Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『めぞん一刻』(あるいはやきもちのパラドックス)について


0. 導入

 やきもちはラブコメの華です。やきもちを妬いているキャラクターをわれわれは好みますし、物語を作る側からしても、ただ相思相愛なだけでは起伏しにくい恋愛物語に展開を作ることができて便利です。また、やきもちを含む物語では、順調な恋愛関係では描けない種々の感情を表現することもできるでしょう。

 こうして――現代ではどちらかといえば傍流に追いやられてしまいましたが――ラブコメとその読者は、やきもちと、それを実現する装置としての三角関係をこよなく愛用してきました。

 高橋留美子初期の傑作ラブコメ、『めぞん一刻』においてもやきもちは大活躍します。きょうはこのラブコメとやきもちの関係についてちょっと書きたいと思います。

1. 定義

 その前にまず本稿における*1「やきもち」を定義しましょう。英語では日本語の「嫉妬」に当たる単語として "envy" と "jealousy" が挙げられますが、「やきもち」は "jealousy" のうちのある種のものに相当します。

 では、"envy" と "jealousy" はどう違うのか。

 ねたみ envy他者が持つものに対する羨望の気持ちです。たとえば、あなたと同年代の友人がなにか稼ぎのいい職業についていたとして、かれ/彼女がついにベンツを購入することに成功したとしましょう(あなたも車が好きであるということにします)。このときあなたが感じる感情がねたみです*2

 やきもち jealousy は、語源的にいえば競争相手を想定した熱狂の感情です。そこから派生した、もっとも歴史的かつ典型的な用法が、こんかいの主題でもありますが、恋愛関係におけるやきもちです*3。jealousy のコアなニュアンスは、envy における、相手の所有するものに対する羨ましさとはぎゃくに、みずからの所有するものを失うことに対する恐怖です。

 そういうわけで、あなたは、じぶんの妻が、オンライン呑み会のあとに会社の後輩男子と個人的な通話を何十分かしているのを目撃したとき、妻に対してやきもちを抱くでしょう。

 また、あなたがいくらデイヴィッド・ベッカムを愛していたとしても、ヴィクトリアとの仲睦まじさをもって、デイヴィッドに対してやきもちを抱くことはできません。デイヴィッドはあなたに対してなんの感情も抱いておらず、というか認知しておらず、あなたからなにかを奪うことができないためです。ヴィクトリアに対してねたみを抱くことはできるかもしれませんが。

 ようするに、たとえ片思いであっても、すこしでも会話をしたことがあって、相手からなんらかの認知やレスポンスを期待していい状況であればやきもちは成立しますが、まったく無関係な相手に対してはやきもちは成立しません。

 ところでいまさらっと書いてしまいましたが、あなたがやきもちを抱く対象は妻であって、妻の会社の後輩男子ではありません*4。なぜかといえば、あなたに対する愛情を奪う(あるいは停止する)権能はあくまで妻にあるのであって、後輩男子はそれを誘発することができるだけだからです。

 ということでここでやきもちの三角関係について追加で用語を定義しておきましょう。やきもちを妬く主体のことを J (Jealous), やきもちの対象となる恋人(や片思いの相手)のことを L (Lover), やきもちの触媒となる第三者のことを K (Katalyst) とします。

 たとえば、夏目漱石の『こころ』でいえば、先生が J, お嬢さん(静)が L, K が K になります。簡単のために、以後はこうした三角形を (J → L; K) と表記することにしましょう。(先生 → お嬢さん; K) みたいなかんじですね。

2. やきもちの効用

 ところでこういった「やきもち」にはどういった効用があるのでしょうか。冒頭に述べたように、やきもちを妬いているキャラクターはかわいいし、物語に展開を作りやすくなります。そういうことではなく、人類にとってやきもちはどういう意味を持つのでしょうか。

2.1 進化論的効用

 やきもちの主たる効用のひとつめは、みずからの子孫(遺伝子)を残すという目的に対して働きます。

 いっぱんにやきもちには男性的なやきもちと女性的なやきもちがあるといわれています*5。男性のやきもちは、女性が肉体的にほかの男性によって奪われるという想定に対して強く働くようです。翻って、女性のやきもちは、男性の心理的、経済的、時間的リソースがほかの女性によって奪われるという想定に対して強く働くようです。

 これは、どちらもみずからの遺伝子を効率的に残す、という観点から進化的に説明可能です。オスにとってはほかのオスによってつがいのメスが妊娠させられること(、かつ、気づかずにその子を育てさせられること)がなによりのリスクです。メスにとってはみずからの子がみずからの子であることは明らかなわけですが、養育にかかるコストをつがいのオスが負担しないというリスクがなにより大きいでしょう。

 こうして、適度に嫉妬深い個体が進化的にアドバンテージを得て子孫を残してきました。

2.2 心理学的効用

 というような進化論的効用によってふつうやきもちの意義は説明されるようです。といっても、やきもちの効用がそれだけだとはおもえません。

 あなたも人間ならやきもちのひとつやふたつ妬いたことがあるとおもいますが、そのときの感情を思い出してみてください――もし進化論的な説明がすべてだとしたら、あなたが取る行動は、K に対する攻撃か、L に対する、K から距離を置いてくれ、などの説得、懇願などになるはずです。でも、そんな修羅場はたいてい起こりません。やきもちを妬いたときのわれわれの反応の多くは、逃避です。

「あんたがそないはっきりせん態度取らはるんやったら――もうしらん、どうでもええわ」っていうことですね。

 なぜそうなるかというと、やきもちはたいてい強烈な心理的負担となるからです。それを解消するために攻撃や懇願というさらなるコストを支払うだけの価値がその愛情にあるとみなされなければ、われわれはやきもちの原因となった愛情を減価することで心理的負担から遠ざかろうとするでしょう。

 やきもちという感情のおかげで、われわれは、望みのなさそうな恋愛や、すでに子を育て終わったあとの夫婦関係といった、あまり価値のない感情を維持するために無駄なコストを支払うことから適切に距離を置くことができます。これがやきもちの心理学的効用です*6

3. ラブコメとやきもちのパラドックス

 しかし、前節の検討の結果が明らかにしたのは以下の事実です――愛情ゆえに起こるはずのやきもちが、その当の愛情をすり減らしていくことがある。つまるところ、ある種のやきもちはネガティブフィードバックなのです。

 なのに、ラブコメはやきもちを多用します。ここにラブコメとやきもちのパラドックスがあります。愛を表現するためにやきもちを多用すると、かえって J がそんな L に耐えていられることの説明がつかなくなってしまうのです。

 というわけで、すぐれたラブコメはこのパラドックスの解消に工夫を凝らします。『めぞん一刻』においてこのパラドックスの解消がいかになされているか――前置きが長くなりましたが、以下で検討したいのはこのことです。

4. やきもちの正当性について

 ところでやきもちには正当性を定義することができます。

 やきもちの正当性は、J と L の関係が社会的、心理的に公認されているほど、そして、L と K の関係が取るに足らないものであればあるほど強くなります。たとえば、ある三角関係において、

・J が L に愛を明示的に伝えていた場合
・L から J に対して、その愛を受け入れるような宣言がなされていた場合
・K が L からの愛をとうぜんに期待していいような相手ではないとき

 に、このやきもちはもっとも正当なものになります。

 ぎゃくに、

・J が L に愛を伝えていない場合
・L から J に対しても好意の表明や示唆がなされていない場合
・L と K の関係が社会的、心理的に公認されているとき

 に、このやきもちはまったくの不当なものとなります。

 もっとも正当なやきもちは、さきに説明した進化論的効用の観点から長生きしません。そのやきもちは正当なものなのですから、J からは即座に L と K に関する疑義が提出され、肯定的か否定的かどちらかはわかりませんが、L からの回答をもって解決に至るでしょう。

 いっぽう、まったく不当なやきもちは心理学的効用のほうから解消されてしまいます。思いも伝えていない相手、まったく脈のない相手に対して、そして、じぶんより優れた、あるいはステディな関係にある恋敵がいることにやきもちを抱いたところで、それはもはややきもちというよりは横恋慕ですし、すぐに鎮火してしまうでしょう。

 というわけで、やきもちを長期的に物語の原動力としたいとき、ラブコメ作家は長続きするやきもち/三角関係を構築しなければなりません。正当なやきもち、不当なやきもちはどれも長生きしないことを上で示しました。であるからには、ここで求められているのは中途半端なやきもち、中途半端な三角関係です。ある種のうしろめたさに支えられたこれを、うしろめたいやきもちと呼ぶことにしましょう。登場人物たちはやきもちを妬きますが、その感情が抑えがたくもどこかうしろめたいものだと思っているからこそ、それは長続きするのです。

 どうしてもやきもちを妬いてしまう本能と、じぶんにはやきもちを妬く資格なんてないという卑屈な自覚の同居。『めぞん一刻』の技術的な美点は、このうしろめたいやきもちの作り方と魅せ方にあります。

5. 諸三角関係について 1

 ここからようやく作中に登場する三角関係をみていきましょう。およそ時系列をなぞっていく予定です。

5.1 (五代 → 響子; 惣一郎さん)

 物語でさいしょに導入されるのがこの三角関係です。この三角関係はどのくらい正当なものでしょうか。

 五代から響子さんへの愛は物語の初期からかなり明白に伝えられていますが、酔ってなされた告白は当人の記憶にすらありません。響子さんはそのしらふでない状態でなされた告白をもちろん受け入れていませんし、まだ惣一郎さんに対する操を立てています。惣一郎さんの K としての身分、響子さんから愛される資格は、夫であるという点でいえば五代よりよっぽど強力で正当なものですが、死者であるという観点からすれば弱いものでしょう。しかし、死者であるというまさにそのことで、かえってないがしろにできないという属性も備えています。

