Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

愛は液体である――『ヨスガノソラ』における概念メタファーについて

0. まえおき

 きょうは『ヨスガノソラ』の春日野穹シナリオについて*1。穹シナリオとはここでは「穹の個別ルートに入る前提で選択肢を選んだばあいの共通パート+穹の個別ルート」を指す。
 主張したいことは単純で、穹シナリオにおいてはある概念メタファーを具体化する表現が何度も出てきて、しかもそれらがとても効果的に用いられているということだ。

1. 概念メタファーについて

 メタファーとはなにかといわれれば

夜は箱庭/あなた方は地の塩である/甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし/精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ

みたいな文学的な表現が浮かぶだろう。夜は箱庭ではないし、あなた方は地の塩ではないし、あたしはかぶとむしではないし、ついでにいえば夜のみだらな鳥が啼く騒然たる森を受け継いでいないが、これをコピュラでつなぐことに意義がある。これらの文学的メタファーは、見た目上の飛躍に驚かされ、同時にその背後にある類似性に気づくことによって、詩的な興趣とともに、表現されるものの本質を鮮やかに描き出す作用がある、と考えられる。
 これらの文学的メタファーは、作家の想像力によるところの大きい、一回限りの、独創的なメタファーである。
 ところがメタファーとはこういった特殊なもののことだけを指すのではない。われわれはメタファーを日常的にも使用している。たとえば、

〆切が迫ってくる/罪を背負う/議論の土台を崩す/時間を浪費する

 〆切は迫ってこないし、罪を背負うことはできないし、議論に土台はないし、時間を浪費することはできない。それでもこれらの表現は成立している。これらの表現はそれぞれ「時間は移動するものである」「罪悪は重荷である」「議論は建築物である」「時間は金銭である」といった、概念メタファーを反映した表現である。
 さて、概念メタファーとはなにか。「起点領域から目標領域への写像(対応関係)」のことである。抽象的なある領域(目標領域=時間)を具体的でわかりやすい領域(起点領域=移動するもの)に関する語彙で表現する構造のことだ。
 たとえば、

試験の日が近づく過ぎ去りし青春の日々/時代が降る/月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり

などの表現はすべて「時間は移動するものである」という概念メタファーを具体化する表現である*2
 概念メタファーはあまりにも日常的かつわれわれの認知の根本的な構造を成しすぎていて*3、冒頭に挙げたような特殊な文学的なメタファーに比べると、作品中で用いられてもなかなか気付きづらく、かつその真価を見出しづらい*4。とはいえ、概念メタファーは起点領域と目標領域のあいだに類似性や共起にもとづく構造的な対応関係を持つので、あることを複数の視点から複合的に表現することができる。なにをいっているのかよくわからないと思うが、以下で実例を示したい。

2. 『ヨスガノソラ』における概念メタファー

2-1.「世間は空である」

 ヨスガノソラに登場する概念メタファーは大きくいってふたつある。わかりやすいのは、「世間は空である」だ。このメタファーは穹が病室で暮らしていたころを回想するシーンで描写されている。
 世間が空になぞらえられるのは、空がどこまでも広がっていて、しかし全人類がおなじ空を共有していることによる。世間はどこまでも広く、しかし、どれだけ距離があろうとも、全人類がおなじ世間に属している。たどっていけばどこかで任意の人間とのあいだにかかわりがある。
 しかし、病院で暮らしていた過去の病弱な穹にとって、空というのは病室の窓で切り取られたわずかな面積しか持たないもので、そこにはお見舞いにくる悠しか存在しなかった。いっぽう、悠にとっての空は上述の一般的な意味での空で、悠の空の下には穹以外の人間も多く住んでいた。このふたりの空の違いを穹が意識してしまうことで、穹は奥木染の人間たちに悠を取られるかもしれないという恐怖を抱く、というのがルート序盤の展開だ。そして、そんな穹が広い空の下に帰って(出て?)いくというのが全体のテーマになっている。
 こっちのメタファーはゲームのタイトルがそのものずばりだし、シナリオライターの太刀風雪路も「どこでもどんな時でも変わらずそこにある空のように、人と人との関係もそうありたい*5」と述べているのでわかりやすい。

2-2.「愛は液体である」

 そもそも日本語では「感情は液体である」という概念メタファーが成立している*6。たとえば、

勇気が湧いてくる/怒りが満ちる/喜びが溢れ出す/心に浮かぶ/気持ちが沈む/感情が凍りつく沸き立つ/はらわたが煮えくり返る

などだ。
 愛も感情であるから、同様に液体にまつわる語彙で語ることができる。

愛を注ぐ/愛に渇く/愛に酔う/愛に溺れる/愛が心を満たす

 さて、空のメタファーが表だとしたら裏のメタファーがこっちだ。「愛は液体である」。穹シナリオがこの概念メタファーに依拠していることを示すために、液体に関する作中の表現を拾ってみよう*7
 まず物語序盤、奥木染に越してきてからしばらくは、悠が穹に対して水分を摂らせる描写が続く。

悠「穹、悪いけど喉乾いたから近くの自販機に行って……」
言い終わる前に、穹は家の中に入って行ってしまった。
悠「あ~、ジュースいらないんだ?」
穹「…………いる。」

悠「ったく……はいはい、三分ほどお待ちください。
ほら、先に牛乳でも飲んでな。」
穹「うん……」
渡したグラスを両手で持ってしばらくぼーっと突っ立っていたが、仕方なさそうに飲み始めた。

悠「あ、お風呂上がったのか?」
穹「…………」
悠「なんか冷たいものでも飲むか? と言っても、牛乳か麦茶くらいしかないけど。」
穹「アイス。」
悠「それは選択肢の中に無いし……じゃ、牛乳な。」
穹「麦茶……氷いっぱい……」
悠「はいはい。」
ちょっと大きめのグラスに、リクエスト通り氷をいっぱい入れて、手作りの麦茶を注いでいく。
氷がグラスにぶつかって、高らかに響く音が心地いい。
悠「ほら、こぼさないようにな。あと、湯冷めしないようにな。」
穹「ハル……いちいちうるさい。」
手渡すと、穹は口を付けずにそのまま部屋に戻って行った。

 なお、これらの描写はすべて共通ルートでのものだ。
 夏だから脱水に気を付けるべきというのを踏まえてもちょっとしつこいくらいで、じゃあこの描写になんの意味があるかというと、とうぜんそれは悠の過保護具合を表わすのがだいいちだ。悠は穹のことを気にかけているし、そのことを明示的に表わしてもいる。
 にもかかわらず、穹は渇いている。

麦茶とか作ったり、適当に何か買ってきておいても、穹がいつの間にか飲み尽くしてることは多い。

 のだ。穹はそのような種類の愛、ようするに家族愛や友人に対する愛では物足りないと思っている。
 学校に通い始めると、瑛や奈緒をはじめとする校友と悠がすでに交流を深めている様子をみて、穹は不安を覚える。

ハルは……仕方なく私といるのかな…………
朝礼台の上に置かれた、彼女の紙パックのジュース。
あっという間に汗をかいて、垂れた水滴は鉄板の上ですぐに乾いていった。
こんな感じで、いつか私も消えて無くなっちゃうのだろうか。
穹「…………」
紙パックを手に取り、ストローから一口すする。
渇いて張り付いていた喉が、潤されていく。
喉を通るジュースは、瞬間……喉の渇きを癒してくれるけど、すぐに、それだけじゃ物足りなくなる。
ほんの少しだけ喉に入ったジュースは、もっともっと水分を欲しがっていた体を目覚めさせてしまった。
穹「…………」
私も、同じ。
満たされない気持ちは、もう……それを満たすだけの何かが無ければ、埋まるものじゃない。
そして……飲んでも飲んでも物足りない……私の求める気持ちは、永遠に満たされない気がした。

 渇きを自覚した穹は、居場所を確保するために振る舞いを改めようとする。

まだある……私の居場所。
だから、私は……
見てるだけじゃダメ……
ハルが進む道を後ろからついて行くだけでも……ダメ。
私が、先に進んで……振り返るくらいじゃないと。

 こうして穹は家事を手伝うようになる。受け取るだけでなく、与えることを意図するようになるのだ。この変化に呼応するように、悠から穹に対して飲み物を与える描写はなくなり、ぎゃくに穹が悠に、、、、飲み物を与えるシーンが描写されるようになる。

穹「………あ、もう上がったの? 冷たいもの、飲む?」
風呂上り、冷たいものでも飲もうとキッチンに入ると、穹が待っていた。
悠「あ、うん。」
氷を入れたグラスに麦茶を注いで……僕に手渡してくる。
悠「ありがと……」
穹「…………」
僕が麦茶を飲む姿を、じっと見つめ続ける穹。
気になって、なんか飲みづらい。
グラスをあおって飲み干す最後の最後まで、穹の視線は僕から離れなかった。

 兄妹でたがいに愛を注ぎ合うようになったのならいいことではないか――とはならない。悠は穹を守らなければならないという思いが強く、穹に愛してもらおう、助けてもらおうという発想自体がない。そして、穹の愛は排他的で、性的なもので、兄である悠はすぐにそれを受け入れることができない(「なんか飲みづらい」)。
 だから悠は泳げない。ほかのヒロインのルートでもしつこいくらい描写されたように、このルートでも悠はプールで溺れかける。海には腰までしか浸かることができない。かれは水=愛のなかに、無傷のまま飛び込むことができないのだ。
 それでも穹は愛を注ぎ続ける。いまや兄を頼ることしかできない穹の見捨てられ不安に気づかされた悠はそれを受け入れたくなってしまう。穹が自慰をしているところをみた悠は、

穹の求めに応じたい。
愛し合いたい………
二人で情欲に溺れたい。

と反応してしまう。こうしてふたりの水が混ざり合う。悠は愛に溺れていく。
 だが、この関係が不安定なことに悠は気づいている。「アイスに二本の棒が刺さり、真ん中で二つに分けられるタイプの物」「二つで一つ……僕たちのようなイメージのもの」を食べながら歩くふたりのうしろに、溶けたアイスがこぼれていく。

穹「アイス、溶けちゃってる。」
悠「あ……ホントだ………」
気づくと、手に持ったアイスは半分くらいになっていた。
アイスの角から滴り落ちた溶けたアイスが、地面に点々と黒い染みを作っていた。

 愛はお互いを満たすことなく、器から漏れてこぼれてしまっている。

 また、共依存的な愛は悠の渇きを真に癒すことはできない。

穹は、微笑みながら僕の前にカフェオレを置いた。
悠「ありがと。」
口にしたカフェオレはぬるかった。
飲みやすかったけれども……喉を通る生ぬるさは、どこか不快な鬱陶しさを感じさせた。

 やがて、奈緒と梢に情事のあとをみられてしまうことで、悠はこの関係を続けていくことは不可能だと悟る。もとの関係に戻ろうと告げられた穹は混乱し、家を出て湖に向かう。

3. 洪水型兄妹始祖神話

 湖とはなんであったか。穹は夏祭りの禊のときに瑛からこんな話を聞いている。

瑛「この湖は、始まりの場所って言われてて、ここから人が生まれたって言われてるの。
それで、死ぬ前にここに戻ると、もう一度生まれ変わって、後悔していた人生をやり直せるんだって。」
穹「…………」
瑛「生まれ変わったら、今度こそ上手く出来たりするのかな?」

 穹への愛と社会の目のあいだで二律背反に陥って、それでも穹を守ろうと苦しむ悠を、苦しみから解放しようとして、穹は湖のなかに進んでいく。悠は泳げないから着いてこられないと考えてのことだった。
 それでも悠は恐怖心をこらえ、穹を追って湖に入っていく。ふたりは水のなかでもがき、溺れかけ、悠もいっときはあきらめて、穹を道連れにしてふたりで楽になろうとする。
 しかし、さいごのさいご、意識を失う寸前に、悠は「助けて」といった。穹はこれに応え、悠を陸に引き上げる。これまでいちども助けを求めなかった悠が、穹に助けを求めたことで、ようやくふたりは対等な関係として先に進んでいくことができるようになる。

 ところで、「大雨や洪水などの水害から生き残った兄妹が結婚する」という神話の類型がある。洪水型兄妹始祖神話といって、沖縄県、中国西南部、台湾、インドシナ半島、インドネシア、ポリネシア諸島などに伝わっている。洪水神話も兄妹の近親相姦が人類の始祖となる兄妹始祖神話も世界各地に残されているが、そのふたつが融合した洪水型兄妹始祖神話はいったいどのような含意を持つのであろうか。
 どうしてこのふたつが結びついたのかという問いに、歴史的にあるいは因果関係を示して答えることはもちろんできないが、こうして成立した神話をひとびとがどのように解釈するかなら答えられる。兄妹婚は、洪水から生還して、もはや人口の再生産が可能なメンバーが兄妹しか残っていなかったというような特殊な事情がなければ許されないというのがひとつ。洪水は神から人類に対する罰であるが、同時に水は罪の清めと再生のイメージを伴うというのがふたつめ。
 悠と穹のたどった経緯をすべて洪水型兄妹始祖神話になぞらえることはできないが、その主要なイメージ――水害からの生還によって清められた兄妹の結びつき*8――が共通することは明らかだろう。

4. 結論

 ヨスガノソラの穹シナリオにおいて「愛は液体である」という概念メタファーが用いられていることは示せたと思う。ところで、「愛は液体である」という概念メタファーは愛について唯一のものでもなければ、支配的な発想でもない。たとえば、

  • 愛は火である
    • 燃え盛る愛/恋焦がれる/俺に惚れるとやけどするぜ
  • 愛は壊れやすいものである
    • ガラスの愛/ふたりの愛にひびが入る/静かに。愛は静寂のうちに割れてしまうクリスタル
  • 愛は病である
    • 恋に病む/恋煩い/恋は盲目

などの概念メタファーが日本語話者のなかには存在するだろう*9
 そんななかで、なぜ「愛は液体である」というメタファーが採用されたのか? それは、悠と穹のたどった道のりがまさにこのメタファーによってうまく表現されるからである。
 ふたりはお互いに愛/水を注ぎあう。愛/水は渇きを癒す。愛/水は生きていくのに必要不可欠であるが、うまく受け止められなければ心/器からこぼれてしまう。そうして溢れ出した愛/水はひとを溺れさせる。愛/水は混ざり合う。そして、愛/水は罪を清める。穹シナリオはおおまかにいってこういう流れだった。この経緯を表現するのに最適なメタファーは、火でもなく、壊れものでもなく、病でもない。この物語は、どうしたって液体という表象のもとに描かれなければならなかったストーリーなのだ。
 というよりも――創作者の頭のなかでは、ストーリーがまずあってそれにみあうメタファーを探してくるのではない。おそらくシナリオライターのなかでは、液体のメタファーとどうじにストーリーが形作られたのだろう。この並行関係が理想的に遂行されていて、「愛は液体である」という概念メタファーのもとでおよそ可能な表現がどこまでも追究されているという意味で、わたしはこのシナリオを美しいと思う。

 ちなみに、去年発売された穹の ASMR には「帰り道にとつぜん雨に降られたふたりがいっしょにお風呂に入る」というチャプターがあって、愛は液体であるという概念メタファーは発売から 15 年たったいまでも有効であることが確認できる。愛が液体であるならば、温かい愛/水に全身で浸かるお風呂がその理想形である。ふたりがいまでも仲良しみたいで安心するね。

*1:さいきんは読んだ本や遊んだゲームについてこっちのブログで報告していて、感想とかほかのルートの話とかはいずれこっちで書きます。

*2:ついでに罪悪議論時間についてもやってみると「罪の意識に押しつぶされる」「罪を肩代わりする」、「立論を支える」「強固な論理の枠組み」、「隙を稼ぐ」「時間を節約する」などとなる。みんなもわれわれの日常言語に潜む概念メタファーを探してみよう!

