Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

世界の終りの終り――叔父の遺産、南極への旅

 

 以下は Jonathan Franzen "The End of the End of the World" の全訳である。

 

 ジョナサン・フランゼン Jonathan Franzen は現代アメリカ最高の作家のひとりで、代表作である『コレクションズ』をはじめ複数の作品が日本語に翻訳されている。家族の悲劇と現代アメリカの病巣についての骨太(すぎる)作風で人気を博している*1

 そんなフランゼンはプライベートでは無類の鳥類愛好家として知られる。書くエッセイにもよく鳥類の話がでてきて*2、そのせいで読者に「鳥の話が細かすぎる」「いまなんの鳥の話をしているのかわからなくなってしまった」「鳥の話が多すぎる」として批判されることも多い。しかし、そんなかれが鳥の話(かれの得意ジャンルだが読者の得意ジャンルではない)と人生の話(かれの得意ジャンルであり、たいていの読者にとっても得意ジャンル)を交差させて書いたエッセイの傑作がこれ。アメリカ人もこのエッセイが収録されてる本のなかでこれだけは気に入った、みたいなことをいってるひとが多いみたい。

 

 

 二年前、インディアナ州にいる弁護士が七八〇〇〇ドルの小切手を送ってきた。六か月前に死んだ叔父のウォルトからの金だった。ウォルトから金をもらえるとは期待していなかったし、ましてやそれを当てにしていたということもなかった。というわけで、私はこの遺産をなにか特別なことに使うべきだと思った。ウォルトの記憶を記念するために。

 たまたま、私の長年のガールフレンド(生粋のカリフォルニア人だ)が、私と長い休暇を過ごす約束をしていた。サンタクルーズに戻って、九四歳で短期記憶を失いつつある母親の面倒をみなければいけないということに私が理解を示したので、私に恩を感じていたのだ。彼女はつい「世界中どこでも、あなたがいつも行きたがっていた場所にいっしょに行きましょう」といってしまっていた。それに対して私は、なぜか 「じゃあ、南極は?」と答えた。彼女が目をみひらいたのにもっと注意を払うべきだったのかもしれない。しかし、約束は約束だ。

 温和な私のカリフォルニア人に南極をもっとお気に召してもらえるように、私は叔父の遺産を使って、リンドブラッド社でもっとも豪華な、三週間のナショナル・ジオグラフィック遠征を予約した。南極とサウスジョージア島フォークランド諸島を探検するものだ。私は手付金を払い、カリフォルニア人と私は、彼女が身を委ねることを肯った厳しい寒さと、波うねる南極の海について、その話題になるたびに不安げに冗談をいいあった。私は、ペンギンをみたらこの旅をしてよかったと思うに違いないと彼女を励まし続けた。しかし、いざ残額を払う段になると、彼女が一年延期することを申し出た。母親の容態が不安定で、取り返しがつかないほど家から遠く離れるのを渋っていたのだ。

 その点、南極を第一候補に挙げた理由を私に否応なく思い出させるせいで、私もこの旅に対して漠然とした嫌悪感を募らせつつあった。「溶ける前にみておこう」という発想は、陰気で自己否定的なものだ――溶けるまで待って、旅行先候補リストから消してしまえばいいではないか。私は第七大陸の、普通の旅行者が足を踏み入れるには遠すぎ、高すぎるという、トロフィーめいた肩書にもうんざりしていた。たしかに、ペンギンだけでなく、サヤハシチドリや、世界最南端で繁殖する鳴禽類であるサウスジョージアタヒバリなど、風変わりでめずらしい鳥をみることはできる。とはいえ、南極に生息する種の数は少なかったし、私はすでに世界中のすべての鳥をみることは叶わないとみずからにいいきかせていた。

 南極に行く最大の理由は、それがカリフォルニア人と私がもっともしそうにないことだったからだ――私たちの理想の逃避行は三日しか続かないとすでに私たちは学んでいた。私と彼女が、海の上で逃げ場なしに三週間いっしょいたとしたら、私たちはみずからのうちに新しい能力を見出すのではないかと思ったのだ。私たちがそこで一緒にすることを、残りの人生でもいっしょにすることになるのだろうと*3

 そういうわけで私は一年の延期に同意した。サンタクルーズに引っ越しもした。そのころカリフォルニア人の母親が転倒事故を起こしたのが気がかりとなって、カリフォルニア人は彼女をひとりで残していくことをさらに懸念するようになっていた。これ以上彼女の人生をややこしくするのは私の仕事ではないとついにわきまえて、私は彼女を旅行から排除した。幸運にも、兄のトムが(ほかに三週間をちいさな船室で共に過ごせそうな人間となるとかれくらいしか思いつかなかったのだが)ちょうど引退していたので、彼女の位置を占めることになった。私は予約していたクイーンサイズのベッドをツインに変更し、絶縁のゴム長靴と、豊富な図版を掲載した南極の野生図鑑を注文した。

 しかし、出発の日が近づいても、私は南極に行くのだ、という気分にはならなかった。私は「私は南極に行くらしい」といいつづけていた。トムは興奮していると伝えてきたが、私じしんの非現実的な感覚、楽しみに満ちた期待を抱きそこなったという感覚は強くなるいっぽうだった。きっとそれは、南極が私に死――地球温暖化によって脅かされる生態学的な死を、あるいは、私の死によって代表されるような、いつまでそれをみられるか、というデッドラインを思い起こさせるからだった*4。しかし、朝には彼女の顔をみて、夕方に彼女が母親のところから帰ってくるときのガレージのドアの音を聞くという、カリフォルニア人との生活のいつものリズムを、私は痛切にありがたく感じるようになった。スーツケースに荷物を詰めるときには、まるで支払ったお金のいいなりになっているような気がした。

 

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 一九七六年八月、セントルイスのある夕べのこと、涼しかったので私と両親はポーチで夕食を取っていたのだが、キッチンで鳴った電話を母親が取り、それからすぐ父親を喚んだ。「イルマからよ」、と彼女はいった。イルマというのは父の妹で、ウォルトといっしょにデラウェア州のドーヴァーに住んでいた。なにか悪いことが起きたのは明らかだった。なぜなら、私はそのときキッチンにいて、母親の近くにいたので覚えているのだが、父がイルマの話を遮って、電話越しに、まるで怒っているかのように大声を出したのだ。「イルマ、なんてことだ――彼女は死んだのか?

 イルマとウェルトは私の名付け親だったが、かれらのことはよく知らなかった。私の母はイルマにがまんならなかったようだ――イルマが両親に甘やかされてきて、そのことで私の父が割を食っていたと母は主張していた――が、ウォルトはふたりのなかではまだマシに思えた。ウォルトは退役空軍大佐で、高校の進路カウンセラーになったが、私はかれのことを主にかれが送ってきた自費出版本のゴルフ技術本、『折衷的ゴルフ』の著者として記憶していた。私はなんでも読むたちなので、これも読んだ。私がもっとよくみていた人物は、ウォルトとイルマの一人娘、ゲイルだった。彼女は背が高くて可愛く、冒険心に満ちた女性で、ミズーリ州の大学を出て、よく私たちに顔をみせにきた。その前年に彼女は卒業し、ヴァージニア州のコロニアル・ウィリアムズバーグで銀職人見習いとしての職を得ていた。イルマが電話してきたのはゲイルのことで、彼女は雨のなか、夜じゅうひとりで運転していて、オハイオ州のロックコンサートに向かうとちゅう、ウェストヴァージニア州の曲がりくねった細い高速道路でコントロールを失ったとのことだった。イルマはどうやらそのことばを口にすることができなかったようだが、ゲイルは死んだ。

 私は十六歳で、死がなにかは理解していた。だが、おそらく両親が私を葬式に連れて行ってくれなかったからだと思うが、私はゲイルを喪った悲しみに涙を流すことができなかった。そのかわりに、私は彼女の死がどこか私の頭のなかで起きたことであるような――まるで、私の記憶のネットワークの、彼女を司る部分がみえない針で焼灼され、いまではなにもない領域、本質的で、悪質な真実の領域を構成しているかのような感覚を覚えた。その領域はあまりに近づきがたく、意識的に入っていくことはできなかったが、私はそこに、精神的な非常線の向こうに、愛しい従姉の死の不可逆性を感じ取ることができた。