 総合すると、この三角関係に基づく五代のやきもちはあまり正当なものとはいえないようです。五代もそのことに気づいていて、「でも死人は無敵だ。彼女の中で理想像が増殖していく」と漏らしています(1 巻 PART♥7「春のワサビ*7」)。

めぞん一刻』は、最終的にこの (五代 → 響子; 惣一郎さん) という三角関係を発展的に解消する物語ですが、いきなりこの話に切り込んでいくのは難しそうです。というわけで、1 巻でこの三角関係が提示されたのは予告のようなものであって、惣一郎さんの影はすぐに後景に退いて、つぎの三角関係が現れます。

5.2 (五代 → 響子; 三鷹)

 そうして登場するのが三鷹です。まずはこの三角関係に基づくやきもちがどれくらい正当かをみてみましょう。

 まずは三鷹の恋敵としての身分です。三鷹は収入や容姿という点では五代よりも勝っていますが、とくに響子さんと情緒的な、あるいは社会的に公認された関係にないという点では同列です。張り合いのある正当なライバルといってよいでしょう。

 五代から響子さんへの感情の表出は、依然あの酔った挙句の告白と同レベルですが、三鷹を契機としてやきもちを妬くことで追加で示されます。

 響子さんから五代に対しての意思表明はどうでしょうか? ここには三角形のよっつめの頂点があって、それが彼女を陰から縛っています。もちろんそのよっつめの頂点とは惣一郎さんのことで、惣一郎さんの死の影響下にある響子さんは、まだ五代からの――というか、だれからのでも――アプローチに応えることができません。

 五代もそれを理解していて、どれだけ三鷹の出現にやきもちを妬いたところで、響子さんが死者の影に囚われているといううしろめたさがありました。しかも、そのせいで、響子さんからの愛を期待することはできないかもしれないのです。

 しかし、このうしろめたさは微温湯的なうしろめたさでもあります。響子さんが惣一郎さんの影に縛られている限りは、三鷹に取られる心配もないわけですから。

 これが第一のうしろめたいやきもちです。三角関係はある程度正当ですが、ある程度は不当で、そんな中途半端な三角関係に基づいて、五代は生ぬるいやきもちに安心して興ずることができるのでした。

5.3 (響子 → 五代; こずえ)

 とはいえ、このままではまったく脈なしの女性に付きまとう男ふたりという、ラブコメというよりはホラーの構図になってしまいますので、響子さんからの矢印がそろそろ出てきてくれないと困ります。そこで現れるのがこずえちゃんです。

 ところで――響子さんはいつ五代のことを恋愛対象としてみなすようになったのでしょうか? 1 巻の段階では「ダメな弟持った気分よ」と述べており(1 巻 PART♥5「春遠からじ?」)、あまり恋愛対象としては捉えていないようです。1 巻 PART♥9「アルコール・ラブコール」2 巻 PART♥1「三鷹! 五代」での告白を受けて、そして、こずえちゃんが恋敵として登場することによって、徐々に恋愛対象として候補に挙がってきたというかんじでしょうか? それも間違いではないでしょうが、おおきなターニングポイントはやはり 3 巻 PART♥9「混乱ダブルス」における五代の発言でしょう。

「管理人さんは‥‥ そ…惣一郎さんをまだ あ、あ、愛しているから…………… だから、まわりが勝手にさわいだってしよーがないんだ」
めぞん一刻』3 巻 PART♥9「混乱ダブルス」より

 響子さんがつぎの恋愛に踏み切れない理由は、惣一郎さんのことに整理をつけられないからでしたが、五代がそのことを理解しているということを知って、響子さんは五代の気持ちが真剣であることに気づきました(内実についてはまだ理解していませんが)。逆説的に響くかもしれませんが、「無理をして呪いを解かなくてもいい」といわれることで、はじめて弛んでいく種類の呪いがあるということです。

 じっさい、響子さんが五代とこずえちゃんの関係にはっきりとしたやきもちを妬くようになるのは、このシーンを経たあとからです*8。では、これを踏まえたうえで、改めて (響子 → 五代; こずえ) の三角関係をみてみましょう。

 五代から響子さんへの好意はすでに明白に表明されています。五代もこずえちゃんも若くてお似合いの独身同士ということもあって、こずえちゃんは恋敵としての資格をじゅうぶんに持っています。また、じしんが未亡人であるというのもこずえちゃんに対する引け目のひとつではあったでしょう。

 いっぽう響子さんは五代に対して明白に好意を伝えていません。好意らしきものはすでに抱いているといっても過言ではないのですが(そうでなければこずえちゃんのことで五代にやきもちを妬く理由がありませんから)、そのことをみずからに対しても隠し、抑圧している状態です。なぜ五代への好意をすなおに認められないのか――それは、当の五代によって、惣一郎さんを無理に忘れる必要はない、といわれてしまっているからです。

 五代になびくことは惣一郎さんを忘れたことを意味する、と、すくなくとも響子さんは考えています。だから、響子さんが五代のことを、みずからのことを真剣に考えてくれる、理解してくれるひとだと認識した当のきっかけを重く捉えれば捉えるほど、かえって五代への好意をみずからや周囲に対して認めることは、そのきっかけに対する裏切りになってしまうのです。このアイロニーが、響子さんの妬くやきもちのうしろめたさの原因です。

6. 諸三角関係について(続)

 さてこうしてしばらくは (五代 → 響子; 三鷹) と (響子 → 五代; こずえ) というふたつの中途半端な三角関係を中心に物語は進んでいきます。とはいえ、いつまでもやきもちを妬きあっているだけでは話が進展しないので、どこかでなにか変化が起きる必要があります。

6.1 落ちる

 中核となる変化が起こったのは 7 巻 PART♥4「落ちていくのも」、PART♥5「宴会謝絶」でしょう。「大切な話」をするといって出ていった五代が、こずえちゃんのセーターを着て帰ってきたことに響子さんはやきもちを妬いてしまいます。そのことにいいかげん五代は業を煮やします。

「あなた いったいぼくを どう思ってるんですか⁉」「ぼくのことどうでもいいと思ってるんならねっ、ヤキモチなんかやめてください‼」
めぞん一刻』7 巻 PART♥4「落ちていくのも」より

 意地を張った響子さんは屋根から落ちそうになっても五代の助けを求めず、それが原因で五代は大けがをしてしまいます。

 響子さんはこのことを過剰に気に病みます。というのも、骨折は骨折で大けがですが、それだけが問題なのではないからです。より重要なのは、肉体の怪我によって象徴されることで浮き彫りになった問題――つまり、みずからのふるまいが五代の心をないがしろにしていたことに気づかされたことでした。

 五代が三鷹を K とした三角関係に甘んじてやきもちを妬くことができたのは、響子さんが惣一郎さんの影にまだ囚われている、そのせいでだれの好意にも応えられない――といううしろめたさに由来するものでした。だからこそ、響子さんがやきもちという形で五代に好意めいたものを仄めかすことは、かれにとってはありがたいことだったかもしれませんが、同時にいままでの関係の基盤を揺るがすようなものでもありました。

 五代からのアプローチを受けながらも、みずからの態度はあいまいにし、三鷹との付き合いも続けながら、五代がこずえちゃんと仲良くすることにはやきもちを妬く。みずからもプロのやきもち妬きである響子さんは、五代がいまどのような気持ちでいるかわかってしまったのです。

 しかし――それで響子さんが選んだのは、「やきもちを妬かない」という選択肢でした。

「もう絶対、ヤキモチ妬いたりしません。」「こずえさんとあなたのこと邪魔する権利なんてあたしには……」
めぞん一刻』7 巻 PART♥4「宴会謝絶」より

 響子さんは権利もないのにやきもちを妬いたことがすべての原因だと考えています。やきもちを妬く程度には五代のことを気に入ってることを認めるところまでは進みましたが、そこで自覚したじぶんの感情を、改めて正当性のないものとして抑圧してしまうのです。

6.2 (響子 → 五代; いぶき)

 それからの響子さんはやきもちを妬かないように努力します。片意地を張っているようにしかみえませんが、この態度を改めさせるのに、のほほんとしたこずえちゃんではじゃっかん力不足なようです。

 というわけで登場するのが八神いぶき*9です。いぶきちゃんは思い込みが強く、行動力もあります。挑発するようなふるまいで響子さんを揺さぶることもします。

 いぶきちゃんは響子さんのやきもち心を煽るだけでなく、響子さんの気持ちに直接踏み込んできます。

「本当は五代先生のこと好きなんだ」
「五代先生の片思いなんですね。よかったあ」(9 巻 PART♥7「パジャマとネグリジェ」)

 こうしてついに響子さんはやきもちを妬かされてしまいます。

「あらやだ。寿命がきたよーですわね。この竹ボーキ。」
めぞん一刻』9 巻 PART♥7「パジャマとネグリジェ」より。ここすき

 いぶきちゃんとの応酬のなかで、響子さんは否応なくみずからの抱えるアイロニーを自覚させられます。つまり、「惣一郎さんのことを無理して忘れなくていい」と、みずからの気持ちに寄り添ってくれたことで五代のことを意識し始めたのに、五代のことを意識すればするほど惣一郎さんを忘れたことになってしまうというアイロニーを。

「このままじゃみんなウソになりそうで…こわい…」
「あなたはいいわよね八神さん だって…」「まだひとりしか好きになったことないんでしょ」(11 巻 PART♥11「弱虫」)

6.2.1 (いぶき → 五代; 響子)

 ところで本題からは逸れますが、いぶきちゃんのその後はどうなったのでしょう?