*3:G. レイコフ、M. ジョンソン著、渡部昇一、楠瀬淳三、下谷和幸訳『レトリックと人生』(大修館書店、1986 年)

*4:というか、文学的メタファーは(まだ)一般化していない特殊な概念メタファーといえるかもしれない。

*5:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%A9

*6:また、「心はその器である」。

*7:ノベルゲームからの引用って(ページ数とかないから)どこから引用したのかわかりづらくて恐縮だが、出てきた順である。

*8:命が助かった直後にセックスするのも初見では驚いたが、水害のあとにくるのが兄妹婚であることは神話の構造上避けられないのだと考えるとしっくりくる。

*9:愛はゲームである愛は栄養であるなど、枚挙にいとまはない。

入間人間の手口はほんとうにわかってきたのか?

saize-lw.hatenablog.com


 興味を惹かれるタイトルだったのでこの記事を読みました。なるほど、というとこもあり、うーん?というとこもあり。以下読んで思いついたことを書きます。

 LW さんの主張は大まかに以下の通りです。
 
1. 小説には「対立」が必要である。
2. 対立を表現するために同一の事象に対する異なる視点からの主観的な評価が描写される必要がある。
3. 2. を実現するために(地の文は?)「回りくどい表現」を採用する必要がある。

 興味深いとは思いつつあまりうなずけない点もあります。

対立のない小説も存在する。

 クリーランド本が対象とするジャンルは「格の低い娯楽小説」であり、クリーランドが主張するのは「格の低い娯楽小説では」対立が必要とされる、ということです。
 いっぽう LW さんは「小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出できる理由」を求めているので、クリーランド本を論拠に用いたせいで、説明できる範囲が狭まってしまっています。(そもそも小説に「本質的な特徴」が存在するという前提自体がわたしにとってはかなり疑わしいですが*1。)そして、対立が存在しない小説においても回りくどい表現は頻繁に用いられています。

主観的でない地の文もある。

 いわゆる一人称の地の文((等質物語世界的な語り)や、内的焦点化された地の文であればその回りくどい表現が「主観的な認識の歪み*2」を反映している(こともある)と考えて差し支えないでしょう。
 しかし、異質物語世界的で非焦点的な、あるいは外的焦点化された語りについては主観が存在しないので、したがってその認識の歪みも存在しません。にもかかわらずこうした語りが回りくどい表現を用いることは多々あります。
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』)は、だれの主観的な認識の歪みを反映した文章なのでしょうか? 夜の空気が甘かったのは「彼」にとってかもしれませんが、夜を「若い」と表現したのは「彼」ではありません。

主観性そのものは対立の表現に直接寄与してはいない

 対立を効果的に表現するのが回りくどい表現のもっぱらの目的であれば、二種類以上の視点から同一の事象を評価したものが並立されたほうがよいです。そういわけで、記事中では

保守的な語り手が「未開人が掲げる松明のように燃える赤い瞳」という比喩を使い、リベラルな語り手は「闇深き海を照らす灯台のように燃える赤い瞳」という比喩を使ったらどうか。

と例示されていますが、実作のなかでこのように同一の事物を別々の登場人物がそれぞれに表現することはほとんどありません。
 また、主観的な表現のすべてが対立を強調するためにあるわけではないでしょう。殴打されて死亡した被害者の頭部をほおずきに例えたとしたら、それは回りくどくて曖昧で主観的な表現でしょうが、これは主人公や視点人物が関与しているなんらの対立を表現するものでもありません。
 ところでこのことには LW さんも

地の文が示す主観的な認識が必ずしも全て対立にはっきり繋がっている必要はないだろう。

として言及されていますが、

しかし対立の根底には認識のドクサがあることを考慮するならば、依然として可能な限り語り手の認識を提示しておくことが望ましい。

 というのはよく意味がわかりません。主観的な認識の差異が対立を生む(対立が主観的な認識の差異を生むこともあると思いますが)というのはよいとしても、対立に直接かかわらない場所で視点人物の主観的な認識が対立構造とは無関係に示されることの意義を、登場人物の主観性を強調することで対立構造を描くことの説得力を増しているというように解釈しなければいけない積極的な理由はないと思います。小説のあらゆる要素を対立構造の表現のためにあるものとして位置づけるモチベーションが理解できません。

 思うに、クリーランド本の「対立が重要である(ような小説のジャンルがある)」という論点と、「回りくどい表現は語り手の主観的な認識の歪みを反映している(こともある)」という認識はそれぞれ個別には大筋で間違っているわけではないでしょう。が、それを必然的なつながりで結びつける必然的な理由はありません。というわけで、この記事が「小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出」することには失敗しているとみなさざるを得ません。

"入間人間の" 手口はわかっていない。

 主観的な認識の歪みを表現するためのものとしての回りくどい表現の存在を認めたうえで*3、その「回りくどい表現」をどのように実装するかに作家性が出るでしょう。
 しかし、LW さんが後半で挙げている入間人間の技法はどれも入間人間に特徴的なものではありません。
入間人間の手口」というためには少なくとも当該手口が
a) 入間人間が頻繁に用いている
b) 入間人間以外の作家はあまり用いていない*4
c) その手口をもって読者は入間人間入間人間性を観取する。
三条件を満たしている必要があります。
 ところで a) を示すのはある程度かんたんですが、b) を示すのはあまりかんたんではありません。同時代、同ジャンルとかてきとうに範囲を定めてサンプルを選んで定量的に調査するのがいちばんですが、なかなか本職の研究者でもこれをやっているのはみたことがありません(それこそこういう研究手法は理系的なバックグラウンドがあるひとに期待したいことですが)。
 次善として、「いろいろ読んできたけどこの手口=表現技法はこの作家に特徴的だ(と思う)」という主観に訴えるという方法があるでしょう。こうして抽出された表現技法がたしかにあまり見覚えがなく、そのために独創的に感じられるものであったり、その作家を読んだときの特有のかんじをうまく説明しているように感じられたりすればこの説明は説得力を持つでしょう。また、主張者の属性(典型的には、関連するジャンルの本を大量に読んでいると想定される大学教授だったりするとよい)にも左右されるでしょう。わたしは 2011 年くらいまでの入間人間の小説はほぼすべて読んでいますが*5、あまり説得されませんでした。LW さんの挙げる諸技法はどれもふつうの良心的な小説家であればふつうに用いるふつうに優れた技法であるように思えます(とはいえこうした技法の分析自体はとても面白くて興味深いのですが)。「例示したような認識が後々どのような対立に繋がっていくのか」について確認すればあるいはその独創性、入間人間に特有のなにかが判明するのかもしれませんが、『私の初恋相手がキスしてた』は未読なのでなんともいえません。すみません。

ではお前はどのように考えているのか?

 わかりません。すくなくともわたしは小説が「回りくどい表現」をすることに単一の「本質的な」理由、原因があるとはあまり考えていません(いまのところ)。小説家が即物的でない表現をする理由、原因は、おそらく複数の関連のない美的な要請のゆるやかな複合です。そのうちの主要な部分として、主観的な認識の歪みを表現するため、というのはもちろんあるでしょう。
 しかし、その他にも、
・詩的な驚きを与えるため
・登場人物の持つ情報の制約によるため
・解釈の余地を残すため
といった要因、動機が考えられるでしょう。ほかにもまだまだいっぱいあることだろうと思います。すくなくともわたしにとって小説の文体論は「正体見たり」といえる段階にはありません。

 ところで小説の文体についての認知言語学的な分析ではさいきん出た
山梨正明『小説の描写と技巧 言葉への認知的アプローチ』(ひつじ書房
小説の描写と技巧—言葉への認知的アプローチ
(のとくに前半部分)が参考になりました。さいきん読みました。認知言語学的な説明がただちに美的な価値へ寄与するわけではない(その橋渡しはまたべつの美学者の仕事になるでしょう)というのは注意が必要ですけれども。

「回りくどい表現」=「曖昧で主観的な表現」を、作中の事実に即して論理的に、即物的に、簡潔に表現すればいいところを、特定の目的から敢えて、わざわざそうしている、と捉えるのではなく、人間の認知はそもそも曖昧で主観的であり、発話、文章には意味や評価が語用論的に付与されているのが常態であって、むしろ〝簡潔な〟表現のほうが認識を再構成するなどして「わざわざ」書かれる(べき)ものである、というのがわたしの(上掲書を踏まえた)直観です。

 以上です。総じていいたいことは、主観的な表現は対立を表現するためだけにあるわけではないということに尽きます。もちろんこのことは対立を表現するために主観的な表現を活用することがよい手法であるということを妨げませんが、それでも、文章表現の主観性の方が対立よりも強くかつ広い概念なのであって、主観性を対立の表現のために使うことはあっても、対立の表現のためにもっぱら主観性があるというのはおかしな話ではないかと思います。主観的な表現の技法(手口)がセンスではなく技術であるという点については、センスと技術の差がよくわからなかったのでコメントを差し控えますが、技術を習得可能、再現可能なものであるという意味で捉えるのなら、まさにそうであり、そうであるべきだと思います。

 ほんとうはじゃあ入間人間にこそ特徴的な表現上の技法ってあるのかな、というのもちょっと気になりましたが(入間人間の文体は特徴的だと思うのでなにかしらあるとは思います)、さいきん(ここ十年くらい)かれの小説を読んでいないという負い目もあってこれはちょっと宿題にしたいと思います。『私の初恋相手がキスしてた』って面白いんですかね。とりあえず買ってみようと思います。

*1:フィルムアート社からよく出ている映画の脚本指南や創作いっぱんの指南本では「あらゆる小説は主人公の葛藤を軸にしている」とか「対立がストーリーを駆動する」とかいって、たとえばユリシーズみたいな名作文学もこの枠組みにしたがっているのだ、みたいなことをいいますが、あれらはすべて商業的な動機による大げさな牽強付会であって、真に受けるべきではないでしょう。かれらは自説の反例になるような作例を探さないか、無視するか、解釈を歪めます。

*2:この「歪み」という用語法自体にも疑義が残ります。「対立」に主眼を置くのであれば主観性は「歪み」とも表現すべきものになるでしょうが、主観的な視点はそれ自体歪んでいるわけではありません。

*3:わたしはこれを小説が本質的に備えている対立構造をもっぱら表現するためのものであるとは認めませんが。

*4:あるいは用いていたとしてもそれは入間人間の影響のもと用いられたものであると考えられる。

*5:多摩湖さんと黄鶏くん』が好きです。

おすすめのミステリについて

akosmismus.hatenadiary.com

 これのミステリ版を作れといわれたので作ります(というかおすすめ SF についてももう 5 年前だしあれからいままでに読んだ面白かったやつを追加したいですね。まあそのうち)。ていうかこれも作品名だけ列挙しておすすめの理由とかまったく書いてないのに真に受けていろいろこのなかから読んでるひとがけっこういてびっくりするよね。でも読んだらおすすめしてる理由はわかるでしょう?

 ところでわたしって SF とミステリどっちのほうが(冊数でいうと)読んでるんだろう? と考えるとたぶんミステリなのだが、SF のほうがなんか自信がある。SF オタクは世の中に(とくに同年代に……)あんまりいないけどミステリオタクはそのへんによくいるからなんか比べちゃうんですよね。あと SF は好きな作家の本だいたいぜんぶ読んでからおすすめしてるけどミステリは全作読んでるわけでもないのに薦めてるばあいが多々あります。

 ミステリはシリーズものが多いけど、そのばあいはシリーズのなかでいちばん面白いやつを挙げています。ネタバレ等の関係で順番に読むことを想定されているシリーズの場合は、☆マークで標示しておきますのでご注意ください。とはいえ、よく覚えてなくてこの標示が行き届いてない場合もあると思いますので適宜自衛してください。

 前回と同様、原則一作家一作品、長篇は『』、短篇は「」です。収録されている本、雑誌は各自で調べてください。◎となっているものは特に薦めるものになります。

 

青崎有吾『図書館の殺人』◎
芦辺拓『十三番目の陪審員
飛鳥部勝則『堕天使拷問刑』◎
阿部智里『烏に単は似合わない』
天樹征丸「狐火流し殺人事件」(マンガもありなの?)
天祢涼『葬式組曲
有栖川有栖『孤島パズル』☆◎
井上真偽「トリプレッツと様相論理」
歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』
梶龍雄『龍神池の小さな死体』◎
加納朋子『魔法飛行』
紙城境介『ウィッチハント・カーテンコール』
玩具堂「々人事件」
北村薫『六の宮の姫君』
北森鴻『凶笑面』
北山猛邦『『アリス・ミラー城』殺人事件』◎
霧舎巧『八月は一夜限りの心霊探偵』
久住四季トリックスターズ M』☆◎
倉知淳『幻獣遁走曲』
古泉迦十『火蛾』
斎藤肇『思いあがりのエピローグ』☆
酒井田寛太郎「ワンラウンド・カフェ」◎
佐々木俊介『繭の夏』◎
佐藤友哉エナメルを塗った魂の比重 鏡稜子ときせかえ密室』
梓崎優「スプリング・ハズ・カム」◎
十階堂一系『赤村崎葵子の分析はデタラメ 続』☆◎
殊能将之鏡の中は日曜日』◎
城平京『名探偵に薔薇を』
菅浩江『鬼女の都』◎
杉井光『すべての愛がゆるされる島』
七河迦南『アルバトロスは羽ばたかない』☆◎
二階堂黎人『吸血の家』
西尾維新クビキリサイクル
似鳥鶏「家庭用事件」☆◎
法月綸太郎『頼子のために』◎
初野晴『千年ジュリエット』☆
はやみねかおる『魔女の隠れ里』
平石貴樹『笑ってジグソー、殺してパズル』『潮首岬に郭公の鳴く』(迷ったのでふたつ挙げてしまいました)
深水黎一郎『ジークフリートの剣』◎
古野まほろ『命に三つの鐘が鳴る Wの悲劇'75』◎
舞城王太郎ディスコ探偵水曜日
円居挽『丸太町ルヴォワール』
麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』◎
汀こるものまごころを、君に』☆
三雲岳斗『M.G.H.―楽園の鏡像』
三津田信三『首無の如き祟るもの』
門前典之『屍の命題』
夕木春央『方舟』◎
米澤穂信さよなら妖精
詠坂雄二『亡霊ふたり』◎

ウィリアム・アイリッシュ『聖アンセルム 923 号室』
アイザック・アシモフ『はだかの太陽』
スタンリイ・エリン『第八の日』◎
エラリー・クイーン『X の悲劇』◎
ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』
カーター・ディクスン『貴婦人として死す』◎
ケム・ナン『源にふれろ』◎
アントニイ・バークリー『第二の銃声』◎
クリスチアナ・ブランド『ジェゼベルの死』◎
ニコラス・ブレイク『死の殻』◎
マーガレット・ミラー『まるで天使のような』
陸秋槎『文学少女対数学少女』

ちくま文庫の『マッカラーズ短篇集』について

 

 

 ちくま文庫から『マッカラーズ短篇集』がでました。

 これがどういう本かというと、「編訳者解説」によれば

本書はカーソン・マッカラーズ『悲しき酒場の唄』(西田実訳、白水 U ブックス)を元にした短編集である。西田訳には表題作と「騎手」、「家庭の事情」、「木、石、雲」の三つの短編が収録されていたが、文庫化に際して、底本の作品集に掲載された残り三つの短編「天才少女」、「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」、「渡り者」と、底本には未収録の初期の短編「そういうことなら」を、編訳者であるハーンが訳出した。

ものだそうです。

 ところで、白水 U ブックスから出ている西田訳の『悲しき酒場の唄』(1992 年)というのは、同じく西田訳で「白水社 世界の文学」の一冊として出た単行本の『悲しき酒場の唄/騎手』(1982 年。90 年に東京ブックフェアを記念して装丁を変えて復刊しています*1)が元になっています。そして、単行本の『悲しき酒場の唄/騎手』には「天才少女」も「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」も「渡り者(西田訳では「旅人」)」もきちんと訳されています。U ブックス化するときに収録作を削ったということですね。

 なのになんで白水 U ブックスを元にしてこんかいのちくま文庫化は計画されたのでしょう。著作権とか版権の事情とかもある?んでしょうからそのへんはよくわかりませんが、それにしたってこの「解説」はちょっと不親切なきがします。どうして既訳の存在に触れないんでしょう。

 ともあれ、「天才少女」をふくむ三篇は新訳ということです。新訳であるからには旧訳よりも優れたもの、あるいは別の観点からの翻訳がなされていることをやっぱり期待してしまいます。というわけでハーン訳の「天才少女」をよみはじめました。

 一ページめから首をひねってしまいました。なんだか違和感があります。

 

 冬用のストッキングを穿いた脚にかばんがぽん、、、とぶつかる音をさせながら、片腕に学校の教科書を抱え込んで、彼女は今に入ってきた。少しの間そこで立ち止まると、スタジオの音に聞き入った。するとビルダーバッハ先生が、野太く喉にかかる声で呼びかけた。(179 頁)

「聞き入った」と「するとビルダーバッハ先生……」の間に訳し漏れがあります。A soft procession of piano chords and the tuning of a violin. と入るはずです。

 

ビーンヘェンみつばちさん、きみかい?」

 ラフコヴィッツ先生が話しているのが聞こえた――(後略)(179 頁)

 Bienchen はドイツ語でミツバチを意味する Biene に縮小辞の chen が付いたもの。ドイツ語の ch は無声硬口蓋摩擦音、つまり日本語の「ひ」の子音ですので、*2Bienchen はふつう移すとしたら「ビーンヒェン」でしょう。じっさい西田訳でも「ビーンヒェン」です。

 また、「~きみかい?」と「ラフコヴィッツ先生が~」のあいだに訳し漏れがあります。以下の文章が抜けています。

   As she jerked off her mittens she saw that her fingers were twitching to the motions of the fugue she had practiced that morning. "Yes," she answered. "It's me;"

   "I," the voice corrected. "Just a moment."

(西田訳では

「手袋をひっぱって脱ぎながら見ると、手の指が、その日の午前中練習していた遁走曲の動きに合わせるようにピクピクふるえていた。「はい」彼女は答えた。「あたしです」

「わたし」と先生は直した。「ちょっとお待ち」)

 

 そしてまた手を眺めた――(179 頁)

 さきほど訳し漏れた文章のせいで、「また、、手を眺めた」の意味が分からなくなっています。

 

 1 頁でこれだけ訳し漏れとかがあるとさすがに驚いてしまって、そのあとはなんとなく原著と既訳をみながら読むことになりました。結論からいうとこのあとはそんなに大きな訳し漏れとか大胆な誤訳があるわけではなかったのでまぁ安心したのですが、とはいえ気になる点はままありました。以下は読んでる間に取った時系列順のメモなので、とくに重要でない指摘も多く混ざっています。

 

(ハーン)今日は眼をぱっちりと見開いて、襟元から垂れたリネンのハンカチとのコントラストで、眼の色がいっそう暗く見えた。(182 頁)

(原文)His eyes were sharp bright slits today and the linen handkerchief that flowed down from his collar darkened the shadows beneath them.

(西田)今日の先生の目は細く鋭く光り、襟から垂らした麻のハンカチのせいで、目の下の隈がいっそう黒っぽく見えた。

   "sharp bright 'slits' " ですから、「ぱっちりと見開いて」よりは「細く鋭く光り(西田訳)」のほうがよいです。「眼の色がいっそう暗く見えた」も "shadows beneath them (= eyes)" ですから shadows は目の下の隈と取りたいです。

 

「ハイムの写真を見たかい?」(183 頁)

   Haime は「ハイメ」でいいでしょう。

 

 ビルダーバッハ先生に、ハイム、ラフコヴィッツ先生の顔。(185 頁)

 原文は "Mister Bilderbach, Mrs. Bilderbach, Heime, Mister Lafkowitz."
 Mrs. Bilderbach が抜けています。

 

 頭のなかで音楽がはっきりと鳴り響き、ちょっとした記憶が素早く正確なかたちで戻ってきた――ふたりのジョイント・コンサートが終わった後でハイムが彼女にくれた、なよなよした「無垢の時代」(十八世紀後半にサー・ジョシュア・レノルズが描いた小さな少女の肖像画で、無垢な子ども時代のイメージとして複製されて広まり、イーディス・ウォートンの同名小説のタイトルにも使われた)の絵なんかも、まざまざとよみがえってきたくらいだ。(186 頁)

 西田訳では "Age of Innocence" が「純真だったころ」と訳されてしまっていますので絵画とウォートンへのアリュージョンを訳注に入れたのは新訳の強みかと思います。でも "quick, precise little memories would come back – clear as the sissy "Age of Innocence" picture..." の as の取り方はちょっとよくわからない。「無垢の時代」の絵の "ように" はっきりと記憶が戻ってきた、でよいのでは。

 

(ハーン)十二歳の娘が二度の和音をつくるために指でいくつもの鍵盤を押さえられるかなんてことには――なんの意味もない。(187 頁)

(原文)If a twelve-year-old girl's fingers cover so many keys to a second – that means nothing.

