Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

陸秋槎『元年春之祭』について

 

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

 

 

ネタバレ注意:未読の人間が読んでも得るところは一つもないので興味本位で見ることも薦めない。

 

 

要約:本書は表面的に見ればゴテゴテの新本格ミステリで、しかも新本格ミステリとしては失敗し不格好なものになっているが、わざとらしい「読者への挑戦状」の発話媒介行為に注目することで小説として一定の評価が可能となる。

 

 

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『信念の呪縛』

0.

 わたしは意外と*1オカルトやスピリチュアル系や新宗教疑似科学が好きなたちだ。本棚の最下段にはとうぜんエリアーデ・オカルト事典と新宗教事典があるし*2辛酸なめ子のスピリチュアル系図鑑もよく読む。それでいて、大本神諭も人間革命も一行だって読んでいないし、御朱印帳は持っていないし、水素水は飲んだことがないし、飲み会でわたしの血液型が AB 型であることに言及されると素直に腹を立てる。カッパ捕獲許可証は一時期保有していたが。
 冒頭に挙げたオカルト以下略というグループを、現実*3に対応するために用いられる、超自然的な要素をそのうちに持つ信念や実践のセットと言ってもよいだろう*4。わたしはようするに、こういったものを、すでに(科学的(とは?)な視点から)相対化されて、観察されたものとしてみるのが好きなのである。
 もちろんわたしは、かれらのことを見下したり、異常な信念を持っている異常者として好奇の目で見ているわけではないという留保を小賢しくも入れることができる、いや、好奇の目で見てはいるのだが、とにかく、ことはそう単純ではない。
 かれらの持つ世界に対する信念はわたしから見ればたしかに奇異だが、かれらからみればわたしの世界観のほうがよっぽど奇異である。それでもあらゆる場合においてどちらか一方を採用すべき理由はない。どうせならいろんな世界制作の方法を試してみたいではないか。物体は万有引力があるから落ちるのではない、地球の中心に対する愛のためにもとの場所へと帰るのだ。この世はでっかいビリヤード台ではない。

1.

 というわけで読んだ。本書はまずもってケニア海岸部のドゥルマ Duruma 人社会における妖術 utsai の体系と実践について書かれた民族誌であると同時に、この世には妖術という超自然的な術があるという信念が、いかにして人々にとって現実的なものとなるかという仕組みを説明しようとするものでもあり、そうした信念と実践の体系が現実の社会の変化(ここでは植民地支配)に応じて形を変えていく姿が描かれる。
 各章の構成やその梗概は近藤によるやたらと懇切丁寧な書評*5があるので、時間のある方はそれを見ていただいたほうがよいとおもう。

1.1

 さっきから信念信念と言っているが、あることを信じることとあることを知っていることはなにが違うのだろうか。妖術の話がなんだか急にテアイテトスじみてきた。
 本書の序論における議論とほぼ同趣旨の議論が展開される同著者の論文ではこう整理されている。

「SはPを信じている」はSがPに真という評価をあたえ,かつ話者が自分が所属する言説空間においてPを真と評価しない立場が存在すると判断しているというのと等価である。Sが話者と一致している場合,それは「私はPを信じる」という一人称の言明となり,一致しない場合「彼(彼女,S)はPを信じている」という三人称を主語とした言明となる。「SはPを知っている」はSがPに真という評価をあたえ,かつ話者が自分の所属する言説空間においてPを真と評価しない立場を見出さないということと等価である。Sが話者と一致する場合は一人称を主語とした言明となり,一致しない場合は三人称を主語とした言明となる。*6

 こうした意味である命題を「信じる」ことは、主張者がその命題を「あてにして」行動することを意味する。これは一種の賭けのようなもので、ひとびとは世界に対する複数の説明可能性のうちからいくつかを選んでそれぞれに認識論的なものから金銭的なものまでコストを割いている。
 そして、ある種の信念はそれを信じることで取るようになる行動が、当の信念を強化するように働くのではないか、妖術とはまさにそうした信念のひとつなのではないか。

1.2

 そういった、ある種の信念を持ち、その信念に基づいて行動することで当の信念自体が強化されていくような仕組みを、本書は信念による真理化と呼ぶ。もっとも簡単な例はこうだ。
 何をやってもうまくいかないと感じるペシミスティックな人は、実行に身が入らず、準備や配慮が怠りがちになる。その結果うまく事が運ばず、ますますこの観念に呪縛されていく。
 プラシーボ効果でもバーナム効果でも自己成就予言でもなんでもいいがこうした機序はいくらでも思いつくだろうから細かいことは省略する。

2.

 そもそもドゥルマの人たちは妖術を「知って」いるわけではない。かれらにとっても妖術は「不思議」に属することなのである。「そんなことありえない」「もしかしたら起こるかもしれない」「きっとあるに違いない」のグラデーションに属することがらなのだ*7
 そんなかれらはいつ妖術の存在を感じるのだろうか。これは大事なことなのだが、妖術使い mutsai は実在しない。もし仮に妖術を行う人間がいたとしても、それは闇夜に隠れて行われ、しかも対象に現実にはなんの効果も及ぼさないので、人に知られることがない。
 妖術を実行した結果不幸になる人間がいるのではなく、不幸になった人間がいて、その不幸の原因を求めるために妖術を行った誰かが想定されるのである。

 ドゥルマの人びとは不幸を経験すると妖術にかけられたと思う。だれもが自らに妖術をかけそうな妖術使いの心当たりが一人、二人はあるらしい。
 不幸の内容はさまざまであり、現代日本に住む我々からすると「うつ病では?」とか「熟年夫婦にありがちな不和では?」とか「エイズでは?」とか思うわけだが*8、とにかくかれらは妖術をかけられたと思い、占いによって攻撃者を探し、防御施術やカウンター施術を試みるのである。
 妖術使いが実在しないのに対して、妖術攻撃に対処する施術師は実在する。かれらはかけられたと考えられる妖術と驚くほど似た施術を行う。怪しげな薬を使い、歩き回るひょうたんなどのガジェットが登場し、全裸になるなど、規範を逸脱する行為も見られる。施術師のふるまいは存在しないはずの妖術使いのイメージにあまりにも似通っている。
 また、施術師の術は100%成功するわけではない。それは妖術使いと施術師の勝負であって、打率三割でもバッターとしては優秀とみなされるように、妖術の体系にとって、施術が失敗することは織り込み済みである。もし施術が成功すればその原因となった妖術の実在性は増す。施術が失敗すれば相手の妖術使いの力が強かったということになり、それはそれで妖術使いの脅威は増すことになる。
 妖術が存在せず、したがって防御施術も因果的な効力がないんだから、施術が「成功」するわけないではないか、そう思うかもしれない。だが、施術をしてもらったことで気が楽になり、気分障害が改善するかもしれない、施術のタイミングとマラリアの熱が引くタイミングが重なるかもしれない、そういう意味では施術の効果が現れることはままあると思われる。

2.1

 施術師の存在が妖術師の存在をリアルなものとして実感させる。妖術師は“いる”のだから、探すことができる。だれかを妖術師として告発することはハードルが高いこととされているものの、占い師の占い結果が一致した場合、妖術使いとみなされた人物を試罪施術 chirapho にかけることができる。たとえば、パパイヤのキラボ chirapho cha payu と呼ばれる施術では、切り分けたパパイヤに薬を塗って告発者と被告発者の双方に食べさせ*9、口が腫れたほうが嘘をついていることになる。もし告発された方の口が腫れれば妖術使いとみなされ、共同体から追放されることが多いという。
 こうした「不幸→防御、占い→(あれば)告発」というプロセスで妖術信仰の実践がいかに当の妖術信仰を強化するかという実例を本書は三つの実例を挙げて説明している。めっぽう面白いのはこの談話の書き起こしで構成される実例部分で、めっぽう面白いので詳しくは紹介しない。読んでみてほしい*10

2.2

 ここまでが第三部までの内容で、それはミクロな妖術実践に焦点を当てるものだったが、第四部、第五部ではこうした妖術実践をドゥルマ人の現代社会の中にあるものとした観察が行われている。
 第四部では、植民地支配が行われるようになった 1930 年代以降にこの地域で見られるようになった、さまざまな抗妖術運動 anti-witchcraft movement が取り上げられる。
 ここまでの記述でなんとなく想像がつこうものだが、妖術使いなんてものは、その存在を信じている人びとにとってはもちろん存在しない方がいいものである。そこで、数年に一度、妖術を地域から一掃しようとする運動が発生する。この抗妖術運動には二種類ある。
A タイプ 埋設薬を使い、妖術を封印するもの。妖術使いの活動を封じることが狙いで、妖術使いの正体は必ずしも暴かれない。
B タイプ 地域に住む妖術使いを文字通り個別に狩り出し検挙するもの。西洋の魔女狩りに近い。ケニア独立後、1963 年以降に見られるようになった。
 これまた個別の例は本書を読んでいただくことにして、それでまた実例部分がめっぽう面白い。ともかく、四章全体の結論は抗妖術運動は内部に矛盾を抱えており、失敗することが運命づけられているということである。
 A タイプの抗妖術運動は実施されてからしばらくの間は人びとは妖術の脅威から逃れることができるが、これまで妖術の結果とされていた不幸な出来事は(実際には妖術の結果ではないので)起こり続ける。そうなると、不幸を説明する方途が絶たれている以上、その不幸の当事者、往々にして死者であるが、その死者自身が妖術使いだったということにせざるを得ないのである。
 そして、不幸を妖術の結果として説明づけるために一掃されたはずの妖術使いが復活することになる。こうして A タイプの抗妖術運動は失敗に終わる。
 では B タイプはどうだろうか。B タイプの抗妖術運動は特定の人間を妖術使いとして指名し、施術師と妖術使いの直接対決が行われる点でドラマティックである。しかし、地域で妖術使いとみなされている人間はランダムに選ばれているわけではない。ある地域の妖術使い容疑者は、地域に存在する屋敷 mudzi*11や個人の、日ごろの利害や感情的な対立によって妖術使いと目されるようになっていることが多い。そのため、地域の「妖術使い」を「一掃」することは原理的に不可能だ。それぞれの屋敷や個人はべつべつの人物を妖術使いとみなしているからだ。施術師が地域で有力視されている妖術使いの容疑者たちと戦いを終えたあと、けっきょく全員が納得いくことはない。むしろ、ほとんどの人びとは自らの敵であった「妖術使い」が捕縛の網を逃れたと知るだけなのである。