 事故から一年半後、私がペンシルヴァニアで大学の新入生をやっていたころ、イルマとウォルトから週末にドーヴァーに来ないかと誘われた、と母が私に伝えてきた。イエスと返事しろという彼女の強い意向を添えて。私の想像では、ドーヴァーの家は私の頭のなかの悪質な真実の領域の具現化だった。私はその家が弁明を進行中なのではないかという恐れを抱いてそこに行った。その家は整頓され、公邸のように脅迫的にすっきりとしていた。床まであるカーテンの硬さ、折り目正しさは、ゲイルの呼吸や動きがそれを乱すことはもうないのだと告げているように思えた。叔母の髪は真っ白で、カーテンとおなじくらい硬そうだった。彼女の顔の白さは真っ赤な口紅と濃いアイライナーで強調されていた。

 イルマのことをイルマと呼ぶのはうちの両親くらいだということを知った。ほかのだれにとっても、彼女はフラン(旧姓の省略形)だった。私はあけっぴろげな愁嘆場を恐れていたが、フランは緊張した大声で私にひっきりなしに話しかけて時間を埋めた。家の装飾のこと、デラウェア州知事との面識のこと、この国の方向性について――話は、日常的な感情からあまりにもかけ離れていて、絶妙に退屈だった。次第に彼女はおなじ調子でゲイルについて話し始めた。ゲイルの人格の本質的な性質について、ゲイルの芸術的才能の質について、ゲイルの将来の計画について。私はあまり口を開かなかったが、それはウォルトもおなじだった。叔母のだらだらとしたしゃべり方は耐え難かったが、彼女が住む領域そのものが耐え難いのであって、ほとんど空っぽの内容を高尚に、休むことなく話し続けることは、そんな領域でひとが生き延びていくための方法で、じっさいそうすることで彼女は訪問者にもその空間を生き延びさせていたのだ、ということを私は理解していたのかもしれない。フランの頭がおかしくなったのは基本的に適応のためだと私は理解した。その週末、私がフランから解放されたのは、ウォルトが車でドーヴァーとその空軍基地を案内してくれたツアーのあいだだけだった。ウォルトはスロベニア系で、痩せていて長身、鼻は鷲鼻で、髪の毛は耳の後ろにしか残っていなかった。かれのあだ名は「ハゲ」だった。

 大学時代にあと二回かれとフランのもとを訪れて、かれらも私の卒業式と結婚式に来てくれたが、それからあとは、誕生日カードと、フロリダのボイントンビーチ――フランとウォルトはゴルフのできる高級マンションに引っ越していた――に義務的に夫婦で立ち寄った母からの伝言(フランへの嫌悪で彩られていた)くらいでしか音信がなくなってしまった。しかし、私の父が死に、母が癌との戦いに敗北しつつあるとき、奇妙なことが起こった。ウォルトが私の母にぞっこん惚れ込んだのである。

 フランはそのころにはもうアルツハイマー病であきらかにおかしくなってしまっていて、老人ホームに入っていた。私の父もアルツハイマー病をやったので、ウォルトは私の母に電話して、アドバイスしたり同情したり、救いの手を差し伸べた。母の談では、かれはそれからセントルイスにひとりで訪れ、はじめてそこでふたりきりになったふたりは、ふたりとも楽観的に人生を愛していて、厳格でうつ病質なフランゼン家の人間と長く結婚していたという共通点を見出したために、互いにめまいがするほど打ち解け、初恋のような親密さに陥ったそうである。ウォルトは彼女を下町にある彼女のお気に入りのレストランに連れて行き、そのあと彼女の車を運転していたとき、駐車場の壁でフェンダーをこすってしまったのだが、ふたりは軽く酔っぱらって、くすくす笑いながら、修理代を折半すること、みんなにはないしょにしておくことに(ウォルトは最終的には私に白状したのだが)合意した。かれの訪問からまもなくして、私の母の健康状態は悪化し、私の兄のトムの家で残りの日々を暮らすためにシアトルに引っ越した。しかし、ウォルトは彼女に会いに行く計画を立て、かれらがはじめたことを続けようとした。ふたりが互いについて抱いた感情でいえば、かれのほうはまだしも前向きなものだったようだ。母のほうはもっとほろ苦く、逃してしまったことを知っている機会についての悲しみだったのだが。

 母のおかげで私はウォルトのすばらしさに気づくことができた。そして、再会する前に彼女にとつぜん先立たれてしまったウォルトの落胆と悲嘆が、私と彼の友情の扉を開いた。かれは、かれが彼女を愛し始めていたことと、その喜びに満ちた驚きを知る人間を、そして、それだけに彼女を失ったことでどれほど痛烈な感情を抱いたかを受け入れてくれる人間を必要としていた。というわけで、母の最期の数年間で、私もまた母に対する尊敬と愛情が驚くほど高まっていたし、子どももおらず、離婚していて、雇われておらず、いまや親を喪って暇になっていたので、私がウォルトの話し相手になったのだ。

 母の死から数か月、はじめて彼のもとを訪れたとき、私たちは南フロリダでは必要不可欠なことをやった。かれの高級マンションで 9 ホールゴルフを打ち、デルレイビーチで九〇代の友人ふたりとラバーブリッジを二回戦やり、叔母の住む老人ホームを見舞った。ベッドのうえできつく胎児のようにうずくまって横たわる叔母をみた。ウォルトは優しく彼女にひと皿のアイスクリームとプリンを食べさせた。看護師が入ってきて、彼女の尻のバンドエイドを交換しようとすると、フランは堰を切ったように泣き出し、顔は赤子のように歪み、痛い、痛い、ひどい、こんなのフェアじゃない*5、と泣き叫んだ。

 私たちは看護婦に彼女を託すと、かれのアパートに戻った。フランの堅苦しい家具はドーヴァーから持ってきたものだったが、いまやひとり暮らしの男が散らかした雑誌やシリアルの箱が散乱していて、その印象を和らげていた*6。ウォルトは、感情を表に出さずにゲイルを喪ったことについて語り、彼女のかつての持ち物について訊いた。彼女の絵をいくつか持ち帰らないか? あの子に昔あげたペンタックスの SLR をもらってくれないか? 絵は学校の課題で描いたもののようにみえたし、カメラは必要としていなかったが、ウォルトは、ただたんに善意から寄付するのでは耐えられないようなことから、かれじしんを解放するやりかたを探しているのだと私は気づいた。喜んで引き取るよ、私はそう答えていた。

 

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 アルゼンチン南端へのフライトの前夜、サンティアゴでトムとわたしはリンドブラッド社がリッツ・カールトンのファンクションルームで開催するレセプションパーティに参加していた。われらがナショナル・ジオグラフィック・オリオン号の船室が最低二〇〇〇ドルからで、下手するとその二倍にもなることから、私はお仲間の乗客のことを大富豪の自然愛好家か、トロフィーワイフを連れて日焼けした退職者、あるいはタックスヘイヴン居住者だろうと、そして、テレビでみ知った顔の一人や二人はいるだろうと先入観を持っていた。しかし、私は計算を間違えていた。そういった客層のためには特別なヨットがあるのだ。ファンクションルームのひとびとの群れは期待していたよりも華がなく、八十歳代のひとたちもそんなにいなかった。百人のうち多数派は医者か弁護士で、お腹までズボンを引っ張り上げている男性はひとりくらいしかいなかった。