 いぶきちゃんはそもそも、非響子さん的なキャラクターとしてこの物語に導入されました。彼女はじぶんに五代から愛される資格があるかどうかなんてことは気にしませんし(「未亡人より女子高生の方が有利よっ」(9 巻 PART♥4 「こころ」)とは言い張っているものの、ふつうに考えたら女子高生が教育実習生の恋愛対象になるわけありません)、五代が愛するに足る男であるかということにも考えを回しません。五代が就職に失敗しそうでも意に介さないくらいですから。

「あたしが働きに出て五代先生を食べさせてあげるの。いい考えでしょ」
めぞん一刻』10 巻 PART♥2「深夜の面接」より。かわいすぎ

 彼女は恋愛に正当性なんて求めません。好きが最優先です。とはいえ、この態度は女子高生時代の響子さんと重なります。そのまま勢いだけで押し切ってもおかしくはありませんでした。

 そんな彼女はどうして物語からフェードアウトしてしまったのでしょうか。彼女は 11 巻をさいごに最終話まで姿を見せませんが、11 巻 PART♥11「弱虫」で彼女が知ったのは、響子の惣一郎さんへのまだ捨てきれない思い、それと矛盾する五代への感情でした。これを矛盾とは認めないいぶきちゃんであれば、よりいっそう五代へのアプローチを強めてもいいはずでした。

 しかし、彼女は理解してしまったのです。亡夫への思いが強く、しかもそれと同じくらい強く五代のことを思っていなければそもそも葛藤が生じないことを。こうして、彼女は響子さんから五代を奪おうとすることに怖気づいてしまいました。彼女じしんが、はじめて知ってしまったのです。爛漫だった彼女にはこれまで存在しなかった、うしろめたいという感情を。「弱虫!」という響子さんへの檄は、みずからへのものでもあったのです。

6.3 (五代 → 響子; 惣一郎) ふたたび

 さて、こうして話はさいしょの三角形に戻ってきます。五代も響子さんも、けっきょくのところ惣一郎さんとの向き合い方を直視しないことにはなにも進展しないのです。背景では三鷹が結婚を意識した動きをしたりしていますが、本質的に三鷹はもうレースから脱落しています。かれの役割は結婚の二文字を現実味のあることばにすることで五代の自立心を促したり、そういったものになっています。

 三鷹が響子さんへのアプローチを強めていくいっぽうで、五代は就職活動に勤しみます。五代はプロポーズの必要条件として社会的に自立しなければならないと思い込んでいるのです。

「おれはただ… まだ自信がないから… 惣一郎さんみたいになれないから………」(10 巻 PART♥5「桜迷路」)

 五代は就職して自立すればおのずから自信もついて惣一郎さんの影におびえることもなくなるだろう、と思っていますが、かれが張り切れば張り切るほど状況は悪くなっていきます。保育園のアルバイトはクビになり、キャバレーの呼び込みで糊口をしのいでいます。

 響子さんはいぶきちゃんによってみずからのアイロニーを自覚させられたわけですが、響子さんの問題はこのことに今まで無自覚だったことであって、自覚したことで彼女じしんの気持ちは一歩前へ踏み出しています。11 巻 PART♥2「二人の旅立ち」では、五代に三鷹との仲を勘違いされたことで泣いてしまったことの意味をじぶんでも理解できなかった響子さんの夢のなかで、惣一郎さんが「バカ」と彼女を諭すように導きます。彼女は徐々に再婚へ気持ちが傾きはじめています。12 巻 PART♥10「草場の陰から」では「再婚の意志はあります」と認めるまでになりました。

 そんな響子さんにとっても、結婚への障害はやはり五代がしっかりしてくれないことにあります。といっても、それは五代がおもうように、かれが経済的、社会的な意味で自立していないという意味ではありません。そんなことはどうでもよくて、五代が改めて「惣一郎さんよりおれを選んでくれ」と宣言してくれることを意味していました。

 なのに五代は保父になることにこだわってしまっています。〝しっかり〟するまでは響子さんにアプローチすることはできないとおもって、かえって響子さんに対して一線を引いた態度を取ってしまいます。響子さんとしては五代がそう勘違いしているとしても、保父になったうえで自信をつけて改めてプロポーズしてくれるなら、と待っていますが、それでもお互いの間に確かなものがないことで不安になっています。

6.3.1 (三鷹 → 響子; 五代)

 ところでまた本題から逸れますが、三鷹はなぜ五代に勝てなかったのでしょうか。といっても結論は明らかです。三鷹は惣一郎さんの影のことを真剣には恐れなかったからです。すでに先述しましたが、三巻 PART♥9「混乱ダブルス」で五代に対して取ったおくれを、かれはさいごまで挽回することができなかったのです。

 三鷹はじっさいプレイボーイです。響子さんが惣一郎さんの影に囚われていることはわかっていても、時間がいずれ解決する、じぶんならその寂しさを埋められる、と考えていました。惣一郎さんのことを響子さんの人生における欠落部分と考えていたわけです。

 そのことは惣一郎さん(犬)の扱い方が象徴しています。かれは当初犬嫌いで、惣一郎さん(犬)のことを受け入れることができませんでした。いっぽう五代は惣一郎さん(犬)のことを響子さんの一部としてしぜんに受け入れていて、4 巻 PART♥3「ふりむいた惣一郎」では焼き鳥の匂いに釣られて失踪した惣一郎さん(犬)を必死に探してくれました。じっさい響子さんも、このときの五代のうしろ姿に惣一郎さんの面影を認めています。

 三鷹が犬嫌いを克服するのは物語の後半になってから、必要に追われてのことでした。三鷹にとっては生理的な問題であって、仕方のないことではあったのですが……。三鷹がさいごまで惣一郎さん(犬、人間)のことを響子さんの一部を構成するものとして捉えられなかったのと対称に、五代はさいごには惣一郎さんの思い出のなかに生きる響子さんを、あるいは響子さんの思い出のなかに生きる惣一郎さんを受け入れました(後述)。五代は恐怖、うしろめたさを感じたからこそ、それを克服することができたのです。

 三鷹はけっきょく響子さんに応えてもらうことができませんでした。そんなかれが、明日菜さんとの関係を進めていく契機がどれもうしろめたいものであること――妊娠させたと勘違いすること、二番目で妥協したというのが表情でバレてしまうこと――なのは、興味深い点だと思います。この物語のなかでは、けっきょくすべての恋愛はうしろめたい要素を含み、だからこそ進んでゆけるのです。よいほうにも悪いほうにも。

6.4 (響子 → 五代; こずえ) ふたたび

 さて、そんな折に響子さんはこずえちゃんと五代がキスをしているところをみかけてしまいます。もう響子さんはじぶんの気持ちに気づいていますので、「私には聞く権利があると思いますから」(14 巻 PART♥5「大逆転」)ということができます。7 巻の時点では先述のように「こずえさんとあなたのこと邪魔する権利なんてあたしには……」といっていたところからするとおおきな進歩です。じっさいこうしてきちんとやきもちを妬くことですれ違いはすぐに解消されるわけですが、そのあとすぐに五代がこずえちゃんにプロポーズしたと聞かされて今度こそ激怒してしまいます。

 キスをしてしまったのはこずえちゃんの策によるものでしたが、プロポーズ云々は誤解とはいえ、五代がこの期に及んで態度をはっきりさせなかったことに原因がありますので、この怒りは正当なものです。そこにさらに、朱美とラブホテルから出てきた五代のことで追い打ちをかけられてしまいます。

 ここで五代が「あなたしか抱きたくないんですっ‼」(14 巻 PART♥10「好きだから…」)と断言したこともあって、響子さんは態度を軟化させます。「意地を張りすぎて疲れちゃった」(同 PART♥11「好きなのに…」)響子さんは「確かなもの」を求めて、「楽になれる」と思って、五代とホテルに入ります。

 しかし、不幸なめぐりあわせで惣一郎さんのことを思い出してしまい、これは不手際に終わります。本丸の問題を解決せずに、勢い任せで進んでもどうしようもないのです。

7. 音が無くても響いてる

 こずえちゃんときちんと別れた五代は、響子さんに、あるいはじぶんに対してみずからの気持ちを認めます。

「おれ、惣一郎さんのことで頭がいっぱいになっちゃって… …ていうか…」「響子さんがおれに抱かれながら、 惣一郎さんのこと思い出してたらどうしよう… …なんてしょーもないことを…」(15 巻 PART♥2「契り」)

 けっきょくのところ惣一郎さんは間違いなくこの世に存在したのであって、その精神は、身体とともに完全に破壊されたわけではありません。むしろ、そのうちのあるものは永遠なるものとして残っているのです。忘れることも、なかったことにもできなければ、代わりになることもできません。

 だからこそ、五代は

「おなじようなしあわせは、あげられない… けど… うまく言えないけど、なんて言うか、おれの… おれのできること。おれのやりかたで… 違う幸せを響子さんにあげたい おれにはそれしかできない」(同巻同話)

 と決意することができたのです。

 もはや五代は惣一郎さんのことで響子さんにやきもち jealousy を妬きません。「正直言って、あなたがねたましいです…」(同巻 PART♥9「桜の下で」)というように、惣一郎さんに対してのねたみ envy は抱えていますが、それでも「初めて会った日から響子さんの中に、あなたがいて… そんな響子さんをおれは好きになった」「だから…」「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と主張するだけの強さをいつの間にか身に着けていました。

めぞん一刻』が三角関係ややきもちを多用しながら、それが抱えるパラドックス――やきもちを妬かせるような関係はふつう長続きしない――を解消するためにうしろめたさ、という要素を導入したことは先に述べました。この物語の素晴らしいところは技術的に導入されたそれを、テーマにまで昇華しきっているところでしょう。

