Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

入間人間の手口はほんとうにわかってきたのか?

saize-lw.hatenablog.com


 興味を惹かれるタイトルだったのでこの記事を読みました。なるほど、というとこもあり、うーん?というとこもあり。以下読んで思いついたことを書きます。

 LW さんの主張は大まかに以下の通りです。
 
1. 小説には「対立」が必要である。
2. 対立を表現するために同一の事象に対する異なる視点からの主観的な評価が描写される必要がある。
3. 2. を実現するために(地の文は?)「回りくどい表現」を採用する必要がある。

 興味深いとは思いつつあまりうなずけない点もあります。

対立のない小説も存在する。

 クリーランド本が対象とするジャンルは「格の低い娯楽小説」であり、クリーランドが主張するのは「格の低い娯楽小説では」対立が必要とされる、ということです。
 いっぽう LW さんは「小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出できる理由」を求めているので、クリーランド本を論拠に用いたせいで、説明できる範囲が狭まってしまっています。(そもそも小説に「本質的な特徴」が存在するという前提自体がわたしにとってはかなり疑わしいですが*1。)そして、対立が存在しない小説においても回りくどい表現は頻繁に用いられています。

主観的でない地の文もある。

 いわゆる一人称の地の文((等質物語世界的な語り)や、内的焦点化された地の文であればその回りくどい表現が「主観的な認識の歪み*2」を反映している(こともある)と考えて差し支えないでしょう。
 しかし、異質物語世界的で非焦点的な、あるいは外的焦点化された語りについては主観が存在しないので、したがってその認識の歪みも存在しません。にもかかわらずこうした語りが回りくどい表現を用いることは多々あります。
「夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」(ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』)は、だれの主観的な認識の歪みを反映した文章なのでしょうか? 夜の空気が甘かったのは「彼」にとってかもしれませんが、夜を「若い」と表現したのは「彼」ではありません。

主観性そのものは対立の表現に直接寄与してはいない

 対立を効果的に表現するのが回りくどい表現のもっぱらの目的であれば、二種類以上の視点から同一の事象を評価したものが並立されたほうがよいです。そういわけで、記事中では

保守的な語り手が「未開人が掲げる松明のように燃える赤い瞳」という比喩を使い、リベラルな語り手は「闇深き海を照らす灯台のように燃える赤い瞳」という比喩を使ったらどうか。

と例示されていますが、実作のなかでこのように同一の事物を別々の登場人物がそれぞれに表現することはほとんどありません。
 また、主観的な表現のすべてが対立を強調するためにあるわけではないでしょう。殴打されて死亡した被害者の頭部をほおずきに例えたとしたら、それは回りくどくて曖昧で主観的な表現でしょうが、これは主人公や視点人物が関与しているなんらの対立を表現するものでもありません。
 ところでこのことには LW さんも

地の文が示す主観的な認識が必ずしも全て対立にはっきり繋がっている必要はないだろう。

として言及されていますが、

しかし対立の根底には認識のドクサがあることを考慮するならば、依然として可能な限り語り手の認識を提示しておくことが望ましい。

 というのはよく意味がわかりません。主観的な認識の差異が対立を生む(対立が主観的な認識の差異を生むこともあると思いますが)というのはよいとしても、対立に直接かかわらない場所で視点人物の主観的な認識が対立構造とは無関係に示されることの意義を、登場人物の主観性を強調することで対立構造を描くことの説得力を増しているというように解釈しなければいけない積極的な理由はないと思います。小説のあらゆる要素を対立構造の表現のためにあるものとして位置づけるモチベーションが理解できません。

 思うに、クリーランド本の「対立が重要である(ような小説のジャンルがある)」という論点と、「回りくどい表現は語り手の主観的な認識の歪みを反映している(こともある)」という認識はそれぞれ個別には大筋で間違っているわけではないでしょう。が、それを必然的なつながりで結びつける必然的な理由はありません。というわけで、この記事が「小説が持つ本質的な特徴から演繹的に導出」することには失敗しているとみなさざるを得ません。