 たしかに二度の和音のことを interval of a second とか、単に second とかいうことはあるけれども、二度の和音というのはピアノでいうと隣接する二鍵盤で、二度の和音をつくるために「いくつもの鍵盤を押さえ」るというのはよくわからない。主人公がここで弾いているのはハンガリー狂詩曲の第二番で、二度の和音はぜんぜん使われていない。この曲後半のフリスカの部分はオクターブや連打でとても運動量が多いので、「一秒にいくつ鍵を打てたからといって――そんなことはなんの意味もないのだ(西田訳)」でよいと思う。

 

(ハーン)どうして彼女よりハイムの方がコンサートでずっとうまくやれたんだろう。ときどき学校で、誰かが黒板の前で幾何の問題をやらされているのを見ていると、その問いが彼女のなかにナイフみたいにねじこまれた。(191 頁)

(原文)Why was it Heime had done so much better at the concert than she? At school sometimes, when she was supposed to be watching someone do a geometry problem on the blackboard, the question would twist knife-like inside her.

(西田)なぜ演奏会でハイメのほうがあたしよりあんなにうまくできたのだろう? ときどき学校で、だれかが黒板で幾何の問題を解くのを見ていなければいけないときに、その疑問がナイフのように彼女の心のなかをえぐるのだった。

(when she was supposed to be の解釈はともかく、)気になったのは一文目の疑問文。これは彼女の心をナイフのようにえぐったという the question の内容で、いわゆる自由間接話法とか描出話法といわれるもの。日本語に訳すときは直接話法で訳してからカギカッコを外すという手法が一般的に用いられてきました(西田訳みたいなかんじです)が、いまの流行りはよくわかりません。

 

(ハーン)曲が終わると彼女はピアノから立ちあがり、息を飲んで演奏中にきつくなった喉と胸のまわりの襟をゆるめようとした。(192 頁)

(原文)She stood up from the piano when it was over, swallowing to loosen the bands that the music seemed to have drawn around her throat and chest. 

(西田)演奏が終わると彼女はピアノから立ち上がり、唾を飲みこんで、その曲が彼女の喉や胸を締めつけていたベルトのようなものを緩めようとした。

 喉はともかく胸のまわりの「襟」とは……?

 

(ハーン)その次の日曜の午後のレッスンの後、(194 頁)

(原文)The next Saturday afternoon,

 まぁこういうのはよくある。わたしも数字を訳し間違えてひとに指摘されたことある。ただまぁ練習は火曜の放課後と土曜の午後ってこの前に書いてありますので……。

 

(ハーン)遅くなってきて、空気には冬のほの青い黄昏の色が染み込んでいた。(196 頁)

(原文)It was growing late and the air was seeped with the pale yellow of winter twilight.

 青と黄色を間違えたり、まぁこういうのはよくある(2)。でも編集が気づいてほしい。

 

 ほかにも instep は中敷きじゃなくて靴の甲まわりじゃないかなとかまぁいろいろありましたがそれはさておき。

 

 

 いろいろ書いてしまいましたがもちろんわたしの読み方が間違っていることもあると思いますし、そもそもこの程度であればいわゆる文芸翻訳としては標準的なものだと思いますので、とくにこの文庫を買うべきではない!とか主張するわけではないですが、にしても「なぜ U ブックスを原本にしたのだろう」「底本をきちんと全訳している単行本版について触れないのだろう」という疑問があって、ついこのような記事を書いてしまいました。じっさいツイッター上でも「U ブックスでは未訳、未収録だった三篇を入れた完全版が出てうれしい」みたいなことをいってるひとが何人かいて、なんだか西田がかわいそうと思った次第です。

 上に挙げた疑問点のいくつかは既訳を参照すれば明らかに避けられたもので、そもそも単行本版を参照していないのかも、とも思いました。学術翻訳とかならともかく文芸翻訳でどの程度既訳を参照する風習があるのか、義務があるのかはよくしらないです。

 

 以上です。あとこの文庫版については「米国の女流小説家によるクィア小説の傑作」と帯に書いてあって、「クィア小説」なのに「女流」がどうのみたいなカテゴライズするんだ、と驚いてしまいましたが、これについては編訳のハーンが機会があり次第修正するようお願いした、とおっしゃっていたので、やっぱりおかしいことだったんだな、と思いました。あと西田の既訳をヤード・ポンド法からメートル法に直してるらしくて、まぁいまどきは文芸翻訳もそういうもんなのかなぁと思いましたが、「三マイル」と「五キロ」はやっぱりちがう距離なんじゃないかなと感じました*3

 

 マッカラーズの小説自体はとても素晴らしいものなのでどうあれ多くの人が読んでくれるとよいことだと思います。

 

*1:わたしが持ってるのはこの復刊されたやつ。

*2:a, o, u, au に後続する場合を除く。

*3:これは「厳密にいえば 3 マイルというのは 4.8 キロメートルちょっとだから……とかそういうことがいいたいのではありません。たとえば、中距離走選手の活躍を描いた小説で「五〇〇〇メートルの距離はかれにとって……」みたいな文章があったときに、これをかってに「五キロメートル」とすることはできないでしょう。数的にまったく同一の距離でも、表現が違えば違う距離になります。Sinn と Bedeutung というか。というようなことを考えると、わたしはわかりやすさのためにマイルをメートルに翻訳するとかそういうのはあんまりしたくない派です。それをいうと翻訳という行為じたいがあんまりよろしくない行為であるというのはそうなんですが……。

人称代名詞と文法的性について

「つぎのようなシーンを考えていただきたい。ある博士がお昼ご飯を選ぼうとして食堂のメニューの前に立っている。彼女は昨日の晩ご飯がハンバーグだったことを思い出し、きょうは魚にしようと考えた。さて、このとき……」

 論文を読んでいるとうえのような文章に出くわすことがある。ここで問題なのは三人称代名詞「彼女」だ。「ある博士」の性別は決まっていないのだが、「ある博士」を三人称代名詞で表示するとき「彼」と「彼女」のどちらかを選ばなければならない。この文章の書き手はなにを考えて「彼女」を用いたのだろうか?

 冒頭の文章はある種の思考実験だが、ここで「ある博士」の性別は論旨にまったく影響しない。そういった場合、"ふつうは"「彼」を用いるだろう。おそらくこの文章の書き手は、その "ふつう" を忌避している。性が不明な*1 unknown あるいは不特定な*2 unspecified ものを呼ぶときにもっぱら「彼」を用いるのは、言語における男性中心主義を反映しているとの想定からだ。そういうわけで、こういう書きかたをする著者は「彼」と「彼女」を交互に使おうとする*3。冒頭のような文例は、それで「彼女」を用いたときに現れる。

 わたしが考えるに、この方法には複数の問題がある。

 

1. 性が不特定であったはずの存在者に性が付与されてしまうこと
2. 「彼」「彼女」の二分法に収まらないノンバイナリーな性自認をかえって排除してしまうこと
3. 日本語の「彼」はそもそも性について中立 gender-neutral な三人称単数代名詞として用いることができること
4. 上記のような gender-neutral な「彼」の用法を認めない場合であっても、主語を省略したり、「ある博士がお昼ご飯を選ぼうとして食堂のメニューの前に立っている。博士は昨日の晩ご飯がハンバーグだったことを思い出し、きょうは魚にしようと考えた。」などと、おなじ名詞を繰り返すといった方法で上述の問題をすべて回避できること。

 

 1., 2. については説明はいらないだろう。

 3. について。日本語の人称代名詞「かれ」は明治時代ごろまで男女に共通して用いることができた。「彼女」は、英語など文法的性を区別する印欧語の翻訳過程で造られた新語である。

 とはいっても、現代日本語においては「彼」が男性を、「彼女」が女性をもっぱら示すのは明らかであると考える日本語話者もいるだろう。その場合は 4. のような手段を用いればよい。

 

 ところで、こうしたポリティカルコレクトネス的過剰修正は英語でもよくある、というか、冒頭から示してきた日本語著者のこうした戦略は、おそらく英語文化圏での実践を反映して行われている。

 性が不明/不特定な存在者を三人称単数で表示する場合、一部の英語話者は

 

5. he/she, he or she などの表記を用いる
6. they を三人称単数として用いる
7. xe/ze/hir... などの造語を用いる

 

 などの方法を用いる傾向がある。しかし、これもいろいろの問題がある。

 5. の問題点は 2. におなじ。

 6. の問題点は、singular third person の they が文法上複数形のようなふるまいをするところにある。文脈から単数の they であることが明らかな場合であっても、動詞は are を取るのだ。文法上の性を表示しないようにすることでかえって単複の区別が崩壊するのは、支払うコストにメリットが釣り合っていないように思える。

 7. の問題点は、こうした造語とその格変化が現代英語の一般的な語彙になっていないことに尽きる。伝わらない言葉には意味がない。

 どうやら英語のほうが解決は困難なようだ。構文上義務的に主語を必要とする英語では、主語を省略するのは難しいだろうが、同じ名詞を繰り返すなどの方策は可能だろう。しかし、日本語でおなじことをするよりやや不自然に感じられる。じゃあ日本語の「かれ」とおなじように、"he" は gender-neutral にも用いることができる、と押し通すか?

 いままでの英語はそうしてきたわけで、それで問題ないようなきもする。しかし、"he" が語源からして男性性を有するわけではないとはいっても、文法的性(英語にも昔は文法的性があった)の区別と分かちがたく結びついているために、それが男性名詞と認識されることは疑いようもない。そもそも文法的性が存在しない言語である日本語の「かれ」と同列に扱うわけにはいかないだろう。

 

 とはいえ、スウェーデン語は gender-neutral な三人称単数代名詞 "hen" をある程度実用することに成功している*4ではないか*5といわれるかもしれない。だから、英語でも xe やら ze やらのうち、いずれかが人口に膾炙することが不可能なわけではない、とも。それも間違いではない。

 じゃあ、かりに xe が英語圏で覇権を握ったとしよう――しかし、たとえば、イタリア人はどうすれば?

 いまや文法的性を文法的範疇としてはほぼ失っている英語や、男性と女性が共性に融合したスウェーデン語では、新しい代名詞を造語して、いままで he や han がいたところに xe や hen をぽんと投げ込んでしまえば文法上問題がない。

 イタリア語ではこうはいかない。

 イタリア語の三人称単数代名詞は男性で «lui», 女性で «lei» だが、たとえば gender-neutral な代名詞として «ləi» のような形が発明されたとしよう*6。イタリア語では形容詞にも男女があって、修飾される名詞の性に応じて形を変えるが、«ləi» にはどちらの形容詞をつければよいのだろうか?

 名詞や形容詞の曲用だけではない。動詞の活用にも性は影響する。イタリア語の場合、essere を用いて作る近過去では過去分詞が性に応じて変化するが、«ləi» にはどちらの過去分詞を用いればよいのだろうか? べつに話はロマンス語に限った話ではない。スラヴ語の過去時制も同様に性と一致を起こす。

 ここで、新しい代名詞は男性名詞として曲用したり、動詞の活用を一致させたりするとしてしまえばなんの意味もないだろう。だからといって、代名詞を新しく作ったのだから、曲用や活用のパラダイムも新しく作ってしまえばいいではないかというのも無理がある――ていうか、できるわけがない。

 

 文法的性を有する言語が世の中には数多くあって、しかもたいていの場合男性性が無標で表されており、そのことはその言語を使用する社会の男性中心的価値観を反映している――こういった見方に一定の説得力がないわけではない。he に "わざわざ" s を追加したものが she であって、man に "わざわざ" wo を追加したものが woman なのだ、というわけで。 また、性別が分からない場合にとりあえず男性名詞を用いるというのも(これもまた無標性だが)男性中心的だ。そして、人間を表す代名詞が男性と女性のふたつに区別されるのはノンバイナリーを無視している。すべて重要な指摘だろう。

 そしてまた、ジェンダー平等がきわめて重大な理念であることも間違いないだろう。

 だからといって――言語がある社会のものの見方を反映しているからといって、言語をちょちょっと改造すれば社会も変わると考えるのは、少々安直に過ぎる。前述のように、誤解を招いたり、意図が通じない場合がある(1., 6., 7. のように)という意味で、学術的なシーンにはふさわしくないだろうし、崇高な理想のもとになされた書き換えがかえって差別的に響く(2. のように)場合もある。そもそも、既存の方法ではこういった改造に適しないほど文法に性が食い込んでいる言語もある。

 もちろんこうした言い換えが有効になるシーンはあるだろう。まさにジェンダー平等の観点が問題になっているときだったり、当人がそう呼ばれたいと思う代名詞を表明したりするときだったり。そうでなくともスウェーデン語の hen のように膾炙した代名詞があるなら、それを性が不明・不特定な対象に用いることには問題が少ないだろう。

 しかし、そうした文脈にあるわけではない文章で、わかりやすさ、正確性を犠牲にしてまで、ただ代名詞をいいかえたり、数の上で平等を図ったりといったことに、なんの意味があるのだろうか?

 言語はわれわれのものの見方をあるしかたで反映しているが、われわれのものの見方のみによって決定されているわけではない。その内的な構造や整合性、経済性はさまざまな要因によって決定されているし、それを無視した下手なやり方を採用するのは、いかにそれが崇高な理念のもとにあるといっても悪手だろう。われわれは言語を使っているのではなく、言語に使われている。その制約を英雄的に無視しようとするのであれば、もうちょっと理論武装したほうがいい。

 というわけで、よくよくものごとを考えることをせず、こうした問題点をまったく自覚することなく、たかだか代名詞をいいかえるだけのことでなんらかの態度表明をしようとするのは、わたしにはあまりに安上がりで浅はかなことのように思える。

*1:自然人やフィクションのなかの登場人物のように、ほんとうは(agender でなければ)性別があるのだが、さしあたってそれが話者にわかっていない場合。

*2:冒頭の文章の「ある博士」のように、そもそも性別が規定されていない場合。

*3:安藤馨とか成田和信とか高崎将平がやっていた。

*4:もちろん反対派は昔は多かったし、いまでもいないことはないが、いまや Dagens Nyheterスウェーデンでいちばん有名な新聞)の見出しでも使われてるらしい。

*5:ちなみに、スウェーデン語の三人称単数男性代名詞は "han", 女性は "hon".
"hen" はフィンランド語の "hän" を参考に作られたらしいが、フィンランド語の三人称単数代名詞 "hän" は男女を区別しない。おなじくフィン・ウゴル語派のエストニア語、ハンガリー語でも三人称代名詞に男女の別はない。印欧語でもペルシャ語は区別しない。ジェンダー平等を形式的に気にするひとは、この辺の言語とかテュルク系諸語とかで論文を書けばよいのではないか

*6:ləi - Wiktionary どうやって発音するんだよ。

世界の終りの終り――叔父の遺産、南極への旅

 

 以下は Jonathan Franzen "The End of the End of the World" の全訳である。

 

 ジョナサン・フランゼン Jonathan Franzen は現代アメリカ最高の作家のひとりで、代表作である『コレクションズ』をはじめ複数の作品が日本語に翻訳されている。家族の悲劇と現代アメリカの病巣についての骨太(すぎる)作風で人気を博している*1

 そんなフランゼンはプライベートでは無類の鳥類愛好家として知られる。書くエッセイにもよく鳥類の話がでてきて*2、そのせいで読者に「鳥の話が細かすぎる」「いまなんの鳥の話をしているのかわからなくなってしまった」「鳥の話が多すぎる」として批判されることも多い。しかし、そんなかれが鳥の話(かれの得意ジャンルだが読者の得意ジャンルではない)と人生の話(かれの得意ジャンルであり、たいていの読者にとっても得意ジャンル)を交差させて書いたエッセイの傑作がこれ。アメリカ人もこのエッセイが収録されてる本のなかでこれだけは気に入った、みたいなことをいってるひとが多いみたい。

 

 

 二年前、インディアナ州にいる弁護士が七八〇〇〇ドルの小切手を送ってきた。六か月前に死んだ叔父のウォルトからの金だった。ウォルトから金をもらえるとは期待していなかったし、ましてやそれを当てにしていたということもなかった。というわけで、私はこの遺産をなにか特別なことに使うべきだと思った。ウォルトの記憶を記念するために。

 たまたま、私の長年のガールフレンド(生粋のカリフォルニア人だ)が、私と長い休暇を過ごす約束をしていた。サンタクルーズに戻って、九四歳で短期記憶を失いつつある母親の面倒をみなければいけないということに私が理解を示したので、私に恩を感じていたのだ。彼女はつい「世界中どこでも、あなたがいつも行きたがっていた場所にいっしょに行きましょう」といってしまっていた。それに対して私は、なぜか 「じゃあ、南極は?」と答えた。彼女が目をみひらいたのにもっと注意を払うべきだったのかもしれない。しかし、約束は約束だ。

 温和な私のカリフォルニア人に南極をもっとお気に召してもらえるように、私は叔父の遺産を使って、リンドブラッド社でもっとも豪華な、三週間のナショナル・ジオグラフィック遠征を予約した。南極とサウスジョージア島フォークランド諸島を探検するものだ。私は手付金を払い、カリフォルニア人と私は、彼女が身を委ねることを肯った厳しい寒さと、波うねる南極の海について、その話題になるたびに不安げに冗談をいいあった。私は、ペンギンをみたらこの旅をしてよかったと思うに違いないと彼女を励まし続けた。しかし、いざ残額を払う段になると、彼女が一年延期することを申し出た。母親の容態が不安定で、取り返しがつかないほど家から遠く離れるのを渋っていたのだ。

 その点、南極を第一候補に挙げた理由を私に否応なく思い出させるせいで、私もこの旅に対して漠然とした嫌悪感を募らせつつあった。「溶ける前にみておこう」という発想は、陰気で自己否定的なものだ――溶けるまで待って、旅行先候補リストから消してしまえばいいではないか。私は第七大陸の、普通の旅行者が足を踏み入れるには遠すぎ、高すぎるという、トロフィーめいた肩書にもうんざりしていた。たしかに、ペンギンだけでなく、サヤハシチドリや、世界最南端で繁殖する鳴禽類であるサウスジョージアタヒバリなど、風変わりでめずらしい鳥をみることはできる。とはいえ、南極に生息する種の数は少なかったし、私はすでに世界中のすべての鳥をみることは叶わないとみずからにいいきかせていた。

 南極に行く最大の理由は、それがカリフォルニア人と私がもっともしそうにないことだったからだ――私たちの理想の逃避行は三日しか続かないとすでに私たちは学んでいた。私と彼女が、海の上で逃げ場なしに三週間いっしょいたとしたら、私たちはみずからのうちに新しい能力を見出すのではないかと思ったのだ。私たちがそこで一緒にすることを、残りの人生でもいっしょにすることになるのだろうと*3

 そういうわけで私は一年の延期に同意した。サンタクルーズに引っ越しもした。そのころカリフォルニア人の母親が転倒事故を起こしたのが気がかりとなって、カリフォルニア人は彼女をひとりで残していくことをさらに懸念するようになっていた。これ以上彼女の人生をややこしくするのは私の仕事ではないとついにわきまえて、私は彼女を旅行から排除した。幸運にも、兄のトムが(ほかに三週間をちいさな船室で共に過ごせそうな人間となるとかれくらいしか思いつかなかったのだが)ちょうど引退していたので、彼女の位置を占めることになった。私は予約していたクイーンサイズのベッドをツインに変更し、絶縁のゴム長靴と、豊富な図版を掲載した南極の野生図鑑を注文した。

 しかし、出発の日が近づいても、私は南極に行くのだ、という気分にはならなかった。私は「私は南極に行くらしい」といいつづけていた。トムは興奮していると伝えてきたが、私じしんの非現実的な感覚、楽しみに満ちた期待を抱きそこなったという感覚は強くなるいっぽうだった。きっとそれは、南極が私に死――地球温暖化によって脅かされる生態学的な死を、あるいは、私の死によって代表されるような、いつまでそれをみられるか、というデッドラインを思い起こさせるからだった*4。しかし、朝には彼女の顔をみて、夕方に彼女が母親のところから帰ってくるときのガレージのドアの音を聞くという、カリフォルニア人との生活のいつものリズムを、私は痛切にありがたく感じるようになった。スーツケースに荷物を詰めるときには、まるで支払ったお金のいいなりになっているような気がした。

 

ж

 

 一九七六年八月、セントルイスのある夕べのこと、涼しかったので私と両親はポーチで夕食を取っていたのだが、キッチンで鳴った電話を母親が取り、それからすぐ父親を喚んだ。「イルマからよ」、と彼女はいった。イルマというのは父の妹で、ウォルトといっしょにデラウェア州のドーヴァーに住んでいた。なにか悪いことが起きたのは明らかだった。なぜなら、私はそのときキッチンにいて、母親の近くにいたので覚えているのだが、父がイルマの話を遮って、電話越しに、まるで怒っているかのように大声を出したのだ。「イルマ、なんてことだ――彼女は死んだのか?