 道のりは数年間にわたる長いものでしたが、死者の悼みを乗り越えるのには、それくらい時間がかかってもおかしくはないことだったのでしょう。そんな長い道のりに寄り添ってくれる五代だったからこそ、響子さんは好きになったのでしょう。周囲にもじぶんにもなかなか五代への好意を認められなかった響子さんですが、回り道もやきもちもすれ違いも、ぜんぶ必要なプロセスだったのでしょう。

「ずっと前から五代さんのこと好きだったの」「ずっと前からって…いつから?」「忘れちゃった!」
めぞん一刻』15 巻 PART♥2「契り」より

 音無響子の心のうちは、音が無くてもずっと響き続けていたのです。






*1:つまり、ここでは "envy" や "jealousy", 「ねたみ」「やきもち」「嫉妬」などの単語の、語源的に正確な理解や、じっさいの用法に忠実な記述をかならずしも目指しません。

*2:envy にはそれが悪感情である、あるいは、ねたみの対象となる人物への悪感情を含む、というニュアンスがあって、単純に日本語の「嫉妬」や「羨ましさ」とは交換できません。ここでは「ねたみ」としましたがこれも完全な訳にはならないでしょう。

*3:けっきょく現代では、envy とおなじように、他人をその所有するものによって羨むこととしても使うことができますが。むしろ、envy に伴う悪感情がないぶん、口語では jealousy, jealous のほうが使いやすいシーンもあるでしょう。

*4:やきもち zelotypia の対象が恋敵ではなく恋人であることはスピノザも指摘しています。『エチカ』第三部定理 35 備考を参照のこと。『エチカ』における「ねたみ invidia」と「やきもち zelotypia」の定義を必ずしもここでは踏襲していませんが。(ちなみに、既訳では zelotypia = jealousy は「嫉妬」(畠中、工藤、斎藤)「羨望」(福居)などと訳されていることが多いようです。羨望はなんかちょっとちがくない?)

*5:ここではシスヘテロ的な恋愛関係のみを取り扱いますが、これはいまの話題が生殖という限定下にあるためです。それ以外の恋愛関係におけるやきもちのありかたについてはそれはそれで興味深いテーマだとおもいます。

*6:こういうことをいっているひとがいるのかどうかはしらないです。が、みなさんの実体験がこの効果の実在を裏付けるのではないでしょうか。

*7:以下すべて引用は新装版から。

*8:2 巻 PART♥4「メモリアル・クッキング」ではこずえちゃんとデート中の五代をみたときにむかむかしたりしていますが、これは同 PART♥6「桃色電話」で大学のサークルの女の子たちから電話がかかってきたときとおなじ種類の嫉妬であって、ようするに好きといったくせに他の女の子と仲良くしている軽薄さへの反感が大半を占めています。そういうわけで、まだこずえちゃんを潜在的な恋敵として認めたうえでのやきもちではありません。その証拠に、同 PART♥10「影を背負いて」ではこずえちゃんとなんの屈託もなく会話しています。

*9:わたしはいぶきちゃんがいちばん好き。

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』「ドネーションを分析する」を分析する

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 続きますとかいってから一年以上が経ってしまいました。すみません。というわけで続きからやっていきましょう。今回は「分析 2 ドネーションを分析する」です。どういう趣旨の企画かは上の記事の 0. を見てください。

 

 

1. 「ドネーションを分析する」

1.1 作中分析の矛盾

 テルの募金箱に一万円を寄付した男性について、作中で不自然とされた外見、振る舞いは以下の通りだ。

a) スーツやワイシャツはくたびれているのに、腕時計だけやたらと高級なこと。

b) 小銭も持っているふうだったのに一万円をためらいなく寄付したこと。

c) 右利きであろうと想定されるのに、右胸のポケットから財布を取り出し、左手で寄付したこと。

d) その後コンビニに入ったが、ATM を使うこともなくオニギリ一個を買ってでてきたこと。

e) 乗客の少ないバスで先頭の座席に座ったこと。

f) バスの中でケイタイをみたりしまったりを繰り返したこと。

 テルは a) - e) に「印象付け」というキーワードを用いて分析した。しかしアリバイ工作であれば顔を監視カメラに撮らせるのはおかしい。そもそもアリバイ工作の直後に家族と遊園地に行くというのも不自然である。というわけで三雫 (= Wilhelm) によってテル説は却下される。三雫が代わりに出した回答は、海外赴任説である。

 三雫説は以下のように進行する。

 男は左に腕時計をしていることから明らかに右利きで、右利きの男が右胸のポケットに*1財布を入れていたのは、それがスペアの小銭入れだったからである。
 なぜスペアの財布を持ち歩いていたかというと、男が海外帰りだったからである。
 海外赴任帰りのために、小銭入れのなかには海外の硬貨しか入っていなかった。だから、募金箱の前でつい取り出したはいいものの寄付することができなかった。しかし、引っ込みのつかなくなった男は、唯一入っていた日本円である一万円札を寄付した。
 コンビニに入ったのは、バスに乗るために小銭を作ろうとしたため(スペアの小銭入れには一枚しか札が入っていなかったが、〝メインの〟財布にはほかに札が入っていたのだろう、だから ATM を利用することはなかったのであろう)。
 バスの先頭に座り、ケイタイをちょっとづつ確認したのは、車に酔いやすかったから。

 鮮やかでほとんど完璧な再分析だ。もうこれが結論でよくないか? 隠された真相とかこの回に限ってはないだろ、裏分析もこの回にはほとんど触れてないし……そう思って一年間放置してしまいました。すみません。

 ところが、ちゃんと読めば三雫説には矛盾がやっぱりある。

 三雫説によれば男は右利きである。であればなぜかれは左手で寄付したのか。ためしに利き手とは反対側のポケットに入れた財布を利き手で取り出して、お札をしぜんに取り出してみてほしい。

 利き手で取り出した財布を反対の手に移し替え、利き手で札を取り出さなかっただろうか?

 ようするに、テル説(印象付け)を取らない限り、、、、、、、、、、、、、、、、 、つまり、そこになんらの作為も存在しないのであれば、右利きの男が左手で寄付をすることはありえないのである。よって、男は真に左利きである。左利きでも左に腕時計をすることはある。

 また、「海外硬貨しかなく、一万円札をやむなく寄付した」のであれば、なぜ「ためらうことなく、、、、、、、、 男はその紙幣をテルの募金箱にねじ込んだ」のか(85 頁、強調引用者)。

 バスに乗るために小銭を作ろうとしてコンビニに入ったというのもおかしい。小銭がないのに電車に乗れたのであれば、交通系 IC カードを持っていると考えてまず間違いない。であれば、バスにも乗れるはずだろう。小銭を作るためにオニギリを買うというのも不自然だ。お昼前の時間なのであれば、飲み物でも買ったほうがよい。このあとお昼時に家族と遊園地で落ち合うのであれば、そこで食事をとる可能性も高いだろう。なおさら小腹を満たすのはおかしい。

 また、海外赴任帰りであったとしても、「手ぶら」なのはどういうわけか? 飛行機中の手荷物すら持っていないのは明らかに不自然だ。というか、国内に単身赴任していたとしてもこの疑問は残るのだが。しかも、海外赴任帰りの男をふつう遊園地に連れていくだろうか?

 

1.2 真相

 男はほんとうに左利きであった。であれば、右胸のポケットに入れていた財布はメインの財布である。また、一万円を寄付したのは「引っ込みがつか」なくなったからではなくて、「ためらうことな」い意図的な行為だった。男は海外帰りでもないし、ということは財布のなかには日本円の小銭も入っていた。

 かといってテル説に帰ることももちろんできない。印象付け説はすでに破綻している。

 さきに挙げた a) - f) の疑問点のうち、c) だけは解決された。残りを整合的に説明できる解釈はあるか。

 ある。

 男が刑務所帰り、、、、、であった場合である。

 

 男の出張先とは刑務所であった。身だしなみが整っていないのは当然だ。入所時の持ち物は着ていた服も含めて領置(保管)される。出所時にもちろん返却されるが、クリーニングされるわけでもないのでくたびれたままである。

「あまりに生気がな」く、四十代なのに白髪交じりで、「疲れ切っ」ているのは(84 頁)、「久しぶりに見たらやつれ」ていたのは(117 頁)、長いお勤めを終えてきたからだ。

 コンビニで「お弁当の並んでいる棚をずっと見て」いるのは、シャバの飯をみるのが久しぶりだからだ。小銭を作る必要もないのに、このあと妻子と会うのにオニギリを買ったのは、死ぬほど腹が減っていたからだ。あるいは、一万円を寄付したせいで、弁当を買うほど小銭が残っていなかったのかもしれない。ATM を使わなかったのは、刑期中にキャッシュカードの有効期限が切れてしまったからではないか。

 乗客の少ないバスで先頭に座ったのは、刑務所でほんとうに「前から順に詰めていく、そういうしつけを受け(104 頁)」たからだ。

 ケイタイをみてはすぐ画面から目を離していたのは——ひさびさに娘の写真をみてこみ上げる涙をこらえるためだ。テルはおそらくこのあたりで真相に気づいた。だから、男が泣いていることに気づかれないように、めぐるちゃんを前方の座席から呼び戻したのだ。

 手ぶらだったのは、衣服以外の荷物、受刑者が刑務所内で個人的に購入したもの等は、宅下げで家に郵送したからだ。明日届くという荷物(116 頁)はこれだ。

 まだ幼い娘に対しては収監されていたことを隠すことに決めた夫婦は、夫が収監されていることを「単身赴任」として説明した。だから娘の前では、あたかも夫が単身赴任していたかのように会話をする(117 頁)。もちろん、娘には隠しているので、刑務所まで出迎えには行けない。遊園地への現地集合になったのはそのためである*2

