Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

おすすめの SF について

 おすすめする SF 作品のリストを作れと言われた。そんなものわたしの普段の発言からだいたい明らかだろうとも思ったが、普段の発言に注視されているのもなんだかいやなので素直に作っておくことにした。だから普段からわたしの発言に注視している人にとっては面白みのないリストになると思う*1。というかかなり素直な選び方をしているので誰がみてもそう面白みのあるリストではないと思う。

 特に方途の指定はなかったので一作家一冊で選んだ。二重カギカッコ『』でなくカギカッコ「」になっているものは短編である。収録されている本、雑誌は各自で調べていただきたい。

 ◎となっているものは特に薦めるものである。

 

アイザック・アシモフ『夜来たる』
ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』
ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』◎
ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』
コニー・ウィリス『空襲警報』◎
ケイト・ウィルヘイム『鳥の歌いまは絶え』
ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』
ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
ハーラン・エリスン『死の鳥』◎
ブライアン・オールディス地球の長い午後
オースン・スコット・カード無伴奏ソナタ
ヘンリイ・カットナー『ボロゴーヴはミムジイ』(銀背の方)
アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』◎
ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』
ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』◎
ジェイムズ・パトリック・ケリー「夏至祭」◎
マイクル・コニイ『ハローサマー、グッドバイ』◎
K・W・ジーター『悪魔の機械』
ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』
クリフォード・D・シマック『都市』
ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』◎
キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』
シオドア・スタージョン『海を失った男』
ブルース・スターリング『蝉の女王』
ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』
オラフ・ステープルドンシリウス
ニール・スティーヴンスンスノウ・クラッシュ』◎
コードウェイナー・スミス『鼠と竜のゲーム』◎
マイクル・スワンウィック『グリュフォンの卵』
ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』◎
マーガレット・セント・クレア『どこからなりとも月にひとつの卵』
ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』
ジェイムズ・ティプトリー・Jr. 『輝くもの天より墜ち』◎
トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』『334』『歌の翼に』◎◎◎
サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』◎
アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』
ウォルター・テヴィス『ふるさと遠く』
コリイ・ドクトロウ『マジック・キングダムで落ちぶれて』
ガードナー・ドゾワ「海の鎖」
クリス・ネヴィル『ベティアンよ帰れ』
ロバート・A・ハインライン『月を売った男』
パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』
J・G・バラード『溺れた巨人』
テリー・ビッスン『ふたりジャネット』
バート・K・ファイラー「時のいたみ」
ロバート・L・フォワード『竜の卵』
フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』◎
クリストファー・プリースト『逆転世界』
グレッグ・ベア「鏖戦」
バリントン・J・ベイリー『シティ 5 からの脱出』
ルフレッド・ベスタ―『虎よ、虎よ!』
ゼナ・ヘンダースン『悪魔はぼくのペット』
クリス・ボイス『キャッチワールド』
イアン・マクドナルド『火星夜想曲
ジョージ・R・R・マーティン洋梨型の男』
チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』
ウォード・ムーア「ロト」◎
ロバート・F・ヤング『ジョナサンと宇宙クジラ
フリッツ・ライバー『バケツ一杯の空気』
トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』
キット・リード「お待ち」
アーシュラ・K・ル=グウィン『風の十二方位』
キース・ロバーツ『パヴァーヌ
イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア「彼らの生涯の最愛の時」

天野邉『プシスファイラ』◎
石川英輔『プロジェクト・ゼロ』
上田早夕里『リリエンタールの末裔』◎
小川一水『天涯の砦』
オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』◎
神林長平『魂の駆動体』
今日泊亜蘭『縹渺譚』◎
久米康之『猫の尻尾も借りてきて』◎
小林泰三『海を見る人』
菅浩江『誰に見しょとて』
瀬名秀明『希望』
高野史緒ヴェネツィアの恋人』◎
籘真千歳スワロウテイル人工少女販売処』◎
飛浩隆『グラン・ヴァカンス』◎
中里友香『黒十字サナトリウム
仁木稔『ミカイールの階梯』
野尻抱介『ピニェルの振り子』
長谷敏司『あなたのための物語』
広瀬正『マイナス・ゼロ』
藤崎慎吾『レフト・アローン』
堀晃『梅田地下オデッセイ』
柾悟郎『ヴィーナス・シティ』
水見稜夢魔のふる夜』
宮内悠介『盤上の夜』
六冬和生『みずは無間』
森下一仁『コスモス・ホテル』
山尾悠子山尾悠子作品集成』
山野浩一『花と機械とゲシタルト』◎

*1:なんでこれが入ってないんだ、みたいな作家や作品がいたらたぶん忘れてるだけなのでこっそり教えてください。

「マジック・フォー・ビギナーズ」、読むこと、演じることと解釈すること

 

 

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

 

 

0.

 アメリカの家庭はしょっちゅう崩壊しては再生する。あるいは、再生しようとする。わたしはじっさいのアメリカ文化を見聞きして知っているわけではないので、これはアメリカ文学を読んだ限りでわたしが認識するアメリカ家庭の話である。

 ケリー・リンクの代表的中編「マジック・フォー・ビギナーズ*1」においても家庭は一瞥して崩壊しかけている。その崩壊はなにに由来するのか。その再生はなにを頼りに行われるのか。愚直に直截的で、もはやデリカシーに欠けるテーマ設定といってもよさそうだが、リンクを読むときにその綺想*2に引きずられて独創的な読みをしようとしたり、曖昧性や解釈の透らなさに積極的な意味を見出すべきではない。批評というのは常に負け戦で、たとえ作家に勝つ*3ことができても作品に勝つ*4ことは原理上できないものであるが、だからと言ってこちらから首を垂れてやる必要は全くないのである。

 そういうわけで、本論の 1. から 4. では「マジック・フォー・ビギナーズ」における家庭の崩壊と再生、そして片手間に未成年男子とはなにか、というつまらない、、、、、問題を、本文に即して扱っていく。くわえて、そこで得られた議論や印象を手掛かりに、5. で議論は一段階跳躍する。