2.3 開発と妖術

 抗妖術運動はそもそもドゥルマの妖術信仰の性格からすると不自然な点がある。妖術は私秘的なもので、誰それが妖術使いであるとおおっぴらに口に出すことははばかられるような性質のものなのである。第五章はこうした抗妖術運動が地域ぐるみで行われるようになった経緯を植民地時代からの政治、地方行政、開発の観点から解き明かす。
 19 世紀末からこの地に入植してきた白人宣教師たちは当初妖術信仰そのものを文明化に伴って自然と消滅する、単なる遅れた風習とみなしていたが、この想定はまったく当たらなかった。妖術信仰をキリスト教化と文明化の妨げになる迷信と断定した植民地政府は 1925 年に妖術法 witchcraft act を制定し、妖術信仰そのものを取り締まろうとする*12
 しかし、住民はこの法律を「妖術使い」を取り締まるものとしてしか認識できない。植民地政府は妖術信仰が発展の妨げになると考えているために「妖術など存在しないのだから施術(かれらにとってはこれも「妖術」である)を行ってはならない」と主張するのだが、ドゥルマとしては「施術をしてはいけないというのなら、まずは妖術使いをなんとかしてくれ」となってしまう。植民地政府は妖術全体を認めておらず、妖術使いの存在を認めるわけにもいかないが、ドゥルマの現実認識は不幸とその原因としての妖術使い、その対抗策としての施術という図式のもとに成り立っている。
 植民地政府は人びとの抱える問題(不幸への対処)を認識せず、自らの問題(開発の妨げとなる妖術信仰の除去)のみの観点から妖術信仰の実践を取り締まり、そのことによってむしろ人びとの妖術問題は深刻化し、行政は「うまい手」を思いつく。ほかならぬ妖術信仰そのものを逆手にとって、人びとの妖術に対する迷信的な恐れを取り除くことならできるのではないか。こうして四章で見たような抗妖術運動が登場するわけである。

3.

 あけっぴろげで流暢な文体と不安になるほどの明晰さ*13に支えられた叙述は文化人類学の素養なしにも読みやすいものである。なにか自分には理解できないことを信じている人のことを理解したい人、なにかを信じてみたい人、自分がなにかを信じているときになにが起こっているのかを見つめてみたい人、あとはもちろんケニアの海岸地域で行われてる妖術について知りたい人にはおすすめしやすい*14本だ。

 通り一遍のまとめをしたところで以下自由感想。

3.1

 妖術のような超自然的な信念はそういった信念を抱くこと、保持することの両方に困難を抱えている、ようにわれわれの視点からは見える。本書全体を通じて、いざ妖術の信念を持ってしまえばそれは実践を通して真理化するということは説明されたので、前者の問題が残る。
 ただ、ドゥルマ人は全員が妖術信仰の二世信者のようなもので、わたしだってドゥルマ人社会に生まれていたら何の問題もなく妖術を信仰できていたと思う。わたしにとっての根本問題は、周囲の人間が採用している信念体系と異なるどころか相反する信念体系を人はいかにして受け入れるか? ということである。
 

3.2

 苦難の原因はなぜ同じ共同体に属する誰かなのだろうか? 日本人だったら悪霊のせいにしてもよさそうな場合でもドゥルマ社会では悪意ある隣人の妖術攻撃を疑う。妖術攻撃は三重の被害者を生み出す。妖術による攻撃を受けた被害者、妖術使いとして疑われる被害者、妖術攻撃という悪意がいつでも降り注ぐ世界に住むことを強いられる被害者だ。
 そうはいっても妖術信仰は実在する攻撃者の観念から分離して考えることはできないし、妖術使いとして誰が告発されるかはまったくのランダムではない。妖術使いとして告発された人間は、以前から共同体でそうみなされるようなふるまいをしていたのかもしれない*15。そう考えるとかなり遠回しではあるが紛争解決の手段としても機能している。倫理的なことにはあんまり関心がないが、それでもスケープゴーティングをみるとどうしても山羊タイプのわれわれとしては*16心穏やかならぬ気持ちになるが、正義や公正に則っていないというだけではある習慣をやめる十分な理由にはならないし、そもそもそれが不正義や不公正であるとみなされてはいないかもしれない。妖術使いとして告発された人は、「妖術はかけていないが、もしかしたら口に出した悪口がそのまま呪いとなるような妖術を持っていて、かつそうした悪口ととらえられかねないような悪口を言ったかもしれない」というラインまで後退することによって、自らを妖術使いとみなしているかもしれないのである(273-274頁)。
 スケープゴーティングが全くなく、すべての人はやっていないことについて責任を取る必要が全くなく、あらゆる人が実体的真実発見主義を取る世界であれば、人々は瓜田に履を納れるようになるのかもしれないし。まああと悪霊とか鬼より隣人の方が想像しやすいし。

3.3

 序章の「知っている」と「信じている」の区別に関する議論では、ある信念が知識であるかどうかはそれを判断する語り手の言説空間内に異論が存在するかに依存することになってしまうが、知識について枠組み相対主義を取るのか。真理についても枠組み相対主義を取るのかはわからないが、もし取らない場合は知識が真理ではないこともありえるのだな。とかいろいろ考えたが、あくまでもここでなされているのは哲学やさんが言うところの「知識」「信念」「真理」概念の分析ではなく、むしろ人びとが「信じている」という言葉を使うとき、それはじっさいになにを意味しているのか、という分析であるらしい。しかし

信念と知識との違いについてすら、それを2つの異なるものの間の違いとして示すことに、哲学は一貫して失敗しているように見える。(14頁)

 は言い過ぎでは?

4.

 結局のところ自分の属するものとは異なる信念体系を理解するためにはやってみるしかない。
 わたしの主な悩みは友人が一人もいないことなので、誰かに妖術をかけられていることにする。さいきんはアプリで占い師に相談することもできるので、自らがどのような攻撃を受けているのかを占ってもらい、必要であればクブェンドゥラを行う。鶏も殺す。攻撃が止まなければ占いによって誰が攻撃者であるかを探し出す。必要であれキラボも行う。攻撃者は震えて眠れ。

*1:言うほど意外か?

*2:読んでないが。

*3:えてして現実の苦難

*4:疑似科学はちょっと違うけど。

*5:近藤英俊、2015年 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005733109

*6:浜本満「他者の信念を記述すること――人類学における一つの擬似問題とその解消試案」『大学院教育学研究紀要』9巻, 2007年

*7:いっぽう神やエイリアンの実在を「知って」いる人がいる。かれらにとってかれらの属する言説空間内ではこういった命題に異論がない。わたしにとって興味があるのはむしろこうした人たちがこういった命題を信じる(わたしが属する言説空間からはかれらは神の実在を「信じて」いるとしか言えない)にいたるプロセスである。

*8:もちろんうつ病、不和、エイズであっても、かれらにとってはそれが妖術にかけられた結果であるという説明は依然として説得力を持つのであるが。

*9:施術師の判断で片方にしか薬を塗らない場合もあるらしい。

*10:日本人にはなじみのない固有名詞が多すぎてそもそも要約しづらいというのもある。

*11:男とかれの複数の妻、その子どもたちからなるドゥルマの生活の基本単位。

*12:妖術法そのものが妖術を否定しておきながら、付帯条項で「妖術を用いることによって、あるいは試罪施術を行うという名目のもとで、またはその他任意の呪物の仕様によって、故意の殺害を行った者」に対して死刑を適用すると定めていて、まるで妖術の実在を認めているかのような記述になっているのがめちゃくちゃおもしろい。Impotentia excusat legem ではないのか?