 船酔いと兄のいびきに次いで、この探検で三番目に恐れていたのは、南極特有の鳥類を探すのに十分な注意が払われないのではないかということだった。飛行機で旅行用の荷物を紛失したというオーストラリア人のスタッフが挨拶し、群衆から質問を受けつけたので、私は手を挙げて、私は鳥類愛好家なのだが、ほかにもいないかと訪ねた。多くの支持者を見込んでいたのだが、たった二本の手が上がっただけだった。前の質問のそれぞれを「すばらしい」と褒めたオーストラリア人は、私のことは褒めなかった。かれはいくぶん曖昧に、船には鳥に詳しいスタッフもいるはずだ、といった。

 挙がった二本の手は、正規料金を払っていない船内でただふたりの客だったということがすぐわかった。カリフォルニアはマウント・シャスタからきた、クリスとエイダという五十代の自然保護主義者夫妻だった。エイダにはリンドブラッドで働く妹がいたのだが、キャンセルが出たので、出発の十日前に叩き売り価格で出た客室を提供されたのだという。このことでかれらに対する親近感が増した。私には正規料金を払う余裕があったとはいえ、リンドブラッド社のようなクルーズ会社を選んだのは私じしんのためではなくて、れいのカリフォルニア人のために、南極の衝撃を和らげるために選んだのであって、豪華な旅をしているのは偶然の産物のようなものだと思っていたからである。

 次の日、アルゼンチンのウシュアイア空港で、トムと私はパスポート審査待ちでのろのろと進む列の最後尾近くにいた。出国前にリンドブラッド社から至急の支持を受けて、私はアルゼンチンがアメリカ人旅行客に課す「レシプロシティ・フィー*7」を支払っていたが、トムは三年前にもアルゼンチンに行ったことがあった。政府のウェブサイトではふたたび支払うことができなかったので、かれはその拒否されたときの画面のコピーを持っていき、パスポートにアルゼンチンのスタンプがあるのをみせれば国境を越えられると思ったのだ。しかし、国境は越えられなかった。ほかのリンドブラッド社の客がカタマランでのランチタイム・クルーズに向かうバスに乗り込む間、私達は入国審査官と立ち話をし、懇願していた。半時間が経過し、さらに二〇分が経過した。リンドブラッド社の係員は髪の毛を掻きむしらんばかりだった。ようやくトムが二回目の支払いを許されそうだとわかって、私は走ってバスに乗り込み、薄暗い視線の海に飛び込んだ。旅が始まってもいないのに、トムとわたしはすでに問題客となってしまっていた。

 オリオン号の船上、我らが探検のリーダーであるダグが、船内のラウンジに全乗客を集め、元気いっぱい挨拶をした。ダグは筋骨たくましく、白髭をはやしていて、前職は劇場設計者だった。「俺はこの旅を愛してる!」とかれはマイクに向かって話した。「この旅は、最高の会社による、地球で最高の目的地への、最高の旅だ。俺は、すくなくともここにいるみなさんとおなじくらい興奮している」この旅はクルーズではない、とかれは急いで付け加えた。これは探検で、かれのことは探検隊のリーダーだと思ってもらいたく、かれと船長がふさわしい機会を見出したら、計画は撤回して窓から投げ捨て、冒険を追い求めることすらあるのだと。

 この旅のあいだ、とダグは続けた。ふたりのスタッフが写真教室を開き、技術を向上させたいと望む乗客には個別に対応する。ほかにも、ふたりのスタッフが可能なところでは潜水し、追加で写真を撮るだろう。荷物をなくしたオーストラリア人は、高画質のカメラを搭載した最新モデルのドローンはなくしていなかった。かれはそれをこの旅で用いるために九か月働きかけて許可を取った。ドローンも映像を提供してくれるだろう。そして、専属の映像技術者がいて、旅の終わりには我々が買うことのできる DVD を制作してくれる。ラウンジにいたほかのひとびとはどうやら南極に行くことについて、私よりはっきりとした目標を掴んでいるようだった。明らかに、映像を持ち帰ることが目的だった。映像に期待してしかるべきだったのに、ナショナル・ジオグラフィックというブランドのせいで私は科学を期待してしまっていた。私は問題のある客であるという意識が強まっていった。

 その後の数日間で、リンドブラッド社の船のうえでひとと会ったときになんというべきかを学んだ。「リンドブラッドはこれがはじめてですか?」もしくはその代わりに、「まえにもリンドブラッドしたことがおありですか?」私はこれらの言い回しに落ち着かない気分にさせられた。まるで「リンドブラッド」がなにか漠然とした、だが高価なスピリチュアル系のものであるかのようだったから。ダグはラウンジでの夕方の総括を決まって「きょうはいい日だったか? それともいい日だったか?」と問うことではじめ、歓声が返ってくるのを待った。われわれは幸運にもドレーク海峡を順調に渡ることができたので、南極半島にほど近いバリエントス島にゾディアック号で上陸する時間が確保できたのだと教えてくれた。これは特別な上陸で、リンドブラッド社の探検に参加したものぜんいんができる体験というわけではないのだ、と。

 バリエントス島のジェンツーペンギンとヒゲペンギンの巣立ちの時期の後期にあたっていた。巣立ちを済ませ、親のあとに続いて海のなか、かれらの唯一の食糧庫である海のなかに戻って行ったヒナもいた。しかし、何千羽もの鳥が残っていた。毛におおわれた灰色のヒナは、親らしくみえる成鳥ならどれでも追いかけたり、反芻されたエサをねだり、親からはぐれたものや生育不良のヒナを狙う、カモメに似たトウゾクカモメから身を守るために密集したりしていた。成鳥の多くは換毛のために高い場所に退いていた。換毛とは、かゆみや空腹に耐えながら、新しい羽が古い羽を押しのけて生えてくるまで、数週間立ち続けるプロセスのことだ。換毛期のペンギンたちの我慢強さ、かれらの静かさと忍耐力は、人間の観点からでも称賛せざるを得ない。巣はどこも硝酸塩の匂いのする糞で汚れていたし、運命に敗北した孤児のヒナをみるのは哀れを催すことだったが、私はすでに来てよかったと思った。

 トムと私が首に貼っていたスコポラミンパッチのおかげで、ふたつのおおきな恐怖は消え去った。パッチと穏やかな海のおかげで私は船酔いにならなかったし、時計型ラジオからいびきを消すために騒音を流していたおかげで、トムはスコポラミンで毎日十時間ぐっすり眠った。しかし、みっつめの恐れは的中してしまった。クリスとエイダと私が観測デッキから海鳥を眺めるのに、リンドブラッド社の博物学者が参加することはいちどもなかった。オリオン号の図書館には、南極の野生生物についてのまともなフィールドガイドすらなかった。そのかわり、南極の探検者、とくに高名なアーネスト・シャックルトン――この船のうえではリンドブラッドそのひとにも劣らないくらい信仰されている人物――についての本なら何ダースもあった。会社支給のオレンジ色のパーカーの左袖には、シャックルトンの肖像の描かれたバッジが縫い付けられていて、エレファント島からの無甲板船による英雄的航海から百年経ったことを記念していた。我々には、シャックルトンについての本、シャックルトンについてのパワーポイント講義、シャックルトンにまつわる場所の特別ツアー、シャックルトンの旅を再現した長い映画、そして、シャックルトンが生き抜いた過酷な道のりを三マイル歩く機会が与えられた。(旅の後半には、映像技術者に見守られながら、シャックルトンの墓の前に集められて、アイリッシュウィスキーのショットグラスを渡され、かれに乾杯するよう誘われた。)リンドブラッド号に乗る我々じしんはシャックルトン的ではないというメッセージを示しているような気がした。オリオン号で英雄的な気分にひたれないというのは孤独のもとだ。私が持ち込んだ野生生物ガイドで勉強し、ナンキョククジラドリ(ちいさな海鳥だ)のフィールドマーク*8を調べ、高速で飛ぶオオミズナギドリの嘴の色から種を識別しようと試みる同胞が、すくなくともふたりはいたことを私はありがたく思っている。

 半島を南下するにしたがって、ダグは嬉しい報せをちらつかせはじめた。そして、ついにかれは私たちをラウンジに集め、なにが起こったのかを発表した。風向きに恵まれて、かれと船長は計画を変更したのだという。南極圏*9の内側に入る特別な好機を得たので、これからもっと南下するのだと。