1. 寓意(ジェレミー/ゴードン/アリスの三角関係における)

 細部から始めよう。主人公ジェレミー・マーズとはなにであるか。本である。
 かれはテレビドラマ『図書館』の登場人物である。図書館の中にあるものといえば、ふつうはまず本であると考えられる。また、かれの父親のゴードンは作家であり、母親のアリスは司書である。作家によって生み出され、司書によって管理されるものをわたしたちはふつう本という。

 ジェレミーが本であり、両親が作家と司書であることは、どのように家庭の崩壊につながるのであろうか。ここでまずは本の「書かれた存在であり、解釈されることを待っている」という性質に着目してみよう*5

 ジェレミー・マーズが本の寓意であることはどのように家庭の問題を反映しているのだろうか。

 ジェレミーは父親によって書かれた本である。そして、たいていのことは水に流してうまくやってきたアリスが、決定的にゴードンを否定するのは、「ゴードンがジェレミーのことを小説に登場させ、しかも殺した」ことによる。

 登場人物への歪んだ愛においては右に出る者のいないジョージ・R・R・マーティンが、自らの業について書いた歪んだ小説が「子供たちの肖像」である。レイプされた娘のことを小説として書いてしまった作家/父親の業がここでは描かれているが、ジェレミーについても問題は同じである。作者は自作の登場人物に対して好むと好まざるにかかわらず神のような力を持つが、ゴードンがこの力を行使して、しかも息子を殺すのに使ったことに対して、司書のアリスは激怒せざるを得なかったのである。

 ゴードンが「書店から本を万引きすること」もまた象徴的な意味を持つ。というか、375 ページではもっと直接的に、

僕の人生を盗んじゃったのもいかにも父さんらしい

と書き込まれている。

 このように、作者としてゴードンは子どもであり本であるジェレミーに対してメタに立つ。子どもから見た父親の像を、本からみた作者という構図に象徴しているわけである。

 一方、司書たる母親と本たるジェレミーの関係はどのようなものであろうか。
 司書は本を通読しない。管理し、部分的に利用するだけである。それは彼女の人生に対する態度として表されていて、たとえばシャワーの時間を気にする夫のけち臭さを彼女は努めて無視することができる。万引き癖にも目をつむることができる。ゴードンがアリスに「怖いページを糊で貼りあわせて読めなくした特別版を贈る」のもまた印象的だ。アリスはものごとには良い面と悪い面、自らの趣味に合う面とそうでない面があることを知っていて、それでもものごとを全体的には良いものとして受け入れる術を知っている。(そして、そんなアリスですらゴードンの今回の暴挙には耐えられなかったのである。)

 ただし、この態度は息子のジェレミーに対して全的な承認を与えられていないという感慨や、どこかつかみどころのなさを与えている。

ジェレミーの母親は、何かを隠しているように、秘密にしているように思える人物である。(354 ページ)

 ジェレミーは母親によって十二分に解釈されている(≒全的な承認を与えられている)ように感じられていないし、母親を十分に解釈できているとも思えないのである。


2. 寓意(ジェレミー/エリザベス/タリスの三角関係における)

 両親と子のすれ違いがさまざまな寓意で表現されていることは上で見てきたが、ところでこの小説はもちろんジェレミーと二人の女の子をめぐる青春小説でもある。こちらについて触れないのは片手落ちになろう。

 ジェレミー・マーズは火星である。Mars なんだから火星なのは当たり前だろというのはさておき、このことはこの作品の舞台がヴァーモント州プランタジネットを舞台にしていることからも裏付けられる。というのもヴァーモント州にプランタジネット Plantagenet なる地名は存在しないが*6、存在しない地名をわざわざ使ったのは、Plantagenet が Planet を暗示するからである。

 ではジェレミーはなぜ火星でなければならないのか。火星の惑星記号が♂だからだ。ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。

火星についての本があるみたいに、女の子についての本があったらいいのにとジェレミーは思う。(中略)ただし、「火星」という言葉をつねに「女の子」に置き換えて。

(325-6 ページ)

 ジェレミー・マーズは女の子の対義語なのだ。

 また、惑星とは Planet つまり Wandering Star の直訳であるが、これらの名称は惑星が天球上の固定された一点を占めず、ときに逆行することから名づけられたものである。ジェレミーも二人の女の子の間を揺れ動く。

 ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。ジェレミーはタリスに言う。

でも君、透明じゃないじゃない。(388 ページ)

 ジェレミーには女の子の内面が見えない。女の子がわからないので、エリザベスとタリスのどちらに恋をしているのかわからない。ただし、エリザベスとタリスはどちらもジェレミーに好意を抱いているようだ。

 そして、この小説の中ではAがBを愛することは反射としてBがAを愛することをほのめかす*7。愛に能動性と受動性のどちらをも見出す*8それは、おそらくわたしたちの実感ともそう異ならないだろうが、ジェレミーはもっと主体的に人を愛したいはずだ。わかったうえで、愛したいはずだ。


3. ジェレミーと主体性の問題

 主体的に? そう、ジェレミーの抱える問題はほぼすべて、かれの主体性のなさ、受動性に由来する。それもそのはずで、基本的には「本」として表象されるジェレミーがなんらかの主体的能動性を発揮することはあまりない。ジェレミーは自己認識においても自らを「テニスボール」だと認識している。

なんだか自分が、プレーヤーたちにものすごく愛されているテニスボールになった気がする(362-3 ページ)

 ジェレミーは父親によって書かれ、母親によって(部分的に)解釈され、女の子たちに愛され、しかし自らはそういった周囲に対してどのような態度を取るのが正解なのかわからない。

 ところで、『図書館』に登場する飲み物、ユーフォリアのキャッチコピーは

図書館員にパワーを 注意深さだけでは不十分なときに(345 ページ)

で、これは物語を象徴するフレーズとして作品が始まる前にも掲げられている。注意深い観察的態度から能動的、主体的動きへの変化が作中で重要視されていることは明らかだ。

 そもそもジェレミー Jeremy という名前は旧約の預言者 Jeremiah に由来するが、Jeremiah には悲観論者という意味がある*9。とはいえエレミヤは与えられた祖国滅亡の預言に唯々諾々と従うばかりではなかった。さて、ジェレミーの問題解決はどのようにして行われるのであろうか?