*13:含みのあるニュアンスだがわたし的には手放しの賛辞である。

*14:価格を除けば

*15:「くじ」じゃん。

*16:メエメエ

ウィリアム・ギャディス『JR』と四角のうちにすむ芸術家たち

——三年がかりで模索し洗練し修正し拒絶し選択し続けてできあがった文章が、
あかの他人に、三十分にも足らない時間で、味わわれたり、読まれたりする
ポール・ヴァレリー

 

JR

JR

 

  

 ウィリアム・ギャディス『JR』は特徴的な文体の小説だ。その叙述の特徴を見、それがどのような方針に基づいているのかを確認しよう。その方針はどのような問題意識から要請されているのかを考察しよう。そしてその叙述の特徴は物語内容となんらかの関係を持つのか、持つとすればそれはどのようなものなのかをみてみよう。

 

1. 特徴

・ほとんど会話文から構成されている。(F1)
・間投詞、言い間違い、繰り返し、口癖、口ごもり、等、現実の会話では普通に見られるが小説では通常刈り取られてしまう表現の多用。(F2)
・改行、カギカッコ、省略形のピリオドといった発音されない記号の忌避。(F3)
・場面転換を登場人物の移動や電話によって行う。(すべてのシーンは空間、時間、登場人物のいずれかによって前のシーンと連続する。)(F4)
・地の文(としてみなせる)描写では「ものや人の動き」などが、誰が書いても同じようになる文体でごくわずかに書かれるのみである。(F5)

2. 方針

・物語世界内の音声をメインに描写を組み立てること。(P1
・音声によって説明できないことはいわゆる「地の文」によって説明してもよい、ただし、物語内、物語外の「語り手」の存在を想起させるような表現は廃する。(P2

 
 まずは特徴と方針を列挙した。以下で少し詳しく説明する。

 P1 について。物語世界内の音声*1とは物語世界内の登場人物が聞き得る音のことである。そして、P1 の徹底から F1~F3 が出てくる。

・小説という物語世界内において音声はほとんど会話であることから、会話文が主体となる。(F1)
・聞こえた音声はそのまま*2文字にされる。(F2)
・「ジェイアール」という発音を J. R. と記述したとしたらそれはたとえば「ジェイアール」を「J からはじまるファーストネームと R からはじまるミドルネームが省略された愛称として認識する」という解釈が(どこかで)行われていることが含意されてしまう。「ジェイアール」という発音だけからでは J. R. という表記は導くことができない。こうして非音声的な記号は極力退けられる*3。(F3)

 P2 について。物語世界内の描写は 基本的に P1 に基づく音声的な描写でなされなければならない。そのため、ほとんど会話文だけであらゆることを描写するためにいくつかの特徴が出てくる。

・発話者を示す「――と○○は言った」のような標識はもちろん書かれないため、そのままでは無意味な口癖や間投詞が発話者の特定に用いられる。(F2)
・大きな出来事ですらその事件が起こっている場面を直接描写されず、事後的に登場人物が話題に出したタイミングで読者に情報が与えられることがある。(F6
 そして、たとえ会話文だけで描写することができない場合補助的に地の文が用いられるが、この地の文は限りなく透明な*4ものでなければならない。
・場面転換が登場人物の移動や電話のコールなど、「物語世界内で起こること」に付随して行われるのは「語り手」が「場面転換」という行為を行うことができないためである。(F4)
・地の文におけるすべての文は単純な構文の命題で表され、モダリティ*5表現は用いられない。(F5)

 

3. 問題意識

  さて、ではなぜ『JR』はこんなややこしい*6文体を採用したのだろうか。ポストモダン文学だから?
 たしかに錯綜した文体がエントロピーうんぬんを表している*7みたいな観方が無効なわけではない。ジャック・ギブズは熱力学第二法則を説明しながら物語に現れる。というかエントロピーといえばピンチョンだし。とはいえ、小説が閉じた系かどうかはよくわからない*8し、そもそも文体のエントロピーってなんなのかもよくわからない*9。作家ギャディス自身にそうした意図があったとしても、あまり面白くない隠喩なのでここでは取り上げない。
 あるいは、この文体はそのままアメリカの現代の喧噪や金融業界を表現しているとする意見もある。こちらはまだ有望な見方だ。

 しかし、ギャディスがこんな文体を用いたのは積極的になにかを表現するためでなく、むしろこうすることしかできなかったからではないかと考えたほうが納得がいく。ギャディスはふつうに小説を書くことに耐えられないのだ。そのことを確認するために以下かなり遠回りをすることになる。


3.1 全知の語り手を殺す―—フローベール

 いきなり文学史の話になるが*10、小説における文体はディエゲーシスからミメーシスへと移行していったという歴史がある*11。そもそもディエゲーシスとミメーシスとはなにか、説明すると逸脱がひどくなるので註で簡単に説明するにとどめる*12が、ディケンズのような典型的ディエゲーシス優位の文体を破壊するために19世紀後半からの作家たちはさまざまな手法を開発した。

 全知の語り手たる作家が自由に場所や時間を移動し、あらゆる登場人物の心中に立ち入って、物語世界をなめらかに語り尽くす。19世紀前半までの小説とはそういうものであった*13。この時期までの作家にとって語り方 discours は物語 histoire を伝えるための手段にすぎない。

 とはいっても、地の文で「かれは……と思った」と書いたその数行後に「彼女は……と思った」と書けるお前は何様なのだ?
 語り手の都合で物語世界を語らせないこと。そのためには、語られるべきことを物語内にある材料で表現しなければならない。19 世紀後半からの作家たちにとって、新しい語り方の開発が急務であった。

 こうして、地の文に作中人物の視点を溶け込ませるために発明されたのが先の注の中で言及した自由間接話法だ。

 芳川泰久訳『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、2015)の訳者解説では

階段に足音が聞こえた、レオンだわ。

という文が自由間接話法の例として挙げられている。自由間接話法が用いられているのは「レオンだわ」の部分である。この「レオンだわ」は全知の語り手による物語世界内事実の描写ではなく、ボヴァリー夫人がそう思った、という情報である。
 これのどこが文学上の技法の一大変革なのか。それは情報を登場人物の視点から制御するようになったことである。
 日本語だと直接法のセリフをただ地の文に紛れ込ませただけのようにしか見えないが、フランス語原文では地の文の語りと時制が一致しているのがわかる*14。三人称を用いて語られる地の文が、ボヴァリー夫人という作中人物の視点による情報量の制約を受けるのである。
 この場面でエンマは部屋の暖炉のそばで夕食を食べているので、階段の足音を聞いた時点ではそれがレオンであると確信することはできない。これがもし「階段に足音が聞こえた。レオンだった」と書かれていれば*15、それは神の視点がエンマの知らない情報を語っているということになる。小説をじっさいに自分でも書いてみればわかる。そういった書き方をすると、というか、していることに気づくと*16、なぜか気持ちが悪くなる。

 なぜわれわれは全知の語り手を物語から追放したいのか。全知の語り手がすべてを知ったうえで、読者にとって知る価値のある情報をかれの望む順序で与えることによって物語世界を想起させるというやり方は、物語世界の語り手に対する従属を意味するからである。
 小説を読む人間は当然それが作り話であることを知っているが、それが作り話でないと信じているフリをしながら読んでいる。物語世界のリアリティを信じようとするその努力を無駄にするのが全知の語り手による説明的な描写なのだ。全知の語り手が物語世界をディエゲーシスするごとに語り手の作為性や編集が鼻につくのなら、物語世界内の声に語らせる=ミメーシス度を高めることで抗うしかない。

 

3.2 全知の語り手を殺したら――ジェイムズ

 全知の語り手の亡き後を語る前に少しだけもっと過去のことを見ておく必要がある。
 実は、19 世紀的な全知の語り手による三人称小説というのは 18 世紀までの一人称の報告体による小説へのアンチテーゼとして生まれたものだった。一人称の報告体小説というのはつまりロビンソン・クルーソーを想像すれば早い。そこでは語る人物が視点人物であり(事後的な報告だから物語世界内の時間と語りの時間にずれはあるが)、先に説明したような物語世界のリアリティを損なうような陥穽はない*17。ではなぜ作家たちは全知の語り手による多元的三人称の語りを生み出したのだろうか。
 話は単純で、一人称小説では書けることが私的なスケールにとどまるからである*18

 というわけで、先述の全知の語り手が物語世界の実在性を脅かすことの解決策として、ただ過去の一人称小説に回帰することはできない。
 そこで現れたのが自由間接話法なわけだが、作家たちの創造性はさらに次の手を繰り出す。たとえば意識の流れがそうだ。自由間接話法を取り入れて発展したこの手法では個人の意識を書くことそのものを主題化した。というより、個人の意識を書く手法を主題化した。

 ここではモダニズム直前の作家、ヘンリー・ジェイムズを取り上げよう。「メイジーの知ったこと」である。

 メイジーは幼い女の子で、両親は離婚したが互いに親権を譲らない。そのためメイジーは半年ごとに両親の家を往ったり来たりするという複雑な生活を送る羽目になるのだが……というあらすじの小説だが、あらすじよりも重要なのはこの小説の地の文がメイジーの視点から書かれていることだ。とはいっても、六歳の女児の語りによる一人称小説という意味ではなく、この小説の語り手はメイジーの視点から物語世界を語るという意味である*19
 三人称を用いて書かれた小説で、かつ物語世界内の一人の人物の視点、情報を用いて語るという手法は 19 世紀の小説の語りを超えるものだが、「メイジーの知ったこと」の面白いところはその手法を主題のために奉仕させたところにある。
 物語のはじめのメイジーは六歳児なので当然その現実認識や価値判断は大人のように判明ではない。そんなメイジーを視点に据えることで大人たちの汚い欲望渦巻く世界を相対化し、思いっきり皮肉を利かせることができる。愛憎渦巻く世界を、その愛憎からもっとも離れた登場人物から描くことがジェイムズの目論見であった。そして、この小説は当然メイジーが「知る」ことで変化するという話でもあるが、これも視点を固定することによって成功している。

 

  まとめよう。あまり紹介するといくら時間があっても足りないので割愛するが、ジェイムズやそのあとのモダニズム作家たち*20は 19 世紀的な小説の語りの節操のなさへの批判から、語り方のスタイル、形式に強烈な執着を見せた。かれらが物語るときは、「誰が」「どこから」「なんの資格で」語っているのか、常に自覚的であったと言っていい。
 全知の語り手が成形した物語世界は消え、「誰か」の視点から物語世界を描くことが可能になった。しかも、えてして説明的な(ディエゲーシス度の高い)心理描写は抑えられ、物語世界に現れた素材(セリフ、身振り)からそれを推察させたり、三人称の語りに自然と物語世界内の人物の内心を溶け込ませることで、かなりの程度小説から「作り話」感を味わわせるような興ざめは消えた、はずだった。