 イルマとウェルトは私の名付け親だったが、かれらのことはよく知らなかった。私の母はイルマにがまんならなかったようだ――イルマが両親に甘やかされてきて、そのことで私の父が割を食っていたと母は主張していた――が、ウォルトはふたりのなかではまだマシに思えた。ウォルトは退役空軍大佐で、高校の進路カウンセラーになったが、私はかれのことを主にかれが送ってきた自費出版本のゴルフ技術本、『折衷的ゴルフ』の著者として記憶していた。私はなんでも読むたちなので、これも読んだ。私がもっとよくみていた人物は、ウォルトとイルマの一人娘、ゲイルだった。彼女は背が高くて可愛く、冒険心に満ちた女性で、ミズーリ州の大学を出て、よく私たちに顔をみせにきた。その前年に彼女は卒業し、ヴァージニア州のコロニアル・ウィリアムズバーグで銀職人見習いとしての職を得ていた。イルマが電話してきたのはゲイルのことで、彼女は雨のなか、夜じゅうひとりで運転していて、オハイオ州のロックコンサートに向かうとちゅう、ウェストヴァージニア州の曲がりくねった細い高速道路でコントロールを失ったとのことだった。イルマはどうやらそのことばを口にすることができなかったようだが、ゲイルは死んだ。

 私は十六歳で、死がなにかは理解していた。だが、おそらく両親が私を葬式に連れて行ってくれなかったからだと思うが、私はゲイルを喪った悲しみに涙を流すことができなかった。そのかわりに、私は彼女の死がどこか私の頭のなかで起きたことであるような――まるで、私の記憶のネットワークの、彼女を司る部分がみえない針で焼灼され、いまではなにもない領域、本質的で、悪質な真実の領域を構成しているかのような感覚を覚えた。その領域はあまりに近づきがたく、意識的に入っていくことはできなかったが、私はそこに、精神的な非常線の向こうに、愛しい従姉の死の不可逆性を感じ取ることができた。

 事故から一年半後、私がペンシルヴァニアで大学の新入生をやっていたころ、イルマとウォルトから週末にドーヴァーに来ないかと誘われた、と母が私に伝えてきた。イエスと返事しろという彼女の強い意向を添えて。私の想像では、ドーヴァーの家は私の頭のなかの悪質な真実の領域の具現化だった。私はその家が弁明を進行中なのではないかという恐れを抱いてそこに行った。その家は整頓され、公邸のように脅迫的にすっきりとしていた。床まであるカーテンの硬さ、折り目正しさは、ゲイルの呼吸や動きがそれを乱すことはもうないのだと告げているように思えた。叔母の髪は真っ白で、カーテンとおなじくらい硬そうだった。彼女の顔の白さは真っ赤な口紅と濃いアイライナーで強調されていた。

 イルマのことをイルマと呼ぶのはうちの両親くらいだということを知った。ほかのだれにとっても、彼女はフラン(旧姓の省略形)だった。私はあけっぴろげな愁嘆場を恐れていたが、フランは緊張した大声で私にひっきりなしに話しかけて時間を埋めた。家の装飾のこと、デラウェア州知事との面識のこと、この国の方向性について――話は、日常的な感情からあまりにもかけ離れていて、絶妙に退屈だった。次第に彼女はおなじ調子でゲイルについて話し始めた。ゲイルの人格の本質的な性質について、ゲイルの芸術的才能の質について、ゲイルの将来の計画について。私はあまり口を開かなかったが、それはウォルトもおなじだった。叔母のだらだらとしたしゃべり方は耐え難かったが、彼女が住む領域そのものが耐え難いのであって、ほとんど空っぽの内容を高尚に、休むことなく話し続けることは、そんな領域でひとが生き延びていくための方法で、じっさいそうすることで彼女は訪問者にもその空間を生き延びさせていたのだ、ということを私は理解していたのかもしれない。フランの頭がおかしくなったのは基本的に適応のためだと私は理解した。その週末、私がフランから解放されたのは、ウォルトが車でドーヴァーとその空軍基地を案内してくれたツアーのあいだだけだった。ウォルトはスロベニア系で、痩せていて長身、鼻は鷲鼻で、髪の毛は耳の後ろにしか残っていなかった。かれのあだ名は「ハゲ」だった。

 大学時代にあと二回かれとフランのもとを訪れて、かれらも私の卒業式と結婚式に来てくれたが、それからあとは、誕生日カードと、フロリダのボイントンビーチ――フランとウォルトはゴルフのできる高級マンションに引っ越していた――に義務的に夫婦で立ち寄った母からの伝言(フランへの嫌悪で彩られていた)くらいでしか音信がなくなってしまった。しかし、私の父が死に、母が癌との戦いに敗北しつつあるとき、奇妙なことが起こった。ウォルトが私の母にぞっこん惚れ込んだのである。

 フランはそのころにはもうアルツハイマー病であきらかにおかしくなってしまっていて、老人ホームに入っていた。私の父もアルツハイマー病をやったので、ウォルトは私の母に電話して、アドバイスしたり同情したり、救いの手を差し伸べた。母の談では、かれはそれからセントルイスにひとりで訪れ、はじめてそこでふたりきりになったふたりは、ふたりとも楽観的に人生を愛していて、厳格でうつ病質なフランゼン家の人間と長く結婚していたという共通点を見出したために、互いにめまいがするほど打ち解け、初恋のような親密さに陥ったそうである。ウォルトは彼女を下町にある彼女のお気に入りのレストランに連れて行き、そのあと彼女の車を運転していたとき、駐車場の壁でフェンダーをこすってしまったのだが、ふたりは軽く酔っぱらって、くすくす笑いながら、修理代を折半すること、みんなにはないしょにしておくことに(ウォルトは最終的には私に白状したのだが)合意した。かれの訪問からまもなくして、私の母の健康状態は悪化し、私の兄のトムの家で残りの日々を暮らすためにシアトルに引っ越した。しかし、ウォルトは彼女に会いに行く計画を立て、かれらがはじめたことを続けようとした。ふたりが互いについて抱いた感情でいえば、かれのほうはまだしも前向きなものだったようだ。母のほうはもっとほろ苦く、逃してしまったことを知っている機会についての悲しみだったのだが。

 母のおかげで私はウォルトのすばらしさに気づくことができた。そして、再会する前に彼女にとつぜん先立たれてしまったウォルトの落胆と悲嘆が、私と彼の友情の扉を開いた。かれは、かれが彼女を愛し始めていたことと、その喜びに満ちた驚きを知る人間を、そして、それだけに彼女を失ったことでどれほど痛烈な感情を抱いたかを受け入れてくれる人間を必要としていた。というわけで、母の最期の数年間で、私もまた母に対する尊敬と愛情が驚くほど高まっていたし、子どももおらず、離婚していて、雇われておらず、いまや親を喪って暇になっていたので、私がウォルトの話し相手になったのだ。

 母の死から数か月、はじめて彼のもとを訪れたとき、私たちは南フロリダでは必要不可欠なことをやった。かれの高級マンションで 9 ホールゴルフを打ち、デルレイビーチで九〇代の友人ふたりとラバーブリッジを二回戦やり、叔母の住む老人ホームを見舞った。ベッドのうえできつく胎児のようにうずくまって横たわる叔母をみた。ウォルトは優しく彼女にひと皿のアイスクリームとプリンを食べさせた。看護師が入ってきて、彼女の尻のバンドエイドを交換しようとすると、フランは堰を切ったように泣き出し、顔は赤子のように歪み、痛い、痛い、ひどい、こんなのフェアじゃない*5、と泣き叫んだ。

 私たちは看護婦に彼女を託すと、かれのアパートに戻った。フランの堅苦しい家具はドーヴァーから持ってきたものだったが、いまやひとり暮らしの男が散らかした雑誌やシリアルの箱が散乱していて、その印象を和らげていた*6。ウォルトは、感情を表に出さずにゲイルを喪ったことについて語り、彼女のかつての持ち物について訊いた。彼女の絵をいくつか持ち帰らないか? あの子に昔あげたペンタックスの SLR をもらってくれないか? 絵は学校の課題で描いたもののようにみえたし、カメラは必要としていなかったが、ウォルトは、ただたんに善意から寄付するのでは耐えられないようなことから、かれじしんを解放するやりかたを探しているのだと私は気づいた。喜んで引き取るよ、私はそう答えていた。

 

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 アルゼンチン南端へのフライトの前夜、サンティアゴでトムとわたしはリンドブラッド社がリッツ・カールトンのファンクションルームで開催するレセプションパーティに参加していた。われらがナショナル・ジオグラフィック・オリオン号の船室が最低二〇〇〇ドルからで、下手するとその二倍にもなることから、私はお仲間の乗客のことを大富豪の自然愛好家か、トロフィーワイフを連れて日焼けした退職者、あるいはタックスヘイヴン居住者だろうと、そして、テレビでみ知った顔の一人や二人はいるだろうと先入観を持っていた。しかし、私は計算を間違えていた。そういった客層のためには特別なヨットがあるのだ。ファンクションルームのひとびとの群れは期待していたよりも華がなく、八十歳代のひとたちもそんなにいなかった。百人のうち多数派は医者か弁護士で、お腹までズボンを引っ張り上げている男性はひとりくらいしかいなかった。

 船酔いと兄のいびきに次いで、この探検で三番目に恐れていたのは、南極特有の鳥類を探すのに十分な注意が払われないのではないかということだった。飛行機で旅行用の荷物を紛失したというオーストラリア人のスタッフが挨拶し、群衆から質問を受けつけたので、私は手を挙げて、私は鳥類愛好家なのだが、ほかにもいないかと訪ねた。多くの支持者を見込んでいたのだが、たった二本の手が上がっただけだった。前の質問のそれぞれを「すばらしい」と褒めたオーストラリア人は、私のことは褒めなかった。かれはいくぶん曖昧に、船には鳥に詳しいスタッフもいるはずだ、といった。

 挙がった二本の手は、正規料金を払っていない船内でただふたりの客だったということがすぐわかった。カリフォルニアはマウント・シャスタからきた、クリスとエイダという五十代の自然保護主義者夫妻だった。エイダにはリンドブラッドで働く妹がいたのだが、キャンセルが出たので、出発の十日前に叩き売り価格で出た客室を提供されたのだという。このことでかれらに対する親近感が増した。私には正規料金を払う余裕があったとはいえ、リンドブラッド社のようなクルーズ会社を選んだのは私じしんのためではなくて、れいのカリフォルニア人のために、南極の衝撃を和らげるために選んだのであって、豪華な旅をしているのは偶然の産物のようなものだと思っていたからである。

 次の日、アルゼンチンのウシュアイア空港で、トムと私はパスポート審査待ちでのろのろと進む列の最後尾近くにいた。出国前にリンドブラッド社から至急の支持を受けて、私はアルゼンチンがアメリカ人旅行客に課す「レシプロシティ・フィー*7」を支払っていたが、トムは三年前にもアルゼンチンに行ったことがあった。政府のウェブサイトではふたたび支払うことができなかったので、かれはその拒否されたときの画面のコピーを持っていき、パスポートにアルゼンチンのスタンプがあるのをみせれば国境を越えられると思ったのだ。しかし、国境は越えられなかった。ほかのリンドブラッド社の客がカタマランでのランチタイム・クルーズに向かうバスに乗り込む間、私達は入国審査官と立ち話をし、懇願していた。半時間が経過し、さらに二〇分が経過した。リンドブラッド社の係員は髪の毛を掻きむしらんばかりだった。ようやくトムが二回目の支払いを許されそうだとわかって、私は走ってバスに乗り込み、薄暗い視線の海に飛び込んだ。旅が始まってもいないのに、トムとわたしはすでに問題客となってしまっていた。

 オリオン号の船上、我らが探検のリーダーであるダグが、船内のラウンジに全乗客を集め、元気いっぱい挨拶をした。ダグは筋骨たくましく、白髭をはやしていて、前職は劇場設計者だった。「俺はこの旅を愛してる!」とかれはマイクに向かって話した。「この旅は、最高の会社による、地球で最高の目的地への、最高の旅だ。俺は、すくなくともここにいるみなさんとおなじくらい興奮している」この旅はクルーズではない、とかれは急いで付け加えた。これは探検で、かれのことは探検隊のリーダーだと思ってもらいたく、かれと船長がふさわしい機会を見出したら、計画は撤回して窓から投げ捨て、冒険を追い求めることすらあるのだと。

 この旅のあいだ、とダグは続けた。ふたりのスタッフが写真教室を開き、技術を向上させたいと望む乗客には個別に対応する。ほかにも、ふたりのスタッフが可能なところでは潜水し、追加で写真を撮るだろう。荷物をなくしたオーストラリア人は、高画質のカメラを搭載した最新モデルのドローンはなくしていなかった。かれはそれをこの旅で用いるために九か月働きかけて許可を取った。ドローンも映像を提供してくれるだろう。そして、専属の映像技術者がいて、旅の終わりには我々が買うことのできる DVD を制作してくれる。ラウンジにいたほかのひとびとはどうやら南極に行くことについて、私よりはっきりとした目標を掴んでいるようだった。明らかに、映像を持ち帰ることが目的だった。映像に期待してしかるべきだったのに、ナショナル・ジオグラフィックというブランドのせいで私は科学を期待してしまっていた。私は問題のある客であるという意識が強まっていった。

 その後の数日間で、リンドブラッド社の船のうえでひとと会ったときになんというべきかを学んだ。「リンドブラッドはこれがはじめてですか?」もしくはその代わりに、「まえにもリンドブラッドしたことがおありですか?」私はこれらの言い回しに落ち着かない気分にさせられた。まるで「リンドブラッド」がなにか漠然とした、だが高価なスピリチュアル系のものであるかのようだったから。ダグはラウンジでの夕方の総括を決まって「きょうはいい日だったか? それともいい日だったか?」と問うことではじめ、歓声が返ってくるのを待った。われわれは幸運にもドレーク海峡を順調に渡ることができたので、南極半島にほど近いバリエントス島にゾディアック号で上陸する時間が確保できたのだと教えてくれた。これは特別な上陸で、リンドブラッド社の探検に参加したものぜんいんができる体験というわけではないのだ、と。

 バリエントス島のジェンツーペンギンとヒゲペンギンの巣立ちの時期の後期にあたっていた。巣立ちを済ませ、親のあとに続いて海のなか、かれらの唯一の食糧庫である海のなかに戻って行ったヒナもいた。しかし、何千羽もの鳥が残っていた。毛におおわれた灰色のヒナは、親らしくみえる成鳥ならどれでも追いかけたり、反芻されたエサをねだり、親からはぐれたものや生育不良のヒナを狙う、カモメに似たトウゾクカモメから身を守るために密集したりしていた。成鳥の多くは換毛のために高い場所に退いていた。換毛とは、かゆみや空腹に耐えながら、新しい羽が古い羽を押しのけて生えてくるまで、数週間立ち続けるプロセスのことだ。換毛期のペンギンたちの我慢強さ、かれらの静かさと忍耐力は、人間の観点からでも称賛せざるを得ない。巣はどこも硝酸塩の匂いのする糞で汚れていたし、運命に敗北した孤児のヒナをみるのは哀れを催すことだったが、私はすでに来てよかったと思った。

 トムと私が首に貼っていたスコポラミンパッチのおかげで、ふたつのおおきな恐怖は消え去った。パッチと穏やかな海のおかげで私は船酔いにならなかったし、時計型ラジオからいびきを消すために騒音を流していたおかげで、トムはスコポラミンで毎日十時間ぐっすり眠った。しかし、みっつめの恐れは的中してしまった。クリスとエイダと私が観測デッキから海鳥を眺めるのに、リンドブラッド社の博物学者が参加することはいちどもなかった。オリオン号の図書館には、南極の野生生物についてのまともなフィールドガイドすらなかった。そのかわり、南極の探検者、とくに高名なアーネスト・シャックルトン――この船のうえではリンドブラッドそのひとにも劣らないくらい信仰されている人物――についての本なら何ダースもあった。会社支給のオレンジ色のパーカーの左袖には、シャックルトンの肖像の描かれたバッジが縫い付けられていて、エレファント島からの無甲板船による英雄的航海から百年経ったことを記念していた。我々には、シャックルトンについての本、シャックルトンについてのパワーポイント講義、シャックルトンにまつわる場所の特別ツアー、シャックルトンの旅を再現した長い映画、そして、シャックルトンが生き抜いた過酷な道のりを三マイル歩く機会が与えられた。(旅の後半には、映像技術者に見守られながら、シャックルトンの墓の前に集められて、アイリッシュウィスキーのショットグラスを渡され、かれに乾杯するよう誘われた。)リンドブラッド号に乗る我々じしんはシャックルトン的ではないというメッセージを示しているような気がした。オリオン号で英雄的な気分にひたれないというのは孤独のもとだ。私が持ち込んだ野生生物ガイドで勉強し、ナンキョククジラドリ(ちいさな海鳥だ)のフィールドマーク*8を調べ、高速で飛ぶオオミズナギドリの嘴の色から種を識別しようと試みる同胞が、すくなくともふたりはいたことを私はありがたく思っている。