 といってもジェレミーの具体的行動によって家庭問題やエリザベス、タリスとの恋愛関係が即座に解決されるわけではない*10。問題が解決されるのかどうかはフォックスの生死が象徴する。


4. マジック・フォー・ビギナーズ

 Magic for Beginners の Magic とはなにか、Beginners とは誰のことか、ついでにいえば for は利益の for なのか用途の for なのか*11

 といっても第一の点については答えはすでに本文中にある。389 ページだ。

『図書館』ってただのテレビだよ


観る誰もが、これがただの演技でないことを願ってしまう。それが魔法であること、本物の魔法であることを。

 Magic は奇術と魔法の二通りに訳しうるが当然後者で、ここでは『図書館』がただのテレビ番組ではなく、登場人物たちの演技もただの演技でないこと、つまりは『図書館』とわたしたち(というのはひとまずは小説「マジック・フォー・ビギナーズ」の作中人物ということであるが、後述するようにそれは文字通り「わたしたち」のことにもなりうる)の生活する現実世界がなんらかの意味で地続きであることを指す。テレビ番組が現実世界と地続きであることがどう魔法なのか、通常の意味ではつかみづらいかもしれないが、これはそう積極的に混同していくことを魔法と呼んでいるのである。
 先に答えから述べた方が楽だという理由で残り二点についても解答してしまおう。Beginners とはジェレミーを含む人生の初心者であり、for は利益の for でもあり用途の for でもある。

 ジェレミーは主体性を獲得し、フォックスの命を救おうとする。ところがフォックスはジェレミーにとってはフィクションの中の人物である。ふつうに考えればジェレミーがフォックスに対してできることはなにもない。これを可能にするためには、フィクションと現実の境界を破壊する必要がある。
 作中ではまるで魔法の力が働いて『図書館』とジェレミーの住む現実が接続されたかのように見えるが、その端緒となったのは電話をかけたことである。夢の中のフォックス-エリザベスが電話をかけてくれと言ったことをきっかけに、ジェレミーは電話の向こうにフォックスがいるのではないかと想像しながら電話をかけるようになった。フォックスがジェレミーに電話をかけてきたのではない。ジェレミーがフォックスに電話をかけた、、、、、、、、、、、、、、、、、、のである。

 フィクションと現実の境界を積極的にあいまいにすることがこの魔法の中核をなす。とはいえそれはフィクションの中に逃避することを意味しない。逃避はあくまでも現実とフィクションの峻別を保ったままフィクション側に移行することであるが、この魔法においてはさっきまでフィクションであったものとさっきまで現実であったもののどちらをも包括する世界を創造し、そこで登場人物としてふるまうことになる。

 つまるところジェレミーは書かれた/死んだ/固着したテクストであることをやめ、登場人物となるのである。もちろん、ジェレミーは最初から『図書館』の登場人物だったのだが、かれはそのことに気づいたのだ。

 登場人物はもちろん創作物であるが、同時に台本=世界の解釈者であり、その表現者としての行動主体でもある。

 『図書館』の登場人物の演者は固定されていない。これは誰でも登場人物になりうるということでもある。つまり、世界を物語視し、解釈し、意味を与え、登場人物として関与していく魔法は誰だって使うことができるということだ。


5. 蛇足

 魔法は誰だって使うことができる。そう、わたしたちもだ。

 「マジック・フォー・ビギナーズ」の叙述について、一見奇妙な点を指摘して本論を終えよう。

 (少なくとも英語では)小説は過去時制で語られることが多い。それはそうだ。たいていの物語は起こったあとに話す必要があると認められてはじめて物語化される。じゃあ「マジック・フォー・ビギナーズ」が現在時制で書かれている、、、、、、、、、、、のには理由があると考えた方がいいんだろうか。

 さいきんのアメリカの(とくに短編)小説家はさしたる理由もなく現在時制を選択しているように思えることはたしかにある。ライヴ感を出すため? まあそれも理由の一つであることは間違いない。しかし、そのコスト*12に見合ったメリットを得ているだろうか。

 すくなくとも「マジック・フォー・ビギナーズ」において現在時制はかなり意図的、戦略的に選択されているし、というか、こういう書き方しかできなかった。

 なぜならこの小説はテレビ番組の実況中継だからである。書き出し二段落目からして「『図書館』のある回で」とはじまるこの小説は 399 ページにおいて「でもこれは本じゃない。テレビ番組だ。」と念押しまでしている*13

 ジェレミーが本からテレビ番組の登場人物になったように、この小説も小説でありながらテレビ番組であることを志向する。その中間点として実況スタイルが取られたのだ。

 さて実況スタイルを取ることでこの小説は現在時制で語られることになったわけだが、そのメリットはなにか、デメリットはエスケープされているのかどうか。

 デメリットから片付けよう。注 12 で現在時制は情報量の面で制約を受けると書いた。現在時制で書かれた小説の語り手は小説内時間より未来のことを語る権利を持たない。予言的な構成や伏線ですら嘘くさくなってしまうデメリットがある。とはいえ、これは現在時制は現在時制でも実況中継の時制だ。「マジック・フォー・ビギナーズ」と『図書館』のどちらに対してもメタに立っている実況者の「私」はすべての情報を自由に扱うことができる。

 「私」?