 
4. そして物語世界が歌い出す

——くそ、問題は声に出して書かれる、、、、ために読まれた、、、、文章じゃないってこと。(744 ページ)

 こんなに物語とその語り方は進歩したのに、ギャディスはまだ気持ち悪さを覚えていた。かれの目にはそれまでの文学における語りがすべて嘘に見えている。
 語り手が存在する限りこの気持ち悪さは消えそうにない。語り手はどうやったって物語世界内にある素材から自由にそれを取捨選択し、配列し、加工し、編集する。さきの「メイジーの知ったこと」の例で言えば、たしかに物語世界の語り手はメイジーの視点からつつましく自らの判断を交えずに物語世界を描いている。しかし、メイジーの見聞きしたものからテーマに関連するものを選んで記述したこと、そもそもメイジーの視点を採用したこと、文章表現上に直接現れないところに語り手の権力は依然強く働いている。
 文学はその表現の細部でディエゲーシスすることをやめ、ミメーシスするようになってきたが、小説全体の構造としては相変わらず物語世界をディエゲーシスするなにものかがいる。ギャディスにはそれが耐えられなかった。
 ギャディスの頭の中に物語世界はある。この物語世界にそのまま語らせたいというのがギャディスの願いだった。語りの作為性から逃れたがるギャディスの潔癖な戦いがはじまる。
 物語世界にそのまま語らせたいのであれば、盗聴器と隠しカメラ*21を使うのが一番である。こうして『JR』の語り手(そう、どれだけあがいても語り手は存在するのだが)は『JR』の物語世界における舞台のそれぞれに盗聴器と隠しカメラをセットし、マサピーカ郊外のバスト邸からその録画と録音を再生し、息をひそめる*22。以降この語り手はシーンを移動するわずかな瞬間のみ顔を見せることになる。

 盗聴器は物語内の音をすべて録音し、再生する。語り手は手を加えずにそれを文字に移す。注 3 のようなルールも使えば、声を文字にするのはそんなに難しくない。小説というのは単線的な表現形式なので、一度に描写できるのはどうしても一場面である。そのため、場面は移動する必要があるのだが、F4 のように、物語世界内の人物の移動や電話によってこっそりと場面移動を行うことで、語り手の都合によって場面が切り替えられた、という印象は極力抑えられる。
 ある場面で語るべきことをすべて語ったら、改行を挟んで、「別の日……」式の場面転換は語り手の強権の乱用に他ならない。ギャディスは視点移動においてすら、語りの内的論理より物語世界の秩序を重んじた。
 さすがに音声だけでは描写しきれない*23ので隠しカメラも使う。ただし、そこに語り手の主観的な評価はさしはさまず、誰が描写しても同じになるように、「○○が××した」とだけ描写する*24。価値語でない、客観的な形容詞や副詞は用いてもいい。

 ところで、なぜ視覚情報より音声情報を優先するのか。答えは音声情報のほうが文字列に変換する際の齟齬が抑えられるためである。

 発話するという行為それ自体は「音を出す」行為である。発話された「音」は高低や強弱などのイントネーション、声色、話すスピードなどの文字列に移し替えられない要素を多々持っているとはいえ、われわれが発話するときに想定されている「音素の並び順」そのものはアルファベットによって完全に写し取ることができる*25
 ところが、視覚情報は一度抽象されないことにはまず文にすることができない。今あなたが見ている景色そのものを文章化することを考えてみてほしい。いや、あなたは今わたしのブログを読んでいるのだが、視界の端にはモニタのベゼルが移っているかもしれない。机の上には『JR』もあるはずだし、この本は大きいから視界に入っている可能性も高い。それなのに、あなたはいま見ている景色を「わたしはいま『JR』について書かれたブログを読んでいる」とだけ表現するかもしれない。しかもこの表現には無数のヴァリエーションがありうる。この記事を読んでいないなら、「『JR』について書かれたブログをモニタが表示している」と書いてもいい。結局のところ視覚情報の文章化はそれを抽象化して語る人間の当座の関心によって大幅にぶれるのだ。

 そのため『JR』の語り手は、よりミメーシス度の高い音声情報に重点を置き、視覚情報はあくまでその補助として用いることを決めた。音声情報によって物語られる物語世界の補助という目的に限れば視覚情報の文章化にも一定の制約がかけられる。

 強烈なまでのミメーシスへの欲求、と、いうよりも、語ることへの忌避感がなければ、こんな特異な叙述形態にはならなかったということが理解できるだろうか。 

4.1 補足 

「地の文が視覚情報を「○○が××した」という形式で描写するのならば、それはディエゲーシスではないのか?」という疑問は当然であるが、ここで「○○が××した」という文がミメーシスである会話文の補足という性質を持っていることを考慮してほしい。物語世界内で起こっている無数のことから語り手の判断によって抽象、把握され、語られた文であればそれはディエゲーシス度が高いと言えるが、『JR』における「地の文」は事情が少し違うことがわかるだろう。もちろん完全なミメーシスではないが、完全なディエゲーシスでもない。

 

 5. 『JR』の物語世界

  ここまで『JR』の叙述の特徴とその方針、背景にある問題意識を見てきたが、これでやっと『JR』の物語世界そのものについて話をできることになる。

 さて、『JR』の叙述の特異さがじつはなんらかの積極的表現を追求する実験というよりも、ギャディスの潔癖が要求するものであったといちおう結論しているわけだが、潔癖が要求したというだけでこんな文体の小説を書かれても、ただちにそれが美的な価値を持つわけでは全くない。ギャディスの潔癖をよく表現しているから美なのだとするのであれば別だが*26、この表現様式は当初の目的とは別のところで積極的な意味を持つようになったと考えた方がひとまず有益であるように思える。

 では『JR』の主題は? 金と芸術だ。

 

5.1 文学史と金

 なぜ文学は金の問題を扱うのだろうか? もっと深い人間理解に到達するために、たとえば愛のことだけ書いたらよいではないか。それでも作家たちは執拗に金の問題を描写し続けた。
 リアリズム作家にとって金銭の問題を描くことは現実世界とそこに生きる人々を写し取るのに必須だったし、リアリズムや自然主義者たちの手法がモダニストたちに否定されたところで、当のモダニストたちが金銭の問題を好んで描いている。

 なぜ金か? わたしは昔から文学作品において登場人物が金の話をするシーンを見ると興奮してしまうところがあった*27ボヴァリー夫人がルルーに金を借りる描写は何度も繰り返され、しかもそのやり取りの細部への執関心は執拗としかいいようがない。ゾラの『獲物の分け前』なんかはそのまま 19 世紀半ばのパリの経済ゲームを主題にしている。ヘンリー・ジェイムズの後期作品、とくに『黄金の盃』はアメリカの富を扱っている。ヴァージニア・ウルフなんか作品どころか本人が年収 500 ポンドを欲しがっている。日本文学でも事情は同じだ。夏目漱石はとくに金銭の貸し借りに執着した作家だ。『三四郎』では「三四郎、美穪子、宗八」の三角関係より「三四郎、美穪子、与次郎」の三角関係(つまり三四郎は与次郎に金を貸し、そのため金がなくなった三四郎は美穪子から金を借りる)のほうがよっぽどエロティックだ。三四郎は美穪子に三十円の借りがあるが、そういえば西洋文明の根幹にはれいの銀貨三十枚分の借りがあるのであった。

 金の貸し借りのあるところには人間同士の強い結びつきが生まれる。その結びつきは愛情や友情、あるいは敵意などの感情的なものからくる結びつきよりよっぽど強い。作家たちはそれに気づいていたからこそ、むしろ金銭的な力関係を軸に人間関係を描けると考えたのではないか。
 ロドルフは平然とボヴァリー夫人を捨てることができた。その絆がたかが恋愛であって、金銭でなかったからだ。反対に、ルルーとボヴァリー夫人の結びつきはロドルフとボヴァリー夫人のそれの何倍も強い。結局のところボヴァリー夫人が破滅するのはルルーのせいなのだ。

 しかし、愛よりも金のほうが重い、この事実にいち早く気づいたのはリアリズムを待つまでもなく、まずゲーテその人だった。
 H. C. ビンスヴァンガーは『金と魔術*28』の中でゲーテの『ファウスト』が「近代の経済現象の本質は錬金術的なものである」というテーゼの元に構成されていると主張した。

 錬金術は二つの目的を持つ。一つ目の目的はエリクサーを作り出し、永遠の若さと長寿、精力を生み出すこと。二つ目は固体の金を作り出すこと。
 戯曲『ファウスト』は周知のとおりファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの賭けをめぐる物語である。メフィストーフェレスの勝利条件はファウストを心の底から満足させること、その人生最高の瞬間に対して「とまれ、お前はいかにも美しい」と言わせることである。
 かくして『ファウスト』の第一部は錬金術の一つ目の目的に対応する。メフィスト―フェレスは永遠の若さ、長寿、精力をもったファウストがグレートヒェンとの愛の享楽を経験することで先のセリフを言わせようとした。しかしこの試みはもちろん失敗する。
 第二部は二つ目の目的に対応する。地中に埋蔵されたありもしない財貨を担保に兌換紙幣を発行する(!)というきわめて経済学的なあらすじだ。途中を端折ると、結局のところファウストが上記の「とまれ、……」を言ってしまうのは、かれが皇帝から得た土地が繁栄するヴィジョンを幻視したときである*29