 半島を南下するにしたがって、ダグは嬉しい報せをちらつかせはじめた。そして、ついにかれは私たちをラウンジに集め、なにが起こったのかを発表した。風向きに恵まれて、かれと船長は計画を変更したのだという。南極圏*9の内側に入る特別な好機を得たので、これからもっと南下するのだと。

 南極線に到達する前夜、私たちが「マゼンタ・ライン」(かれはジョークをいっていた*10)を横切るときに外を眺めたいと思っている乗客を起こすために、朝かなり早い時間に船内電話で呼び出すかもしれないと警告した。そして、かれは六時半に私たちを起こすと、マゼンタ・ラインについてもうひとつジョークをいった。船がラインに近づくと、ダグは芝居っけたっぷりに五からカウントダウンしていった。それからかれは「乗船者の皆さん*11」を祝福し、トムと私は寝に戻った。あとになって知ったのだが、オリオン号が南極線に接近したのは六時半よりも一時間以上前、大富豪を起こすにはためらってしまうような時間帯、写真を撮るには暗すぎる時間帯のことだった。クリスが夜明け前から起きていて、かれの船室のテレビ画面で船の座標を追っていたのでわかったのだ。船が減速し、西に航路を変更し、時間を稼ぐために鉤張りのような旋回を決めて北へ進路を取るところをかれはみていた。

 ダグはカルト的な側面のあるブランドのハッタリ主任部長になり下がっていたが、私はかれに同情を抱いていた。かれはリンドブラッド社の冒険隊長としての最初のシーズンを終えつつあり、明らかに疲れ切っていた。けっきょくのところ大富豪というわけではなく、かれらの払ったお金に見合った価値を期待している顧客たちに、生涯の経験となるような旅を提供しなければ、という強い重圧に晒されていた。さらに、私のみた限りでは、ダグはかれの出会った種のリストを記録しておくくらい真剣な、私を除けば船のなかで唯一の鳥類愛好家だった。かれは記録を諦めてしまったが、ある晩の総括で、かれがはじめてのサウスジョージアタヒバリをみつけようとして必死の努力をしたが失敗してしまったときの興味深い話を語った。もしかれが船いっぱいの画像追求者たちを運ぶことに躍起になっていなかったら、かれと知己を得てみたかったのに。

 そして、南極はダグの熱意に見合ったものだったといっておかねばらない。美しすぎて消化できない、まるで現実とは思えない景観をみたのははじめてだった。行く前から非現実的だと思っていた旅は、じっさいに、よりよい意味でまるで現実とは思えないような場所に私を連れて行ってくれた。地球温暖化によって大陸の西側の氷床は危機に瀕していたが、南極はまだ溶けていない。ルメール海峡の両側には峻厳な黒い山々が連なっていて、非常に標高が高かったが、ただ雪に覆われているということもなかった。風で削られた雪の吹き溜まりが山頂まで続き、もっとも垂直な崖になっている部分だけが違和を露出させていた。風から守られている水面は鏡のようで、硬質な灰色の空の下ではまるで外宇宙のような黒、漆黒にみえた。終わりのない黒、白、灰色のモノクロームのなかで、氷河の青が神経を逆なでした。私たちの航跡のあいだで揺れ動く淡い青み、アーチ型で空洞のある流氷の城の強烈な濃紺、分離する氷山の発泡スチロールのような青――なにをみても、私は自然の色合いをみているのだと信じることはできなかった。信じられなくて、なんども笑いそうになった。イマヌエル・カントは崇高を恐怖と結び付けたが、私はそれを南極で、安全で見晴らしのいい船上から、ガラスと真鍮のエレベーターと、一級品のエスプレッソ付きで体験したのだ。それはむしろ美と不条理の混ぜ合わさったようなものだった。

 オリオン号は不気味なほど鏡のように凪いだ海を航海した。地上にも、氷上にも、水上にも、人工物はなにひとつなかった。建築物もほかの船もなく、前方の展望デッキにいるとオリオン号のエンジン音さえ聞こえなかった。クリスとエイダといっしょに黙ってそこに突っ立ってウミツバメを探していると、まるで世界には私たちしかおらず、ナルニア国物語の朝びらき丸のように、目に見えず、抗いがたい流れによって世界の果てに向かって引っ張られているような気がした。しかし、流氷地帯に入ると写真が必要となった。ゾディアック号が騒音を立てて出航し、オーストラリア人のドローンが放たれた。

 その日の終わり、私たちが到達した最南端にほど近いラルマン・フィヨルドで、ダグはもうひとつの「作戦」を発表した。船長がフィヨルドの先端の氷原に船を突っ込ませるから、シーカヤックでこぎ出してもいいし、氷のうえを歩いてもいいというのだ。コウテイペンギンがみられるとしたらフィヨルドが最後の希望だった。ほかの七種類のペンギンは旅のあいだにみかけたが、コウテイペンギンだけは南極圏の北部にはめったに現れなかった。ほかの乗客たちがかれらの船室で慌ててライフジャケットと探検用のブーツに履き替えるなか、私は観測デッキで望遠鏡を準備した。カニクイアザラシとちいさなアデリーペンギンが散在している氷原をざっとみわたすと、すぐに私はみ慣れない鳥の姿を目撃した。耳の裏に色斑があって、胸のあたりが黄色く色づいているようにみえる。コウテイペンギンか? 拡大された画像はぼやけてはっきりとみえず、鳥の体はちいさな氷山にほとんど隠れていたし、船も氷山も揺れていた。はっきりとした姿を目にする前に、氷山は鳥の姿を隠してしまった。

 どうするべきか? コウテイペンギンはおそらく世界でもっとも偉大な鳥だ。体長四フィート、映画『皇帝ペンギン』の主役、南極の冬に、海から百マイルも離れたところで卵を暖める。オスは暖を取るために密集し、メスはエサを求めて水辺までよちよち歩くか、トボガン*12で移動する。かれらはどれもみなシャックルトンとおなじくらい英雄的だ。しかし、ちらっとみえた鳥とは優に半マイルの距離があったし、私はすでに一度おおきな遅れを集団にもたらした問題客の一員であることを自覚していた。むかし鳥の同定に失敗したことがあるという苦い記憶も思い出していた。氷のうえにランダムに望遠鏡を向けて、この旅でもっとも期待していた種にいきなり出会うなんて、どのくらいの確率だろうか。黄色い模様と色斑が私の作り出した幻覚だとは思わなかったが、ときに鳥類愛好家の目はみたいと望んでいるものをみてしまう。

 みずからの運命はみずからで決めるという実存主義的な瞬間を経て、私は船橋甲板に降りていくと、ダグの指示で駆け回っている私のお気に入りのスタッフの自然学者をみつけた。かれの袖を掴むと、コウテイペンギンをみたと思うのだが、と声をかけた。
コウテイペンギン? ほんとですか?」
「九十パーセントの確率で確かだ」
「確かめてみましょう」かれはそういって私から離れていった。
 かれがほんとうにそうするようには思えなかったので、私はクリスとエイダの船室に駆け下りていってドアを叩き、速報を伝えた。信じてくれたかれらに神の祝福あれ。かれらはライフジャケットを脱ぐと、私に着いて観測デッキに上がった。運悪く、ちいさな氷山がたくさんあったので、いまや私はペンギンがいた場所を見失っていた。私が船橋に降りると。さっきとは違う、オランダ人女性のスタッフがいた。彼女はもっと期待できそうな口ぶりだった。「コウテイペンギン! 見逃せないわね、船長にいますぐ伝えなきゃ」

 グレイサー船長は痩せて元気いっぱいのドイツ人で、みためよりはきっと年を食っていた。かれは鳥が正確にどこにいたのか知りたがった。私はなるべく最善の推測を示し、かれは無線でダグに船を動かすよういった。無線越しにダグの憤激が聞こえた。かれは作戦中なのだ! 船長はそれを一時中止するよう命じた。

 船が動き出し、私が鳥をみ間違えていたらどれだけダグがイラつくだろうと考えていたとき、私はちいさな氷山をふたたび発見した。クリスとエイダと私は船の欄干に立ち、双眼鏡でそれをみた。しかしそこにはなにもなかった。すくなくとも、船が停止して向きを変えるまではなにもみなかった。無線がひっきりなしに鳴り響く。船長が氷のなかに突っ込むと、クリスがそれらしい鳥が水のなかに飛び込むのをみつけた。しかし、エイダがその鳥がまた氷のうえに飛び戻ったのをみた気がするという。クリスが双眼鏡を構え、長いあいだ観察し、私のほうを振り返ると、まじめくさった表情で「私もそう思う」といった。

 私たちはハイタッチした。私はグレイサー船長を呼び、かれはスコープを覗き込むと大声をあげた。「ヤー、ヤー」かれはいった。「コウテイペンギン! コウテイペンギンだ! 期待していたとおりだ!」かれは、前の旅でもおなじ場所で孤立した皇帝ペンギンをみたことがあったので、私の報告を信用したのだという。さらに大声を発し、ジグを、ほんもののジグを踊ってから、かれはもっと近寄ってみるためにゾディアック号に飛びついた。

 かれが以前みたというコウテイペンギンは例外的に友好的で好奇心旺盛だったのだが、私がみつけたのもおなじ鳥のようだった。というのも、船長が近づくと鳥は腹を地面につけてかれのほうに熱心にトボガンしていったのだ。ダグは船内無線で船長が素晴らしい発見をしたので計画を変更するとアナウンスした。すでに氷上にいたハイカーたちは鳥に向かって進路を変更し、残りの私たちはゾディアック号に詰め込まれた。私がそこに着くころには、三〇人のオレンジ色のジャケットを着た写真家たちが立ったり跪いたりして、とても背が高く、とてもハンサムで、かれらのすぐ近くにいたペンギンにレンズを向けていた。

 私はひそかに、旅のあいだ一枚も写真を撮るまいという社会不適合的な誓いを立てていた。そして、この情景は忘れようもないので、カメラで撮る必要なんてなかった。コウテイペンギンが記者会見を開くために姿を現すなんて。アデリーペンギンの群れがうしろから現れて、まるで記者会見のスタッフみたいにそれを見守っていた。コウテイペンギンは記者団と穏やかな品位を保って接していた。しばらくして、ペンギンはのんびりと首のストレッチをした。バランス感覚と体のしなやかさを披露するかのように、それでいてわざとらしくなく、片方の足で直立しながら、もう片方の足で耳のうしろを掻いた。それから、私たちといっしょにいるのが心地よいことをあきらかにするかのように、眠りに落ちた。

 その次の夕方の総括で、グレイサー船長は温かく鳥類愛好家たちに感謝した。かれは私たちのために、食堂に無料のワインつきの特別なテーブルを用意した。テーブルの上に置かれたカードには「皇帝にして国王」と書かれていた。大半がフィリピン人の船のウェイターは、いつもはトムのことをサー・トムと、私のことをサー・ジョンと呼ぶので、私はじぶんがフォルスタッフ卿であるかのような気分にさせられていた。しかし、その晩はほんとうに皇帝にして国王であるような気分だった。一日中、いままで会ったことのない船客たちが、廊下で私とすれちがいざまに立ち止まり、私がペンギンをみつけたことに感謝したり喝采をあげたりしたのだ。そのシーズンを防衛するタッチダウンを決めたあと、学校に凱旋する高校生アスリートはこんな気分なのか、と私はやっと理解することができた。四十年間にわたり、大半の社会的な集団のなかで、私はじぶんのことを問題児だと感じることに慣れていた。一日だけのこととはいえ、チームの勝利に貢献した英雄となることは、まったくもって目新しいことで、戸惑ってしまった。もしかしたら、私は人生を通して人の輪に加わることを避けてきたことで、ひととしてなにか大切なものを見失っていたのかもしれないと思った。

 

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 空軍の退役軍人である私の叔父は、いまやアーリントン墓地に埋葬されているが、生涯を通して人の輪に加わるのが好きな人物だった。ウォルトはミネソタ州のアイアンレンジに所在する、かれの故郷であるチザムへの忠誠心を失わなかった。かれはそこで貧乏のうちに育った。かれは大学ではホッケーの選手だったが、それから第二次世界大戦では爆撃機パイロットとなり、三五年間北アフリカと南アジアで作戦飛行に従事した。かれは独学のピアニストで、スタンダードナンバーならどれでも耳で聞いて覚えていた。ゴルフのスウィングは折衷的だった。かれは生涯で出会ったすばらしい友たちに捧げる二冊の回顧録を著した。かれはまた、厳格な共和党員と結婚したリベラルな民主党員でもあった。かれはほとんどだれとでも活発に会話を交わすことができ、もし母が父ではなくウォルトのような普通の男と一緒にいたとしたら、どんなに自由で楽しかっただろうと想像してしまった。

 ある晩、南フロリダのマンションのレストランで、何杯かカクテルを飲んだ後、ウォルトはかれと私の母親の話ではなく、かれとフラン、そしてゲイルの話をしてくれた。退役して、とかれはいった。海外のさまざまな基地でフランと共に送る将校としての公的な生活が終わると、彼女と結婚したのは間違いだったと気づいた。彼女は両親に甘やかされて育っただけではなく、執念深い社会進歩主義者で、かれが愛し、祝福したミネソタの僻地に出自を持つという事実を憎んでいた。彼女は耐え難い人間だった。「私は弱かったんだ」かれはいった。「彼女と離れるべきだった。なのに、私は弱かったんだ」

 フランが三十代半ばのころ、かれらは一人娘をもうけた。フランはたちまちゲイルに執着するようになり、ウォルトとのセックスを拒むようになった。そのためウォルトはどこか別のところに慰めを見出すことになった。「ほかにも女たちがいたよ」かれは私にいった。「浮気をしていたんだ。だが、私は家庭的な男で、フランを捨てることはないとはっきり決めていた。日曜日には仲間と酒を飲んでバルチモアまで運転し、ジョニー・ユナイタスとボルチモア・コルツを観戦しに行ったものだ」家では、ゲイルの身だしなみ、学校の勉強、美術の課題などにフランがますます細かく気を配るようになった。フランが話すのも考えるのもゲイルのことばかりだった。四年間の大学生活はつかの間の休息になったが、ゲイルが東海岸に戻り、ウィリアムズバーグで働くようになると、フランはゲイルの生活にふたたび立ち入るようになった。ウォルトには、なにかがひどく間違っていることがわかった。ゲイルは母親によって狂わされていたのだが、そこから逃れる方法がわからなかったのだ。

一九七六年の初夏、かれはかれにできる唯一のことを断行した。ミネソタに、かれの愛するチザムに帰るとフランに宣告し、娘への異常な執着を捨てない限り、彼女とはもう暮らしていけない――結婚生活を続けることはできない、と告げたのだ。そしてかれは荷物をまとめ、ミネソタへ運転して行った。十日後、ゲイルが悪天候のなかウェストヴァージニア州を横断するドライヴに出発したとき、かれはチザムにいた。ゲイルは知っていた、とかれはいった。かれが彼女の母親と絶交したことに。かれがみずから彼女にそう語ったのだ。

 ウォルトはそこで話を切り上げ、私たちはほかのことについて話した。マンションのほかの住民のなかからガールフレンドを探そうと思っていること。いまや私の母は死に、フランは老人ホームにいるので、この望みにかれが良心のとがめを覚えていないこと。マンションの上品な未亡人たちにとっては、かれが田舎者っぽくみえすぎるのではないか、洗練されていないようにみえるのではないかという懸念。かれが物語の終結部を省略したのは、それがいうまでもないことだからか、と私は思った。かれがミネソタに逃げたことと切り離して考えることのできないウェストヴァージニアでの事故のあとでは、そして、フランが彼女の人生にとって唯一重要なひとを亡くし、死人へのはかない執着という苦痛の世界に永遠に囚われてしまったあとでは、かれが彼女のもとに帰り、これからは彼女の世話をすることに専心する以外の選択肢などなかった。

 ゲイルの死は単なる「悲劇的」などという紋切型ではすまなかったようだ。皮肉と、ドラマチックな悲劇の避けがたさを伴っていて、ウォルトがフランの話を聞くのに献身していた二十数年間に事態はさらにこじれていて、彼女に対するかれの心づかいの優しさによってのみ徐々に和らげられていた。かれはほんとうにいいひとだった。かれは壊れてしまった妻に対してまごころからの愛を注いでいた。私は悲劇だけではなくて、その渦中にある男のまっとうな人間らしさに感動した。驚嘆の念すら覚えた。私の人生のなかには、道徳的厳格さと父方の家風であるスウェーデン風のよそよそしさのなかで目立たないように隠されていたが、浮気をし、仲間とともにバルティモアにドライブし、運命を男らしく甘受するふつうの男が存在していたのだ。私の母も、私がいまこの男のなかにみ出しているものをみ出したのだろうか、それで、いま私がそうしているように、この男を愛するようになったのだろうか、と考えた。

 次の日の午後、ウォルトの友人のエドが電話してきて、ジャンパーケーブルを持って家にきてくれと頼んだ。家に着くと、エドが道の横、巨大なアメ車のかたわらに立っているのがみえた。エドはほとんど死にかけにみえた――かれの肌は恐ろしく黄色く、足元がふらふらしていた。一か月くらい病気をしていたのだが、だいぶよくなったという。しかし、ウォルトがジャンパーケーブルをエドの車につなぎ、エンジンを回してみろといったとき、エドは衰弱しすぎててイグニッションキーを回せないんだと繰り返した(なのにかれはまだ運転したいと思っていたのだ)。私がエドの車のなかに入った。キーを回そうとしてみてすぐ、車の問題はバッテリーが上がってしまったなどということよりよっぽど悪いと気づいた。エドの車はまったくの無反応だ、私はそういった。しかし、ウォルトはケーブルの接続方法が気に入らないみたいだった。かれはじぶんの車をバックさせ、舗道からケーブルを拾い上げた。止める暇もなく、かれはケーブルの把持部を引きちぎった。私に対して怒っているようだった。私はケーブルの把持部をドライバーでつなぎなおそうとしたが、かれはそのやりかたが気に入らないみたいだった。私からそれを奪おうとして、かれは私に怒鳴り、叫び散らかした。「こんちくしょう、ジョナサン! いまいましい! 違うだろ! 渡せ! くそっ!」助手席に座るエドは横向きに倒れ、下を向いていた。ウォルトと私はドライバーをめぐって争い、私はドライバーを放そうとしなかった。私もかれに腹を立てていた。私たちは落ち着きを取り戻すと、かれの満足いくようなやりかたでケーブルを修理した。もう一度エドの車のキーを回してみた。車は反応しなかった。