 そう、迂闊な読者は見逃していることであろうが、この小説は一人称、、、現在時制で書かれている。

ヘアカットはジェレミーも私もまあ許せる。私たちはただ、テレビ番組のことを訊きたいだけだ。(329 ページ)
喧嘩の原因をあなたに明かす権限を私は与えられていない。(336 ページ)

 「私」が顔を現すのは地の文中この二か所のみである。『ボヴァリー夫人』の « nous »のように*14、あるいは「エミリーに薔薇を」の "we" のようにひそやかに、しかし重大に。

 この二か所の「私」は当然無意味に挿入されたわけではない。そのどちらにもテクスト上の意味はある。

 前者は『図書館』を見る「私」が番組に対して抱く感想で、実況中継としてはこういった箇所がないとどうしても不自然になるという理由で挿入された。後者は「権限」という言葉遣いに明らかなように、「私」はこの物語を語るにあたって十全な知識を得ている(そして語りをコントロールしている)ことを示唆している。メタに立つ「私」にとって情報量問題は発生していないのだと。

 次は現在時制のメリットだ。といっても、現在時制を用いたことによるこの小説に特有のメリットはたった一つしかない。

 先に「魔法は誰だって使うことができる」と書いた。この魔法を「物語と現実を積極的に混同して、新しく生まれた世界の登場人物として生きること」と定義したが、この内容なら、わたしたちにも実践できる。

 この小説が現在時制で書かれたもっとも大きな理由はここにある。「私」はわたしたちに、魔法を使ってみろとうながしている。過去形ですでに物語られた物語に今から入りこんでいくことはできない。だからこそ、「マジック・フォー・ビギナーズ」は現在形なのだ。


 わたしたちの解釈は成功したのだろうか。「向こう側には沈黙があるのみ」(375 ページ)である。しかし、電話の向こうのその沈黙は、「穏やかな、こっちに興味を持ってくれている沈黙」なのだ。そしてこの沈黙は、解釈を受け入れる作品の沈黙でもあるし、魔法を使い、今や登場人物として表現者となったわたしたちの演技を観る観衆の沈黙でもある。

*1:ケリー・リンク著、柴田元幸訳『マジック・フォー・ビギナーズ』(ハヤカワ epi 文庫、2012)収録。翻訳、引用ページ数表記等も同文庫に拠った。

*2:十分定義づけされていて、そのうえでなんらかの意味を持つ単語であるとは到底思えないが。

*3:作家ですら知らなかった作品の魅力を見出す。

*4:作品が持つ美質以上のことを唱えればそれは「その作品の」「批評」として成功したわけではなくなってしまう。

*5:またテクストについてのテクストか! きっと心ある読書子はそう思ったことであろう。まあ諦めてついてきてほしい。

*6:389 ページで「プランタジネット」「それも実在の場所だよ」とわざわざ書かれていることからも、この地名が存在しないことがわかる。

*7:カールはタリスがジェレミーの夢を見たことからジェレミーがタリスを好いていることを推論する。346 ページ。また、「エリザベスがエイミーに言ったんだよ、お前のこと好きだって。だからお前もやっぱり、エリザベスのこと好きなのかなって」347 ページ。

*8:一種トマス・アクィナス的ですらある。

*9:もちろん 327 ページの「楽天家なのだ」は反語である。

*10:また、そんな小説をわたしたちは読みたいわけでもない。

*11:つまり、Beginners のためになる/あるような Magic なのか、Beginners が使うための Magic なのか。

*12:現在時制の語りは(とくに一人称の場合において)情報量の面で制約を受けることになるが、ひとびとは都合のいい時だけルールを無視することでこのデメリットと向き合っているように思える。

*13:もちろんこれは「マジック・フォー・ビギナーズ」が本ではなくテレビ番組であることと同時に、ジェレミーが本ではなくテレビ番組の登場人物であることも意味している。

*14:« Nous étions à l’étude. »

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者(翻訳)

「クリアリー家からの手紙」と SF の読者

ジョン・ケッセル
(SHORT FORM, vol. 2, issue 1, June 1989)

 (コニー・ウィリスの短編小説「クリアリー家からの手紙」について SF 作家/批評家のジョン・ケッセルが書いた批評文、"‘A Letter from the Cleary's’ and the Science Fiction Audience" を翻訳*1した*2SHORT FORM というのはオースン・スコット・カードの編によるファンジンである。
SF というジャンルは現在の日本において人気があるとは言えないがそれでもおそらく人口の半分、6000 万人程度は SF を読んでいるはずであるし、そのうち半分くらいはウィリスのファンだろう。あなたがた 3000 万人にお届けする*3。)



 コニー・ウィリスの短編「クリアリー家からの手紙」は1982年のネビュラ賞を受賞した。しかし、こう言っても間違いではないと思うのだが、読者の多くはこの物語をあまりにも慣れ親しんだテーマ、つまり核戦争後の生存競争というテーマを、見事に書き直しただけのものと見做していて、あまり入れ込んではいないようだ。ロバート・シルヴァーバーグは「『クリアリー家からの手紙』は核戦争がいかにわれわれの社会のはたらきをおかしくしてしまうかということについて、驚くべき考え方を示してくれる。それは1941年にハインラインがやったとき*4は、SFが扱うにあたってもっともなテーマだった――コニー、気を悪くしないでほしいのだが――しかし、今や、そういった時代ではない。」と書いた。ブライアン・オールディスの『一兆年の宴』 のもやもやしたコメントから「クリアリー家」について書いてあるんだろうと読み取れたところによると、ウィリスは「(アメリカの)新しい作家たちをおそった愛国的な感傷の波」にあてられてしまったそうだ。いくぶんか同情的なガードナー・ドゾアのような読者でも、このストーリーを「辛辣*5だ」という一言でまとめてしまった。

 私にはむしろ「クリアリー家」は辛辣で、刺激的だというよりも、ぞくっとするほど非感傷的なものにおもえる。政治的に抜け目がなく、心理学的には鋭敏なテロリズムについての研究であって、われわれのジャンルの他の作品とは比べるべくもない物語構成のスキルをみせている。これは核戦争の影響を書いているのではなく――ボブ*6、気を悪くしないでくれ――原因について書いている。読者の先入観によっていかに物語が誤読されているかのよい実例として、この作品は短編作家に厄介な難問を突き付けている。

