Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

ちくま文庫の『マッカラーズ短篇集』について

 

 

 ちくま文庫から『マッカラーズ短篇集』がでました。

 これがどういう本かというと、「編訳者解説」によれば

本書はカーソン・マッカラーズ『悲しき酒場の唄』(西田実訳、白水 U ブックス)を元にした短編集である。西田訳には表題作と「騎手」、「家庭の事情」、「木、石、雲」の三つの短編が収録されていたが、文庫化に際して、底本の作品集に掲載された残り三つの短編「天才少女」、「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」、「渡り者」と、底本には未収録の初期の短編「そういうことなら」を、編訳者であるハーンが訳出した。

ものだそうです。

 ところで、白水 U ブックスから出ている西田訳の『悲しき酒場の唄』(1992 年)というのは、同じく西田訳で「白水社 世界の文学」の一冊として出た単行本の『悲しき酒場の唄/騎手』(1982 年。90 年に東京ブックフェアを記念して装丁を変えて復刊しています*1)が元になっています。そして、単行本の『悲しき酒場の唄/騎手』には「天才少女」も「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」も「渡り者(西田訳では「旅人」)」もきちんと訳されています。U ブックス化するときに収録作を削ったということですね。

 なのになんで白水 U ブックスを元にしてこんかいのちくま文庫化は計画されたのでしょう。著作権とか版権の事情とかもある?んでしょうからそのへんはよくわかりませんが、それにしたってこの「解説」はちょっと不親切なきがします。どうして既訳の存在に触れないんでしょう。

 ともあれ、「天才少女」をふくむ三篇は新訳ということです。新訳であるからには旧訳よりも優れたもの、あるいは別の観点からの翻訳がなされていることをやっぱり期待してしまいます。というわけでハーン訳の「天才少女」をよみはじめました。

 一ページめから首をひねってしまいました。なんだか違和感があります。

 

 冬用のストッキングを穿いた脚にかばんがぽん、、、とぶつかる音をさせながら、片腕に学校の教科書を抱え込んで、彼女は今に入ってきた。少しの間そこで立ち止まると、スタジオの音に聞き入った。するとビルダーバッハ先生が、野太く喉にかかる声で呼びかけた。(179 頁)

「聞き入った」と「するとビルダーバッハ先生……」の間に訳し漏れがあります。A soft procession of piano chords and the tuning of a violin. と入るはずです。

 

ビーンヘェンみつばちさん、きみかい?」

 ラフコヴィッツ先生が話しているのが聞こえた――(後略)(179 頁)

 Bienchen はドイツ語でミツバチを意味する Biene に縮小辞の chen が付いたもの。ドイツ語の ch は無声硬口蓋摩擦音、つまり日本語の「ひ」の子音ですので、*2Bienchen はふつう移すとしたら「ビーンヒェン」でしょう。じっさい西田訳でも「ビーンヒェン」です。

 また、「~きみかい?」と「ラフコヴィッツ先生が~」のあいだに訳し漏れがあります。以下の文章が抜けています。

   As she jerked off her mittens she saw that her fingers were twitching to the motions of the fugue she had practiced that morning. "Yes," she answered. "It's me;"

   "I," the voice corrected. "Just a moment."

(西田訳では

「手袋をひっぱって脱ぎながら見ると、手の指が、その日の午前中練習していた遁走曲の動きに合わせるようにピクピクふるえていた。「はい」彼女は答えた。「あたしです」

「わたし」と先生は直した。「ちょっとお待ち」)

 

 そしてまた手を眺めた――(179 頁)

 さきほど訳し漏れた文章のせいで、「また、、手を眺めた」の意味が分からなくなっています。

 

 1 頁でこれだけ訳し漏れとかがあるとさすがに驚いてしまって、そのあとはなんとなく原著と既訳をみながら読むことになりました。結論からいうとこのあとはそんなに大きな訳し漏れとか大胆な誤訳があるわけではなかったのでまぁ安心したのですが、とはいえ気になる点はままありました。以下は読んでる間に取った時系列順のメモなので、とくに重要でない指摘も多く混ざっています。

 

(ハーン)今日は眼をぱっちりと見開いて、襟元から垂れたリネンのハンカチとのコントラストで、眼の色がいっそう暗く見えた。(182 頁)

(原文)His eyes were sharp bright slits today and the linen handkerchief that flowed down from his collar darkened the shadows beneath them.