 この最初の訪問のあと、私は毎年フロリダまでウォルトに会いに行き、二、三か月おきに電話をかけた。けっきょく素晴らしい彼女を作ったようだった。どれだけかれの聴力が衰え、頭のなかが曇り出そうと、私はかれとの会話を続けることができた。私たちは強いつながりを維持し続けた。たとえば、私がいつかかれの物語を語るということが、かれにとってどれだけ重要かと吐露し、私がそうするといったとき。しかし、ジャンパーケーブルのことでかれが私に怒鳴ったあの日ほど、かれと距離が近づいたと感じたことはなかった。あんなふうに怒鳴るなんてどこか尋常じゃないところがあった。まるで、かれと私とのあいだにほんとうのつながりがあったわけではなく、私たちが互いの人生でともに過ごしたのは累計一週間にも満たないということを忘れて――あるいは、エドとかれの車があからさまに死につつあったこと、私という人格を通して母への愛が屈折したことによってそれを忘れさせられてしまって――いたかのようだった。かれは父親が息子に怒鳴るようなしかたで私に怒鳴ったのだ。

 

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 カリフォルニア人の恐れは、天気については的中しており、天気は私が彼女に請け合ったよりもよっぽど寒かった。しかし、私はペンギンについては正しかった。ペンギンが大量にいた南極半島を離れ、オリオン号は北へ向かい、それからはるか東、サウスジョージア島へ進路を取った。そこには驚異的な数のペンギンがいた。サウスジョージア島はオウサマペンギンの一大繁殖地だった。オウサマペンギンはコウテイペンギンとおなじくらい大きな種だが、より派手な羽毛を有している。私にとって、野生のオウサマペンギンをみるというのはそれだけで旅をする理由になるだけでなく、この惑星に生まれてきたことのじゅうぶんな理由になる。認めざるを得ないが、私は鳥が好きだ。しかし、ほかの惑星からきた来訪者がオウサマペンギンを観察し、いっぽうではもっとも完璧なヒトの標本をみたとしたら、性的な魅力の可能性に目を曇らされていない限り、ペンギンのほうがあきらかに美しい種だと判定するだろう。仮定上の地球外生命体だけではない。だれもがペンギンを愛している。その直立した姿勢、腹這いになるときの覚悟、腕のようなヒレを振るときの仕草、歩くときの歩幅の短さ、肉付きのいい足で大胆にはねまわる姿は、大型類人猿を除けば、ほかのどんな動物よりも人間の子どもに似ている*13

 海岸線から遠く離れたところで進化してきたので、南極のペンギンたちは私たちをまったく恐れない珍しい動物になっている。私が地面に座ると、オウサマペンギンが近くに寄ってきて、かれらの輝く毛皮のような羽に触れられそうなほどだった。かれらの羽毛の模様は超解像度で、色彩は超鮮明で、ふつうこんな体験をしようと思ったらドラッグをやるしかない。ジェンツーペンギンとヒゲペンギンの巣は、排せつ物のせいで、あまり座るのに向いているとはいいがたい。しかし、オウサマペンギンは、あるリンドブラッド社の自然学者もいっていたのだが、よりきれい好きだった。サウスジョージア島のセント・アンドリューズ湾では、五〇万羽のオウサマペンギンの成鳥と、ふわふわのオウサマペンギンのヒナが密集していたが、私が嗅いだのは海と高山の空気だけであった。

 マカロニペンギンのグラムロックめいた冠羽や、イワトビペンギンが急斜面を辛抱強く登ったり降りたりする際の、両足を揃えた小幅なジャンプなど、どのペンギンにもそれぞれの魅力があるが、私はなかでもオウサマペンギンがいちばん好きだった。かれらは手のつけようもないほど美的な素晴らしさと、遊びに興じる子どものように熱心な社会的エネルギーを併せ持っている。岸に向かって潜水してきたあと、オウサマペンギンの群れが、水が冷たすぎたかのように、ヒレを伸ばしてひらひらさせながら、危険のなかからまっさかさまに駆け上がってくる。あるいは、一羽の鳥が浅い波のなかに立っていて、あまりに長いこと海を眺めているので、頭のなかでなにを考えているのかと考えざるを得ない。あるいは、若い二匹のオスが、まだつがいになっていないメスを追いかけてはしゃいでいると、ひと息ついて、どちらの首の模様のほうがが印象的なのかを確かめたり、ヒレを使ってお互いを叩いて無意味な音を立てたりする。かれらは獰猛に尖ったくちばしを持っていたのに、拳を持たない翼でしばきあっていた。

 セント・アンドリューズ島での活動は主に生息地の周辺で行われた。多くの鳥が抱卵したり換毛したりしていたので、いちばん大きな生息地は際立って平和にみえた。それを高いところからみていると、ロサンゼルスのこと、グリフィスパークを週末の早朝に眺めていたときのことを思い出した。眠気を誘う、直立したペンギンの大都市。ハトの体にハゲタカの習性を持つ、雪のように白い奇妙な鳥、サヤハシチドリが大通りをパトロールしている。オウサマペンギンの驚くべき鳴き声――お祭り騒ぎめいて渦巻くバグパイプのような騒音、休日の喧騒のような音、飛行機の中で聞こえるあの「吠える犬」のような音、とはいえ、じっさいには地球上で聞いたことがないような音――何千羽ものペンギンたちが遠く離れたところで一斉に鳴いているのを聞くのは心地良かった。

 ニ十世紀には、かれらとエサを争っていたクジラやアザラシをほとんど絶滅させたという点で、人類はペンギンによいことをしてやった。ペンギンの数は増え続け、近頃のサウスジョージア島はかれらにとってもっと住みやすくなった。氷河が急速に後退して地表が露出することで、かれらにとって営巣しやすくなったのだ。しかし、人間がペンギンに与えた恩恵は長続きしないだろう。気候変動がこのまま海を酸性化し続けるようであれば、海中の無脊椎動物たちが殻を維持することができない pH になってしまうだろう。こういった無脊椎動物のなかでも、たとえばオキアミは多くのペンギンの種にとって日々の常食となっている。また、冬場にオキアミの餌となる藻類が育つ南極半島を取り巻く氷は、これによってこれまでオキアミは大規模な商業的利用から護られてきたのだが、気候変動によって急速に減少している。ペンギンのみならず、多くのクジラやアザラシの餌となっているオキアミを吸引するために、中国やノルウェー、韓国から超大型タンカーサイズの工船がやってくる日が近いかもしれないのだ。

 オキアミは小指の先ほどのおおきさで、小指のような色をした甲殻類だ。南極に生息するその総量を見積るのは難しいが、よく引き合いに出される五億トンという数字は、この種を世界最大の動物性バイオマス貯蔵庫とみなすのにじゅうぶんだ。ペンギンにとっては不幸なことに、多くの国でオキアミは人間にとって(我慢できないことはない味らしい)、そして、とくに養殖魚や家畜にとって良食だとみなされている。現在、オキアミの年間漁獲量はノルウェーを筆頭に五〇万トン以下だと報告されている。しかしながら、中国はすくなくとも年間二百万トンまで漁獲量を増やすという意向を表明しているし、そのための船を建造している。中国農業発展集団の主席は「オキアミは非常に良質なたんぱく質で、食料や医薬品に加工できる。南極は全人類の宝物庫であり、中国はその分け前を受け取るだろう」と説明している。

 南極の海洋生態系は世界で最も豊かなもので、実質的に無傷で残されている最後の生態系でもある。その商業的利用は、南極海洋生物資源保存委員会によって、すくなくとも名目上は監視され、規制されている。しかし、委員会の決定は二五の加盟国のいずれによっても拒否権を行使される可能性があり、そのうちのひとつである中国はいくつかの大規模な海洋保護区指定に対して抵抗してきたという歴史がある。ほかにも、ロシアは最近になって新保護区の指定に拒否権を行使するだけでなく、保護区を設定する条約の有効性そのものに疑問を呈するなど、非妥協的な態度を公然と示している。つまり、オキアミの未来、そしてオキアミとともにあるペンギンの未来は、不確定要素によってさらに不確実になっている。オキアミがどれくらい存在するのか、気候変動にどれほど耐えうるのか、ほかの生物を餓死させることなくオキアミを獲ることができるのか、こうした漁業を規制できるのか、そして、南極における国際協調が新たな地政学的不和に耐えうるのか。不確実でないのは、世界の気温、世界の人口、そして世界の動物性たんぱく質に対する需要のすべてが急速に上昇、増加していることである。

 

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 オリオン号での食事はどうしても『魔の山』におけるサナトリウムを思い出させる。一日三回食堂へひとびとが殺到し、世間から隔絶されていて、食堂の顔ぶれには変化がない。ベートーヴェンの『エロティカ』の名前を口走るシュテール夫人の代わりに、ドナルド・トランプの支持者とその妻がいた。陽気なアルコール中毒患者の夫婦もいた。オランダ人のリウマチ専門医と、彼女の二番目の夫であるリウマチ専門医、そして、その娘の彼氏であるリウマチ専門医もいた。ゾディアック号への乗船がはじまるたびに最前列に出てくる二組のカップルもいた。特別な許可を得てアマチュア無線装置を持ち込み、船の図書館で趣味の仲間と連絡を取ろうと試みながら休暇を過ごしている男性もいた。ほとんど輪に混ざろうとしないオーストラリア人たちもいた。

 食事中の雑談のついでに、私はみんなになぜ南極にきたのか訊いてみた。すると、多くのひとはたんにリンドブラッド社の信者であることがわかった。あるひとは、ほかのリンドブラッド社のツアーで、南極へのリンドブラッドはカリフォルニア湾へのリンドブラッドを除けば最高のリンドブラッドらしいと聞き及んだそうだ。私が好感を抱いていた、ボブとジジという医師と看護師のカップルは、二五回目の結婚記念日を一年遅れで祝いにきていた。ほかにも、引退した化学者で、ほかに行ったことのない場所がなくなってしまったから南極にきたのだというものもいた。南極大陸が溶ける前にみにこようと答えたひとがいなかったので私はうれしかった。驚くべきことに、旅のあいだほとんどずっと、スタッフや乗客の誰一人として「気候変動」ということばを口にしなかった。

 もちろん、船上での講義の類はたいていサボっていた。じしんがガチの鳥類愛好家であることを証明するために、私は観察デッキに登らなければならなかった。ガチの鳥類愛好家は、刺すような風と塩水の噴霧に耐えながら一日中立ち尽くし、なにかいつもとちがうものがみえないかと霧のなかやまぶしい光のなかをみつめ続けるものである。そこにはなにもないと直観していても、水平線上にまばらに飛ぶ鳥や、波とよく似た色合いで、波間を飛ぶすべてのナンキョククジラドリ(あるいはただのクジラドリかもしれないが)、船の航跡のあとを追うべきかどうか決めかねている迷いアホウドリ(シロアホウドリかもしれない)などを、何時間もかけて観察するしかそれを確かめるすべはないのである。海を観察するのはときに吐き気を催し、しばしば凍えるほど寒く、ほとんどいつもなにかの罰みたいに退屈だ。三〇時間かけてようやく一羽の海鳥(ケルゲレンミズナギドリだった)を確認したところで私の熱意は冷め、ブリッジをするという、より社交的な衝動に身を任せることにした。

 ほかのプレイヤーのダイアナとナンシー、ジャックはシアトルからきていて、ほかにも何人かのメンバーがいる船内の読書クラブに所属していた。クリスとエイダのように、かれらも私の友人になった。さいしょのころ私はバカな手札を切ってしまい、ダイアナ(手ごわい破産弁護士だ)は私を笑って「ひどいプレイね」といったのだが、私はそれで彼女のことを好きになってしまった。テーブルでの汚い言葉遣いも気に入った。私のパートナーであるナンシー(フォークリフト売店を経営していた)がこの旅行ではじめてのスラム・コントラクトをプレイしたとき、私が残りのトリックはすべて彼女のものだと指摘したら、彼女は「カードを出させろクソ野郎」と私にきつくいい返した。彼女は愛情表現のつもりだったといった。三人目、ジャック(彼女*14も弁護士だった)はダイアナ妃が開いた感謝祭ディナーに参加したときのことを題材にして舞台劇を書いたそうだ。そのディナーの最中にダイアナの病弱な夫が家族部屋のベッドで亡くなるという筋書き。ジャックは私が気づいたなかでは唯一、乗客のなかでタトゥーをしていた。

 『魔の山』のように、探検のさいしょの日々は長く、記憶に残るものだったが、後半は加速度的に記憶がぼやけていった。サウスジョージア島タヒバリ(極めて美しく、人懐っこい)と出会って満足してしまうと、捕鯨基地の廃墟を訪れることには興味がなくなってしまった。サウスジョージア島での五日目、「もう一回シーカヤックにでも乗ろうか」といったダグの声にさえ倦怠感が漂い始めていた。『ゴドーを待ちながら』の後半でありとあらゆる気晴らしをやりつくしたあとに「木をやる」と決めたヴラジーミルとエストラゴンみたいな声だった。

 興味深い海鳥が外を旋回しているであろうなか、私はブリッジのテーブルでほとんどの時間を過ごしていたが、旅の最終日が近づいてきたころ、ラウンジに降りて行って気候変動についての講義を受けた。講義はドローンを飛ばしていたアダムという名のオーストラリア人によって行われ、乗客の半分も聞きに来ていないようだった。どうしてこんなに重要な講義を最終日まで延ばしていたのだろうと思った。好意的に解釈すれば、環境意識の高さに誇りを持つリンドブラッド社は、私たちが楽しんだ自然を守るための情熱を燃やして家に帰ることを期待してそうしたのだろう。

 アダムが冒頭で述べたことはべつのことを示唆していた。「お客様コメントカードは」かれはいった。「気候変動に関するあなたの信念を表明する場所ではありません」かれは落ち着かなさそうに笑った。「情報を伝えているだけのひとを撃ってはいけませんよ」かれは地球の気候が変化していると信じているひとがどれだけいるか質問した。ラウンジにいるだれもが手を挙げた。人間の活動がそれを引き起こしていると信じる人は? またもや多くの手が挙がったが、ドナルド・トランプ支持者の手とアマチュア無線愛好家の手は挙がらなかった。ラウンジの最後方から、クリスの不愛想な声が届いた。「信じる信じないの問題じゃないと思うひとは?」
「いい質問ですね」とアダムがいった。

 かれの講義は『不都合な真実』の焼き直しで、気温の上昇を示す有名な「ホッケースティック曲線」のグラフや、海面上昇によってフロリダを去勢されたアメリカの有名な地図が含まれていた。しかし、アダムの示した予想図はアル・ゴアのものよりも暗く、というのも、十年前に悲観主義者が予測したよりもさらに早くこの惑星が温暖化していたからだった。アダムは近年の、雪なしではじまるアイディタロッド*15のことや、うんざりするほど暑いアラスカの夏のこと、二〇二〇年の夏には北極の氷がなくなっているかもしれないという可能性に言及した。十年前には南極大陸のたった八七パーセントの氷河しか縮小していないといわれていたのに、いまでは一〇〇パーセントになっているとかれはいった。しかし、かれの話のもっとも暗い点は、気候学者たちは科学者である以上、統計的に高い確率で実現する主張にとどまらざるを得ないということだった。かれらが将来の気候のシナリオをモデル化し、地球の気温の上昇について予言するとしたら、平均的なシナリオで到達しうる気温ではなくて、九〇パーセント以上の確率で到達するであろう、わざと低く見積もった気温を選択しなければならない。つまり、今世紀の終りには(摂氏で)五度上昇すると自信をもって予測した科学者が、プライベートではビールを呷りながら、ほんとは九度上昇すると予測していると語るかもしれないのだ。

 華氏(十六度)で考えてみて、私はペンギンたちにとても哀れを催した。だが、気候変動の議論ではよくある話だが、診断から対策に話が映ると、ブラックジョークのような様相を呈し始めた。一分間に三・五ガロンもの燃料を消費する船のラウンジで、私たちは直売所で買い物をしたり、白熱電球を LED 電球に変えることの利点をアダムが称揚するのを聞いていたのだ。かれは女性への普遍的な教育が世界的な出生率の低下につながること、戦争を世界からなくせば世界経済を再生可能エネルギーベースに転換するための充分な資金が生まれることを示唆した。そこでかれは質問やコメントを求めた。気候変動懐疑論者は、議論には興味がないようだったが、熱心な信者が立ち上がり、じぶんは多くの賃貸住宅を管理しているのだが、国から補助金をもらっている借家人は、冬には部屋を暖かく、夏には涼しくしすぎていることに気づいている、と主張した。これはかれらが電気代を払う必要がないからであって、気候変動と戦うためにはかれらにも電気代を払わせる必要がある、と。これにはある女性が静かに答えた。「超富裕層のほうが、補助金をもらって家に住んでいるひとよりもっと無駄遣いをしていると思うけれど」そのあとは、荷造りがあったのですぐに解散となった。