 愛の享楽よりも経済的な達成こそを人間が欲求することをゲーテは描いていた。

 

 じつに脱線だらけだが、文学が金の問題を書くことがそれほど奇妙なことでも、邪道なわけでもない、むしろそれが伝統的な素材であることが確認できたとしよう。

 

5.2 『JR』と金

  JR もまた金に取りつかれたキャラクターである。JR のお金もうけは確かに最初はかれの金銭的欲求によって始動されたが、そのあとの展開はむしろ金の動きそのものに JR が引きずりまわされていると言った方がふさわしいようなものになる。JR の金儲けはストックを増やすことではない。フローを拡大し続けることだ。というか、近代以降の経済におけるすべての金儲けはこういう形をとるしかない。そこでは人間が経済を動かすだけではなく、むしろ経済が人間を動かしている。

 JR のひたすら拡大し続ける事業は必然的に周囲の人間を巻き込む。この小説の語り手は前述のように非常に限られた権力しか持たないので、ストーリーを展開させる力が非常に弱い。ギャディスはこの経済が拡大しようとする力を物語の進行に使うことにした。また、エドワード・バストが JR の事業に手を貸すことになったのは金銭の貸し借りが原因だ。経済の前に進んでいく力と、金銭の貸し借りが人を縛る力の二つを用いてこの小説は物語られていく。

  そして、なぜ JR は子どもなのか? 大人が金を求めるときには動機がある(ようにふるまう)からである。JR においては金の流れの自律性こそがテーマであったから、金が金を求めることを表現するためには、まったく無目的に、金をそれが金であるという理由で求める子どもを主人公に据える必要があったからだ。

 

5.3 『JR』の芸術家と金

——して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、
三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
夏目漱石草枕

 

 『JR』のもう一つの大きな主題が、こうした暴力的な現代の経済の中に芸術家はいかに生きているのかという点にあるのは明白だろう。

 『JR』には五人の芸術家が登場する。エドワード・バスト、ジャック・ギブズ、トマス・アイゲン、シェパーマン、シュラムだ。かれらはそれぞれに挫折している。バストは金がないために自分の創作をすることができない。トマス・アイゲンは一度傑作をものしたが、今では生活のためにスピーチ原稿を作成している。シェパーマンは絵を描くために血を売り、金を持っているパトロンに認められずに苦悩する。

 ウルフが挙げた年収 500 ポンドと鍵のかかる部屋という条件を取り上げてみよう。ウルフが述べたのは女性が文学をものするための必要条件だったが、エドワード・バストの創作活動を阻害しているのもこのふたつの条件だ。ただし、ウルフの言う年収が不労所得で、鍵のかかる部屋はプライバシーのために必要だったのに対して、バストが求める年収というのは JR からの賃金やスポンサーからの収入だった。バストが求めているのはプライバシーなどという高尚なものではなく、静寂な自分だけの時間だった。バストの部屋には鍵がかかるが、多くの人間が訪れるし、無数の郵便物が届くし、そもそも鍵がかかっていたところで電話はかかってくる。
 ウルフの時代から数十年、芸術家の要求はだいぶ慎ましくなった。芸術はほかに不労所得のあるものが余暇でするものではなくなり、芸術家は自らの芸術を社会やパトロンに認めさせることで、あるいは芸術とは全く関係のない仕事で生計を立てることを自然に受け入れている。

 そんなふうに世間と経済的なかかわりを持ちながら生活することを受け入れた芸術家たちにとって、世間に自らの芸術を、評価させることは大きな関心事となる。芸術が好評を博し、金銭的な見返りを得ることは、次の創作のために必要なことであるからだ。

 そんなわけでエドワード・バストは JR に芸術の価値を認めさせようとするが、JR にはもちろんカンタータの良さがわからない。映画のために作曲を依頼してきたクローリーは楽器の違いさえわからない。それでもかれらは金を渡してくれる。

 では、『JR』は、美的には愚鈍だが金を持っている層にへつらって芸術の世界に生きようとする崇高な芸術家たちに希望を見出すという筋書きなのだろうか。『JR』のテクストはむしろ芸術家たちにも冷めた目線を注いでいるように見える。

 現代世界で芸術を成り立たせているのは金を持っている側だ。エドワードが芸術の価値を人に語るとき、それが金のためであるとは認めないだろうし、本人もそうは思っていないだろう。しかし、かれらの真の動機を金を持っている側は見抜いている。

そしてバスト君、わしの信頼を示す証拠として、手付金を二倍に引き上げさせてもらおう。(551 ページ)

芸術だの文学だのとご託を並べている連中が本当に言いたいのは原稿料の前払いをたんまりよこせってこと、(638 ページ)

 しかも、かれら芸術家たちはじっさいに芸術的に優れた能力を持っているかという点についても『JR』の記述はあいまいだ。バストの作曲は難航し、オペラを作るはずが最後には組曲を作る計画にまで後退している。ギブズの文章はどうみても浅薄な引用の寄せ集めでしかない。

 じつは、『JR』の中で真に芸術的な世界に生きている存在は、一人しかいない。知的障害を持つフレディ・モンクリーフである。フレディについて、自身芸術家であるはずのギブズが寄宿学校時代を思い出してこう言っている。

ところがト長調メヌエットを聞くときになると俺達には聞こえない何かが明らかにそいつには聞こえてた(615 ページ)

  知恵が遅れ*30ていることによって理性という一角を欠いた三角の世界に住んでいるフレディのみが真に芸術家であると読み取るのはいきすぎだろうか?

 とにかく、『JR』は四角の世界に生きる芸術家たちとそれを取り巻く資本主義社会についてできるだけ中立な観察をしようと試みている。そう結論付けておきたい。

 

 6. まとめ

 いろいろあって、『JR』は複雑化した現代経済、現代社会の混沌を描いており、またそこに生きる芸術家の姿を描こうとしている、というきわめて穏当な、というかたぶん常識的な読み方に落ち着いた*31
 ギャディスはたぶんポストモダン作家ではない*32。一目には強烈に特異な文体も、形式へのこだわりから生まれたものであって、しかも物語世界に対する愛着やテーマに対する真摯さはかれのなかで非常に強いものだ。
 モダニズム文学はどれだけ実験的な手法を用いても、それは表現を真に迫らせるためであり、作品に統一的な意味を持たせるためだった。文学におけるポストモダニズム*33ある種の開き直りから、不確定性や虚構性に耽溺し、書くことは真剣な主張をすることではなく、それまでの文学のまじめさに対する批判的な目線を持って、自覚的に言語で遊ぶことになっていった。そういう意味で、ギャディスはポストモダン作家ではない。

 ギャディスはたぶん大真面目に現代社会で芸術をするとはどういうことなのか、について考えていた。『JR』の描写はまじめすぎて、明白な答えを与えてくれるわけではない。『JR』は資本家にも芸術家にも等しく辛辣であるし、とはいえ現代社会から遊離して生きることはできない。

 加速し続ける資本主義経済と喧騒のアメリカ社会のうちで、いかに芸術家は存在できるのか。それでももしこの問いに答えらしきものがあるとするならば、はじめて世に問うた著作が無視され、賃金労働をしながら、諦めずに自らのやりたいことを追求した大作を完成させることができたウィリアム・ギャディスという作家そのものに求めるべきだろうか? それではロマンチックすぎるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:映画論で diegetic sound と呼ばれるもの。ただし映画論における diegetic という単語はもちろん diegesis に由来するが、ナラトロジーにおける Diegesis とは違う意味合いを持っているため混乱のもとかもしれないと思って注に回した。

*2:「音声をそのまま文字にする」ことが可能であるのかは別に論じる必要がある。後述。

*3:また、日本語訳では適宜補われているが、原文では句読法も標準的な用法からかけ離れている。
竹本憲昭「 雑音と断片 : ウイリアム・ギャディスの「JR」について」(『 奈良女子大学文学部研究年報』42巻、1998 年)
たとえばこの論文で紹介されている
——Yes no wait look listen Mister Davidoff {...}
という箇所は木原訳では
——ええ、いえ、待って、あの、聞いてください。デビドフさん、
と訳されている。
原文においてダッシュ "——"  はおそらく発話者が変更されたタイミングで挿入され、リーダ "..." はその箇所では(たとえば電話先の)相手がしゃべっているため沈黙していることを表している。電話の相手がその場にいないために盗聴器が録音できなかった沈黙を埋める記号ということだ**¹。また、カンマは文の意味とは無関係に、息継ぎのタイミングで挿入されている。つまり、発音されない記号もすべて音声を機械的に反映する形で用いられていると考えられる。
 **1 ただし、電話相手の声が叙述に現れるシーンもある。736 ページ下段のような例だが、ここでは受話器が地面に落ちていることに注意。受話器が落ちることでその場面の盗聴器は電話相手の声を拾うことができるようになったのだ。

*4:後述。

*5:「きっと」「もちろん」「まさに」「~ね」など、「話し手の判断や感じ方、主観的な態度」を表す部分。文は命題を表す部分とモダリティを表す部分でできていると考えられる。

*6:ただし、発話の内容や形態(敬語法など)から発言者や状況を推測する必要があり、句読点やカギカッコに頼ることができない点だけでいえば日本語の古文と大差ない。

*7:Thomas M. Sawyer "JR: The Narrative of Entropy" International Fiction Review 10 (2), 1983
木原善彦『実験する小説たち』(彩流社、2017)