 南極線に到達する前夜、私たちが「マゼンタ・ライン」(かれはジョークをいっていた*10)を横切るときに外を眺めたいと思っている乗客を起こすために、朝かなり早い時間に船内電話で呼び出すかもしれないと警告した。そして、かれは六時半に私たちを起こすと、マゼンタ・ラインについてもうひとつジョークをいった。船がラインに近づくと、ダグは芝居っけたっぷりに五からカウントダウンしていった。それからかれは「乗船者の皆さん*11」を祝福し、トムと私は寝に戻った。あとになって知ったのだが、オリオン号が南極線に接近したのは六時半よりも一時間以上前、大富豪を起こすにはためらってしまうような時間帯、写真を撮るには暗すぎる時間帯のことだった。クリスが夜明け前から起きていて、かれの船室のテレビ画面で船の座標を追っていたのでわかったのだ。船が減速し、西に航路を変更し、時間を稼ぐために鉤張りのような旋回を決めて北へ進路を取るところをかれはみていた。

 ダグはカルト的な側面のあるブランドのハッタリ主任部長になり下がっていたが、私はかれに同情を抱いていた。かれはリンドブラッド社の冒険隊長としての最初のシーズンを終えつつあり、明らかに疲れ切っていた。けっきょくのところ大富豪というわけではなく、かれらの払ったお金に見合った価値を期待している顧客たちに、生涯の経験となるような旅を提供しなければ、という強い重圧に晒されていた。さらに、私のみた限りでは、ダグはかれの出会った種のリストを記録しておくくらい真剣な、私を除けば船のなかで唯一の鳥類愛好家だった。かれは記録を諦めてしまったが、ある晩の総括で、かれがはじめてのサウスジョージアタヒバリをみつけようとして必死の努力をしたが失敗してしまったときの興味深い話を語った。もしかれが船いっぱいの画像追求者たちを運ぶことに躍起になっていなかったら、かれと知己を得てみたかったのに。

 そして、南極はダグの熱意に見合ったものだったといっておかねばらない。美しすぎて消化できない、まるで現実とは思えない景観をみたのははじめてだった。行く前から非現実的だと思っていた旅は、じっさいに、よりよい意味でまるで現実とは思えないような場所に私を連れて行ってくれた。地球温暖化によって大陸の西側の氷床は危機に瀕していたが、南極はまだ溶けていない。ルメール海峡の両側には峻厳な黒い山々が連なっていて、非常に標高が高かったが、ただ雪に覆われているということもなかった。風で削られた雪の吹き溜まりが山頂まで続き、もっとも垂直な崖になっている部分だけが違和を露出させていた。風から守られている水面は鏡のようで、硬質な灰色の空の下ではまるで外宇宙のような黒、漆黒にみえた。終わりのない黒、白、灰色のモノクロームのなかで、氷河の青が神経を逆なでした。私たちの航跡のあいだで揺れ動く淡い青み、アーチ型で空洞のある流氷の城の強烈な濃紺、分離する氷山の発泡スチロールのような青――なにをみても、私は自然の色合いをみているのだと信じることはできなかった。信じられなくて、なんども笑いそうになった。イマヌエル・カントは崇高を恐怖と結び付けたが、私はそれを南極で、安全で見晴らしのいい船上から、ガラスと真鍮のエレベーターと、一級品のエスプレッソ付きで体験したのだ。それはむしろ美と不条理の混ぜ合わさったようなものだった。

 オリオン号は不気味なほど鏡のように凪いだ海を航海した。地上にも、氷上にも、水上にも、人工物はなにひとつなかった。建築物もほかの船もなく、前方の展望デッキにいるとオリオン号のエンジン音さえ聞こえなかった。クリスとエイダといっしょに黙ってそこに突っ立ってウミツバメを探していると、まるで世界には私たちしかおらず、ナルニア国物語の朝びらき丸のように、目に見えず、抗いがたい流れによって世界の果てに向かって引っ張られているような気がした。しかし、流氷地帯に入ると写真が必要となった。ゾディアック号が騒音を立てて出航し、オーストラリア人のドローンが放たれた。

 その日の終わり、私たちが到達した最南端にほど近いラルマン・フィヨルドで、ダグはもうひとつの「作戦」を発表した。船長がフィヨルドの先端の氷原に船を突っ込ませるから、シーカヤックでこぎ出してもいいし、氷のうえを歩いてもいいというのだ。コウテイペンギンがみられるとしたらフィヨルドが最後の希望だった。ほかの七種類のペンギンは旅のあいだにみかけたが、コウテイペンギンだけは南極圏の北部にはめったに現れなかった。ほかの乗客たちがかれらの船室で慌ててライフジャケットと探検用のブーツに履き替えるなか、私は観測デッキで望遠鏡を準備した。カニクイアザラシとちいさなアデリーペンギンが散在している氷原をざっとみわたすと、すぐに私はみ慣れない鳥の姿を目撃した。耳の裏に色斑があって、胸のあたりが黄色く色づいているようにみえる。コウテイペンギンか? 拡大された画像はぼやけてはっきりとみえず、鳥の体はちいさな氷山にほとんど隠れていたし、船も氷山も揺れていた。はっきりとした姿を目にする前に、氷山は鳥の姿を隠してしまった。

 どうするべきか? コウテイペンギンはおそらく世界でもっとも偉大な鳥だ。体長四フィート、映画『皇帝ペンギン』の主役、南極の冬に、海から百マイルも離れたところで卵を暖める。オスは暖を取るために密集し、メスはエサを求めて水辺までよちよち歩くか、トボガン*12で移動する。かれらはどれもみなシャックルトンとおなじくらい英雄的だ。しかし、ちらっとみえた鳥とは優に半マイルの距離があったし、私はすでに一度おおきな遅れを集団にもたらした問題客の一員であることを自覚していた。むかし鳥の同定に失敗したことがあるという苦い記憶も思い出していた。氷のうえにランダムに望遠鏡を向けて、この旅でもっとも期待していた種にいきなり出会うなんて、どのくらいの確率だろうか。黄色い模様と色斑が私の作り出した幻覚だとは思わなかったが、ときに鳥類愛好家の目はみたいと望んでいるものをみてしまう。

 みずからの運命はみずからで決めるという実存主義的な瞬間を経て、私は船橋甲板に降りていくと、ダグの指示で駆け回っている私のお気に入りのスタッフの自然学者をみつけた。かれの袖を掴むと、コウテイペンギンをみたと思うのだが、と声をかけた。
コウテイペンギン? ほんとですか?」
「九十パーセントの確率で確かだ」
「確かめてみましょう」かれはそういって私から離れていった。
 かれがほんとうにそうするようには思えなかったので、私はクリスとエイダの船室に駆け下りていってドアを叩き、速報を伝えた。信じてくれたかれらに神の祝福あれ。かれらはライフジャケットを脱ぐと、私に着いて観測デッキに上がった。運悪く、ちいさな氷山がたくさんあったので、いまや私はペンギンがいた場所を見失っていた。私が船橋に降りると。さっきとは違う、オランダ人女性のスタッフがいた。彼女はもっと期待できそうな口ぶりだった。「コウテイペンギン! 見逃せないわね、船長にいますぐ伝えなきゃ」

 グレイサー船長は痩せて元気いっぱいのドイツ人で、みためよりはきっと年を食っていた。かれは鳥が正確にどこにいたのか知りたがった。私はなるべく最善の推測を示し、かれは無線でダグに船を動かすよういった。無線越しにダグの憤激が聞こえた。かれは作戦中なのだ! 船長はそれを一時中止するよう命じた。