 六時にはふたたびラウンジにひとが満ち、さきほどよりももっと窮屈になった。探検の締めくくりとして、乗客たちから三、四枚のよく撮れた写真を募集して作ったスライドショーの上映が始まった。このスライドショーを開催した写真のインストラクターは事前にこの曲がきらいな人がいたら申し訳ない、と謝罪していた。たしかに「ヒア・カムズ・ザ・サン*16」とか「恋の乾草*17」とかいった曲は気に入らなかった。だが、そもそも催しぜんたいが憂鬱だったのだ。私がわれわれの画像の文化からいつも感じる感覚の縮小を覚えた。どれだけ細かく生を写真の連続に切り刻んでも、どれだけ密にその写真を並べても、けっきょくのところ、その連続が私にもっとも訴えかけてくるのは、それが取り逃してしまったものについてなのだ。また、三週間ナショナル・ジオグラフィックの講習を受けてもナショナル・ジオグラフィックの映像ほどの新鮮さを生み出せていないことも明らかで、それも悲しかった。累積する効果は痛々しく、高望みだった。そのスライドショーは私たちがシャックルトンとその仲間たちのように、コミュニティーとして経験した冒険を捉えていると僭称していた。しかし、南極での長い日々も、アザラシの肉を分け合った月日もそこにはない。リンドブラッド社と個々の顧客のあいだの縦の関係が強すぎて、横のつながりが生まれなかったのだ。そういうわけで、スライドショーはリンドブラッド社の素人コマーシャルにしかみえなかった。その高望みは、私にとって重要なこと、アマチュア写真にとって重要なことも台無しにした。愛するものの顔を記録することだ。クリスとエイダがゾディアック号に乗っている写真(クリスは完全に不機嫌な表情を維持するのに失敗していて、エイダは満面の笑みだった)を兄が個人的にみせてくれたとき、私は船上でかれらをみつけたときの嬉しさを思い出した。その写真は私にとっての意味に満ちていたのだ。この写真をリンドブラッド社のウェブサイトにアップロードしたら、その意味は広告となって崩壊してしまう。

 それで、南極まで来たのはどういう意味があったのだろう。私にとっては、ペンギンを観ること、景色に圧倒されること、何人か新しく友人を作ったこと、三一種類の鳥類を私の人生のリストに加えたこと、そして、叔父の記憶を称えたことだった。使ったお金と、排出した炭素をこれで正当化できるだろうか。こっちが訊きたいくらいだ。しかし、あのスライドショーにはある種の逆効果があった。この旅で私が体験した、写真に撮られなかったすべての瞬間に意識を向けさせ、シーウォッチングをして凍え、退屈していたほうが、死ぬよりよっぽどマシだということを教えてくれた。翌朝、オリオン号がウシュアイアに停泊し、トムと私が自由に街を歩き回るようになったあと、関連するサービスが提供された。オリオン号で三週間毎日おなじ顔ぶれをみているうちに、私はオリオン号にはいなかった顔、とくに若い人の顔を猛烈に求めるようになっていた。目にするアルゼンチンの若い人たちに片っ端から抱き着いてみたくなった。

 気候変動に抗うためだけでなく、生物多様性保全するためにたいていの人間が採ることのできるもっとも効果的なひとつの行動が、子どもを作らないことであるのは真実だ。ひとが肉を欲し、そこにオキアミがいればオキアミが獲られるという、人間優先の論理を止めることができないというのも真実だろう。そして、人間の子どもに似ているペンギンたちが、人間の論理によって危機にさらされている種について考えることの有望な架け橋となることもおそらく真実だろう。かれらも私たちの子どもなのだ。かれらもまた、私たちのケアに値するのだ。

 そして、若者のいない世界を想像するということは、永遠にリンドブラッド社の船のうえで暮らすことを想像するようなものだ。私の代母*18は、一人娘を喪ってからそのような人生を送った。かつて彼女がウェッジウッドの陶磁器の価値を私に打ち明けたときの、なかば狂った笑顔を私は覚えている。しかし、フランはゲイルが死ぬ前からおかしかった。彼女はじぶんの生物学的な複製物に執着しすぎていたのだ。人生とは不確かなもので、強くそれにしがみつきすぎて壊してしまうこともあれば、私の代父*19のように、それを愛することもできる。ウォルトはかれの娘を、戦友を、妻を、そして私の母を喪ったが、それでも即興演奏をやめなかった。私はかれが南フロリダでピアノを弾いているのをみたことがある。かれは満面の笑みを浮かべながら、むかしのショー音楽を爆音で演奏し、マンションの未亡人たちが踊っていた。死につつある世界にも、新しい愛が生まれ続ける。

 

 

 

 

 

*1:が、アンチも多い。ここでは詳しくは書かないけど……。

*2:それどころか、小説にも鳥の話が出てくる。『フリーダム』はミズイロアメリカムシクイの話だ。

*3:"We would do a thing together that we would then, for the rest of our lives, have done together." この旅行で三週間いっしょに過ごせれば、残りの人生もいっしょにいられるのではないか、みたいな、フランゼンもけっこうかわいいところある。

*4:彼女と行けなかったから乗り気じゃなかっただけだと思うんですけど……。

*5:ハッチンスン夫人か?

*6:"loosened their death grip." よく意味がわからない。death grip はゴルフ用語かなにかか? loosen したのは Fran の furnishings の formal さ? あるいは、家具たちがゲイルの持ち物をやっと手放す気になったことを表しているのか。こっちのようなきもしてきた。

*7:入国料みたいなもの?

*8:野外で鳥の種を同定するための識別特性みたいなものだとおもう。

*9:南緯六六度三三分(= Antarctic Circle, 南極線)以南の地域のこと。

*10:どういうジョークなのか、マゼンタ・ラインがなんなのかはよくわからなかった。

*11:たぶんこれもなんか元ネタがあるんだろう。"every person onboard"

*12:ペンギンが腹這いで進むあれのこと。

*13:フランゼンからしたら、人間の子どもがかわいいのはペンギンに似ているからなのであって、その逆ではないのでは?

*14:Jacq なので Jacqueline.

*15:アラスカの犬ぞりレース。

*16:ビートルズ

*17:ファウンデーションズ。

*18:godmother.

*19:godfather.

『めぞん一刻』(あるいはやきもちのパラドックス)について


0. 導入

 やきもちはラブコメの華です。やきもちを妬いているキャラクターをわれわれは好みますし、物語を作る側からしても、ただ相思相愛なだけでは起伏しにくい恋愛物語に展開を作ることができて便利です。また、やきもちを含む物語では、順調な恋愛関係では描けない種々の感情を表現することもできるでしょう。

 こうして――現代ではどちらかといえば傍流に追いやられてしまいましたが――ラブコメとその読者は、やきもちと、それを実現する装置としての三角関係をこよなく愛用してきました。

 高橋留美子初期の傑作ラブコメ、『めぞん一刻』においてもやきもちは大活躍します。きょうはこのラブコメとやきもちの関係についてちょっと書きたいと思います。

1. 定義

 その前にまず本稿における*1「やきもち」を定義しましょう。英語では日本語の「嫉妬」に当たる単語として "envy" と "jealousy" が挙げられますが、「やきもち」は "jealousy" のうちのある種のものに相当します。

 では、"envy" と "jealousy" はどう違うのか。

 ねたみ envy他者が持つものに対する羨望の気持ちです。たとえば、あなたと同年代の友人がなにか稼ぎのいい職業についていたとして、かれ/彼女がついにベンツを購入することに成功したとしましょう(あなたも車が好きであるということにします)。このときあなたが感じる感情がねたみです*2

 やきもち jealousy は、語源的にいえば競争相手を想定した熱狂の感情です。そこから派生した、もっとも歴史的かつ典型的な用法が、こんかいの主題でもありますが、恋愛関係におけるやきもちです*3。jealousy のコアなニュアンスは、envy における、相手の所有するものに対する羨ましさとはぎゃくに、みずからの所有するものを失うことに対する恐怖です。

 そういうわけで、あなたは、じぶんの妻が、オンライン呑み会のあとに会社の後輩男子と個人的な通話を何十分かしているのを目撃したとき、妻に対してやきもちを抱くでしょう。

 また、あなたがいくらデイヴィッド・ベッカムを愛していたとしても、ヴィクトリアとの仲睦まじさをもって、デイヴィッドに対してやきもちを抱くことはできません。デイヴィッドはあなたに対してなんの感情も抱いておらず、というか認知しておらず、あなたからなにかを奪うことができないためです。ヴィクトリアに対してねたみを抱くことはできるかもしれませんが。

 ようするに、たとえ片思いであっても、すこしでも会話をしたことがあって、相手からなんらかの認知やレスポンスを期待していい状況であればやきもちは成立しますが、まったく無関係な相手に対してはやきもちは成立しません。

 ところでいまさらっと書いてしまいましたが、あなたがやきもちを抱く対象は妻であって、妻の会社の後輩男子ではありません*4。なぜかといえば、あなたに対する愛情を奪う(あるいは停止する)権能はあくまで妻にあるのであって、後輩男子はそれを誘発することができるだけだからです。

 ということでここでやきもちの三角関係について追加で用語を定義しておきましょう。やきもちを妬く主体のことを J (Jealous), やきもちの対象となる恋人(や片思いの相手)のことを L (Lover), やきもちの触媒となる第三者のことを K (Katalyst) とします。

 たとえば、夏目漱石の『こころ』でいえば、先生が J, お嬢さん(静)が L, K が K になります。簡単のために、以後はこうした三角形を (J → L; K) と表記することにしましょう。(先生 → お嬢さん; K) みたいなかんじですね。

2. やきもちの効用

 ところでこういった「やきもち」にはどういった効用があるのでしょうか。冒頭に述べたように、やきもちを妬いているキャラクターはかわいいし、物語に展開を作りやすくなります。そういうことではなく、人類にとってやきもちはどういう意味を持つのでしょうか。

2.1 進化論的効用

 やきもちの主たる効用のひとつめは、みずからの子孫(遺伝子)を残すという目的に対して働きます。

 いっぱんにやきもちには男性的なやきもちと女性的なやきもちがあるといわれています*5。男性のやきもちは、女性が肉体的にほかの男性によって奪われるという想定に対して強く働くようです。翻って、女性のやきもちは、男性の心理的、経済的、時間的リソースがほかの女性によって奪われるという想定に対して強く働くようです。

 これは、どちらもみずからの遺伝子を効率的に残す、という観点から進化的に説明可能です。オスにとってはほかのオスによってつがいのメスが妊娠させられること(、かつ、気づかずにその子を育てさせられること)がなによりのリスクです。メスにとってはみずからの子がみずからの子であることは明らかなわけですが、養育にかかるコストをつがいのオスが負担しないというリスクがなにより大きいでしょう。

 こうして、適度に嫉妬深い個体が進化的にアドバンテージを得て子孫を残してきました。

2.2 心理学的効用

 というような進化論的効用によってふつうやきもちの意義は説明されるようです。といっても、やきもちの効用がそれだけだとはおもえません。

 あなたも人間ならやきもちのひとつやふたつ妬いたことがあるとおもいますが、そのときの感情を思い出してみてください――もし進化論的な説明がすべてだとしたら、あなたが取る行動は、K に対する攻撃か、L に対する、K から距離を置いてくれ、などの説得、懇願などになるはずです。でも、そんな修羅場はたいてい起こりません。やきもちを妬いたときのわれわれの反応の多くは、逃避です。

「あんたがそないはっきりせん態度取らはるんやったら――もうしらん、どうでもええわ」っていうことですね。

 なぜそうなるかというと、やきもちはたいてい強烈な心理的負担となるからです。それを解消するために攻撃や懇願というさらなるコストを支払うだけの価値がその愛情にあるとみなされなければ、われわれはやきもちの原因となった愛情を減価することで心理的負担から遠ざかろうとするでしょう。

 やきもちという感情のおかげで、われわれは、望みのなさそうな恋愛や、すでに子を育て終わったあとの夫婦関係といった、あまり価値のない感情を維持するために無駄なコストを支払うことから適切に距離を置くことができます。これがやきもちの心理学的効用です*6

3. ラブコメとやきもちのパラドックス

 しかし、前節の検討の結果が明らかにしたのは以下の事実です――愛情ゆえに起こるはずのやきもちが、その当の愛情をすり減らしていくことがある。つまるところ、ある種のやきもちはネガティブフィードバックなのです。

 なのに、ラブコメはやきもちを多用します。ここにラブコメとやきもちのパラドックスがあります。愛を表現するためにやきもちを多用すると、かえって J がそんな L に耐えていられることの説明がつかなくなってしまうのです。

 というわけで、すぐれたラブコメはこのパラドックスの解消に工夫を凝らします。『めぞん一刻』においてこのパラドックスの解消がいかになされているか――前置きが長くなりましたが、以下で検討したいのはこのことです。

4. やきもちの正当性について

 ところでやきもちには正当性を定義することができます。

 やきもちの正当性は、J と L の関係が社会的、心理的に公認されているほど、そして、L と K の関係が取るに足らないものであればあるほど強くなります。たとえば、ある三角関係において、

・J が L に愛を明示的に伝えていた場合
・L から J に対して、その愛を受け入れるような宣言がなされていた場合
・K が L からの愛をとうぜんに期待していいような相手ではないとき

 に、このやきもちはもっとも正当なものになります。

 ぎゃくに、

・J が L に愛を伝えていない場合
・L から J に対しても好意の表明や示唆がなされていない場合
・L と K の関係が社会的、心理的に公認されているとき

 に、このやきもちはまったくの不当なものとなります。

 もっとも正当なやきもちは、さきに説明した進化論的効用の観点から長生きしません。そのやきもちは正当なものなのですから、J からは即座に L と K に関する疑義が提出され、肯定的か否定的かどちらかはわかりませんが、L からの回答をもって解決に至るでしょう。

 いっぽう、まったく不当なやきもちは心理学的効用のほうから解消されてしまいます。思いも伝えていない相手、まったく脈のない相手に対して、そして、じぶんより優れた、あるいはステディな関係にある恋敵がいることにやきもちを抱いたところで、それはもはややきもちというよりは横恋慕ですし、すぐに鎮火してしまうでしょう。

 というわけで、やきもちを長期的に物語の原動力としたいとき、ラブコメ作家は長続きするやきもち/三角関係を構築しなければなりません。正当なやきもち、不当なやきもちはどれも長生きしないことを上で示しました。であるからには、ここで求められているのは中途半端なやきもち、中途半端な三角関係です。ある種のうしろめたさに支えられたこれを、うしろめたいやきもちと呼ぶことにしましょう。登場人物たちはやきもちを妬きますが、その感情が抑えがたくもどこかうしろめたいものだと思っているからこそ、それは長続きするのです。

 どうしてもやきもちを妬いてしまう本能と、じぶんにはやきもちを妬く資格なんてないという卑屈な自覚の同居。『めぞん一刻』の技術的な美点は、このうしろめたいやきもちの作り方と魅せ方にあります。

5. 諸三角関係について 1

 ここからようやく作中に登場する三角関係をみていきましょう。およそ時系列をなぞっていく予定です。

5.1 (五代 → 響子; 惣一郎さん)

 物語でさいしょに導入されるのがこの三角関係です。この三角関係はどのくらい正当なものでしょうか。

 五代から響子さんへの愛は物語の初期からかなり明白に伝えられていますが、酔ってなされた告白は当人の記憶にすらありません。響子さんはそのしらふでない状態でなされた告白をもちろん受け入れていませんし、まだ惣一郎さんに対する操を立てています。惣一郎さんの K としての身分、響子さんから愛される資格は、夫であるという点でいえば五代よりよっぽど強力で正当なものですが、死者であるという観点からすれば弱いものでしょう。しかし、死者であるというまさにそのことで、かえってないがしろにできないという属性も備えています。

 総合すると、この三角関係に基づく五代のやきもちはあまり正当なものとはいえないようです。五代もそのことに気づいていて、「でも死人は無敵だ。彼女の中で理想像が増殖していく」と漏らしています(1 巻 PART♥7「春のワサビ*7」)。

めぞん一刻』は、最終的にこの (五代 → 響子; 惣一郎さん) という三角関係を発展的に解消する物語ですが、いきなりこの話に切り込んでいくのは難しそうです。というわけで、1 巻でこの三角関係が提示されたのは予告のようなものであって、惣一郎さんの影はすぐに後景に退いて、つぎの三角関係が現れます。

5.2 (五代 → 響子; 三鷹)

 そうして登場するのが三鷹です。まずはこの三角関係に基づくやきもちがどれくらい正当かをみてみましょう。

 まずは三鷹の恋敵としての身分です。三鷹は収入や容姿という点では五代よりも勝っていますが、とくに響子さんと情緒的な、あるいは社会的に公認された関係にないという点では同列です。張り合いのある正当なライバルといってよいでしょう。

 五代から響子さんへの感情の表出は、依然あの酔った挙句の告白と同レベルですが、三鷹を契機としてやきもちを妬くことで追加で示されます。

 響子さんから五代に対しての意思表明はどうでしょうか? ここには三角形のよっつめの頂点があって、それが彼女を陰から縛っています。もちろんそのよっつめの頂点とは惣一郎さんのことで、惣一郎さんの死の影響下にある響子さんは、まだ五代からの――というか、だれからのでも――アプローチに応えることができません。

 五代もそれを理解していて、どれだけ三鷹の出現にやきもちを妬いたところで、響子さんが死者の影に囚われているといううしろめたさがありました。しかも、そのせいで、響子さんからの愛を期待することはできないかもしれないのです。

 しかし、このうしろめたさは微温湯的なうしろめたさでもあります。響子さんが惣一郎さんの影に縛られている限りは、三鷹に取られる心配もないわけですから。

 これが第一のうしろめたいやきもちです。三角関係はある程度正当ですが、ある程度は不当で、そんな中途半端な三角関係に基づいて、五代は生ぬるいやきもちに安心して興ずることができるのでした。

5.3 (響子 → 五代; こずえ)

 とはいえ、このままではまったく脈なしの女性に付きまとう男ふたりという、ラブコメというよりはホラーの構図になってしまいますので、響子さんからの矢印がそろそろ出てきてくれないと困ります。そこで現れるのがこずえちゃんです。

 ところで――響子さんはいつ五代のことを恋愛対象としてみなすようになったのでしょうか? 1 巻の段階では「ダメな弟持った気分よ」と述べており(1 巻 PART♥5「春遠からじ?」)、あまり恋愛対象としては捉えていないようです。1 巻 PART♥9「アルコール・ラブコール」2 巻 PART♥1「三鷹! 五代」での告白を受けて、そして、こずえちゃんが恋敵として登場することによって、徐々に恋愛対象として候補に挙がってきたというかんじでしょうか? それも間違いではないでしょうが、おおきなターニングポイントはやはり 3 巻 PART♥9「混乱ダブルス」における五代の発言でしょう。

「管理人さんは‥‥ そ…惣一郎さんをまだ あ、あ、愛しているから…………… だから、まわりが勝手にさわいだってしよーがないんだ」
めぞん一刻』3 巻 PART♥9「混乱ダブルス」より