 さぞ「長旅」だっただろう! 「単身赴任先でもその時計着けていたの?」は、ふつうに考えればおかしいセリフだ。単身赴任先で腕時計を付けていることにふつうに考えてなんのおかしな点もない。この妻のセリフは、「お父さんの腕時計、家にないと思ったら刑務所まで持っていってたのね」ということだ。もちろん刑務中は領置されていただろうが、それを承知で、この男は収監時にもこの時計を着けていったのである。

 テルの誤った分析が犯罪者などと言い出して物騒なのも、彼女がこの真相に気づきながら、それを迂回する偽の分析を作り上げたからである。テルの分析が誤っていたことをトキオは「犯罪者がどこにもいなくて良かった」(119 頁)と述懐するが、たしかにそのとおりで、もうここには犯罪者はいない。元犯罪者がいるだけなのだから。

 

 さて、では男はなぜ一万円をためらうことなく寄付したのか。こればかりは想像するしかない。テルが募金のテーマとして社会問題などを選ばずに、「病弱な身内」というテーマを選んだのは、純粋な善意による寄付、「思想と良心だけに支えられた事物」(79 頁)を分析したいと望んだからであった。

 この男が、なけなしの作業報奨金から一万円を、罪滅ぼしのためにためらうことなく寄付したと考えたいと思ってしまうのは、すこし優しすぎるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:そもそもスーツのジャケットに〝右胸のポケット〟なくない……? と思ったが、ここでは〝右の内ポケット〟と解するべきであろう。

*2:そうはいってもこの妻は車を運転できるらしいのだから、駅前まで迎えに行けばバスに乗らずに済んだのでは、と思うのだが、この疑問はそもそもどんなシナリオを取っても意味不明なままだ。

去年書いた小説について (2)

まえのやつの続きです。

 

桐始めて華を結ぶ

結華って「推しに一早く認知されること」が特技らしいです*1。その割に結華のことを知っているアイドルの描写ってあんまりありません。美琴も結華のことを「認知」はしてないみたいですし(「アイドル同士の会話:美琴→結華」)。原作でそういうエピソードが回避されてるのは、そんなの書いたらややこしくなりそうだから、というのが大きいんでしょうが、じゃあややこしいことに、するか……となっていろいろ考え始めました。

 ところでわたしはあんまりアイドルとか配信者とか、ようするに生きている人間という形のコンテンツを熱心に推した経験が(あまり)ありません。でもそういうの推してるひとはまわりにけっこういて、しかもだいたい死ぬほど楽しそうで、死ぬほど苦しそうでした。

 理由は明らかで、趣味はいつか飽きるからです。わたしは小説が趣味でわりとずっとやってますが、それでもあんまり読まなくなったジャンルとかやっぱりあります。

 さて、人間は小説よりタチが悪くて、昔はよかったのにいまの芸風は嫌い、とか、パフォーマンスはいまでも好きだけどスキャンダルで炎上して……とか、そういう理由でもかんたんに冷めることができます。そういうのがなくてもやっぱり飽きます。人間を愛し続けることは難しいのです。人間にハマることのタチの悪さはまだ続きます。ものに飽きてもそんなに罪悪感ってありません。せいぜい、おなじ趣味を持っていた人たちと、今後どう付き合っていこうかな、となるくらいでしょう。でも人間に飽きてしまったら? アイドルも木石にあらねば――もう好きでいてあげられなくてごめんね、どうしてもそうなるんじゃないでしょうか。罪悪感に終着しない好意がこの世にいったいどれだけあるでしょうか。

 そういうわけで、ヤフー知恵袋をちょっと検索すれば冷め期を迎えたかわいそうなオタクの鳴き声が無数に出てきます。好き嫌いやたぬきはとんでもない勢いで書き込み数を伸ばします。やはり、ひとびとは推し事からとんでもない量の苦しみを得ているようです。

「推しは推せるときに推せ」みたいなフレーズが一時期流行りました。これが「いま好きなアイドルもいつ卒業したりグループが解散したりするかわからないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、「あなたの推したいという気持ちがそもそも永遠ではないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、わたしはよく知らないのですが、どちらの意味だったとしてもずいぶん悲しい格言です。

 こんな悲しい世界で、ひとはどうして推しに認知されたがるのでしょうか。いつか飽きたとき、もっと苦しくなるだけなのに。  事態は逆で、認知されたいと思ってしまうほどの愛が、いつか衰弱して消えてしまうほどに、それほどまでに飽きの力は強大なのでしょうか。結華はオタクとして生きてきて、そんな「飽き」の強大な力に晒され続けて、すこしも歪まなかったのでしょうか。

【NOT≠EQUAL】の結華はこうして好きであること、好きになることに臆病です。彼女が選んだ(ひとまずの)結論は、立場に由来する関係でした。アイドルとプロデューサーという関係であれば、すくなくともコントロールが効きます。結華がアイドルを全うする限り、プロデューサーとしてのかれは傍にい続けるはずです。ただ、その立場はすでに同カードの TRUE END「……頼ってもいいですか?」でまっさきにほころびをみせるわけで、ようするに結華はこわごわと咲くタイミングをうかがっているつぼみのようなものなのでしょう。

 なにかを好きになってもそれが続くとは限らないこと、それでもなにかを好きになってしまうこと、そのジレンマをどうしたら癒せるかは――むずかしい話だと思います。いまのところ、わたしはああいうことを考えています。きれいごとに騙されたり、目を覚ましたりしているうちに人生は終わるのでしょう。

 れいの四字熟語については名前をみた瞬間からわりと思いついていました。出身も福島で、福島といったら会津桐ですしね。結華の出身が福島のどこなのかって議論はありますが――アニメイトのある郡山だろ説とか――ここでは都合よく捏造しました。すみません。

 

聴こえなくても鳴っている

 透といえば生物デッキと五感だなと思ったので安直に行きました。いうほど安直か?

 ところで五感とその対象の存在論的身分については現象論的立場と実在論的立場があると思いますが、透のシナリオにおいて意識されてるのは明確に外界の対象についての実在論だと思います。というのも、【10 個、光】「2 こめ」において、透はバスの停車ボタンについて「昼光ってるものって 見えないんだね 夜なら見えるのに」と述べています。それに対してプロデューサーは「もう光ってるもののこと―― 昼の間も、ちゃんと光ってるもののこと」の話をします。こうして透は現象ではなく、現象の向こうにある(はずの)実在――それは一番星だったりセミだったりミジンコだったりしますが——に目を向けるようになります。

 というような話を視覚じゃなくて聴覚でやりたいなと思ってできたのがこの話です。ただおなじ話をしてもしょうがないので、存在論の話を無理やり存在感の話に拡張しました。透と聴覚の話はおもに【つづく】で行われていますが、『海に出るつもりじゃなかったし』第 2 話「風のない夜」で透がいっていた、「どれだけ先の音も伝えられる 透明な空気」というセリフも見落とせません。音が実在と現象を仲介するメディアであるなら、音のメディア(媒質)である空気は透明でなければならない、音は歪んでいてはいけない――そんなニュアンスがかんじられますね(もちろんぜんぶ妄想です)?

 さて、ノクチル、とくに透は透明感をモチーフにしていますが、にもかかわらずキャッチコピーは「さよなら、透明だった僕たち」です。いつか透明でなくなる媒質は、透の音を歪ませるでしょう。そのときに歪む音は、でもポジティヴなものだろうなと思いますし、そうであるべきでしょう。

 悪ふざけみたいな萩原朔太郎の引用はべつに空中からでてきたわけじゃなくて、【途方もない午後】「所感:」で「とーるくん、とーるくんって 音みたいな感じで……」といっているように、透がじぶんの名前の響きそのものを弄んでいたらいいなと思ったところからでてきました。やっぱりほとんど霊感じゃん! すみません。

 語りが現在形なのはいちおう理由があって、透はへんな語順でしゃべるわけですが、あれはべつに正文があってその語順を入れ替えてるわけではなくて、あの通りにリアルタイムに単語が浮かんで、そのまま並べているんだろうな、と考えると、透の主観は現在時制が支配的なんだろうなという、そういうところからきています。まぁ日本語のル形/タ形って必ずしも現在/完了じゃないんですけどね。あとは透の名前がそもそもル形だから。というとさすがに与太すぎますが。

 

 

いつか壊れるしかくい祈り

 人間は一日で小説を書けるのかチャレンジの成果として生まれた産物です。大晦日の AM 2:00 にとつぜん小説を書きたくなって、元旦の AM 1:00 に完成しました。じゃっかん間に合ってないのがご愛敬だね。摩美々のやつ書いてたときは、ほとんど毎日数時間くらいかけて、それでも一か月まるまるかかったことを考えると、だいぶ手は早くなった気がする。

 お正月といえば小糸ちゃん、ということで小糸ちゃんを出すことはすぐに決まって、まぁノクチルのみなさんがワイワイいってれば書きやすいだろうということも決まって、初詣に行かせて、女連れの P でも目撃させるか! となりました。『明るい部屋』のパクりっちゃパクりですが、ノクチルのひとたちってそう素直に脳を破壊されてくれなさそうですよね。

 タイトルは【思い出にもならない】「いつか忘れる本の題名」からです。わたしはこの【思い出にもならない】がぜんぶ好きすぎて、それは小糸が「当たり前」が「当たり前じゃない」(『今しかない瞬間を』)ことを自覚していることがはっきり伝わってくるからなんですが、じゃあなんでこういう話を書くんですか? すみません。

 頂点が移動する四辺形というアイディアは Vi ノクチルを手持ちで組もうとしてリンクアピールの経路を書いていたら思いつきました。ただ、その頂点の移動は自由なものではなくて、なんらかの制約があるはずで――そう考えたら、やっぱり円周上にあるのかな、と、これまた安直ですが思いつきました。原点 Origin と点 Point はまったくべつのものであることに小糸が気づいていることに気づいてくれた読者がいて、わたしはいい読者に恵まれているなぁと思いました。ちなみにノクチルは偶数ユニットでセンターがいないという理由で原点は O であって C ではありません。