*8:定義による。

*9:定義による。

*10:以下、文学史に詳しい方は 4. まで読み飛ばしていただいてかまわない。

*11:阿部吉雄「ディエゲーシスからミメーシスへ : 虚構言語における状況定位表現の歴史的変遷」(1)~(5)『独仏文學研究』他に掲載。

*12:「ディエゲーシスとミメーシス」は「説明と描写」「語ることと見せること」と言われるとわかりやすいことが多いようだ。ディエゲーシスにおいては物語世界内の出来事は物語世界の外から客体化して語られる(物語世界内の始点が物語世界を客体化して語ることもできるが)。ミメーシスにおいては物語世界内の事物がそのまま模倣される。「メロスは激怒した」という地の文がディエゲーシスで、「「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ」」というセリフがミメーシスである。セリフは完全にミメーシスだが、地の文がすべて完全なディエゲーシスであるわけではない。たとえば自由間接話法は地の文にミメーシス性を持たせる試みの一つとみなせるだろう。

*13:物語世界外の語り手が異質物語世界的で焦点化ゼロの語りを行う。

*14:« Elle entendit des pas dans l'escalier: c'était Léon. »

*15:ちなみに筑摩版全集の伊吹武彦訳では「階段に足音が聞えた。レオンであった。」となっている。

*16:だいたいは自分が語っている物語に夢中で気づかないだけ。

*17:ただし、一人称の報告体小説においては語り手がみずからの体験=物語世界をディエゲーシスしていることには注意が必要だろう。語り手はその体験を語る価値があると思っていて、物語の形に編集している。そこでは物語世界が直接語るのではなく、あくまでも語り手が体験をもとに創作した物語を語っている。

*18:デフォーの、つまり近代小説の起源には決義論の影響が見られる。一人称小説が最初に主題にしたことは一人称の語りによって扱える、かつ一人称の語りで扱うのがふさわしい題材、つまり良心の問題であった。
河崎良二「デフォーと十六、十七世紀イギリスの決義論」『人間文化学部研究年報』8(帝塚山学院大学、2006)

*19:物語世界外の語り手が異質物語世界的だが固定内的焦点化された語りを行う。ちなみに、『ボヴァリー夫人』の語りは不定内的焦点化に分類できる。ただし、語りの水準と人称は極めて複雑。

*20:マルセル・プルーストジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフウィリアム・フォークナーアーネスト・ヘミングウェイ……

*21:登場人物に意識されない感覚器官であればなんでもよかったので最初は「一個の不可視の耳と目」とか言おうと思っていたのだが、『実験する小説たち』で「盗聴マイク」という比喩が使われていて便利だと思ったのでマネすることにする。

*22:いわば、物語世界内の非人格的な装置異質物語世界的で外的焦点化された語りを行う、とまとめられよう。

*23:面白いのはこれだけ寡黙な地の文が、セックスを描写するときだけやたらと饒舌になることである。人は行為中にあまりペラペラとしゃべるものではないので仕方ないが、それにしてもこの表現上の外れ値はなにか注目すべきであるようにも思える。たとえば 594 ページからの描写はほとんど普通の小説みたいではないか?

*24:注 4 の「透明な地の文」とはこれを指している。

*25:ただし、再現されたアルファベットの並びからもとの音素の並び順を再現することが完全に可能というだけで、発話された音素の並び順から一意にあるアルファベットの並びを導くことはできない。同音異綴語や、わかち書きの問題を考えれば明らかだ。結局のところ語り手は実際に発話された音声だけから文を作っているように見えて、発話者の頭の中にある言語をこっそりと参照している。書かれたことばと話されたことばについては
野間秀樹『言語存在論』(岩波書店、2018)が参考になる。

*26:じっさいそう結論することは可能ではあるが。

*27:誰にも趣味を理解されたことがない。

*28:ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー『金と魔術』(法政大学出版局、1992)

*29:かれが干拓工事の進捗する音と聞き間違えたのは、じっさいにはかれじしんの墓穴を掘る音であった。

*30:原文ママ

*31:まだ一回読んだだけなので二回目、三回目と読んだら感想は大いに変わることだと思う。

*32:ちなみにこんな益体もないリストが存在する。けっこうおもしろい。『JR』もポストモダン文学に括られているが、まぁ『ハムレット』もここではポストモダン文学だとされているようだし……。

*33:といってもじつはあんまり読んだことないが……。

第 27 回文学フリマ東京に出ます

文フリに出ます。

 

いつ:11 月 25 日(日)

どこで: 東京流通センター 第二展示場

スペース:1F B-11 « Carte Blanche »

なに出すの:純文学小説合同誌 « Enfants d'Hiver »

Carte Blanche [第二十七回文学フリマ東京・小説|純文学] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

わたし(田村らさ)のほかに知り合い二名(白井惣七氏と八枝ひいろ氏)が書いてくれます。お二人のカクヨムのアカウント貼っておきます。

白井惣七(@s_shirai) - カクヨム

八枝ひいろ(@yae_hiiro) - カクヨム

わたしのはこれ

田村らさ(@Tamula_Rasa) - カクヨム

 

テーマは「冬の子供たち」です。深い人間理解に到達することが目標です。よろしくお願いいたします。

たぶん 120 ページくらいです。500 円で頒布しようと思います*1

 

わたし以外がなにを書いているのかはよくわかりませんが(11/7 現在まだ原稿が上がってきていないため)、ひとまず私の書く小説を紹介します。

 

 「リングワンダリング」

 イリノイ州に住む少年デイヴィッドは《冬の子供たち》だ。人間ではない。母親も《冬の子供たち》だった。父親とはうまくいっていない。母親は去年死んだ。幼馴染の女の子は最近別の男と付き合いはじめた。この二人と山に登ることになった。低い山だ。とても低い。まだ九月だから、雪が降るはずはなかった。

 

じつは書きはじめたのはもう二年くらい前になります。着手しただけでとちゅうに一年九か月くらいなにもしていない時期が挟まります。現代アメリカの女性作家が好きなのでそういうかんじを目指しました。内容やテーマの細かい説明は気恥ずかしいのと読めばわかるということで省きますが、サムエル記に通じているとよいです。シャーウッド・アンダーソンにも似たようなのありましたね。

 

「冬の子供たち」と言えばマイクル・コニイや Eric Brown に同名の小説がありますし、そもそも « Enfants d'Hiver » はジェーン・バーキンのアルバムからの借用なわけですが、じゃあなんで « Enfants d'Hiver » を合同誌のタイトルにしたかというと、それが "Fictions" のつぎに発表されたアルバムだからです。

 

以上です。当日はよろしくお願いいたします。

*1:大赤字

おすすめの SF について

 おすすめする SF 作品のリストを作れと言われた。そんなものわたしの普段の発言からだいたい明らかだろうとも思ったが、普段の発言に注視されているのもなんだかいやなので素直に作っておくことにした。だから普段からわたしの発言に注視している人にとっては面白みのないリストになると思う*1。というかかなり素直な選び方をしているので誰がみてもそう面白みのあるリストではないと思う。

 特に方途の指定はなかったので一作家一冊で選んだ。二重カギカッコ『』でなくカギカッコ「」になっているものは短編である。収録されている本、雑誌は各自で調べていただきたい。

 ◎となっているものは特に薦めるものである。

 

アイザック・アシモフ『夜来たる』
ポール・アンダースン『タウ・ゼロ』
ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』◎
ジャック・ヴァンス『奇跡なす者たち』
コニー・ウィリス『空襲警報』◎
ケイト・ウィルヘイム『鳥の歌いまは絶え』
ヴァーナー・ヴィンジ『マイクロチップの魔術師』
ジーン・ウルフケルベロス第五の首』
ハーラン・エリスン『死の鳥』◎
ブライアン・オールディス地球の長い午後
オースン・スコット・カード無伴奏ソナタ
ヘンリイ・カットナー『ボロゴーヴはミムジイ』(銀背の方)
アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』◎
ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』
ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』◎
ジェイムズ・パトリック・ケリー「夏至祭」◎
マイクル・コニイ『ハローサマー、グッドバイ』◎
K・W・ジーター『悪魔の機械』
ルーシャス・シェパード『ジャガー・ハンター』
クリフォード・D・シマック『都市』
ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』◎
キジ・ジョンスン『霧に橋を架ける』
シオドア・スタージョン『海を失った男』
ブルース・スターリング『蝉の女王』
ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』
オラフ・ステープルドンシリウス
ニール・スティーヴンスンスノウ・クラッシュ』◎
コードウェイナー・スミス『鼠と竜のゲーム』◎
マイクル・スワンウィック『グリュフォンの卵』
ロジャー・ゼラズニイ『伝道の書に捧げる薔薇』◎
マーガレット・セント・クレア『どこからなりとも月にひとつの卵』
ロバート・J・ソウヤー『イリーガル・エイリアン』
ジェイムズ・ティプトリー・Jr. 『輝くもの天より墜ち』◎
トマス・M・ディッシュ『キャンプ・コンセントレーション』『334』『歌の翼に』◎◎◎
サミュエル・R・ディレイニー『ドリフトグラス』◎
アヴラム・デイヴィッドスン『どんがらがん』
ウォルター・テヴィス『ふるさと遠く』
コリイ・ドクトロウ『マジック・キングダムで落ちぶれて』
ガードナー・ドゾワ「海の鎖」
クリス・ネヴィル『ベティアンよ帰れ』
ロバート・A・ハインライン『月を売った男』
パオロ・バチガルピ『第六ポンプ』
J・G・バラード『溺れた巨人』
テリー・ビッスン『ふたりジャネット』
バート・K・ファイラー「時のいたみ」
ロバート・L・フォワード『竜の卵』
フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』◎
クリストファー・プリースト『逆転世界』
グレッグ・ベア「鏖戦」
バリントン・J・ベイリー『シティ 5 からの脱出』
ルフレッド・ベスタ―『虎よ、虎よ!』
ゼナ・ヘンダースン『悪魔はぼくのペット』
クリス・ボイス『キャッチワールド』
イアン・マクドナルド『火星夜想曲
ジョージ・R・R・マーティン洋梨型の男』
チャイナ・ミエヴィル『ペルディード・ストリート・ステーション』
ウォード・ムーア「ロト」◎
ロバート・F・ヤング『ジョナサンと宇宙クジラ
フリッツ・ライバー『バケツ一杯の空気』
トム・リーミイ『サンディエゴ・ライトフット・スー』
キット・リード「お待ち」
アーシュラ・K・ル=グウィン『風の十二方位』
キース・ロバーツ『パヴァーヌ
イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア「彼らの生涯の最愛の時」

