Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

愛は液体である――『ヨスガノソラ』における概念メタファーについて

0. まえおき

 きょうは『ヨスガノソラ』の春日野穹シナリオについて*1。穹シナリオとはここでは「穹の個別ルートに入る前提で選択肢を選んだばあいの共通パート+穹の個別ルート」を指す。
 主張したいことは単純で、穹シナリオにおいてはある概念メタファーを具体化する表現が何度も出てきて、しかもそれらがとても効果的に用いられているということだ。

1. 概念メタファーについて

 メタファーとはなにかといわれれば

夜は箱庭/あなた方は地の塩である/甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし/精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ

みたいな文学的な表現が浮かぶだろう。夜は箱庭ではないし、あなた方は地の塩ではないし、あたしはかぶとむしではないし、ついでにいえば夜のみだらな鳥が啼く騒然たる森を受け継いでいないが、これをコピュラでつなぐことに意義がある。これらの文学的メタファーは、見た目上の飛躍に驚かされ、同時にその背後にある類似性に気づくことによって、詩的な興趣とともに、表現されるものの本質を鮮やかに描き出す作用がある、と考えられる。
 これらの文学的メタファーは、作家の想像力によるところの大きい、一回限りの、独創的なメタファーである。
 ところがメタファーとはこういった特殊なもののことだけを指すのではない。われわれはメタファーを日常的にも使用している。たとえば、

〆切が迫ってくる/罪を背負う/議論の土台を崩す/時間を浪費する

 〆切は迫ってこないし、罪を背負うことはできないし、議論に土台はないし、時間を浪費することはできない。それでもこれらの表現は成立している。これらの表現はそれぞれ「時間は移動するものである」「罪悪は重荷である」「議論は建築物である」「時間は金銭である」といった、概念メタファーを反映した表現である。
 さて、概念メタファーとはなにか。「起点領域から目標領域への写像(対応関係)」のことである。抽象的なある領域(目標領域=時間)を具体的でわかりやすい領域(起点領域=移動するもの)に関する語彙で表現する構造のことだ。
 たとえば、

試験の日が近づく過ぎ去りし青春の日々/時代が降る/月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり

などの表現はすべて「時間は移動するものである」という概念メタファーを具体化する表現である*2
 概念メタファーはあまりにも日常的かつわれわれの認知の根本的な構造を成しすぎていて*3、冒頭に挙げたような特殊な文学的なメタファーに比べると、作品中で用いられてもなかなか気付きづらく、かつその真価を見出しづらい*4。とはいえ、概念メタファーは起点領域と目標領域のあいだに類似性や共起にもとづく構造的な対応関係を持つので、あることを複数の視点から複合的に表現することができる。なにをいっているのかよくわからないと思うが、以下で実例を示したい。

2. 『ヨスガノソラ』における概念メタファー

2-1.「世間は空である」

 ヨスガノソラに登場する概念メタファーは大きくいってふたつある。わかりやすいのは、「世間は空である」だ。このメタファーは穹が病室で暮らしていたころを回想するシーンで描写されている。
 世間が空になぞらえられるのは、空がどこまでも広がっていて、しかし全人類がおなじ空を共有していることによる。世間はどこまでも広く、しかし、どれだけ距離があろうとも、全人類がおなじ世間に属している。たどっていけばどこかで任意の人間とのあいだにかかわりがある。
 しかし、病院で暮らしていた過去の病弱な穹にとって、空というのは病室の窓で切り取られたわずかな面積しか持たないもので、そこにはお見舞いにくる悠しか存在しなかった。いっぽう、悠にとっての空は上述の一般的な意味での空で、悠の空の下には穹以外の人間も多く住んでいた。このふたりの空の違いを穹が意識してしまうことで、穹は奥木染の人間たちに悠を取られるかもしれないという恐怖を抱く、というのがルート序盤の展開だ。そして、そんな穹が広い空の下に帰って(出て?)いくというのが全体のテーマになっている。
 こっちのメタファーはゲームのタイトルがそのものずばりだし、シナリオライターの太刀風雪路も「どこでもどんな時でも変わらずそこにある空のように、人と人との関係もそうありたい*5」と述べているのでわかりやすい。