 あとアングレカム花言葉は「祈り」「いつまでもいっしょに」です。まぁ、べつに、それはどうでもいいんですけど。

 

 

 

 

 今年もいろいろ書けたらいいなと思います。よろしくね。

 

 

 

 

*1:公式プロフィールの「特技」欄って、いちおうあの世界での公式プロフィールらしく、たとえば灯織は透の特技が「人の顔を覚えること」であることを知っています(「アイドル同士の会話:灯織→透」)。それを考えると結華がプロフィールでこういったことを書くとは思えないのですが、まぁ初期は公式プロフィールの扱いとかがそう定まっていなかったのでしょう。

去年書いた小説について (1)

 去年はむっつも小説を書きました。えらい。うちいつつはアイドルマスターシャイニーカラーズの二次創作です。二次創作は生まれてはじめてやった(ちょっと嘘)んですが、原作パワーかいつもよりみんなが読んでくれてうれしかったです。

 

 ところで小説のあとがきとか自作解題のたぐいがわたしは苦手で、というのも、書くべきことがあるならそれは小説のなかに書かれているべき、読み取れるようになっているべきであって、あとからごちゃごちゃいう必要があるようならようするにそれは失敗作にすぎない、という、ちょっとケッペキすぎる信念があるからなんですが、じゃあなんでいまからそれに類するようなことをしようとしているのかというと、コミュの感想をおもいついても、ツイッターとかで書くより小説にしようと思ってメモ帳に秘蔵してしまうせいでまったく感想をいえてないのがやや悲しいというのと、まぁあとはたんじゅんに結構書いたものに愛着があって、やっぱり愛着があるものについてはちょっとくらい話したいというのがおもな理由です。

 というわけで、以下で書くのはわたしが書いたものについてというよりも、わたしが原作のどういう部分をみてああいったものを書くにいたったかという、生成についての話になると思います。

 また、もちろんこんなのはたかだか書いたにすぎないひとがいっているたわごとなのであって、もし小説そのものを読んだひとが――もし――なにか感じたところがあったなら、それが無条件に正しく、尊重されるべきであると思います。

 前置きが長くなりました。それでは妄言が続きます。

 

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 実家の犬が逝った。2006 年 3 月1 日生まれの赤の柴犬で、十五年とちょっと生きた。名前はジョンといって、これはレノンが由来だが、途中からロックだったことになって、わたしのペンネームもロックから取ることにした。まあ、レノンもロックのジョンだけど。

 そもそも三年くらい前から徐々に心臓を病み、肺に水がたまり、と健康を損なってはいて、そのたびにお医者さんからもらう薬の種類は増えたが、その代わりに薬はまあまあ効いて、散歩も距離を控えて続けていたし、エサもそこそこ食べていた。まあ爺さんだし持病が増えるのはしょうがないな、くらいの気分でいた。わたしとしては病気をきっかけに外飼いをやめて室内飼いになったのが楽しかった。ずっと庭で気楽な一人暮らしをしていた犬はしばらくリビングで居心地悪そうにしていたが、そのうち定位置を作り出して、人間が毛布をかけてテレビをみているとわざとその上に乗ってくるようになった。

 夜中にたまに粗相をするようになったから、リビングの南半分をペットシーツが占めるようになっても、すぐに疲れてしまうから散歩をやめても――もとからそんなに散歩が好きな犬じゃなかったし――、だからといって死ぬかもしれないと考えた考えたことはなかった。けっきょく四本の足で歩いてご飯を食べて、起きてるときは漏らさなければそんなに心配にならないものだし。

 様子がおかしくなったのは今月の 15 日くらいからで、まずトイレに行かせても尿が出なくなった。エサも食べなくなって、水も飲まなくなった。吐くようになった。腎不全だそうだ。というのを、19 日に実家に帰ったわたしは母親から聞いた。勤め人をはじめて数年前に 23 区内で独居をはじめたわたしだったが、犬に会いに毎週末実家に帰っていたのだ。また犬でも揉むか、とおもって帰ったら、母親からもうそろそろかもしれない、と、とつぜん聞かされたことになる。

 その日はまだ危篤というのを実感していなかったとおもう。たしかに帰宅したわたしの目の前で吐いたし、夜中にトイレに出してやったときはふらふらしていたが、これまでも何回か病気になったし、そのたびになんだかんだでまた日常に戻っていったから、こんかいもまた薬が効いて、ちょっと元気を失うけれどもまだ生きていくのだろうとかおもっていた。

 次の日の朝起きてきたらまた目の前で吐いた。腎不全ってどういう病気なんだ? とおもって検索した。腎臓は 25 % 残っていれば機能するらしく、症状がでるということは 75 % 以上ダメになっているということなのだそうだ。また、腎臓の機能は回復しないのだそうだ。ようするにいままでとは事情が違うらしい。心臓病と肺水腫から立ち直った犬が、腎臓みたいななんだかよくわからない臓器のせいで、尿が出せなくなって体に毒が溜まるくらいのことで死ぬなんて信じられなかった。

 ことさらにことさらなことをするのは気が進まなかったから、横たわる犬に一日中よりそって優しく語り掛けたりはしなかった。家族全員そんなかんじだった。仮に死ぬのだとしても、もう 15 年生きたのだから、動じずに送り出してやろうとおもっていた。そうできるとおもっていた。シャワーを浴びていたら、いま泣いてもだれにも気づかれないな、とおもって、その瞬間に涙が止まらなくなった。

 日曜日になって区内の自宅に帰った。もしものことがあったら平日でも帰ってくるか? と両親に訊かれたので、そうする、と答えた。自宅でタンスに服をしまいながら涙が止まらなくなったのでもう一度実家に帰ることにした。べつに実家からでも職場に通えないことはない。

 仕事が終わって家に帰るたびに容態は悪くなっていった。口内炎で口から血を流すようになったし、白く不健康そうな目やにが大量に出た。トイレはなんとしても外でしようとふらふらの足で立ち上がったが、廊下で力尽きて漏らすこともあった。なんといってもわたしが心配だったのはエサをまったく口にしないことで、吐いてる量を考えたら、病気でなくとも死んでしまうのは明らかだった。ちゅーるかなにか、あるいは点滴とか、そううろたえるわたしを横目に、母親は「食べたくなかったら、食べなくてもいいよ」といいながらジョンをなでていた。心の底から道徳的だと思った。うちの両親の実践理性は、そのはたらきかたを知悉しているからこそうまく働くタイプのものではなかったが、かといって原理を知らぬままに微分積分の小テストに完答する高校生のようなしかたでもなくて、なんど放っても的に当たる達人の矢のようにかならず正しくふるまうのだ。

 22 日に桜が満開になって、職場の前の道路の桜の写真を見せてやった。数年前のちょうどこのころ、わざわざいつもの散歩コースとはちがうコースをたどって、近所の体育館の裏手の桜並木をみせてやったことを思い出した。24 日はわたしの誕生日で、朝起きたとき犬がまだ生きていたので安心した。数値はまったくよくなっていなかったが、対症療法としての各種の薬が効いているのか、静かに寝ている時間も多かった。このままあと一か月くらいいられるのかな、とおもっていたら、金曜日に帰ってきたときは起きようともがいて立ち上がれないみたいだった。深夜にはタール便が出た。

 今朝、わたしが昼頃に起きてくると、姉が犬の前足を握っていた。痙攣が止まらないようだった。大丈夫? と声をかけながら頭をなでていてやったら、その数分後に動かなくなった。正午ちょうどだった。苦しみのときが短かったことだけが幸いかもしれない。犬は隠しきれなくなるまで体調不良を隠すというから、もっとずっと苦しんでいたのかもしれないが。それでも逝くときは眠るようだった。

 誕生日を待ってくれたんかな、起きるまで待っててくれたんかな。あんまり撫でられるのが好きな犬じゃなかったが、耳の後ろだけは嫌がらずに触らせたから、そこばっかり撫でてやった。お疲れさまとありがとう以外の言葉はでてこなかった。死んでも驚くほどかわいかった。毛布にくるんで、抱いて車にいっしょに乗ってお寺まで行った。ぐうぜん空きがあって、すぐに焼いてもらえた。お経もあげてもらえた。骨壺のなかに収まっている。お寺の駐車場では境内の桜が散り始めていた。ちょうど釈迦や西行とおなじころに死んだわけだな、とおもった。

 お骨はしばらくしたら床の間に置いてやろうとおもうが、いまのところリビングのれいの定位置――南東側の隅――に置いている。スマホをいじりながら、風呂から上がって髪の毛を乾かしながら、利き手とは反対側の手が一瞬犬を探して空中をためらった。

 二千回は毛をむしり、五千回は散歩に行き、一万回はエサをやった犬がいないというのはやっぱりいまでも信じられない。そういえばジョンが家にきたときに、業務用の六千枚つづりのポリ袋のロールを買った。あまりにも太くて、これを使い切るのなんて無理だと思った。それでも、あまりに太いそのポリ袋のロールをみながら、糞を拾ったり、むしった毛を入れておく用で、およそ平均して一日に一枚使うわけだから、これを使い切るころにはもう寿命だということだ、というようなことをうっすらと考えた。さっきみたらそのフェルミ推定はおよそ正しくて、のこりは数十枚くらいになっていた。

 とにかく眠るのが好きな犬だった。名前はなんでもいいが、死後の世界というものがあって、そこはわれわれの住んでいる世界よりもよっぽどすばらしい場所で、あらゆる苦痛から解放されていて、そこではジョンが幸せにずっと大好きな昼寝を続けているのだという紋切り型の観念が、ここまで心を安らかにするとはおもっていなかった。