 響子さんがつぎの恋愛に踏み切れない理由は、惣一郎さんのことに整理をつけられないからでしたが、五代がそのことを理解しているということを知って、響子さんは五代の気持ちが真剣であることに気づきました(内実についてはまだ理解していませんが)。逆説的に響くかもしれませんが、「無理をして呪いを解かなくてもいい」といわれることで、はじめて弛んでいく種類の呪いがあるということです。

 じっさい、響子さんが五代とこずえちゃんの関係にはっきりとしたやきもちを妬くようになるのは、このシーンを経たあとからです*8。では、これを踏まえたうえで、改めて (響子 → 五代; こずえ) の三角関係をみてみましょう。

 五代から響子さんへの好意はすでに明白に表明されています。五代もこずえちゃんも若くてお似合いの独身同士ということもあって、こずえちゃんは恋敵としての資格をじゅうぶんに持っています。また、じしんが未亡人であるというのもこずえちゃんに対する引け目のひとつではあったでしょう。

 いっぽう響子さんは五代に対して明白に好意を伝えていません。好意らしきものはすでに抱いているといっても過言ではないのですが(そうでなければこずえちゃんのことで五代にやきもちを妬く理由がありませんから)、そのことをみずからに対しても隠し、抑圧している状態です。なぜ五代への好意をすなおに認められないのか――それは、当の五代によって、惣一郎さんを無理に忘れる必要はない、といわれてしまっているからです。

 五代になびくことは惣一郎さんを忘れたことを意味する、と、すくなくとも響子さんは考えています。だから、響子さんが五代のことを、みずからのことを真剣に考えてくれる、理解してくれるひとだと認識した当のきっかけを重く捉えれば捉えるほど、かえって五代への好意をみずからや周囲に対して認めることは、そのきっかけに対する裏切りになってしまうのです。このアイロニーが、響子さんの妬くやきもちのうしろめたさの原因です。

6. 諸三角関係について(続)

 さてこうしてしばらくは (五代 → 響子; 三鷹) と (響子 → 五代; こずえ) というふたつの中途半端な三角関係を中心に物語は進んでいきます。とはいえ、いつまでもやきもちを妬きあっているだけでは話が進展しないので、どこかでなにか変化が起きる必要があります。

6.1 落ちる

 中核となる変化が起こったのは 7 巻 PART♥4「落ちていくのも」、PART♥5「宴会謝絶」でしょう。「大切な話」をするといって出ていった五代が、こずえちゃんのセーターを着て帰ってきたことに響子さんはやきもちを妬いてしまいます。そのことにいいかげん五代は業を煮やします。

「あなた いったいぼくを どう思ってるんですか⁉」「ぼくのことどうでもいいと思ってるんならねっ、ヤキモチなんかやめてください‼」
めぞん一刻』7 巻 PART♥4「落ちていくのも」より

 意地を張った響子さんは屋根から落ちそうになっても五代の助けを求めず、それが原因で五代は大けがをしてしまいます。

 響子さんはこのことを過剰に気に病みます。というのも、骨折は骨折で大けがですが、それだけが問題なのではないからです。より重要なのは、肉体の怪我によって象徴されることで浮き彫りになった問題――つまり、みずからのふるまいが五代の心をないがしろにしていたことに気づかされたことでした。

 五代が三鷹を K とした三角関係に甘んじてやきもちを妬くことができたのは、響子さんが惣一郎さんの影にまだ囚われている、そのせいでだれの好意にも応えられない――といううしろめたさに由来するものでした。だからこそ、響子さんがやきもちという形で五代に好意めいたものを仄めかすことは、かれにとってはありがたいことだったかもしれませんが、同時にいままでの関係の基盤を揺るがすようなものでもありました。

 五代からのアプローチを受けながらも、みずからの態度はあいまいにし、三鷹との付き合いも続けながら、五代がこずえちゃんと仲良くすることにはやきもちを妬く。みずからもプロのやきもち妬きである響子さんは、五代がいまどのような気持ちでいるかわかってしまったのです。

 しかし――それで響子さんが選んだのは、「やきもちを妬かない」という選択肢でした。

「もう絶対、ヤキモチ妬いたりしません。」「こずえさんとあなたのこと邪魔する権利なんてあたしには……」
めぞん一刻』7 巻 PART♥4「宴会謝絶」より

 響子さんは権利もないのにやきもちを妬いたことがすべての原因だと考えています。やきもちを妬く程度には五代のことを気に入ってることを認めるところまでは進みましたが、そこで自覚したじぶんの感情を、改めて正当性のないものとして抑圧してしまうのです。

6.2 (響子 → 五代; いぶき)

 それからの響子さんはやきもちを妬かないように努力します。片意地を張っているようにしかみえませんが、この態度を改めさせるのに、のほほんとしたこずえちゃんではじゃっかん力不足なようです。

 というわけで登場するのが八神いぶき*9です。いぶきちゃんは思い込みが強く、行動力もあります。挑発するようなふるまいで響子さんを揺さぶることもします。

 いぶきちゃんは響子さんのやきもち心を煽るだけでなく、響子さんの気持ちに直接踏み込んできます。

「本当は五代先生のこと好きなんだ」
「五代先生の片思いなんですね。よかったあ」(9 巻 PART♥7「パジャマとネグリジェ」)

 こうしてついに響子さんはやきもちを妬かされてしまいます。

「あらやだ。寿命がきたよーですわね。この竹ボーキ。」
めぞん一刻』9 巻 PART♥7「パジャマとネグリジェ」より。ここすき

 いぶきちゃんとの応酬のなかで、響子さんは否応なくみずからの抱えるアイロニーを自覚させられます。つまり、「惣一郎さんのことを無理して忘れなくていい」と、みずからの気持ちに寄り添ってくれたことで五代のことを意識し始めたのに、五代のことを意識すればするほど惣一郎さんを忘れたことになってしまうというアイロニーを。

「このままじゃみんなウソになりそうで…こわい…」
「あなたはいいわよね八神さん だって…」「まだひとりしか好きになったことないんでしょ」(11 巻 PART♥11「弱虫」)

6.2.1 (いぶき → 五代; 響子)

 ところで本題からは逸れますが、いぶきちゃんのその後はどうなったのでしょう?

 いぶきちゃんはそもそも、非響子さん的なキャラクターとしてこの物語に導入されました。彼女はじぶんに五代から愛される資格があるかどうかなんてことは気にしませんし(「未亡人より女子高生の方が有利よっ」(9 巻 PART♥4 「こころ」)とは言い張っているものの、ふつうに考えたら女子高生が教育実習生の恋愛対象になるわけありません)、五代が愛するに足る男であるかということにも考えを回しません。五代が就職に失敗しそうでも意に介さないくらいですから。

「あたしが働きに出て五代先生を食べさせてあげるの。いい考えでしょ」
めぞん一刻』10 巻 PART♥2「深夜の面接」より。かわいすぎ

 彼女は恋愛に正当性なんて求めません。好きが最優先です。とはいえ、この態度は女子高生時代の響子さんと重なります。そのまま勢いだけで押し切ってもおかしくはありませんでした。

 そんな彼女はどうして物語からフェードアウトしてしまったのでしょうか。彼女は 11 巻をさいごに最終話まで姿を見せませんが、11 巻 PART♥11「弱虫」で彼女が知ったのは、響子の惣一郎さんへのまだ捨てきれない思い、それと矛盾する五代への感情でした。これを矛盾とは認めないいぶきちゃんであれば、よりいっそう五代へのアプローチを強めてもいいはずでした。

 しかし、彼女は理解してしまったのです。亡夫への思いが強く、しかもそれと同じくらい強く五代のことを思っていなければそもそも葛藤が生じないことを。こうして、彼女は響子さんから五代を奪おうとすることに怖気づいてしまいました。彼女じしんが、はじめて知ってしまったのです。爛漫だった彼女にはこれまで存在しなかった、うしろめたいという感情を。「弱虫!」という響子さんへの檄は、みずからへのものでもあったのです。

6.3 (五代 → 響子; 惣一郎) ふたたび

 さて、こうして話はさいしょの三角形に戻ってきます。五代も響子さんも、けっきょくのところ惣一郎さんとの向き合い方を直視しないことにはなにも進展しないのです。背景では三鷹が結婚を意識した動きをしたりしていますが、本質的に三鷹はもうレースから脱落しています。かれの役割は結婚の二文字を現実味のあることばにすることで五代の自立心を促したり、そういったものになっています。

 三鷹が響子さんへのアプローチを強めていくいっぽうで、五代は就職活動に勤しみます。五代はプロポーズの必要条件として社会的に自立しなければならないと思い込んでいるのです。

「おれはただ… まだ自信がないから… 惣一郎さんみたいになれないから………」(10 巻 PART♥5「桜迷路」)

 五代は就職して自立すればおのずから自信もついて惣一郎さんの影におびえることもなくなるだろう、と思っていますが、かれが張り切れば張り切るほど状況は悪くなっていきます。保育園のアルバイトはクビになり、キャバレーの呼び込みで糊口をしのいでいます。

 響子さんはいぶきちゃんによってみずからのアイロニーを自覚させられたわけですが、響子さんの問題はこのことに今まで無自覚だったことであって、自覚したことで彼女じしんの気持ちは一歩前へ踏み出しています。11 巻 PART♥2「二人の旅立ち」では、五代に三鷹との仲を勘違いされたことで泣いてしまったことの意味をじぶんでも理解できなかった響子さんの夢のなかで、惣一郎さんが「バカ」と彼女を諭すように導きます。彼女は徐々に再婚へ気持ちが傾きはじめています。12 巻 PART♥10「草場の陰から」では「再婚の意志はあります」と認めるまでになりました。

 そんな響子さんにとっても、結婚への障害はやはり五代がしっかりしてくれないことにあります。といっても、それは五代がおもうように、かれが経済的、社会的な意味で自立していないという意味ではありません。そんなことはどうでもよくて、五代が改めて「惣一郎さんよりおれを選んでくれ」と宣言してくれることを意味していました。

 なのに五代は保父になることにこだわってしまっています。〝しっかり〟するまでは響子さんにアプローチすることはできないとおもって、かえって響子さんに対して一線を引いた態度を取ってしまいます。響子さんとしては五代がそう勘違いしているとしても、保父になったうえで自信をつけて改めてプロポーズしてくれるなら、と待っていますが、それでもお互いの間に確かなものがないことで不安になっています。

6.3.1 (三鷹 → 響子; 五代)

 ところでまた本題から逸れますが、三鷹はなぜ五代に勝てなかったのでしょうか。といっても結論は明らかです。三鷹は惣一郎さんの影のことを真剣には恐れなかったからです。すでに先述しましたが、三巻 PART♥9「混乱ダブルス」で五代に対して取ったおくれを、かれはさいごまで挽回することができなかったのです。

 三鷹はじっさいプレイボーイです。響子さんが惣一郎さんの影に囚われていることはわかっていても、時間がいずれ解決する、じぶんならその寂しさを埋められる、と考えていました。惣一郎さんのことを響子さんの人生における欠落部分と考えていたわけです。

 そのことは惣一郎さん(犬)の扱い方が象徴しています。かれは当初犬嫌いで、惣一郎さん(犬)のことを受け入れることができませんでした。いっぽう五代は惣一郎さん(犬)のことを響子さんの一部としてしぜんに受け入れていて、4 巻 PART♥3「ふりむいた惣一郎」では焼き鳥の匂いに釣られて失踪した惣一郎さん(犬)を必死に探してくれました。じっさい響子さんも、このときの五代のうしろ姿に惣一郎さんの面影を認めています。

 三鷹が犬嫌いを克服するのは物語の後半になってから、必要に追われてのことでした。三鷹にとっては生理的な問題であって、仕方のないことではあったのですが……。三鷹がさいごまで惣一郎さん(犬、人間)のことを響子さんの一部を構成するものとして捉えられなかったのと対称に、五代はさいごには惣一郎さんの思い出のなかに生きる響子さんを、あるいは響子さんの思い出のなかに生きる惣一郎さんを受け入れました(後述)。五代は恐怖、うしろめたさを感じたからこそ、それを克服することができたのです。

 三鷹はけっきょく響子さんに応えてもらうことができませんでした。そんなかれが、明日菜さんとの関係を進めていく契機がどれもうしろめたいものであること――妊娠させたと勘違いすること、二番目で妥協したというのが表情でバレてしまうこと――なのは、興味深い点だと思います。この物語のなかでは、けっきょくすべての恋愛はうしろめたい要素を含み、だからこそ進んでゆけるのです。よいほうにも悪いほうにも。

6.4 (響子 → 五代; こずえ) ふたたび

 さて、そんな折に響子さんはこずえちゃんと五代がキスをしているところをみかけてしまいます。もう響子さんはじぶんの気持ちに気づいていますので、「私には聞く権利があると思いますから」(14 巻 PART♥5「大逆転」)ということができます。7 巻の時点では先述のように「こずえさんとあなたのこと邪魔する権利なんてあたしには……」といっていたところからするとおおきな進歩です。じっさいこうしてきちんとやきもちを妬くことですれ違いはすぐに解消されるわけですが、そのあとすぐに五代がこずえちゃんにプロポーズしたと聞かされて今度こそ激怒してしまいます。

 キスをしてしまったのはこずえちゃんの策によるものでしたが、プロポーズ云々は誤解とはいえ、五代がこの期に及んで態度をはっきりさせなかったことに原因がありますので、この怒りは正当なものです。そこにさらに、朱美とラブホテルから出てきた五代のことで追い打ちをかけられてしまいます。

 ここで五代が「あなたしか抱きたくないんですっ‼」(14 巻 PART♥10「好きだから…」)と断言したこともあって、響子さんは態度を軟化させます。「意地を張りすぎて疲れちゃった」(同 PART♥11「好きなのに…」)響子さんは「確かなもの」を求めて、「楽になれる」と思って、五代とホテルに入ります。

 しかし、不幸なめぐりあわせで惣一郎さんのことを思い出してしまい、これは不手際に終わります。本丸の問題を解決せずに、勢い任せで進んでもどうしようもないのです。

7. 音が無くても響いてる

 こずえちゃんときちんと別れた五代は、響子さんに、あるいはじぶんに対してみずからの気持ちを認めます。

「おれ、惣一郎さんのことで頭がいっぱいになっちゃって… …ていうか…」「響子さんがおれに抱かれながら、 惣一郎さんのこと思い出してたらどうしよう… …なんてしょーもないことを…」(15 巻 PART♥2「契り」)

 けっきょくのところ惣一郎さんは間違いなくこの世に存在したのであって、その精神は、身体とともに完全に破壊されたわけではありません。むしろ、そのうちのあるものは永遠なるものとして残っているのです。忘れることも、なかったことにもできなければ、代わりになることもできません。

 だからこそ、五代は

「おなじようなしあわせは、あげられない… けど… うまく言えないけど、なんて言うか、おれの… おれのできること。おれのやりかたで… 違う幸せを響子さんにあげたい おれにはそれしかできない」(同巻同話)

 と決意することができたのです。

 もはや五代は惣一郎さんのことで響子さんにやきもち jealousy を妬きません。「正直言って、あなたがねたましいです…」(同巻 PART♥9「桜の下で」)というように、惣一郎さんに対してのねたみ envy は抱えていますが、それでも「初めて会った日から響子さんの中に、あなたがいて… そんな響子さんをおれは好きになった」「だから…」「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と主張するだけの強さをいつの間にか身に着けていました。

めぞん一刻』が三角関係ややきもちを多用しながら、それが抱えるパラドックス――やきもちを妬かせるような関係はふつう長続きしない――を解消するためにうしろめたさ、という要素を導入したことは先に述べました。この物語の素晴らしいところは技術的に導入されたそれを、テーマにまで昇華しきっているところでしょう。

 道のりは数年間にわたる長いものでしたが、死者の悼みを乗り越えるのには、それくらい時間がかかってもおかしくはないことだったのでしょう。そんな長い道のりに寄り添ってくれる五代だったからこそ、響子さんは好きになったのでしょう。周囲にもじぶんにもなかなか五代への好意を認められなかった響子さんですが、回り道もやきもちもすれ違いも、ぜんぶ必要なプロセスだったのでしょう。

「ずっと前から五代さんのこと好きだったの」「ずっと前からって…いつから?」「忘れちゃった!」
めぞん一刻』15 巻 PART♥2「契り」より

 音無響子の心のうちは、音が無くてもずっと響き続けていたのです。






*1:つまり、ここでは "envy" や "jealousy", 「ねたみ」「やきもち」「嫉妬」などの単語の、語源的に正確な理解や、じっさいの用法に忠実な記述をかならずしも目指しません。

*2:envy にはそれが悪感情である、あるいは、ねたみの対象となる人物への悪感情を含む、というニュアンスがあって、単純に日本語の「嫉妬」や「羨ましさ」とは交換できません。ここでは「ねたみ」としましたがこれも完全な訳にはならないでしょう。

*3:けっきょく現代では、envy とおなじように、他人をその所有するものによって羨むこととしても使うことができますが。むしろ、envy に伴う悪感情がないぶん、口語では jealousy, jealous のほうが使いやすいシーンもあるでしょう。

*4:やきもち zelotypia の対象が恋敵ではなく恋人であることはスピノザも指摘しています。『エチカ』第三部定理 35 備考を参照のこと。『エチカ』における「ねたみ invidia」と「やきもち zelotypia」の定義を必ずしもここでは踏襲していませんが。(ちなみに、既訳では zelotypia = jealousy は「嫉妬」(畠中、工藤、斎藤)「羨望」(福居)などと訳されていることが多いようです。羨望はなんかちょっとちがくない?)

*5:ここではシスヘテロ的な恋愛関係のみを取り扱いますが、これはいまの話題が生殖という限定下にあるためです。それ以外の恋愛関係におけるやきもちのありかたについてはそれはそれで興味深いテーマだとおもいます。

*6:こういうことをいっているひとがいるのかどうかはしらないです。が、みなさんの実体験がこの効果の実在を裏付けるのではないでしょうか。

*7:以下すべて引用は新装版から。

*8:2 巻 PART♥4「メモリアル・クッキング」ではこずえちゃんとデート中の五代をみたときにむかむかしたりしていますが、これは同 PART♥6「桃色電話」で大学のサークルの女の子たちから電話がかかってきたときとおなじ種類の嫉妬であって、ようするに好きといったくせに他の女の子と仲良くしている軽薄さへの反感が大半を占めています。そういうわけで、まだこずえちゃんを潜在的な恋敵として認めたうえでのやきもちではありません。その証拠に、同 PART♥10「影を背負いて」ではこずえちゃんとなんの屈託もなく会話しています。

*9:わたしはいぶきちゃんがいちばん好き。