2-2.「愛は液体である」

 そもそも日本語では「感情は液体である」という概念メタファーが成立している*6。たとえば、

勇気が湧いてくる/怒りが満ちる/喜びが溢れ出す/心に浮かぶ/気持ちが沈む/感情が凍りつく沸き立つ/はらわたが煮えくり返る

などだ。
 愛も感情であるから、同様に液体にまつわる語彙で語ることができる。

愛を注ぐ/愛に渇く/愛に酔う/愛に溺れる/愛が心を満たす

 さて、空のメタファーが表だとしたら裏のメタファーがこっちだ。「愛は液体である」。穹シナリオがこの概念メタファーに依拠していることを示すために、液体に関する作中の表現を拾ってみよう*7
 まず物語序盤、奥木染に越してきてからしばらくは、悠が穹に対して水分を摂らせる描写が続く。

悠「穹、悪いけど喉乾いたから近くの自販機に行って……」
言い終わる前に、穹は家の中に入って行ってしまった。
悠「あ~、ジュースいらないんだ?」
穹「…………いる。」

悠「ったく……はいはい、三分ほどお待ちください。
ほら、先に牛乳でも飲んでな。」
穹「うん……」
渡したグラスを両手で持ってしばらくぼーっと突っ立っていたが、仕方なさそうに飲み始めた。

悠「あ、お風呂上がったのか?」
穹「…………」
悠「なんか冷たいものでも飲むか? と言っても、牛乳か麦茶くらいしかないけど。」
穹「アイス。」
悠「それは選択肢の中に無いし……じゃ、牛乳な。」
穹「麦茶……氷いっぱい……」
悠「はいはい。」
ちょっと大きめのグラスに、リクエスト通り氷をいっぱい入れて、手作りの麦茶を注いでいく。
氷がグラスにぶつかって、高らかに響く音が心地いい。
悠「ほら、こぼさないようにな。あと、湯冷めしないようにな。」
穹「ハル……いちいちうるさい。」
手渡すと、穹は口を付けずにそのまま部屋に戻って行った。

 なお、これらの描写はすべて共通ルートでのものだ。
 夏だから脱水に気を付けるべきというのを踏まえてもちょっとしつこいくらいで、じゃあこの描写になんの意味があるかというと、とうぜんそれは悠の過保護具合を表わすのがだいいちだ。悠は穹のことを気にかけているし、そのことを明示的に表わしてもいる。
 にもかかわらず、穹は渇いている。

麦茶とか作ったり、適当に何か買ってきておいても、穹がいつの間にか飲み尽くしてることは多い。

 のだ。穹はそのような種類の愛、ようするに家族愛や友人に対する愛では物足りないと思っている。
 学校に通い始めると、瑛や奈緒をはじめとする校友と悠がすでに交流を深めている様子をみて、穹は不安を覚える。

ハルは……仕方なく私といるのかな…………
朝礼台の上に置かれた、彼女の紙パックのジュース。
あっという間に汗をかいて、垂れた水滴は鉄板の上ですぐに乾いていった。
こんな感じで、いつか私も消えて無くなっちゃうのだろうか。
穹「…………」
紙パックを手に取り、ストローから一口すする。
渇いて張り付いていた喉が、潤されていく。
喉を通るジュースは、瞬間……喉の渇きを癒してくれるけど、すぐに、それだけじゃ物足りなくなる。
ほんの少しだけ喉に入ったジュースは、もっともっと水分を欲しがっていた体を目覚めさせてしまった。
穹「…………」
私も、同じ。
満たされない気持ちは、もう……それを満たすだけの何かが無ければ、埋まるものじゃない。
そして……飲んでも飲んでも物足りない……私の求める気持ちは、永遠に満たされない気がした。

 渇きを自覚した穹は、居場所を確保するために振る舞いを改めようとする。

まだある……私の居場所。
だから、私は……
見てるだけじゃダメ……
ハルが進む道を後ろからついて行くだけでも……ダメ。
私が、先に進んで……振り返るくらいじゃないと。

 こうして穹は家事を手伝うようになる。受け取るだけでなく、与えることを意図するようになるのだ。この変化に呼応するように、悠から穹に対して飲み物を与える描写はなくなり、ぎゃくに穹が悠に、、、、飲み物を与えるシーンが描写されるようになる。