 船が動き出し、私が鳥をみ間違えていたらどれだけダグがイラつくだろうと考えていたとき、私はちいさな氷山をふたたび発見した。クリスとエイダと私は船の欄干に立ち、双眼鏡でそれをみた。しかしそこにはなにもなかった。すくなくとも、船が停止して向きを変えるまではなにもみなかった。無線がひっきりなしに鳴り響く。船長が氷のなかに突っ込むと、クリスがそれらしい鳥が水のなかに飛び込むのをみつけた。しかし、エイダがその鳥がまた氷のうえに飛び戻ったのをみた気がするという。クリスが双眼鏡を構え、長いあいだ観察し、私のほうを振り返ると、まじめくさった表情で「私もそう思う」といった。

 私たちはハイタッチした。私はグレイサー船長を呼び、かれはスコープを覗き込むと大声をあげた。「ヤー、ヤー」かれはいった。「コウテイペンギン! コウテイペンギンだ! 期待していたとおりだ!」かれは、前の旅でもおなじ場所で孤立した皇帝ペンギンをみたことがあったので、私の報告を信用したのだという。さらに大声を発し、ジグを、ほんもののジグを踊ってから、かれはもっと近寄ってみるためにゾディアック号に飛びついた。

 かれが以前みたというコウテイペンギンは例外的に友好的で好奇心旺盛だったのだが、私がみつけたのもおなじ鳥のようだった。というのも、船長が近づくと鳥は腹を地面につけてかれのほうに熱心にトボガンしていったのだ。ダグは船内無線で船長が素晴らしい発見をしたので計画を変更するとアナウンスした。すでに氷上にいたハイカーたちは鳥に向かって進路を変更し、残りの私たちはゾディアック号に詰め込まれた。私がそこに着くころには、三〇人のオレンジ色のジャケットを着た写真家たちが立ったり跪いたりして、とても背が高く、とてもハンサムで、かれらのすぐ近くにいたペンギンにレンズを向けていた。

 私はひそかに、旅のあいだ一枚も写真を撮るまいという社会不適合的な誓いを立てていた。そして、この情景は忘れようもないので、カメラで撮る必要なんてなかった。コウテイペンギンが記者会見を開くために姿を現すなんて。アデリーペンギンの群れがうしろから現れて、まるで記者会見のスタッフみたいにそれを見守っていた。コウテイペンギンは記者団と穏やかな品位を保って接していた。しばらくして、ペンギンはのんびりと首のストレッチをした。バランス感覚と体のしなやかさを披露するかのように、それでいてわざとらしくなく、片方の足で直立しながら、もう片方の足で耳のうしろを掻いた。それから、私たちといっしょにいるのが心地よいことをあきらかにするかのように、眠りに落ちた。

 その次の夕方の総括で、グレイサー船長は温かく鳥類愛好家たちに感謝した。かれは私たちのために、食堂に無料のワインつきの特別なテーブルを用意した。テーブルの上に置かれたカードには「皇帝にして国王」と書かれていた。大半がフィリピン人の船のウェイターは、いつもはトムのことをサー・トムと、私のことをサー・ジョンと呼ぶので、私はじぶんがフォルスタッフ卿であるかのような気分にさせられていた。しかし、その晩はほんとうに皇帝にして国王であるような気分だった。一日中、いままで会ったことのない船客たちが、廊下で私とすれちがいざまに立ち止まり、私がペンギンをみつけたことに感謝したり喝采をあげたりしたのだ。そのシーズンを防衛するタッチダウンを決めたあと、学校に凱旋する高校生アスリートはこんな気分なのか、と私はやっと理解することができた。四十年間にわたり、大半の社会的な集団のなかで、私はじぶんのことを問題児だと感じることに慣れていた。一日だけのこととはいえ、チームの勝利に貢献した英雄となることは、まったくもって目新しいことで、戸惑ってしまった。もしかしたら、私は人生を通して人の輪に加わることを避けてきたことで、ひととしてなにか大切なものを見失っていたのかもしれないと思った。

 

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 空軍の退役軍人である私の叔父は、いまやアーリントン墓地に埋葬されているが、生涯を通して人の輪に加わるのが好きな人物だった。ウォルトはミネソタ州のアイアンレンジに所在する、かれの故郷であるチザムへの忠誠心を失わなかった。かれはそこで貧乏のうちに育った。かれは大学ではホッケーの選手だったが、それから第二次世界大戦では爆撃機パイロットとなり、三五年間北アフリカと南アジアで作戦飛行に従事した。かれは独学のピアニストで、スタンダードナンバーならどれでも耳で聞いて覚えていた。ゴルフのスウィングは折衷的だった。かれは生涯で出会ったすばらしい友たちに捧げる二冊の回顧録を著した。かれはまた、厳格な共和党員と結婚したリベラルな民主党員でもあった。かれはほとんどだれとでも活発に会話を交わすことができ、もし母が父ではなくウォルトのような普通の男と一緒にいたとしたら、どんなに自由で楽しかっただろうと想像してしまった。

 ある晩、南フロリダのマンションのレストランで、何杯かカクテルを飲んだ後、ウォルトはかれと私の母親の話ではなく、かれとフラン、そしてゲイルの話をしてくれた。退役して、とかれはいった。海外のさまざまな基地でフランと共に送る将校としての公的な生活が終わると、彼女と結婚したのは間違いだったと気づいた。彼女は両親に甘やかされて育っただけではなく、執念深い社会進歩主義者で、かれが愛し、祝福したミネソタの僻地に出自を持つという事実を憎んでいた。彼女は耐え難い人間だった。「私は弱かったんだ」かれはいった。「彼女と離れるべきだった。なのに、私は弱かったんだ」

 フランが三十代半ばのころ、かれらは一人娘をもうけた。フランはたちまちゲイルに執着するようになり、ウォルトとのセックスを拒むようになった。そのためウォルトはどこか別のところに慰めを見出すことになった。「ほかにも女たちがいたよ」かれは私にいった。「浮気をしていたんだ。だが、私は家庭的な男で、フランを捨てることはないとはっきり決めていた。日曜日には仲間と酒を飲んでバルチモアまで運転し、ジョニー・ユナイタスとボルチモア・コルツを観戦しに行ったものだ」家では、ゲイルの身だしなみ、学校の勉強、美術の課題などにフランがますます細かく気を配るようになった。フランが話すのも考えるのもゲイルのことばかりだった。四年間の大学生活はつかの間の休息になったが、ゲイルが東海岸に戻り、ウィリアムズバーグで働くようになると、フランはゲイルの生活にふたたび立ち入るようになった。ウォルトには、なにかがひどく間違っていることがわかった。ゲイルは母親によって狂わされていたのだが、そこから逃れる方法がわからなかったのだ。

一九七六年の初夏、かれはかれにできる唯一のことを断行した。ミネソタに、かれの愛するチザムに帰るとフランに宣告し、娘への異常な執着を捨てない限り、彼女とはもう暮らしていけない――結婚生活を続けることはできない、と告げたのだ。そしてかれは荷物をまとめ、ミネソタへ運転して行った。十日後、ゲイルが悪天候のなかウェストヴァージニア州を横断するドライヴに出発したとき、かれはチザムにいた。ゲイルは知っていた、とかれはいった。かれが彼女の母親と絶交したことに。かれがみずから彼女にそう語ったのだ。

 ウォルトはそこで話を切り上げ、私たちはほかのことについて話した。マンションのほかの住民のなかからガールフレンドを探そうと思っていること。いまや私の母は死に、フランは老人ホームにいるので、この望みにかれが良心のとがめを覚えていないこと。マンションの上品な未亡人たちにとっては、かれが田舎者っぽくみえすぎるのではないか、洗練されていないようにみえるのではないかという懸念。かれが物語の終結部を省略したのは、それがいうまでもないことだからか、と私は思った。かれがミネソタに逃げたことと切り離して考えることのできないウェストヴァージニアでの事故のあとでは、そして、フランが彼女の人生にとって唯一重要なひとを亡くし、死人へのはかない執着という苦痛の世界に永遠に囚われてしまったあとでは、かれが彼女のもとに帰り、これからは彼女の世話をすることに専心する以外の選択肢などなかった。