天野邉『プシスファイラ』◎
石川英輔『プロジェクト・ゼロ』
上田早夕里『リリエンタールの末裔』◎
小川一水『天涯の砦』
オキシタケヒコ『波の手紙が響くとき』◎
神林長平『魂の駆動体』
今日泊亜蘭『縹渺譚』◎
久米康之『猫の尻尾も借りてきて』◎
小林泰三『海を見る人』
菅浩江『誰に見しょとて』
瀬名秀明『希望』
高野史緒ヴェネツィアの恋人』◎
籘真千歳スワロウテイル人工少女販売処』◎
飛浩隆『グラン・ヴァカンス』◎
中里友香『黒十字サナトリウム
仁木稔『ミカイールの階梯』
野尻抱介『ピニェルの振り子』
長谷敏司『あなたのための物語』
広瀬正『マイナス・ゼロ』
藤崎慎吾『レフト・アローン』
堀晃『梅田地下オデッセイ』
柾悟郎『ヴィーナス・シティ』
水見稜夢魔のふる夜』
宮内悠介『盤上の夜』
六冬和生『みずは無間』
森下一仁『コスモス・ホテル』
山尾悠子山尾悠子作品集成』
山野浩一『花と機械とゲシタルト』◎

*1:なんでこれが入ってないんだ、みたいな作家や作品がいたらたぶん忘れてるだけなのでこっそり教えてください。

「マジック・フォー・ビギナーズ」、読むこと、演じることと解釈すること

 

 

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

 

 

0.

 アメリカの家庭はしょっちゅう崩壊しては再生する。あるいは、再生しようとする。わたしはじっさいのアメリカ文化を見聞きして知っているわけではないので、これはアメリカ文学を読んだ限りでわたしが認識するアメリカ家庭の話である。

 ケリー・リンクの代表的中編「マジック・フォー・ビギナーズ*1」においても家庭は一瞥して崩壊しかけている。その崩壊はなにに由来するのか。その再生はなにを頼りに行われるのか。愚直に直截的で、もはやデリカシーに欠けるテーマ設定といってもよさそうだが、リンクを読むときにその綺想*2に引きずられて独創的な読みをしようとしたり、曖昧性や解釈の透らなさに積極的な意味を見出すべきではない。批評というのは常に負け戦で、たとえ作家に勝つ*3ことができても作品に勝つ*4ことは原理上できないものであるが、だからと言ってこちらから首を垂れてやる必要は全くないのである。

 そういうわけで、本論の 1. から 4. では「マジック・フォー・ビギナーズ」における家庭の崩壊と再生、そして片手間に未成年男子とはなにか、というつまらない、、、、、問題を、本文に即して扱っていく。くわえて、そこで得られた議論や印象を手掛かりに、5. で議論は一段階跳躍する。


1. 寓意(ジェレミー/ゴードン/アリスの三角関係における)

 細部から始めよう。主人公ジェレミー・マーズとはなにであるか。本である。
 かれはテレビドラマ『図書館』の登場人物である。図書館の中にあるものといえば、ふつうはまず本であると考えられる。また、かれの父親のゴードンは作家であり、母親のアリスは司書である。作家によって生み出され、司書によって管理されるものをわたしたちはふつう本という。

 ジェレミーが本であり、両親が作家と司書であることは、どのように家庭の崩壊につながるのであろうか。ここでまずは本の「書かれた存在であり、解釈されることを待っている」という性質に着目してみよう*5

 ジェレミー・マーズが本の寓意であることはどのように家庭の問題を反映しているのだろうか。

 ジェレミーは父親によって書かれた本である。そして、たいていのことは水に流してうまくやってきたアリスが、決定的にゴードンを否定するのは、「ゴードンがジェレミーのことを小説に登場させ、しかも殺した」ことによる。

 登場人物への歪んだ愛においては右に出る者のいないジョージ・R・R・マーティンが、自らの業について書いた歪んだ小説が「子供たちの肖像」である。レイプされた娘のことを小説として書いてしまった作家/父親の業がここでは描かれているが、ジェレミーについても問題は同じである。作者は自作の登場人物に対して好むと好まざるにかかわらず神のような力を持つが、ゴードンがこの力を行使して、しかも息子を殺すのに使ったことに対して、司書のアリスは激怒せざるを得なかったのである。

 ゴードンが「書店から本を万引きすること」もまた象徴的な意味を持つ。というか、375 ページではもっと直接的に、

僕の人生を盗んじゃったのもいかにも父さんらしい

と書き込まれている。

 このように、作者としてゴードンは子どもであり本であるジェレミーに対してメタに立つ。子どもから見た父親の像を、本からみた作者という構図に象徴しているわけである。

 一方、司書たる母親と本たるジェレミーの関係はどのようなものであろうか。
 司書は本を通読しない。管理し、部分的に利用するだけである。それは彼女の人生に対する態度として表されていて、たとえばシャワーの時間を気にする夫のけち臭さを彼女は努めて無視することができる。万引き癖にも目をつむることができる。ゴードンがアリスに「怖いページを糊で貼りあわせて読めなくした特別版を贈る」のもまた印象的だ。アリスはものごとには良い面と悪い面、自らの趣味に合う面とそうでない面があることを知っていて、それでもものごとを全体的には良いものとして受け入れる術を知っている。(そして、そんなアリスですらゴードンの今回の暴挙には耐えられなかったのである。)

 ただし、この態度は息子のジェレミーに対して全的な承認を与えられていないという感慨や、どこかつかみどころのなさを与えている。

ジェレミーの母親は、何かを隠しているように、秘密にしているように思える人物である。(354 ページ)

 ジェレミーは母親によって十二分に解釈されている(≒全的な承認を与えられている)ように感じられていないし、母親を十分に解釈できているとも思えないのである。


2. 寓意(ジェレミー/エリザベス/タリスの三角関係における)

 両親と子のすれ違いがさまざまな寓意で表現されていることは上で見てきたが、ところでこの小説はもちろんジェレミーと二人の女の子をめぐる青春小説でもある。こちらについて触れないのは片手落ちになろう。

 ジェレミー・マーズは火星である。Mars なんだから火星なのは当たり前だろというのはさておき、このことはこの作品の舞台がヴァーモント州プランタジネットを舞台にしていることからも裏付けられる。というのもヴァーモント州にプランタジネット Plantagenet なる地名は存在しないが*6、存在しない地名をわざわざ使ったのは、Plantagenet が Planet を暗示するからである。

 ではジェレミーはなぜ火星でなければならないのか。火星の惑星記号が♂だからだ。ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。

火星についての本があるみたいに、女の子についての本があったらいいのにとジェレミーは思う。(中略)ただし、「火星」という言葉をつねに「女の子」に置き換えて。

(325-6 ページ)

 ジェレミー・マーズは女の子の対義語なのだ。

 また、惑星とは Planet つまり Wandering Star の直訳であるが、これらの名称は惑星が天球上の固定された一点を占めず、ときに逆行することから名づけられたものである。ジェレミーも二人の女の子の間を揺れ動く。

 ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。ジェレミーはタリスに言う。

でも君、透明じゃないじゃない。(388 ページ)

 ジェレミーには女の子の内面が見えない。女の子がわからないので、エリザベスとタリスのどちらに恋をしているのかわからない。ただし、エリザベスとタリスはどちらもジェレミーに好意を抱いているようだ。

 そして、この小説の中ではAがBを愛することは反射としてBがAを愛することをほのめかす*7。愛に能動性と受動性のどちらをも見出す*8それは、おそらくわたしたちの実感ともそう異ならないだろうが、ジェレミーはもっと主体的に人を愛したいはずだ。わかったうえで、愛したいはずだ。


3. ジェレミーと主体性の問題

 主体的に? そう、ジェレミーの抱える問題はほぼすべて、かれの主体性のなさ、受動性に由来する。それもそのはずで、基本的には「本」として表象されるジェレミーがなんらかの主体的能動性を発揮することはあまりない。ジェレミーは自己認識においても自らを「テニスボール」だと認識している。

なんだか自分が、プレーヤーたちにものすごく愛されているテニスボールになった気がする(362-3 ページ)

 ジェレミーは父親によって書かれ、母親によって(部分的に)解釈され、女の子たちに愛され、しかし自らはそういった周囲に対してどのような態度を取るのが正解なのかわからない。

 ところで、『図書館』に登場する飲み物、ユーフォリアのキャッチコピーは

図書館員にパワーを 注意深さだけでは不十分なときに(345 ページ)

で、これは物語を象徴するフレーズとして作品が始まる前にも掲げられている。注意深い観察的態度から能動的、主体的動きへの変化が作中で重要視されていることは明らかだ。

 そもそもジェレミー Jeremy という名前は旧約の預言者 Jeremiah に由来するが、Jeremiah には悲観論者という意味がある*9。とはいえエレミヤは与えられた祖国滅亡の預言に唯々諾々と従うばかりではなかった。さて、ジェレミーの問題解決はどのようにして行われるのであろうか?

