奏であることを悟るであろう。
 ii章冒頭の分析においてわれわれが席順に注目したのも当然無意味な深読みではない。数百ページをおいて、541ページには「中井の背中を見る鍋島」というこの席順が物語全体を占っていたことの答え合わせがある*2

 一度使った文章を印象的に再登場させる技巧は、心ある作家ならだれでも行っているというのも真実ではあるが、『未必のマクベス』においてはそれがあらゆる規模において徹底されている。われわれはいま鍋島についてみてきたが、同じようなことは中井についても、伴についてもできる。フィクション世界には、書かれていない細部が決定されていないという根本的な弱点があるが、本書のような、文章同士が有機的に絡み合う文体は、この世界を実在世界であるかのように錯覚させる*3
 また、この著者にとってはひたすら負担となる文体が採用されたことにはもうひとつ理由がある。
 ここまで文体について強調してきた、『再登場』とそれに伴う『意味の変容』という技巧、これはこの物語全体のトリックにもなっている。最終盤になってある人物が物語に登場することで、ある人物との数百ページにわたるすべてのエピソードは何倍もの意味を獲得する*4文体が全体と対応している、、、、、、、、、、、、のだ。というわけで、タイトルにある「未必」というのは、少なくとも著者の創作に対する態度としては大嘘である。すべては確定的故意のもと書かれているからだ。
 
 一点だけ不可解なことを挙げてこの小文を終えよう。一人称小説であるはずなのに、なぜ中井は全体を前提とした文体を用いることができるのか? この小説は自分語りであることに意味があると言ったが、あくまでも、作者早瀬による中井の自分語りの再構成にすぎないのか?
 xiv章のラストによって、この文章そのものを「物理的に」中井が書いたという解釈は否定される。あとに残るのは中井の内心で起こった語りを、作者という神が拾い上げたという可能性と、中井の語りを作者がねつ造したという可能性の二つ。自分語りであるということに意味を持たせている以上、前者の解釈を取りたいが、前述の通り、結末を予知した技巧がその解釈を許さない。しょうがない、意図する作者の存在を認めてやるしかないか。いや、諦めるのはまだ早い。では、こう考えるのはどうだろう。
 中井は娼婦の占いを、秘書の後ろ姿に感じた予感を、自己成就予言としたのだ*5

*1:この距離感は最終的にスターバックスの二人がけのテーブル一つにまで縮められる。

*2:涼宮ハルヒか?

*3:ここまで一切触れてこなかったが、エキゾチックな固有名詞の多用もおそらく同様の効果を企図している。

*4:堕天使拷問刑か?

*5:もちろんこれは放言であって、実際にはxiv章までを中井が事後に構成的に書いた/考えたもの、xiv章ついてはリアルタイムの内心を神が拾い上げたものとして、語りの性格になんらかの変化があったものとして読むのが穏当かと思われる。xiv章の最後の†以降における語りがほぼ現在形で書かれていることがこの説を補強する。