 ゲイルの死は単なる「悲劇的」などという紋切型ではすまなかったようだ。皮肉と、ドラマチックな悲劇の避けがたさを伴っていて、ウォルトがフランの話を聞くのに献身していた二十数年間に事態はさらにこじれていて、彼女に対するかれの心づかいの優しさによってのみ徐々に和らげられていた。かれはほんとうにいいひとだった。かれは壊れてしまった妻に対してまごころからの愛を注いでいた。私は悲劇だけではなくて、その渦中にある男のまっとうな人間らしさに感動した。驚嘆の念すら覚えた。私の人生のなかには、道徳的厳格さと父方の家風であるスウェーデン風のよそよそしさのなかで目立たないように隠されていたが、浮気をし、仲間とともにバルティモアにドライブし、運命を男らしく甘受するふつうの男が存在していたのだ。私の母も、私がいまこの男のなかにみ出しているものをみ出したのだろうか、それで、いま私がそうしているように、この男を愛するようになったのだろうか、と考えた。

 次の日の午後、ウォルトの友人のエドが電話してきて、ジャンパーケーブルを持って家にきてくれと頼んだ。家に着くと、エドが道の横、巨大なアメ車のかたわらに立っているのがみえた。エドはほとんど死にかけにみえた――かれの肌は恐ろしく黄色く、足元がふらふらしていた。一か月くらい病気をしていたのだが、だいぶよくなったという。しかし、ウォルトがジャンパーケーブルをエドの車につなぎ、エンジンを回してみろといったとき、エドは衰弱しすぎててイグニッションキーを回せないんだと繰り返した(なのにかれはまだ運転したいと思っていたのだ)。私がエドの車のなかに入った。キーを回そうとしてみてすぐ、車の問題はバッテリーが上がってしまったなどということよりよっぽど悪いと気づいた。エドの車はまったくの無反応だ、私はそういった。しかし、ウォルトはケーブルの接続方法が気に入らないみたいだった。かれはじぶんの車をバックさせ、舗道からケーブルを拾い上げた。止める暇もなく、かれはケーブルの把持部を引きちぎった。私に対して怒っているようだった。私はケーブルの把持部をドライバーでつなぎなおそうとしたが、かれはそのやりかたが気に入らないみたいだった。私からそれを奪おうとして、かれは私に怒鳴り、叫び散らかした。「こんちくしょう、ジョナサン! いまいましい! 違うだろ! 渡せ! くそっ!」助手席に座るエドは横向きに倒れ、下を向いていた。ウォルトと私はドライバーをめぐって争い、私はドライバーを放そうとしなかった。私もかれに腹を立てていた。私たちは落ち着きを取り戻すと、かれの満足いくようなやりかたでケーブルを修理した。もう一度エドの車のキーを回してみた。車は反応しなかった。

 この最初の訪問のあと、私は毎年フロリダまでウォルトに会いに行き、二、三か月おきに電話をかけた。けっきょく素晴らしい彼女を作ったようだった。どれだけかれの聴力が衰え、頭のなかが曇り出そうと、私はかれとの会話を続けることができた。私たちは強いつながりを維持し続けた。たとえば、私がいつかかれの物語を語るということが、かれにとってどれだけ重要かと吐露し、私がそうするといったとき。しかし、ジャンパーケーブルのことでかれが私に怒鳴ったあの日ほど、かれと距離が近づいたと感じたことはなかった。あんなふうに怒鳴るなんてどこか尋常じゃないところがあった。まるで、かれと私とのあいだにほんとうのつながりがあったわけではなく、私たちが互いの人生でともに過ごしたのは累計一週間にも満たないということを忘れて――あるいは、エドとかれの車があからさまに死につつあったこと、私という人格を通して母への愛が屈折したことによってそれを忘れさせられてしまって――いたかのようだった。かれは父親が息子に怒鳴るようなしかたで私に怒鳴ったのだ。

 

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 カリフォルニア人の恐れは、天気については的中しており、天気は私が彼女に請け合ったよりもよっぽど寒かった。しかし、私はペンギンについては正しかった。ペンギンが大量にいた南極半島を離れ、オリオン号は北へ向かい、それからはるか東、サウスジョージア島へ進路を取った。そこには驚異的な数のペンギンがいた。サウスジョージア島はオウサマペンギンの一大繁殖地だった。オウサマペンギンはコウテイペンギンとおなじくらい大きな種だが、より派手な羽毛を有している。私にとって、野生のオウサマペンギンをみるというのはそれだけで旅をする理由になるだけでなく、この惑星に生まれてきたことのじゅうぶんな理由になる。認めざるを得ないが、私は鳥が好きだ。しかし、ほかの惑星からきた来訪者がオウサマペンギンを観察し、いっぽうではもっとも完璧なヒトの標本をみたとしたら、性的な魅力の可能性に目を曇らされていない限り、ペンギンのほうがあきらかに美しい種だと判定するだろう。仮定上の地球外生命体だけではない。だれもがペンギンを愛している。その直立した姿勢、腹這いになるときの覚悟、腕のようなヒレを振るときの仕草、歩くときの歩幅の短さ、肉付きのいい足で大胆にはねまわる姿は、大型類人猿を除けば、ほかのどんな動物よりも人間の子どもに似ている*13

 海岸線から遠く離れたところで進化してきたので、南極のペンギンたちは私たちをまったく恐れない珍しい動物になっている。私が地面に座ると、オウサマペンギンが近くに寄ってきて、かれらの輝く毛皮のような羽に触れられそうなほどだった。かれらの羽毛の模様は超解像度で、色彩は超鮮明で、ふつうこんな体験をしようと思ったらドラッグをやるしかない。ジェンツーペンギンとヒゲペンギンの巣は、排せつ物のせいで、あまり座るのに向いているとはいいがたい。しかし、オウサマペンギンは、あるリンドブラッド社の自然学者もいっていたのだが、よりきれい好きだった。サウスジョージア島のセント・アンドリューズ湾では、五〇万羽のオウサマペンギンの成鳥と、ふわふわのオウサマペンギンのヒナが密集していたが、私が嗅いだのは海と高山の空気だけであった。

 マカロニペンギンのグラムロックめいた冠羽や、イワトビペンギンが急斜面を辛抱強く登ったり降りたりする際の、両足を揃えた小幅なジャンプなど、どのペンギンにもそれぞれの魅力があるが、私はなかでもオウサマペンギンがいちばん好きだった。かれらは手のつけようもないほど美的な素晴らしさと、遊びに興じる子どものように熱心な社会的エネルギーを併せ持っている。岸に向かって潜水してきたあと、オウサマペンギンの群れが、水が冷たすぎたかのように、ヒレを伸ばしてひらひらさせながら、危険のなかからまっさかさまに駆け上がってくる。あるいは、一羽の鳥が浅い波のなかに立っていて、あまりに長いこと海を眺めているので、頭のなかでなにを考えているのかと考えざるを得ない。あるいは、若い二匹のオスが、まだつがいになっていないメスを追いかけてはしゃいでいると、ひと息ついて、どちらの首の模様のほうがが印象的なのかを確かめたり、ヒレを使ってお互いを叩いて無意味な音を立てたりする。かれらは獰猛に尖ったくちばしを持っていたのに、拳を持たない翼でしばきあっていた。

 セント・アンドリューズ島での活動は主に生息地の周辺で行われた。多くの鳥が抱卵したり換毛したりしていたので、いちばん大きな生息地は際立って平和にみえた。それを高いところからみていると、ロサンゼルスのこと、グリフィスパークを週末の早朝に眺めていたときのことを思い出した。眠気を誘う、直立したペンギンの大都市。ハトの体にハゲタカの習性を持つ、雪のように白い奇妙な鳥、サヤハシチドリが大通りをパトロールしている。オウサマペンギンの驚くべき鳴き声――お祭り騒ぎめいて渦巻くバグパイプのような騒音、休日の喧騒のような音、飛行機の中で聞こえるあの「吠える犬」のような音、とはいえ、じっさいには地球上で聞いたことがないような音――何千羽ものペンギンたちが遠く離れたところで一斉に鳴いているのを聞くのは心地良かった。