 「クリアリー家」は 1982 年の 7 月 に『アイザック・アシモフズ SF』誌上で発表された。ロバート・シルヴァーバーグの編による「第 18 回ネビュラ賞アンソロジー」にも収録され、ウィリスの短編集、『見張り』にも収録されている*7。  語り手は十四歳の少女、リン。彼女は両親と兄のデイヴィッド、友人のミセス・タルボットといっしょに、パイクスピークを見晴らすロッキー山脈中の町に住んでいる。ティーンエイジャーのご多分に漏れず、リンはいろんなことに文句を言う。ミセス・タルボットの雑誌を取りに郵便局に行かなきゃいけないし、飼い犬のラスティは死んでしまったし、天気は寒いし、父親の温室づくりも手伝わなきゃいけない。兄は薪を小さく切ってくれず、両親も新しいストーヴを買ってくれないから、ストーヴのふちでよく手の甲を火傷してしまう。リンが物語を語り進めるにつれて、細部は積み重なり、この話がふつうの中流家庭の話ではないことが示唆される。かれらは名もなき襲撃者に見つかることを恐れていて、リンの父親は武器の装填を怠らないし、リンが雪道の上に足跡を残すことに神経質になっている。送電線は切れていたが、そもそも電気が流れることはない*8。パイクスピークは冠雪していないが、その代わり焦土と化している。家が隣にあるにもかかわらずミセス・タルボットとリンの家族が同居しているのは、彼女の夫が行方不明だからだ。デイヴィッドの妻と幼い娘もそうである。まもなく、これは核戦争後の世界であり、この五人は町に残された最後の五人で、サバイバルにもがいているのだということにわれわれは気付く。

 この日、リンはクリアリー家からの手紙を郵便局で発見する。クリアリー家はイリノイ州に住む、リンの一家の友人だ。クリアリー家の人たちは戦争の始まるちょうど一か月前にコロラド州を訪れることになっていた。しかし、かれらは現れなかった。リンは、悲劇の直前に投函された手紙を、家族に向かって読み上げる。 死者からの手紙は皮肉にも、痛々しい記憶――例えば、リンには、この物語のどこにも一切言及のなかった、メリッサという妹がいたということなど――を呼び起こす。リンが手紙を読み終えると、「危険すぎるから」という理由で、父親はリンを二度と郵便局にやらないことを決めた。彼女は走って逃げだそうとしたが、兄に止められてしまう。最後のパラグラフで、リンは手紙を偶然見つけたわけではないことを明らかにする。彼女は届けられなかった手紙のうちからそれを何か月もの間探し続けていたのだ。

 状況がはっきりとわかれば、物語の個々のディテールは無垢なものからおぞましいものにその意味を変える。たとえば、リンは物語のなかで、手の甲の同じ個所を薪ストーブでやけどしてしまうことにずっと不平を言っているのだが、そのたびごとに彼女はこんなことを言うのである。「最高。この水ぶくれで古いかさぶたがはがれて、また最初からやりなおしってわけ」すぐに我々は、リンが放射線病を患っているのではないかとおそれていて、なにかがおかしいと勘づいている母親から彼女の傷の本当の理由(被曝による炎症)を隠すために手の甲をわざとやけどしていることに気づく。リンの言う「最高」はティーンエイジャーの皮肉な*9発言のようにみえるが、実は彼女が成し遂げたことへの満足を表す発言なのである。そして、同時に、彼女が直面したくない事実に対する防衛機制でもある。

 彼女が周囲と自分をごまかす動機は、リンの人格の全体を象徴している。リンは彼女自身のことを、この恐ろしい苦境に立ち向かおうとしている家族の一員だと思っている。誰も自分たちの生活が絶望的で、大きな喪失に苦しめられていて、その苦しみが毎日続いているということを認めようとしない。彼女は未来について考えたくない。彼女は過去と現在にすでに傷つけられすぎているからだ。デイヴィッドは事故で彼女の犬のラスティを撃ち殺し、あやうく彼女も死ぬところだったのだ。

 リンは激怒したが、それを見せることはなかった。彼女が手紙を見つけて読み上げたのは家族のごまかしを強調するためだ。彼女は恐怖を感じているが、それを家族には隠したがっている。そして、同時に、かれらが恐怖を感じていることを認めさせようとしている。彼女は自分自身のことを無力だと感じているが、これが彼女の権力の握り方なのだ。家族にあれをしろ、これをしろということができない代わりに、心理学的な力を行使する。 彼女は手紙を読み上げたことで、かれらに対する優越を得た。彼女はデイヴィッドに死んだ妻と子供のことを、両親にはリンではない方の娘の死を、ミセス・タルボットには死んだ夫のことを、そして全員に、かれらがもし生き延びることができても、昔と同じような生活は戻ってこないのだということを認めさせようとした。しかし、リンの戦略は彼女に望んだ自由を与えたわけではなかった。リンが兄に手の甲のやけどのことで文句を言っているとき、同時に彼女はその傷の真実の原因が戦争によって発生した放射線であることを知っていて、つまり、かれらにはどうすることもできない力によって苦しめられていることを家族に向かって文句を言っていたのだ。彼女はかれらを傷つけることで復讐をしたが、それによって痛みが癒やされることはなかった。

 リンの行動の裏にある動機を理解することで、物語を別のレベルで理解することができる。ミステリーであり、心理学的な探求であることに付け加えて、「クリアリー家」は政治的な寓喩でもあるのだ。このことは、リンが手紙を読み上げた後、父親がリンを外に連れ出してこう語ったことからも明らかである。「おととしの夏の出来事については、わしなりの考えがある」「ロシア人がはじめたとも、合衆国がはじめたとも思わん。どこかの小さなテロリスト・グループか、ひょっとしたらたったひとりの人間がやったんだろう。爆弾を落としたらどうなるか、なんにも考えてなかったんだと思う。世の中のありさまに傷つき、怒り、おびえて、すべてをご破算にしようとしたんだ――爆弾一発で。この考えをどう思う、リン?」「いったでしょ。タルボットさんの雑誌をさがしてて、偶然あの手紙を見つけたのよ」