穹「………あ、もう上がったの? 冷たいもの、飲む?」
風呂上り、冷たいものでも飲もうとキッチンに入ると、穹が待っていた。
悠「あ、うん。」
氷を入れたグラスに麦茶を注いで……僕に手渡してくる。
悠「ありがと……」
穹「…………」
僕が麦茶を飲む姿を、じっと見つめ続ける穹。
気になって、なんか飲みづらい。
グラスをあおって飲み干す最後の最後まで、穹の視線は僕から離れなかった。

 兄妹でたがいに愛を注ぎ合うようになったのならいいことではないか――とはならない。悠は穹を守らなければならないという思いが強く、穹に愛してもらおう、助けてもらおうという発想自体がない。そして、穹の愛は排他的で、性的なもので、兄である悠はすぐにそれを受け入れることができない(「なんか飲みづらい」)。
 だから悠は泳げない。ほかのヒロインのルートでもしつこいくらい描写されたように、このルートでも悠はプールで溺れかける。海には腰までしか浸かることができない。かれは水=愛のなかに、無傷のまま飛び込むことができないのだ。
 それでも穹は愛を注ぎ続ける。いまや兄を頼ることしかできない穹の見捨てられ不安に気づかされた悠はそれを受け入れたくなってしまう。穹が自慰をしているところをみた悠は、

穹の求めに応じたい。
愛し合いたい………
二人で情欲に溺れたい。

と反応してしまう。こうしてふたりの水が混ざり合う。悠は愛に溺れていく。
 だが、この関係が不安定なことに悠は気づいている。「アイスに二本の棒が刺さり、真ん中で二つに分けられるタイプの物」「二つで一つ……僕たちのようなイメージのもの」を食べながら歩くふたりのうしろに、溶けたアイスがこぼれていく。

穹「アイス、溶けちゃってる。」
悠「あ……ホントだ………」
気づくと、手に持ったアイスは半分くらいになっていた。
アイスの角から滴り落ちた溶けたアイスが、地面に点々と黒い染みを作っていた。

 愛はお互いを満たすことなく、器から漏れてこぼれてしまっている。

 また、共依存的な愛は悠の渇きを真に癒すことはできない。

穹は、微笑みながら僕の前にカフェオレを置いた。
悠「ありがと。」
口にしたカフェオレはぬるかった。
飲みやすかったけれども……喉を通る生ぬるさは、どこか不快な鬱陶しさを感じさせた。

 やがて、奈緒と梢に情事のあとをみられてしまうことで、悠はこの関係を続けていくことは不可能だと悟る。もとの関係に戻ろうと告げられた穹は混乱し、家を出て湖に向かう。

3. 洪水型兄妹始祖神話

 湖とはなんであったか。穹は夏祭りの禊のときに瑛からこんな話を聞いている。

瑛「この湖は、始まりの場所って言われてて、ここから人が生まれたって言われてるの。
それで、死ぬ前にここに戻ると、もう一度生まれ変わって、後悔していた人生をやり直せるんだって。」
穹「…………」
瑛「生まれ変わったら、今度こそ上手く出来たりするのかな?」

 穹への愛と社会の目のあいだで二律背反に陥って、それでも穹を守ろうと苦しむ悠を、苦しみから解放しようとして、穹は湖のなかに進んでいく。悠は泳げないから着いてこられないと考えてのことだった。
 それでも悠は恐怖心をこらえ、穹を追って湖に入っていく。ふたりは水のなかでもがき、溺れかけ、悠もいっときはあきらめて、穹を道連れにしてふたりで楽になろうとする。
 しかし、さいごのさいご、意識を失う寸前に、悠は「助けて」といった。穹はこれに応え、悠を陸に引き上げる。これまでいちども助けを求めなかった悠が、穹に助けを求めたことで、ようやくふたりは対等な関係として先に進んでいくことができるようになる。