(西田)今日の先生の目は細く鋭く光り、襟から垂らした麻のハンカチのせいで、目の下の隈がいっそう黒っぽく見えた。

   "sharp bright 'slits' " ですから、「ぱっちりと見開いて」よりは「細く鋭く光り(西田訳)」のほうがよいです。「眼の色がいっそう暗く見えた」も "shadows beneath them (= eyes)" ですから shadows は目の下の隈と取りたいです。

 

「ハイムの写真を見たかい?」(183 頁)

   Haime は「ハイメ」でいいでしょう。

 

 ビルダーバッハ先生に、ハイム、ラフコヴィッツ先生の顔。(185 頁)

 原文は "Mister Bilderbach, Mrs. Bilderbach, Heime, Mister Lafkowitz."
 Mrs. Bilderbach が抜けています。

 

 頭のなかで音楽がはっきりと鳴り響き、ちょっとした記憶が素早く正確なかたちで戻ってきた――ふたりのジョイント・コンサートが終わった後でハイムが彼女にくれた、なよなよした「無垢の時代」(十八世紀後半にサー・ジョシュア・レノルズが描いた小さな少女の肖像画で、無垢な子ども時代のイメージとして複製されて広まり、イーディス・ウォートンの同名小説のタイトルにも使われた)の絵なんかも、まざまざとよみがえってきたくらいだ。(186 頁)

 西田訳では "Age of Innocence" が「純真だったころ」と訳されてしまっていますので絵画とウォートンへのアリュージョンを訳注に入れたのは新訳の強みかと思います。でも "quick, precise little memories would come back – clear as the sissy "Age of Innocence" picture..." の as の取り方はちょっとよくわからない。「無垢の時代」の絵の "ように" はっきりと記憶が戻ってきた、でよいのでは。

 

(ハーン)十二歳の娘が二度の和音をつくるために指でいくつもの鍵盤を押さえられるかなんてことには――なんの意味もない。(187 頁)

(原文)If a twelve-year-old girl's fingers cover so many keys to a second – that means nothing.

 たしかに二度の和音のことを interval of a second とか、単に second とかいうことはあるけれども、二度の和音というのはピアノでいうと隣接する二鍵盤で、二度の和音をつくるために「いくつもの鍵盤を押さえ」るというのはよくわからない。主人公がここで弾いているのはハンガリー狂詩曲の第二番で、二度の和音はぜんぜん使われていない。この曲後半のフリスカの部分はオクターブや連打でとても運動量が多いので、「一秒にいくつ鍵を打てたからといって――そんなことはなんの意味もないのだ(西田訳)」でよいと思う。

 

(ハーン)どうして彼女よりハイムの方がコンサートでずっとうまくやれたんだろう。ときどき学校で、誰かが黒板の前で幾何の問題をやらされているのを見ていると、その問いが彼女のなかにナイフみたいにねじこまれた。(191 頁)

(原文)Why was it Heime had done so much better at the concert than she? At school sometimes, when she was supposed to be watching someone do a geometry problem on the blackboard, the question would twist knife-like inside her.

(西田)なぜ演奏会でハイメのほうがあたしよりあんなにうまくできたのだろう? ときどき学校で、だれかが黒板で幾何の問題を解くのを見ていなければいけないときに、その疑問がナイフのように彼女の心のなかをえぐるのだった。

(when she was supposed to be の解釈はともかく、)気になったのは一文目の疑問文。これは彼女の心をナイフのようにえぐったという the question の内容で、いわゆる自由間接話法とか描出話法といわれるもの。日本語に訳すときは直接話法で訳してからカギカッコを外すという手法が一般的に用いられてきました(西田訳みたいなかんじです)が、いまの流行りはよくわかりません。

 

(ハーン)曲が終わると彼女はピアノから立ちあがり、息を飲んで演奏中にきつくなった喉と胸のまわりの襟をゆるめようとした。(192 頁)

(原文)She stood up from the piano when it was over, swallowing to loosen the bands that the music seemed to have drawn around her throat and chest. 