 リンはテロリストだ。テロリストとは、リンのように、自分のことを無力だと思っていて、自分の悲しみを正当な手段によっては癒すことができないと思っているような人たちのことだ。テロリストは政治的な手続きによっては達成することのできない目標を成し遂げるために暴力的な手段に訴えかける。テロリストにはほんとうの敵がいないから一般人を攻撃し、かれの抑圧の従犯としての責任を一般人に押し付ける。どれだけ暴力的で、誰が傷つけられようとも、かれが不当に苦しめられている痛みによってその行為は正当化される。「クリアリー家」はテロリストの行動根拠に対する批判だ。ウィリスの主張はわたしが「リベラル・デモクラティック」と呼ぶ――革命家たちはそれを「保守的」と呼ぶ――それだ。テロリズムは、かれらにはほとんど、あるいはまったくどうすることもできない状況についてひとびとに責任を負わせるものであり、テロリストは誰もそんなものは持っていないはずの道徳的権威を持ち合わせていると思い込んでおり、テロリズムはもし短期的には成功したとしても、当初の意図とかけ離れた邪悪に走ってしまう。  最終的に、家族の力関係について書かれているように見えた物語が、偉大な政治的主張を為す。フェミニスト運動が「個人的な問題が政治的な問題だ」というのであれば、ウィリスは「政治的な問題とは個人的な問題だ」と示唆している。「クリアリー家」は SF の使い古された舞台装置に、主流文学的な個人の物語で装飾をほどこしたものとみなされてきたが、じっさいのところ、キャラクターの性格付けは SF 的背景を生み出す政治的主張に結び付けられていたのだ。ポスト・ホロコースト設定を取り除いてしまえばこの物語は政治的な主張を失ってしまうだろう。あるいは、登場人物の複雑な動機を取り除いてしまっても同じことである。キャラクターの性格描写は、古臭い SF のケーキにほどこされた糖衣だと思われていたが、そうではなく、材料そのものなのだ。

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「大げさだな、ジョン。結局、ネビュラ賞取ったんだろ。なにが問題なんだよ。ていうか誰の問題なんだよ」  大した問題である。この小説について、「衝撃の結末」以上の理解がなされているとは思えない。この小説を気に入らなかった人たちにとって、こういった趣向はすでに見覚えのあるものだったからだ。あるいは、若い女の子*10によって語られたという特徴以外にはなんの目新しさもない、ポスト・ホロコーストを描いた感傷的な小品のように見えたからかも。この小説に投票した人でさえ、ほとんどはこんなふうに考えていただろうと私は疑っている。前者*11にとっては、この作品がネビュラ賞を取ったことは SF 読者たちが知的厳格さに欠けることの証拠であったし、後者*12にとっては、アイディアよりも感情を温かく書き込むことが勝利したと受け止められた。

 「クリアリー家」の平坦な筆致が技巧的な深みを隠蔽し、誤読を誘っているとして批判することも可能だろう。(しかし、)ウィリスはこの物語を書くにあたってこの形式を選んだのだ。ほかの作家にとっては飾り物に過ぎない描写の細部というのは、この作品においては、読者が最後の一行まで読み通したあとに思い出さなければ完全には明らかにならないような意味のために、細心の注意を払って書き込まれている。もっといいのは再読することだ。再読すれば、「パラノイアは、十四歳の女の子の死因ナンバーワンよ」という一行が繰り返されていることや、リンの温室に対する不満が「あんなもの、爆弾で吹っとばしてやりたい。ときどき、そんな気分になることがある」と表現されていることが、お茶目でキュートというよりは、苦く皮肉なものに思えるだろう。この物語は刃渡り 6 インチの飛び出しナイフと同じくらい感傷的だが、そのことを理解するためには読者は注意深くならなければならない。一体どれだけの SF 読者がこの物語を再読しただろうか?

 なにが問題なんだ? 問題は多くの SF 読者は信頼できない語り手によって語られた物語を理解できないということにある。SF には威勢のいい若いヒーローとヒロインがたくさんいて、読者にウィリスの小説をデイヴィッド・パーマーの "Emergence" やデイヴィッド・ブリンの『ポストマン』と同じように分類させてしまう*13。これがブライアン・オールディスが彼女の作品を見誤ってしまった理由である。いかなる SF 作家もかれの期待される読者層に反して皮肉に満ちた書き方をしようとはしないし、ましてや誤読されようとなんて思わないし、「クリアリー家」の場合においては真実だと思うが、間違った理由でメジャーな賞を取ろうとなんて考えないはずだ。

 誰の問題なんだ? 難しい問題だ。おそらく、SF の読者層に対してこういった書き方がなされたところで、まともに取り合う必要なんてないのかもしれない。しかし、「クリアリー家」において示された技巧はわたしには非凡なもののように思えた。複雑な構成を持ち、力強い含意を持っている。文体においても、中身においても。これは価値のある仕事だ。そして、コニー・ウィリスはいったいどこに行けばいいというのだ。これは SF でなければならなかった物語だ。これは SF の雑誌以外で発表することはできなかった物語だ。

 皮肉*14について話そう。ある作家には潰瘍のもととなり、他の作家を飲酒に駆り立てるようなある種の皮肉についてである。ウィリスの「わが愛しき娘たちよ」が数年後に発表されたとき、われわれはこの小説の持つ苦みや怒りがウィリスのキャリアの新境地を示していると考えるに至った。ある人は言う。「コニー・ウィリスはたちが悪くなったな」他の者はこう言う。「コニー・ウィリスもようやく目覚めたか」

 コニー・ウィリスはつねに目覚めていた。眠りこけていたのは読者たちの方だ。

*1:http://www4.ncsu.edu/~tenshi/Clearywhite.html ネットに転がってた。

*2:権利者の許可は当然取っていない。

*3:といいつつわたしの英語力もあって翻訳は非常にお粗末なものである

*4:"Solution Unsatisfactory" のことか。邦訳存在せず。

*5:poignant

*6:もちろん、ロバート・シルヴァーバーグのこと。

*7:日本では『わが愛しき娘たちよ』『空襲警報』(いずれも早川書房刊)に収録されている。

*8:発電を行っている施設がもはや存在しないから?