 といってもジェレミーの具体的行動によって家庭問題やエリザベス、タリスとの恋愛関係が即座に解決されるわけではない*10。問題が解決されるのかどうかはフォックスの生死が象徴する。


4. マジック・フォー・ビギナーズ

 Magic for Beginners の Magic とはなにか、Beginners とは誰のことか、ついでにいえば for は利益の for なのか用途の for なのか*11

 といっても第一の点については答えはすでに本文中にある。389 ページだ。

『図書館』ってただのテレビだよ


観る誰もが、これがただの演技でないことを願ってしまう。それが魔法であること、本物の魔法であることを。

 Magic は奇術と魔法の二通りに訳しうるが当然後者で、ここでは『図書館』がただのテレビ番組ではなく、登場人物たちの演技もただの演技でないこと、つまりは『図書館』とわたしたち(というのはひとまずは小説「マジック・フォー・ビギナーズ」の作中人物ということであるが、後述するようにそれは文字通り「わたしたち」のことにもなりうる)の生活する現実世界がなんらかの意味で地続きであることを指す。テレビ番組が現実世界と地続きであることがどう魔法なのか、通常の意味ではつかみづらいかもしれないが、これはそう積極的に混同していくことを魔法と呼んでいるのである。
 先に答えから述べた方が楽だという理由で残り二点についても解答してしまおう。Beginners とはジェレミーを含む人生の初心者であり、for は利益の for でもあり用途の for でもある。

 ジェレミーは主体性を獲得し、フォックスの命を救おうとする。ところがフォックスはジェレミーにとってはフィクションの中の人物である。ふつうに考えればジェレミーがフォックスに対してできることはなにもない。これを可能にするためには、フィクションと現実の境界を破壊する必要がある。
 作中ではまるで魔法の力が働いて『図書館』とジェレミーの住む現実が接続されたかのように見えるが、その端緒となったのは電話をかけたことである。夢の中のフォックス-エリザベスが電話をかけてくれと言ったことをきっかけに、ジェレミーは電話の向こうにフォックスがいるのではないかと想像しながら電話をかけるようになった。フォックスがジェレミーに電話をかけてきたのではない。ジェレミーがフォックスに電話をかけた、、、、、、、、、、、、、、、、、、のである。

 フィクションと現実の境界を積極的にあいまいにすることがこの魔法の中核をなす。とはいえそれはフィクションの中に逃避することを意味しない。逃避はあくまでも現実とフィクションの峻別を保ったままフィクション側に移行することであるが、この魔法においてはさっきまでフィクションであったものとさっきまで現実であったもののどちらをも包括する世界を創造し、そこで登場人物としてふるまうことになる。

 つまるところジェレミーは書かれた/死んだ/固着したテクストであることをやめ、登場人物となるのである。もちろん、ジェレミーは最初から『図書館』の登場人物だったのだが、かれはそのことに気づいたのだ。

 登場人物はもちろん創作物であるが、同時に台本=世界の解釈者であり、その表現者としての行動主体でもある。

 『図書館』の登場人物の演者は固定されていない。これは誰でも登場人物になりうるということでもある。つまり、世界を物語視し、解釈し、意味を与え、登場人物として関与していく魔法は誰だって使うことができるということだ。


5. 蛇足

 魔法は誰だって使うことができる。そう、わたしたちもだ。

 「マジック・フォー・ビギナーズ」の叙述について、一見奇妙な点を指摘して本論を終えよう。

 (少なくとも英語では)小説は過去時制で語られることが多い。それはそうだ。たいていの物語は起こったあとに話す必要があると認められてはじめて物語化される。じゃあ「マジック・フォー・ビギナーズ」が現在時制で書かれている、、、、、、、、、、、のには理由があると考えた方がいいんだろうか。

 さいきんのアメリカの(とくに短編)小説家はさしたる理由もなく現在時制を選択しているように思えることはたしかにある。ライヴ感を出すため? まあそれも理由の一つであることは間違いない。しかし、そのコスト*12に見合ったメリットを得ているだろうか。

 すくなくとも「マジック・フォー・ビギナーズ」において現在時制はかなり意図的、戦略的に選択されているし、というか、こういう書き方しかできなかった。

 なぜならこの小説はテレビ番組の実況中継だからである。書き出し二段落目からして「『図書館』のある回で」とはじまるこの小説は 399 ページにおいて「でもこれは本じゃない。テレビ番組だ。」と念押しまでしている*13

 ジェレミーが本からテレビ番組の登場人物になったように、この小説も小説でありながらテレビ番組であることを志向する。その中間点として実況スタイルが取られたのだ。

 さて実況スタイルを取ることでこの小説は現在時制で語られることになったわけだが、そのメリットはなにか、デメリットはエスケープされているのかどうか。

 デメリットから片付けよう。注 12 で現在時制は情報量の面で制約を受けると書いた。現在時制で書かれた小説の語り手は小説内時間より未来のことを語る権利を持たない。予言的な構成や伏線ですら嘘くさくなってしまうデメリットがある。とはいえ、これは現在時制は現在時制でも実況中継の時制だ。「マジック・フォー・ビギナーズ」と『図書館』のどちらに対してもメタに立っている実況者の「私」はすべての情報を自由に扱うことができる。

 「私」?

 そう、迂闊な読者は見逃していることであろうが、この小説は一人称、、、現在時制で書かれている。

ヘアカットはジェレミーも私もまあ許せる。私たちはただ、テレビ番組のことを訊きたいだけだ。(329 ページ)
喧嘩の原因をあなたに明かす権限を私は与えられていない。(336 ページ)

 「私」が顔を現すのは地の文中この二か所のみである。『ボヴァリー夫人』の « nous »のように*14、あるいは「エミリーに薔薇を」の "we" のようにひそやかに、しかし重大に。

 この二か所の「私」は当然無意味に挿入されたわけではない。そのどちらにもテクスト上の意味はある。

 前者は『図書館』を見る「私」が番組に対して抱く感想で、実況中継としてはこういった箇所がないとどうしても不自然になるという理由で挿入された。後者は「権限」という言葉遣いに明らかなように、「私」はこの物語を語るにあたって十全な知識を得ている(そして語りをコントロールしている)ことを示唆している。メタに立つ「私」にとって情報量問題は発生していないのだと。

 次は現在時制のメリットだ。といっても、現在時制を用いたことによるこの小説に特有のメリットはたった一つしかない。

 先に「魔法は誰だって使うことができる」と書いた。この魔法を「物語と現実を積極的に混同して、新しく生まれた世界の登場人物として生きること」と定義したが、この内容なら、わたしたちにも実践できる。

 この小説が現在時制で書かれたもっとも大きな理由はここにある。「私」はわたしたちに、魔法を使ってみろとうながしている。過去形ですでに物語られた物語に今から入りこんでいくことはできない。だからこそ、「マジック・フォー・ビギナーズ」は現在形なのだ。


 わたしたちの解釈は成功したのだろうか。「向こう側には沈黙があるのみ」(375 ページ)である。しかし、電話の向こうのその沈黙は、「穏やかな、こっちに興味を持ってくれている沈黙」なのだ。そしてこの沈黙は、解釈を受け入れる作品の沈黙でもあるし、魔法を使い、今や登場人物として表現者となったわたしたちの演技を観る観衆の沈黙でもある。

*1:ケリー・リンク著、柴田元幸訳『マジック・フォー・ビギナーズ』(ハヤカワ epi 文庫、2012)収録。翻訳、引用ページ数表記等も同文庫に拠った。

*2:十分定義づけされていて、そのうえでなんらかの意味を持つ単語であるとは到底思えないが。

*3:作家ですら知らなかった作品の魅力を見出す。

*4:作品が持つ美質以上のことを唱えればそれは「その作品の」「批評」として成功したわけではなくなってしまう。

*5:またテクストについてのテクストか! きっと心ある読書子はそう思ったことであろう。まあ諦めてついてきてほしい。

*6:389 ページで「プランタジネット」「それも実在の場所だよ」とわざわざ書かれていることからも、この地名が存在しないことがわかる。

*7:カールはタリスがジェレミーの夢を見たことからジェレミーがタリスを好いていることを推論する。346 ページ。また、「エリザベスがエイミーに言ったんだよ、お前のこと好きだって。だからお前もやっぱり、エリザベスのこと好きなのかなって」347 ページ。

*8:一種トマス・アクィナス的ですらある。

*9:もちろん 327 ページの「楽天家なのだ」は反語である。

*10:また、そんな小説をわたしたちは読みたいわけでもない。

*11:つまり、Beginners のためになる/あるような Magic なのか、Beginners が使うための Magic なのか。

*12:現在時制の語りは(とくに一人称の場合において)情報量の面で制約を受けることになるが、ひとびとは都合のいい時だけルールを無視することでこのデメリットと向き合っているように思える。

*13:もちろんこれは「マジック・フォー・ビギナーズ」が本ではなくテレビ番組であることと同時に、ジェレミーが本ではなくテレビ番組の登場人物であることも意味している。

*14:« Nous étions à l’étude. »

『アンナチュラル』 #7 「殺人遊戯」について

 TBS ドラマ『アンナチュラル』の七話を見た。面白かった。泣いた。以下ネタバレ感想*1

 

*1:ツイッターでやろうかと思ったが、長いしネタバレがひどい。

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