 ケイタイをスマホに変えた時からすべての写真が Googleクラウドにかってに保存されているから、2009 年からはすべての写真がカメラロールに残っている。まだふわふわで暖かい匂いがしたころの写真をみながら、焼きすぎたチーズケーキみたいな色をした、四本足の、わたしの唯一の友だちのことを考えている。

理想の犯人当てについて

 さいきん犯人当てミステリを書いて公開しました。以下は寝言です。

 
0. 消極的要件

 理想の犯人当てがすべからく有すべき性質とはなにかと問われたら、たいていのひとは論理性とか解の唯一性とか、ちょっとキマってるオタクなら健全性と完全性とか答えるのではないでしょうか。数学あるいは数理論理学との類比でミステリを語る試みってなんだか昔から人をひきつけるみたいで議論の蓄積もはなはだしくて、そこに屋上屋を架する必要もないとおもうんですが、それはともかく、そういう数学的な意味での「論理性」ってたしかに理想の犯人当てには求められるけど、あくまでも消極的要件であって、積極的要件ではないですよね、つまり、複数人(あるいはゼロ人)妥当な単独犯の候補がでてきたり、推論ではなく神託で犯人を当てていたとしたら理想の犯人当てではないというだけであって、数学的な意味で論理的だからといって「理想の」犯人当てになるとは限らないということです。たとえば容疑者はふたり、片方は右利き、各種証拠から犯人が左利きなのは明らか、よって犯人はもう片方――利き手モデルとします――というような謎解きは、論理的ですがおもしろくなくて、まったく理想ではありません。

 もちろんこの消極的要件こそが満たすのが難しいわけで、各作家は苦心惨憺するし、評論家による哲学的な議論があるわけです。たとえば利き手モデルでいえば飲めば一時的に利き手が逆転する薬が存在する世界ではないことを証明する必要があるのでしょうか? ただ、けっきょく数学的な論理性を用いた議論は、あらゆる犯人当ては不完全でしかありえないという結論にいたるとおもいます。べつにゲーデルは必要ないです。

 うえに挙げたような数学的な論理性はその性質上、備えているか備えていないかのどちらかであって、グラデーションではありません。小学生が書いたピタゴラスの定理の証明も成功しさえしていれば完全に論理的です。

 現実的(現実に起こり得そうな)な事件を有限の文章で表現するフィクションにおいて、数学的な論理性を備えることは難しい(公理にも推論規則にも諸前提にも必要なだけの表現力と抽象性と厳密性を持たせることができないでしょうから)ことを考えると、実作者にとっては理想の犯人当ての積極的要件を追求するほうが生産的でしょう。

 上記の問題意識を踏まえて、理想の犯人当ての要件を、消極的要件のみならず積極的要件についても考慮しながら検討していきましょう。

1. 論理性(消極的要件)
2. 意外性(積極的要件)

 -a 距離

 -b 前提の再検討
3. 競技性
 -a 公平性(消極的要件)
 -b 困難さ(積極的要件)

4. 芸術性(積極的要件)

 

1. 論理性

 まずは消極的要件としての論理性を検討しましょう。
 いやいや、論理性はミステリにおいて成立しなかったんじゃないのか――それはそう、数学的な論理性は成立しないでしょう。ただ(この名称がふさわしいかどうかはわかりませんが)、文学的な論理性は別です。説得性といいかえてもいいでしょう。

 文学的な論理は、たとえば無矛盾律*1排中律*2を採用し、演繹的な外形を持ちます。

  演繹的な推論とはどのような形を持つものでしょうか? いちれいとして三段論法が挙げられるでしょう。「すべての P は M である、ある S は M ではない、よってある S は P ではない」というような推論形式*3が存在しますが、これを模倣する形で、たとえば、文学的に論理的な推論は「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」というような形を取ります*4

 ぎゃくに、「さきの事件でも鈴木が犯人だった、今回の事件でも鈴木が犯人に違いない」「神託があった、犯人は鈴木である」は演繹的な推論ではありませんから文学的な論理においても認められません*5

 なぜ認められないか? 適切な反論のしかたが存在しないからです。非演繹的な推論(枚挙帰納法でもアブダクションでもなんでもいいですが)においては、前提が真でも結論は必ずしも真ではありませんから、いくらでも言い逃れができてしまいます。ところが、演繹的な推論であれば大前提か小前提の真偽を問うことができ(文学的に論理的な推論は演繹的な外形を持っていますが、繰り返すように数学的に演繹的なわけではないので、その証明するところが真かどうかはほんとはわからないのですが、そのへんはいまはとりあえずおいておきます)、かつ、前提の真偽さえ合意が取れれば、結論の真偽についてはさらに疑いを容れることはできません。われわれが演繹的な推論に求めるのはこの結論の強制性、言い逃れのできなさです。

 ところで論理性と 2. の意外性はまったくもって噛み合いが悪いです。数学的に論理的で妥当な推論において、結論は諸前提のうちに潜性的にすでに含まれています。個々の推論はあたりまえの結論しか導き出せないということです。しかし、推論の全体に意外性を持たせる手段は複数あります。以下にみていきましょう。

 

2. 意外性

 積極的要件としての意外性を検討しましょう。

2-a. 距離

 意外性を出すもっともかんたんな手段は推論を連続させること、つまり、推論 A の結論をつぎの推論 B の前提とすることです。たとえば、
「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」だけでは意外性がありませんが、「すべての右利きの人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は右利きではない(=すべての犯人は左利きである)」という推論*6が前に追加されたらどうでしょう(この推論が妥当かどうかはともかく*7)。こうして推論はいくらでも延長することができ、さいしょの推論の前提と最後の推論の結論はパッと見でははなはだ無関係なものにみえることでしょう。にもかかわらず、1. で議論したように、演繹的(にみえる)推論がもつ結論の強制性によって、パッと見無関係な前提と結論のつながりを認めざるを得ません。これが意外性につながります。桶屋が儲かるでも九マイルは遠すぎるでもなんでもいいですが、論理性と意外性を結びつける古典的な方法のひとつです。

2-b. 前提の(再)検討

 さきに演繹的な推論は諸前提の真偽を問うことで反論の余地があるといいましたが、文学的に論理的な推論は登場する単語の定義が明確でないため、これを逆用して前提の真偽を問います。

 たとえば、
「ある現場は密室であった。すべての密室は脱出不可能である。ある現場は脱出不可能であった」という推論があり、そのせいで犯行が可能だった人物が存在しなくなってしまったとしましょう。この場合探偵がやるべきことはなんでしょうか?

「ある現場は密室であった」という大前提を否定することです*8。たいていの場合、密室の定義を定めていないでしょうから、トリックの解明などを付け加えることで「ある現場は密室ではなかった」が真であることを新たに示せばよいのです。

 作者の書き方に誘導されて自明だとおもっていた前提が覆されるわけだから、とうぜん意外性があります。これもまた古典的な意外性の演出といえるでしょう。

 さて、この「前提の(再)検討」で行われているのは、論理的な操作ではありません。具体的にここで行われているのは、「密室」という単語の意味するところの解明です。これは根本的に論理的な操作ではないのでじっさいなにをやってもいいわけですが、だからといって、解決編にいたってとつぜん新事実が追加されたり、特殊な知識を要したりするのはアンフェアとみなされる危険が高いです。

 

3. 競技性

 アンフェアではなぜいけないかというと、それが競技性要件に反するからです。理想的な読者は犯人を指摘することが可能でなければなりません。が、かといってそれが著しく容易であってもいけません。
競技性要件ははなはだ心理的なもので、明確に定義することは難しいですが、およそ以下のような要素から構成されるでしょう。

a) 公正性(消極的要件)
b) 難易度(積極的要件)

3-a. 公正性

 およそ世の中で論理的でないといわれている犯人当てのほとんどは公正でないだけだとおもいます*9。では公正さとはどのようにすれば担保されるのか。必要なすべての情報を読者に提示することで担保されるでしょう。

 さて即座に問われなければならないのが「必要なすべての情報」と「提示する」の実態です。

 もちろん、犯人を特定する推論に登場する前提を構成する証拠はすべて提示されている必要があるでしょう。また、1., 2. から、探偵あるいは読者が行う推論は前提の(再)検討を含みますから、その再検討の材料となるべき証拠も問題編の段階ですべて提示されているべきです。

「提示する」とはどのような意味なのでしょうか。「被害者がカレーの匂いに気づかず、なにを作っているのか確認しようとして料理中の鍋を覗き込んだ」という情報が地の文に書かれていたら、それは「被害者は嗅覚障害者である」という命題を真とするに足る記述でしょうか。そうでしょう。これはかなり(巧妙ですが)直接的な記述です*10

 では、あることを記述しないことで、それが存在しなかったことを証明するのはどうでしょうか。

 たとえば、「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた」という情報から「財布から何者かが金を抜き取った」という命題は導き出せるでしょうか? それで物取りを疑い始めた警察に探偵が「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた、つまり持ち主以外の第三者の皮膚片などは入っていなかった、よって金を抜き取った何者かなど存在しない」と推理を披露したらどうなるでしょうか*11

 ということで、公正な証拠の提示方法には一定の基準が求められるでしょう。ただ、その基準の探索はもはや論理学ではなく、認識論(知識論)に譲るべきでしょう。(古典)論理学における結論は真偽の二値ですが、認識論にはグラデーションがありますから、「この作品は〝ある程度〟論理的である」というような意味不明なものいいをやめて、「この作品における諸前提の認識論的正当化はある程度の妥当性を持っている」というようなきもちのいい言葉遣いをすることもできるというメリットもあります。