*9:sarcastic

*10:直接的にはリンのことだが、この作品が書かれた当時ウィリスが 29 歳だったことを考えてもよい。

*11:この作品に投票しなかった人たち

*12:この作品に投票した人たち

*13:この一文、上手に訳出できなかった。

*14:irony

『未必のマクベス』の文体論

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

(※この文章は第二十五回文学フリマにおいて東京大学新月お茶の会会誌『月猫通り 2158号』を購入された方に配布したペーパーに掲載した書評をほんのわずかに修正したものである。)


 物語の必要性に追いかけられて書けば文章は窮屈になる。文彩にばかり気をとられれば物語は停滞する。一人称視点の文体はカメラの移動に制約をかけ、下手をすれば情報の密度は下がりかねない。その上、この小説はとにかく多くの情報を扱う必要があるプロットを持っている。それでも気軽に神の視点を入れるわけにはいかない。この物語は旅する王の僭称者が自分語りをしていることに意味があるのだから。
 さて、『未必のマクベス』が文庫化した。単行本発売時には不幸にも多くの人に届かなかったらしいこの小説が、この機会に読み込まれることを切に願う。さいわいにもこれは「読めばわかる」小説だ。そして、そのわかりやすさは著者の早瀬が注ぎ込んだ技巧によって実現されている。効果的な技巧というのはそれが用いられていると気づいていない人にも効果を与えるからこそ優れていて、それを分析するのはフィギュアスケート選手の跳躍の瞬間、足元をコマ送りでチェックするような無粋であることは承知しているが、それでも物語の美しさを表現するための技巧も極まればそれ自身美しさを持つものだとわたしは信じている。

 本題に入る。ここではii章冒頭部のみを取り扱う。『未必のマクベス』における語りの技法と、テーマとの関わりがもっとも特徴的に表れている箇所だからである。
 i章が物語全体の予言とビジュアルイメージの提示のために費やされたため、ii章が実質的なストーリーの起点となっているが、やるべきことは伴と鍋島(と中井)を物語に導入し、伴=バンクォーであることを示唆し、鍋島と主人公の中井の間にあった情緒的なものの萌芽を示すことだ。そして、早瀬はこれをたったの7ページで手際よくやってみせる。
 「中井」は席が二つ後ろの「伴」の自己紹介を聞くために後ろを向く。席順は五十音順だから、必然的に、、、、「鍋島」のことが視界に入る。章の冒頭でかれらの入学した高校が旧制高校から続く中堅高であると描写されたことは、最初は描写として、次にはシェイクスピアを引用する老英語教師を登場させるための伏線として機能する。さらに、中堅高という設定は受験期の文理別クラスという設定を自然に導入する。この文理の別と、中井と鍋島の席が連続している描写を用いて、「三年間中井と鍋島の席の配置が変わらなかった」というエピソードが生み出される。鍋島は理系であるにもかかわらず、中井と同じクラスになるために文系クラスを選択したのである。
 このように、視線の移動/誘導は論理的かつ物理的で、一度使われた描写が次の展開のための伏線となる。属調に転調すればもとの調の主和音トニック下属和音サブドミナントになるように。しかも、描写の直後に展開が来るのではなく、あくまでも無意味に、楽しく読んだ描写が、少しの間隔をおいて次の展開へつながることが、文体をリズミカルで、音楽的なものにしている。その小気味よさの繰り返しでこの小説はできている。描写と情報開示が読む楽しみとスピード感を失わせないまま、寸分の隙なく続いていく。
 一度ある意味を持って読まれた文章が、別の意味をまとって再度用いられる。あるいは、再度用いられることで別の意味になる。この構造は今分析したようなミクロな規模だけでなく、マクロにも当てはまることをみていこう。
 たとえば、ii章冒頭の7ページで鍋島がとるアプローチはすべて中途半端で、期待する効果をあげることはなかった。ここまでなら青春のほろ甘いエピソードとしか映らない。(おそらくほろ苦くはない。鍋島の用意した義理チョコは甘いだけの不二家の板チョコレートである。)しかし、鍋島はこの物語全体を通してこうなのだ。鍋島は控えめに手を伸ばす。目いっぱい腕を伸ばせば届く距離だというのに。この届かなさは作中で何度も繰り返される。それは最初のうち変奏であることを隠してなされる以上、ここでネタを割るわけにはいかないが、勘のいい読者なら、あるいは幸せな再読者であれば、ある登場人物との初対面のシーン、マホガニィの大きな机を挟んで*1なされた会話がすでにその変奏であることを悟るであろう。
 ii章冒頭の分析においてわれわれが席順に注目したのも当然無意味な深読みではない。数百ページをおいて、541ページには「中井の背中を見る鍋島」というこの席順が物語全体を占っていたことの答え合わせがある*2

 一度使った文章を印象的に再登場させる技巧は、心ある作家ならだれでも行っているというのも真実ではあるが、『未必のマクベス』においてはそれがあらゆる規模において徹底されている。われわれはいま鍋島についてみてきたが、同じようなことは中井についても、伴についてもできる。フィクション世界には、書かれていない細部が決定されていないという根本的な弱点があるが、本書のような、文章同士が有機的に絡み合う文体は、この世界を実在世界であるかのように錯覚させる*3
 また、この著者にとってはひたすら負担となる文体が採用されたことにはもうひとつ理由がある。
 ここまで文体について強調してきた、『再登場』とそれに伴う『意味の変容』という技巧、これはこの物語全体のトリックにもなっている。最終盤になってある人物が物語に登場することで、ある人物との数百ページにわたるすべてのエピソードは何倍もの意味を獲得する*4文体が全体と対応している、、、、、、、、、、、、のだ。というわけで、タイトルにある「未必」というのは、少なくとも著者の創作に対する態度としては大嘘である。すべては確定的故意のもと書かれているからだ。
 