 ニ十世紀には、かれらとエサを争っていたクジラやアザラシをほとんど絶滅させたという点で、人類はペンギンによいことをしてやった。ペンギンの数は増え続け、近頃のサウスジョージア島はかれらにとってもっと住みやすくなった。氷河が急速に後退して地表が露出することで、かれらにとって営巣しやすくなったのだ。しかし、人間がペンギンに与えた恩恵は長続きしないだろう。気候変動がこのまま海を酸性化し続けるようであれば、海中の無脊椎動物たちが殻を維持することができない pH になってしまうだろう。こういった無脊椎動物のなかでも、たとえばオキアミは多くのペンギンの種にとって日々の常食となっている。また、冬場にオキアミの餌となる藻類が育つ南極半島を取り巻く氷は、これによってこれまでオキアミは大規模な商業的利用から護られてきたのだが、気候変動によって急速に減少している。ペンギンのみならず、多くのクジラやアザラシの餌となっているオキアミを吸引するために、中国やノルウェー、韓国から超大型タンカーサイズの工船がやってくる日が近いかもしれないのだ。

 オキアミは小指の先ほどのおおきさで、小指のような色をした甲殻類だ。南極に生息するその総量を見積るのは難しいが、よく引き合いに出される五億トンという数字は、この種を世界最大の動物性バイオマス貯蔵庫とみなすのにじゅうぶんだ。ペンギンにとっては不幸なことに、多くの国でオキアミは人間にとって(我慢できないことはない味らしい)、そして、とくに養殖魚や家畜にとって良食だとみなされている。現在、オキアミの年間漁獲量はノルウェーを筆頭に五〇万トン以下だと報告されている。しかしながら、中国はすくなくとも年間二百万トンまで漁獲量を増やすという意向を表明しているし、そのための船を建造している。中国農業発展集団の主席は「オキアミは非常に良質なたんぱく質で、食料や医薬品に加工できる。南極は全人類の宝物庫であり、中国はその分け前を受け取るだろう」と説明している。

 南極の海洋生態系は世界で最も豊かなもので、実質的に無傷で残されている最後の生態系でもある。その商業的利用は、南極海洋生物資源保存委員会によって、すくなくとも名目上は監視され、規制されている。しかし、委員会の決定は二五の加盟国のいずれによっても拒否権を行使される可能性があり、そのうちのひとつである中国はいくつかの大規模な海洋保護区指定に対して抵抗してきたという歴史がある。ほかにも、ロシアは最近になって新保護区の指定に拒否権を行使するだけでなく、保護区を設定する条約の有効性そのものに疑問を呈するなど、非妥協的な態度を公然と示している。つまり、オキアミの未来、そしてオキアミとともにあるペンギンの未来は、不確定要素によってさらに不確実になっている。オキアミがどれくらい存在するのか、気候変動にどれほど耐えうるのか、ほかの生物を餓死させることなくオキアミを獲ることができるのか、こうした漁業を規制できるのか、そして、南極における国際協調が新たな地政学的不和に耐えうるのか。不確実でないのは、世界の気温、世界の人口、そして世界の動物性たんぱく質に対する需要のすべてが急速に上昇、増加していることである。

 

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 オリオン号での食事はどうしても『魔の山』におけるサナトリウムを思い出させる。一日三回食堂へひとびとが殺到し、世間から隔絶されていて、食堂の顔ぶれには変化がない。ベートーヴェンの『エロティカ』の名前を口走るシュテール夫人の代わりに、ドナルド・トランプの支持者とその妻がいた。陽気なアルコール中毒患者の夫婦もいた。オランダ人のリウマチ専門医と、彼女の二番目の夫であるリウマチ専門医、そして、その娘の彼氏であるリウマチ専門医もいた。ゾディアック号への乗船がはじまるたびに最前列に出てくる二組のカップルもいた。特別な許可を得てアマチュア無線装置を持ち込み、船の図書館で趣味の仲間と連絡を取ろうと試みながら休暇を過ごしている男性もいた。ほとんど輪に混ざろうとしないオーストラリア人たちもいた。

 食事中の雑談のついでに、私はみんなになぜ南極にきたのか訊いてみた。すると、多くのひとはたんにリンドブラッド社の信者であることがわかった。あるひとは、ほかのリンドブラッド社のツアーで、南極へのリンドブラッドはカリフォルニア湾へのリンドブラッドを除けば最高のリンドブラッドらしいと聞き及んだそうだ。私が好感を抱いていた、ボブとジジという医師と看護師のカップルは、二五回目の結婚記念日を一年遅れで祝いにきていた。ほかにも、引退した化学者で、ほかに行ったことのない場所がなくなってしまったから南極にきたのだというものもいた。南極大陸が溶ける前にみにこようと答えたひとがいなかったので私はうれしかった。驚くべきことに、旅のあいだほとんどずっと、スタッフや乗客の誰一人として「気候変動」ということばを口にしなかった。

 もちろん、船上での講義の類はたいていサボっていた。じしんがガチの鳥類愛好家であることを証明するために、私は観察デッキに登らなければならなかった。ガチの鳥類愛好家は、刺すような風と塩水の噴霧に耐えながら一日中立ち尽くし、なにかいつもとちがうものがみえないかと霧のなかやまぶしい光のなかをみつめ続けるものである。そこにはなにもないと直観していても、水平線上にまばらに飛ぶ鳥や、波とよく似た色合いで、波間を飛ぶすべてのナンキョククジラドリ(あるいはただのクジラドリかもしれないが)、船の航跡のあとを追うべきかどうか決めかねている迷いアホウドリ(シロアホウドリかもしれない)などを、何時間もかけて観察するしかそれを確かめるすべはないのである。海を観察するのはときに吐き気を催し、しばしば凍えるほど寒く、ほとんどいつもなにかの罰みたいに退屈だ。三〇時間かけてようやく一羽の海鳥(ケルゲレンミズナギドリだった)を確認したところで私の熱意は冷め、ブリッジをするという、より社交的な衝動に身を任せることにした。

 ほかのプレイヤーのダイアナとナンシー、ジャックはシアトルからきていて、ほかにも何人かのメンバーがいる船内の読書クラブに所属していた。クリスとエイダのように、かれらも私の友人になった。さいしょのころ私はバカな手札を切ってしまい、ダイアナ(手ごわい破産弁護士だ)は私を笑って「ひどいプレイね」といったのだが、私はそれで彼女のことを好きになってしまった。テーブルでの汚い言葉遣いも気に入った。私のパートナーであるナンシー(フォークリフト売店を経営していた)がこの旅行ではじめてのスラム・コントラクトをプレイしたとき、私が残りのトリックはすべて彼女のものだと指摘したら、彼女は「カードを出させろクソ野郎」と私にきつくいい返した。彼女は愛情表現のつもりだったといった。三人目、ジャック(彼女*14も弁護士だった)はダイアナ妃が開いた感謝祭ディナーに参加したときのことを題材にして舞台劇を書いたそうだ。そのディナーの最中にダイアナの病弱な夫が家族部屋のベッドで亡くなるという筋書き。ジャックは私が気づいたなかでは唯一、乗客のなかでタトゥーをしていた。

 『魔の山』のように、探検のさいしょの日々は長く、記憶に残るものだったが、後半は加速度的に記憶がぼやけていった。サウスジョージア島タヒバリ(極めて美しく、人懐っこい)と出会って満足してしまうと、捕鯨基地の廃墟を訪れることには興味がなくなってしまった。サウスジョージア島での五日目、「もう一回シーカヤックにでも乗ろうか」といったダグの声にさえ倦怠感が漂い始めていた。『ゴドーを待ちながら』の後半でありとあらゆる気晴らしをやりつくしたあとに「木をやる」と決めたヴラジーミルとエストラゴンみたいな声だった。