3-b. 難易度

 演繹的な外形を持つ推論を作り、必要に応じて認識論的に正当な諸証拠による推論の前提の再検討を行い、より適切な推論を作り上げ、それを繰り返すという、文学的に論理的かつ意外性がありかつ公正な謎解きを作ることができたとしましょう。それでもまだこの犯人当ては理想の犯人当てではありません。そのプロセスがあまりにも容易だったり、至難だったりしてはいけないからです。

 公正性要件を満たすためにはおそらく情報の提示をできるだけ明示的に行った方がよいでしょう。さらに、書かれていない細部はすべて常識(現実世界の常識でも、作品が属するジャンルの世界観の常識でもかまいませんが)と一致していたほうがよいでしょう。

 そのうえで難易度を上げるためにはどうしたらよいか? 方法論としてわかりやすいものが存在したとしたらだれでもベストセラー作家でしょうからここではわかりやすいものしか挙げられませんが、

i. 手がかりを増やす
ii. 手がかりを間接的にする

などは単純で効果的でしょう。

3-b-i. 手がかりを増やす

 容疑者の数が増えれば検討する材料が増え、認知的な負荷で謎解きは難しくなるでしょう。たとえば、ある容疑者がコンタクトレンズをしていたことが犯人特定の重大な情報になる場合、ほかの登場人物の眼鏡やピアスなどについても平等に言及することで焦点となる情報から目をそらさせることができます。

3-b-ii. 手がかりを間接的にする

 さきに意外性を出すために推論を延長するという方法について言及しました (2-a) が、難易度を上げるためにもこの手法は使えます。たとえば、「ある容疑者 A だけがコンタクトレンズをしていた、現場にコンタクトレンズが落ちていた、よって犯人は A だ」というような推理はかんたんすぎますが、「現場の血痕にはその上に膝をついたようなあとがあった、血痕にあとが残るのはそれが乾くまでの短時間のあいだだから、あとを残したのは犯人だとおもわれる、血痕のうえにわざわざあとを残してまで膝をつくようなシチュエーションとして、犯人と被害者がもみあってコンタクトレンズがその拍子に外れたというものしか考えられない」という推理はどうでしょうか*12

 

4. 芸術点

 ここから先は美意識の問題になるでしょう。どのような犯人当てであれば美しいと感じるか?

4-1. 共犯、外部犯、自殺の可能性を否定すること

 犯人当てであればこの辺は自明視するというか、読者への挑戦*13であらかじめ断っておくこともあるでしょう。それでも、できるならば作中の推論でこれらの可能性を消去するような理屈を立てておいたほうがよいとおもいます。

4-2. 別解を用意し、別解潰しをすること

 けっきょくのところ真犯人以外の容疑者は難易度を上げるための道具に過ぎないのですが、別解を用意することでかれらにも存在する意義が与えられます。別解潰しのメリットはやると推理の見かけ上の妥当性が上がることで、デメリットは読者のほうがさらなる別解の可能性の追求に目が行って、その後の推理に求められる妥当性の水準が上がることです。

4-3. 犯人特定には二個以上のロジックを必要とすること

「これこれの条件から犯行ができたのは A だけ、よって犯人は A である」というような積極的な条件ひとつで犯人が一発で特定されてしまうと、ほかの要件を検討する意味がなくなってしまいます。たとえば容疑者が A, B, C, D, E の五人だったとして、「A, B は左利き」かつ「A, D, E がコンタクトレンズをしていた」とき、「犯人は左利きかつコンタクトレンズをしている」ということがわかれば、犯人が A であることがわかるでしょう。4-1 とあわせて、容疑者のスコープを特定したうえで、最低二回以上消去法を行うこと、といいかえてもいいかもしれません。

4-4. 正答への誘導があること

 たとえばハウダニットを追求するとフーダニットが解けるというのはシンプルながら王道パターンでしょう。じっさいに読者がどのような順番で推理をするかはともかく(こいつが怪しい、こいつが犯人だとしたらこうやったに違いない……という手順で解くパターンのほうが多いとおもいます)、理想解では推論 A の結論を前提として推論 B があり……というような形になっていると美しいとおもいます。

 

 

 

 

 なんだか考えていることをだらだら書いていたらあたりまえのことばかり書いてしまった気がします。とはいえ、これをすべて満たした犯人当てを書くのもそれはそれで至難のこととおもいますし、むしろ独創的なトリックや魅力的なキャラクター、奇抜なプロットを思いつく方がよっぽど重要かもしれません。それはそれとして、本格探偵小説のいちばん根っこの部分について考えていることをまとめるのもそれはそれで無駄ではないかなというきもする。みんなもじぶんだけのさいきょうの犯人当てを書いてみよう!

*1:A is B かつ A is not B ではありえない。

*2:A is B は真か偽のどちらかである。

*3:アリストテレスやさんのことばづかいでいえば第二格の Baroco です。

*4:「すべての犯人は左利きである」という文章に不自然さを覚えるかもしれませんが、「犯人であれば必ず左利きである」くらいの意味だとおもってください。

*5:もちろん、先の事件の犯人は今回の事件の犯人であるという大前提を付け加えることができるならば前者も演繹的な推論になりますし、神託の告げるものはすべて犯人であるという大前提を付け加えるなら後者も演繹的な推論になります。じっさいそういうことをやってるミステリもないわけではないでしょう。

*6:第二格 Cesare

*7:「¬右利き=左利き」ではない(両利きもある)ので、「すべての左利きでない(右利きあるいは両利きの)人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は左利きでないことはない(左利きである)のほうが妥当でしょうね。それにしたって右利きあるいは両利きにもかかわらずマウスの左右を反転させてるひともいるかもしれませんが。

*8:ほかにも、「脱出不可能な現場で殺人事件を起こすことはできない」という次の推論の前提となっているであろう命題の真偽を問うこともできます。たとえば遠隔殺人、機械殺人等の可能性を提出することで。

*9:ほんとに作中の推論が古典論理などの既存の論理体系の構文論からして破格で非論理的である可能性もありますが。たとえば「左利きでない人間はマウスの右左を反転させない」という命題から「左利きの人間であればマウスの右左を反転させている」を導き出したらまちがいです。

*10:ちなみにこれは有栖川有栖『双頭の悪魔』で用いられていた手がかりです。ネタバレかというと、この手がかりが登場し、かつそれが鼻づまりとかじゃなくて嗅覚障害であることが登場人物の口から確証されるのが解決篇より前なので、謎解きのネタバレではないとおもいます。

*11:ここで、適切な中項を導入して推論化すればその論理性を判定できるなどの寝言をいい出さないでください。なぜなら、当該推論も、推論の前提の再検討も、すでにそもそも数学的に論理的ではない、繰り返しになりますが、この推論に登場する概念はあらかじめ十分に定義づけされていないし、することもできない(フィクションの世界は細部の確定性を持たないから)、よって、やってることはさいしょからすべて認識論的妥当性をめぐるライン引きなのですから

*12:書いてて質の低い推理だなとおもいますが、質の高い推理をおもいついたらじぶんで使うので許してください。

*13:よく考えたら読者への挑戦は犯人当てに対してメタレベルですね。

チャック・パラニューク『サバイバー』とみっつの奇跡

 

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

 

 

0. 

 ブラックボックスがある男の半生を語りだす。飛行機をハイジャックして、乗客全員とパイロットを降ろしたあと、ひとりで機内に残って墜落を待ちながら、ブラックボックスにむかってじぶんの人生を吹き込んだ男の半生だ。破滅を目前にした男の最期の自分語りだ。427 ページ、47 章からはじまって 1 ページ、1 章にむかって遡っていくこの小説はそういう体裁を取っている。

 男の語る半生は以下の通りだ。

 クリード教会では長子のみが家産を相続し、次男以降の男子および他家の長男に嫁げなかった女子は、十七歳になると共同体の外に出される。かれらはそれまでみたこともない、堕落した「外の世界」で富裕層のハウスキーパーとして働き、稼ぎのすべてを教会へ送金する。かれらには出生証明すらない。この異常な制度を密告された教会は FBI の捜査を受ける前に集団自殺した。『サバイバー』の主人公、テンダー・ブランソンはこうして十年前に集団自殺して消滅したカルト教団の生き残りだ。教団は崩壊したが、かれはまだその教えに従って、ハウスキーパーとしての慎ましやかな生活を送っている。

 テンダーのように「外の世界」に取り残されたために死にぞこなったものは多かったが、あとを追って自殺して徐々に数を減らしていった。その上、どうやら、さいきんこうした生き残りを、自殺にみせかけて殺す事件が起こっているようだ。こうしてテンダー・ブランソンはクリード教会最後の生き残りとなった。

 カルト教団最後の生き残りであるテンダーを使って金稼ぎをしようとするエージェントに操られて、テンダーは筋トレし、ステロイドを飲み、髪を染め、予知能力のある少女ファーティリティの手を借りて奇跡を起こす。

 そこに死んだと思っていた兄、アダム・ブランソンが現れて……。

 

 テンダー・ブランソンの人生は常に他人によって決定されてきた。クリード教会の教義、雇い主が定めたスケジュール、テーブルマナー、ケースワーカーが押し付けてくる DSM 診断基準、エージェントによるプロデュース。

 ようするにこれってカルトに洗脳されて自己を失った*1青年が、波乱万丈ひととのかかわりを通じて自分を取り戻そうとするっていう話なんですか? 道具立ては豪華でも、やってることはオールドファッションじゃないですか?

 それに、なにがあったのかしらないけど、けっきょく飛行機をハイジャックして自殺するんでしょ?

 

 わたしもむかしそう読んだ。でもその破滅へ向かう軌跡が美しいのだとおもっていた。再読してみたら、ぜんぜんちがう話だった。ということで以下は人間がいかにあからさまなしかけに気づけないかの実例のひとつ。致命的なネタバレを含むので、未読者はぜったいに以下の記述を読まないこと。

 

*1:おじろく、おばさみたいですね。

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