 一点だけ不可解なことを挙げてこの小文を終えよう。一人称小説であるはずなのに、なぜ中井は全体を前提とした文体を用いることができるのか? この小説は自分語りであることに意味があると言ったが、あくまでも、作者早瀬による中井の自分語りの再構成にすぎないのか?
 xiv章のラストによって、この文章そのものを「物理的に」中井が書いたという解釈は否定される。あとに残るのは中井の内心で起こった語りを、作者という神が拾い上げたという可能性と、中井の語りを作者がねつ造したという可能性の二つ。自分語りであるということに意味を持たせている以上、前者の解釈を取りたいが、前述の通り、結末を予知した技巧がその解釈を許さない。しょうがない、意図する作者の存在を認めてやるしかないか。いや、諦めるのはまだ早い。では、こう考えるのはどうだろう。
 中井は娼婦の占いを、秘書の後ろ姿に感じた予感を、自己成就予言としたのだ*5

*1:この距離感は最終的にスターバックスの二人がけのテーブル一つにまで縮められる。

*2:涼宮ハルヒか?

*3:ここまで一切触れてこなかったが、エキゾチックな固有名詞の多用もおそらく同様の効果を企図している。

*4:堕天使拷問刑か?

*5:もちろんこれは放言であって、実際にはxiv章までを中井が事後に構成的に書いた/考えたもの、xiv章ついてはリアルタイムの内心を神が拾い上げたものとして、語りの性格になんらかの変化があったものとして読むのが穏当かと思われる。xiv章の最後の†以降における語りがほぼ現在形で書かれていることがこの説を補強する。

シャーリイ・ジャクスン「くじ」について

 完璧な短編小説とはなにか? そう問われたらわたしは悩んでからシャーリイ・ジャクスン「くじ」*1を挙げると思う。

 

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

*1:ハヤカワ・ミステリ文庫から同名短編集が出た。異色作家短編集の復刊。また、この短編に限って言えば陰陽師という方による個人訳がインターネット上に存在する。「くじ
本記事中の引用はこちらによった。コピペができて楽だったので。

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繋がれた犬に二回も咬まれるなんて

『夫婦の中のよそもの』を読んだ。著者のエミール・クストリッツァと言えば知らぬものはいない名映画監督であるが、というか、あるらしいが、ともかくわたしも名前は知っている。映画は観たことがあることになっている。でもどちらかといえばノー・スモーキング・オーケストラの活動のほうで認知している。そういえば、キルミーベイベーのOPはクストリッツァの音作りを参考にしているらしい*1。ふーん。
つまり映画を撮ったり映画に出たりバンドをやったり小説を書いたりするクソ強い星野源みたいなもんである。

というのはまぁどうでもよくて、今回は『夫婦の中のよそもの』を読みましたというお話。初の短編集ということになるらしい。よく知らないけど長編は書いてるってこと?
ボスニア・ヘルツェゴビナ……というか、旧ユーゴを舞台にした短編が六つ収録されていて、うち独立したものが二つ、残りの四つは主人公が同じで、ゆるやかに連関している。各話あらすじとかは出版社サイトとかを見てね。今回は冒頭の一篇についてのみ書きます。初読のインパクトがすごいのでできれば読んでから読んでほしいけど、マァその辺はお好きにどうぞ。

 

で、「すごくヤなこと」がすごい小説で、やたらと感心してしまった。
文体はきわめてシンプルで、シーンの切り替えは素早い。読者は、読み始めてわずか数ページで主人公のゼコが理想的なものと現実的なものの乖離に傷ついている側の人間であること、父親が現実を表していながら、その愛を求めてしまうという形で同時に理想的なものも表していることを理解させられる。現実的なものへの絶望が極に達したタイミングでゼコを愛する少女ミリヤナが登場する。しかし、救済は束の間で、ミリヤナとは運命によって引き裂かれる。将来再び巡り合うことがあれば結婚しようという約束をして。
わたしを含め、うかつな読者は早合点する。こうして理想と現実の間の折り合いをつけて少年が成長する、そういうお話になるのだと。
当然そうではない。時系列は急に跳び、すでに大人になったゼコがわれわれの前に現れる。かれは「弁護士」などというおカタい職業の女と結婚し、子供まで設けている。モノローグ内のかれは、さも達観したかのように現実に暮らす決心を固めている。少し理想的なものへの留保を残しながら。
そこにふたたびミリヤナが現れる。このあたりのスピード感が最高だ。ミリヤナはチェスプレイヤーで、高価そうな装身具を身にまとっている。弁護士とは対照的、なんともロマンティックで、理想的な女。そんなミリヤナを抱きしめると、しかし、娘を乗せた乳母車が坂道を転がり落ちる。今更理想に手を伸ばした代償は現実的な生活、幸せの地歩である。
要約すればこんなふうになってしまうのに、それを凡百の文学的アイロニーに陥らせないコミカルで映像的な筆致! 坂道を乳母車が転がり落ちる、壁にぶつかって赤子がジャンプする、それを美女がキャッチする、映画のワンシーンとして脳裏に浮かべてみればこれはもう笑いどころにしかならない。そのあとゼコは自宅の呼び鈴でピンポンダッシュする——今日は日曜日だから、妻は家にいるはずである——。「自分だとバレなかったろうかという不安でいっぱいになって」。不用意に理想的な世界のものに手を伸ばしたことに対するしっぺ返しを現実的な世界に知られてはいけない。しかしこれもまた、あまりにもコミカル。
楽観と悲観、現実と理想、能天気と露骨のどちらをも回避しながら、リズムとスピードと笑いで逃げ切ってしまうその卑怯さと意地悪さに、怯えながら残りの五篇を読み進めることになる。

動きと急転直下で読者を正確に引きずり回すすべはほかのすべての短編でも発揮されているのでいちいち取り上げることはしない(めんどくさいし)が、もちろん見せ方にバリエーションに欠けるわけではない。「蛇に抱かれて」なんかの宗教的な崇高さもよい。

家族愛がどうのとか生命力がどうのみたいな話は私がやらなくてもそのうちほかの人がやってくれそうなのでこの辺で終わり。