"入間人間の" 手口はわかっていない。

 主観的な認識の歪みを表現するためのものとしての回りくどい表現の存在を認めたうえで*3、その「回りくどい表現」をどのように実装するかに作家性が出るでしょう。
 しかし、LW さんが後半で挙げている入間人間の技法はどれも入間人間に特徴的なものではありません。
入間人間の手口」というためには少なくとも当該手口が
a) 入間人間が頻繁に用いている
b) 入間人間以外の作家はあまり用いていない*4
c) その手口をもって読者は入間人間入間人間性を観取する。
三条件を満たしている必要があります。
 ところで a) を示すのはある程度かんたんですが、b) を示すのはあまりかんたんではありません。同時代、同ジャンルとかてきとうに範囲を定めてサンプルを選んで定量的に調査するのがいちばんですが、なかなか本職の研究者でもこれをやっているのはみたことがありません(それこそこういう研究手法は理系的なバックグラウンドがあるひとに期待したいことですが)。
 次善として、「いろいろ読んできたけどこの手口=表現技法はこの作家に特徴的だ(と思う)」という主観に訴えるという方法があるでしょう。こうして抽出された表現技法がたしかにあまり見覚えがなく、そのために独創的に感じられるものであったり、その作家を読んだときの特有のかんじをうまく説明しているように感じられたりすればこの説明は説得力を持つでしょう。また、主張者の属性(典型的には、関連するジャンルの本を大量に読んでいると想定される大学教授だったりするとよい)にも左右されるでしょう。わたしは 2011 年くらいまでの入間人間の小説はほぼすべて読んでいますが*5、あまり説得されませんでした。LW さんの挙げる諸技法はどれもふつうの良心的な小説家であればふつうに用いるふつうに優れた技法であるように思えます(とはいえこうした技法の分析自体はとても面白くて興味深いのですが)。「例示したような認識が後々どのような対立に繋がっていくのか」について確認すればあるいはその独創性、入間人間に特有のなにかが判明するのかもしれませんが、『私の初恋相手がキスしてた』は未読なのでなんともいえません。すみません。

ではお前はどのように考えているのか?

 わかりません。すくなくともわたしは小説が「回りくどい表現」をすることに単一の「本質的な」理由、原因があるとはあまり考えていません(いまのところ)。小説家が即物的でない表現をする理由、原因は、おそらく複数の関連のない美的な要請のゆるやかな複合です。そのうちの主要な部分として、主観的な認識の歪みを表現するため、というのはもちろんあるでしょう。
 しかし、その他にも、
・詩的な驚きを与えるため
・登場人物の持つ情報の制約によるため
・解釈の余地を残すため
といった要因、動機が考えられるでしょう。ほかにもまだまだいっぱいあることだろうと思います。すくなくともわたしにとって小説の文体論は「正体見たり」といえる段階にはありません。

 ところで小説の文体についての認知言語学的な分析ではさいきん出た
山梨正明『小説の描写と技巧 言葉への認知的アプローチ』(ひつじ書房
小説の描写と技巧—言葉への認知的アプローチ
(のとくに前半部分)が参考になりました。さいきん読みました。認知言語学的な説明がただちに美的な価値へ寄与するわけではない(その橋渡しはまたべつの美学者の仕事になるでしょう)というのは注意が必要ですけれども。

「回りくどい表現」=「曖昧で主観的な表現」を、作中の事実に即して論理的に、即物的に、簡潔に表現すればいいところを、特定の目的から敢えて、わざわざそうしている、と捉えるのではなく、人間の認知はそもそも曖昧で主観的であり、発話、文章には意味や評価が語用論的に付与されているのが常態であって、むしろ〝簡潔な〟表現のほうが認識を再構成するなどして「わざわざ」書かれる(べき)ものである、というのがわたしの(上掲書を踏まえた)直観です。

 以上です。総じていいたいことは、主観的な表現は対立を表現するためだけにあるわけではないということに尽きます。もちろんこのことは対立を表現するために主観的な表現を活用することがよい手法であるということを妨げませんが、それでも、文章表現の主観性の方が対立よりも強くかつ広い概念なのであって、主観性を対立の表現のために使うことはあっても、対立の表現のためにもっぱら主観性があるというのはおかしな話ではないかと思います。主観的な表現の技法(手口)がセンスではなく技術であるという点については、センスと技術の差がよくわからなかったのでコメントを差し控えますが、技術を習得可能、再現可能なものであるという意味で捉えるのなら、まさにそうであり、そうであるべきだと思います。

 ほんとうはじゃあ入間人間にこそ特徴的な表現上の技法ってあるのかな、というのもちょっと気になりましたが(入間人間の文体は特徴的だと思うのでなにかしらあるとは思います)、さいきん(ここ十年くらい)かれの小説を読んでいないという負い目もあってこれはちょっと宿題にしたいと思います。『私の初恋相手がキスしてた』って面白いんですかね。とりあえず買ってみようと思います。

*1:フィルムアート社からよく出ている映画の脚本指南や創作いっぱんの指南本では「あらゆる小説は主人公の葛藤を軸にしている」とか「対立がストーリーを駆動する」とかいって、たとえばユリシーズみたいな名作文学もこの枠組みにしたがっているのだ、みたいなことをいいますが、あれらはすべて商業的な動機による大げさな牽強付会であって、真に受けるべきではないでしょう。かれらは自説の反例になるような作例を探さないか、無視するか、解釈を歪めます。

*2:この「歪み」という用語法自体にも疑義が残ります。「対立」に主眼を置くのであれば主観性は「歪み」とも表現すべきものになるでしょうが、主観的な視点はそれ自体歪んでいるわけではありません。

*3:わたしはこれを小説が本質的に備えている対立構造をもっぱら表現するためのものであるとは認めませんが。

*4:あるいは用いていたとしてもそれは入間人間の影響のもと用いられたものであると考えられる。

*5:多摩湖さんと黄鶏くん』が好きです。