(西田)演奏が終わると彼女はピアノから立ち上がり、唾を飲みこんで、その曲が彼女の喉や胸を締めつけていたベルトのようなものを緩めようとした。

 喉はともかく胸のまわりの「襟」とは……?

 

(ハーン)その次の日曜の午後のレッスンの後、(194 頁)

(原文)The next Saturday afternoon,

 まぁこういうのはよくある。わたしも数字を訳し間違えてひとに指摘されたことある。ただまぁ練習は火曜の放課後と土曜の午後ってこの前に書いてありますので……。

 

(ハーン)遅くなってきて、空気には冬のほの青い黄昏の色が染み込んでいた。(196 頁)

(原文)It was growing late and the air was seeped with the pale yellow of winter twilight.

 青と黄色を間違えたり、まぁこういうのはよくある(2)。でも編集が気づいてほしい。

 

 ほかにも instep は中敷きじゃなくて靴の甲まわりじゃないかなとかまぁいろいろありましたがそれはさておき。

 

 

 いろいろ書いてしまいましたがもちろんわたしの読み方が間違っていることもあると思いますし、そもそもこの程度であればいわゆる文芸翻訳としては標準的なものだと思いますので、とくにこの文庫を買うべきではない!とか主張するわけではないですが、にしても「なぜ U ブックスを原本にしたのだろう」「底本をきちんと全訳している単行本版について触れないのだろう」という疑問があって、ついこのような記事を書いてしまいました。じっさいツイッター上でも「U ブックスでは未訳、未収録だった三篇を入れた完全版が出てうれしい」みたいなことをいってるひとが何人かいて、なんだか西田がかわいそうと思った次第です。

 上に挙げた疑問点のいくつかは既訳を参照すれば明らかに避けられたもので、そもそも単行本版を参照していないのかも、とも思いました。学術翻訳とかならともかく文芸翻訳でどの程度既訳を参照する風習があるのか、義務があるのかはよくしらないです。

 

 以上です。あとこの文庫版については「米国の女流小説家によるクィア小説の傑作」と帯に書いてあって、「クィア小説」なのに「女流」がどうのみたいなカテゴライズするんだ、と驚いてしまいましたが、これについては編訳のハーンが機会があり次第修正するようお願いした、とおっしゃっていたので、やっぱりおかしいことだったんだな、と思いました。あと西田の既訳をヤード・ポンド法からメートル法に直してるらしくて、まぁいまどきは文芸翻訳もそういうもんなのかなぁと思いましたが、「三マイル」と「五キロ」はやっぱりちがう距離なんじゃないかなと感じました*3

 

 マッカラーズの小説自体はとても素晴らしいものなのでどうあれ多くの人が読んでくれるとよいことだと思います。

 

*1:わたしが持ってるのはこの復刊されたやつ。

*2:a, o, u, au に後続する場合を除く。

*3:これは「厳密にいえば 3 マイルというのは 4.8 キロメートルちょっとだから……とかそういうことがいいたいのではありません。たとえば、中距離走選手の活躍を描いた小説で「五〇〇〇メートルの距離はかれにとって……」みたいな文章があったときに、これをかってに「五キロメートル」とすることはできないでしょう。数的にまったく同一の距離でも、表現が違えば違う距離になります。Sinn と Bedeutung というか。というようなことを考えると、わたしはわかりやすさのためにマイルをメートルに翻訳するとかそういうのはあんまりしたくない派です。それをいうと翻訳という行為じたいがあんまりよろしくない行為であるというのはそうなんですが……。