 ところで、「大雨や洪水などの水害から生き残った兄妹が結婚する」という神話の類型がある。洪水型兄妹始祖神話といって、沖縄県、中国西南部、台湾、インドシナ半島、インドネシア、ポリネシア諸島などに伝わっている。洪水神話も兄妹の近親相姦が人類の始祖となる兄妹始祖神話も世界各地に残されているが、そのふたつが融合した洪水型兄妹始祖神話はいったいどのような含意を持つのであろうか。
 どうしてこのふたつが結びついたのかという問いに、歴史的にあるいは因果関係を示して答えることはもちろんできないが、こうして成立した神話をひとびとがどのように解釈するかなら答えられる。兄妹婚は、洪水から生還して、もはや人口の再生産が可能なメンバーが兄妹しか残っていなかったというような特殊な事情がなければ許されないというのがひとつ。洪水は神から人類に対する罰であるが、同時に水は罪の清めと再生のイメージを伴うというのがふたつめ。
 悠と穹のたどった経緯をすべて洪水型兄妹始祖神話になぞらえることはできないが、その主要なイメージ――水害からの生還によって清められた兄妹の結びつき*8――が共通することは明らかだろう。

4. 結論

 ヨスガノソラの穹シナリオにおいて「愛は液体である」という概念メタファーが用いられていることは示せたと思う。ところで、「愛は液体である」という概念メタファーは愛について唯一のものでもなければ、支配的な発想でもない。たとえば、

  • 愛は火である
    • 燃え盛る愛/恋焦がれる/俺に惚れるとやけどするぜ
  • 愛は壊れやすいものである
    • ガラスの愛/ふたりの愛にひびが入る/静かに。愛は静寂のうちに割れてしまうクリスタル
  • 愛は病である
    • 恋に病む/恋煩い/恋は盲目

などの概念メタファーが日本語話者のなかには存在するだろう*9
 そんななかで、なぜ「愛は液体である」というメタファーが採用されたのか? それは、悠と穹のたどった道のりがまさにこのメタファーによってうまく表現されるからである。
 ふたりはお互いに愛/水を注ぎあう。愛/水は渇きを癒す。愛/水は生きていくのに必要不可欠であるが、うまく受け止められなければ心/器からこぼれてしまう。そうして溢れ出した愛/水はひとを溺れさせる。愛/水は混ざり合う。そして、愛/水は罪を清める。穹シナリオはおおまかにいってこういう流れだった。この経緯を表現するのに最適なメタファーは、火でもなく、壊れものでもなく、病でもない。この物語は、どうしたって液体という表象のもとに描かれなければならなかったストーリーなのだ。
 というよりも――創作者の頭のなかでは、ストーリーがまずあってそれにみあうメタファーを探してくるのではない。おそらくシナリオライターのなかでは、液体のメタファーとどうじにストーリーが形作られたのだろう。この並行関係が理想的に遂行されていて、「愛は液体である」という概念メタファーのもとでおよそ可能な表現がどこまでも追究されているという意味で、わたしはこのシナリオを美しいと思う。

 ちなみに、去年発売された穹の ASMR には「帰り道にとつぜん雨に降られたふたりがいっしょにお風呂に入る」というチャプターがあって、愛は液体であるという概念メタファーは発売から 15 年たったいまでも有効であることが確認できる。愛が液体であるならば、温かい愛/水に全身で浸かるお風呂がその理想形である。ふたりがいまでも仲良しみたいで安心するね。

*1:さいきんは読んだ本や遊んだゲームについてこっちのブログで報告していて、感想とかほかのルートの話とかはいずれこっちで書きます。

*2:ついでに罪悪議論時間についてもやってみると「罪の意識に押しつぶされる」「罪を肩代わりする」、「立論を支える」「強固な論理の枠組み」、「隙を稼ぐ」「時間を節約する」などとなる。みんなもわれわれの日常言語に潜む概念メタファーを探してみよう!

*3:G. レイコフ、M. ジョンソン著、渡部昇一、楠瀬淳三、下谷和幸訳『レトリックと人生』(大修館書店、1986 年)

*4:というか、文学的メタファーは(まだ)一般化していない特殊な概念メタファーといえるかもしれない。

*5:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B9%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%82%BD%E3%83%A9

*6:また、「心はその器である」。

*7:ノベルゲームからの引用って(ページ数とかないから)どこから引用したのかわかりづらくて恐縮だが、出てきた順である。

*8:命が助かった直後にセックスするのも初見では驚いたが、水害のあとにくるのが兄妹婚であることは神話の構造上避けられないのだと考えるとしっくりくる。

*9:愛はゲームである愛は栄養であるなど、枚挙にいとまはない。