 興味深い海鳥が外を旋回しているであろうなか、私はブリッジのテーブルでほとんどの時間を過ごしていたが、旅の最終日が近づいてきたころ、ラウンジに降りて行って気候変動についての講義を受けた。講義はドローンを飛ばしていたアダムという名のオーストラリア人によって行われ、乗客の半分も聞きに来ていないようだった。どうしてこんなに重要な講義を最終日まで延ばしていたのだろうと思った。好意的に解釈すれば、環境意識の高さに誇りを持つリンドブラッド社は、私たちが楽しんだ自然を守るための情熱を燃やして家に帰ることを期待してそうしたのだろう。

 アダムが冒頭で述べたことはべつのことを示唆していた。「お客様コメントカードは」かれはいった。「気候変動に関するあなたの信念を表明する場所ではありません」かれは落ち着かなさそうに笑った。「情報を伝えているだけのひとを撃ってはいけませんよ」かれは地球の気候が変化していると信じているひとがどれだけいるか質問した。ラウンジにいるだれもが手を挙げた。人間の活動がそれを引き起こしていると信じる人は? またもや多くの手が挙がったが、ドナルド・トランプ支持者の手とアマチュア無線愛好家の手は挙がらなかった。ラウンジの最後方から、クリスの不愛想な声が届いた。「信じる信じないの問題じゃないと思うひとは?」
「いい質問ですね」とアダムがいった。

 かれの講義は『不都合な真実』の焼き直しで、気温の上昇を示す有名な「ホッケースティック曲線」のグラフや、海面上昇によってフロリダを去勢されたアメリカの有名な地図が含まれていた。しかし、アダムの示した予想図はアル・ゴアのものよりも暗く、というのも、十年前に悲観主義者が予測したよりもさらに早くこの惑星が温暖化していたからだった。アダムは近年の、雪なしではじまるアイディタロッド*15のことや、うんざりするほど暑いアラスカの夏のこと、二〇二〇年の夏には北極の氷がなくなっているかもしれないという可能性に言及した。十年前には南極大陸のたった八七パーセントの氷河しか縮小していないといわれていたのに、いまでは一〇〇パーセントになっているとかれはいった。しかし、かれの話のもっとも暗い点は、気候学者たちは科学者である以上、統計的に高い確率で実現する主張にとどまらざるを得ないということだった。かれらが将来の気候のシナリオをモデル化し、地球の気温の上昇について予言するとしたら、平均的なシナリオで到達しうる気温ではなくて、九〇パーセント以上の確率で到達するであろう、わざと低く見積もった気温を選択しなければならない。つまり、今世紀の終りには(摂氏で)五度上昇すると自信をもって予測した科学者が、プライベートではビールを呷りながら、ほんとは九度上昇すると予測していると語るかもしれないのだ。

 華氏(十六度)で考えてみて、私はペンギンたちにとても哀れを催した。だが、気候変動の議論ではよくある話だが、診断から対策に話が映ると、ブラックジョークのような様相を呈し始めた。一分間に三・五ガロンもの燃料を消費する船のラウンジで、私たちは直売所で買い物をしたり、白熱電球を LED 電球に変えることの利点をアダムが称揚するのを聞いていたのだ。かれは女性への普遍的な教育が世界的な出生率の低下につながること、戦争を世界からなくせば世界経済を再生可能エネルギーベースに転換するための充分な資金が生まれることを示唆した。そこでかれは質問やコメントを求めた。気候変動懐疑論者は、議論には興味がないようだったが、熱心な信者が立ち上がり、じぶんは多くの賃貸住宅を管理しているのだが、国から補助金をもらっている借家人は、冬には部屋を暖かく、夏には涼しくしすぎていることに気づいている、と主張した。これはかれらが電気代を払う必要がないからであって、気候変動と戦うためにはかれらにも電気代を払わせる必要がある、と。これにはある女性が静かに答えた。「超富裕層のほうが、補助金をもらって家に住んでいるひとよりもっと無駄遣いをしていると思うけれど」そのあとは、荷造りがあったのですぐに解散となった。

 六時にはふたたびラウンジにひとが満ち、さきほどよりももっと窮屈になった。探検の締めくくりとして、乗客たちから三、四枚のよく撮れた写真を募集して作ったスライドショーの上映が始まった。このスライドショーを開催した写真のインストラクターは事前にこの曲がきらいな人がいたら申し訳ない、と謝罪していた。たしかに「ヒア・カムズ・ザ・サン*16」とか「恋の乾草*17」とかいった曲は気に入らなかった。だが、そもそも催しぜんたいが憂鬱だったのだ。私がわれわれの画像の文化からいつも感じる感覚の縮小を覚えた。どれだけ細かく生を写真の連続に切り刻んでも、どれだけ密にその写真を並べても、けっきょくのところ、その連続が私にもっとも訴えかけてくるのは、それが取り逃してしまったものについてなのだ。また、三週間ナショナル・ジオグラフィックの講習を受けてもナショナル・ジオグラフィックの映像ほどの新鮮さを生み出せていないことも明らかで、それも悲しかった。累積する効果は痛々しく、高望みだった。そのスライドショーは私たちがシャックルトンとその仲間たちのように、コミュニティーとして経験した冒険を捉えていると僭称していた。しかし、南極での長い日々も、アザラシの肉を分け合った月日もそこにはない。リンドブラッド社と個々の顧客のあいだの縦の関係が強すぎて、横のつながりが生まれなかったのだ。そういうわけで、スライドショーはリンドブラッド社の素人コマーシャルにしかみえなかった。その高望みは、私にとって重要なこと、アマチュア写真にとって重要なことも台無しにした。愛するものの顔を記録することだ。クリスとエイダがゾディアック号に乗っている写真(クリスは完全に不機嫌な表情を維持するのに失敗していて、エイダは満面の笑みだった)を兄が個人的にみせてくれたとき、私は船上でかれらをみつけたときの嬉しさを思い出した。その写真は私にとっての意味に満ちていたのだ。この写真をリンドブラッド社のウェブサイトにアップロードしたら、その意味は広告となって崩壊してしまう。

 それで、南極まで来たのはどういう意味があったのだろう。私にとっては、ペンギンを観ること、景色に圧倒されること、何人か新しく友人を作ったこと、三一種類の鳥類を私の人生のリストに加えたこと、そして、叔父の記憶を称えたことだった。使ったお金と、排出した炭素をこれで正当化できるだろうか。こっちが訊きたいくらいだ。しかし、あのスライドショーにはある種の逆効果があった。この旅で私が体験した、写真に撮られなかったすべての瞬間に意識を向けさせ、シーウォッチングをして凍え、退屈していたほうが、死ぬよりよっぽどマシだということを教えてくれた。翌朝、オリオン号がウシュアイアに停泊し、トムと私が自由に街を歩き回るようになったあと、関連するサービスが提供された。オリオン号で三週間毎日おなじ顔ぶれをみているうちに、私はオリオン号にはいなかった顔、とくに若い人の顔を猛烈に求めるようになっていた。目にするアルゼンチンの若い人たちに片っ端から抱き着いてみたくなった。

 気候変動に抗うためだけでなく、生物多様性保全するためにたいていの人間が採ることのできるもっとも効果的なひとつの行動が、子どもを作らないことであるのは真実だ。ひとが肉を欲し、そこにオキアミがいればオキアミが獲られるという、人間優先の論理を止めることができないというのも真実だろう。そして、人間の子どもに似ているペンギンたちが、人間の論理によって危機にさらされている種について考えることの有望な架け橋となることもおそらく真実だろう。かれらも私たちの子どもなのだ。かれらもまた、私たちのケアに値するのだ。

 そして、若者のいない世界を想像するということは、永遠にリンドブラッド社の船のうえで暮らすことを想像するようなものだ。私の代母*18は、一人娘を喪ってからそのような人生を送った。かつて彼女がウェッジウッドの陶磁器の価値を私に打ち明けたときの、なかば狂った笑顔を私は覚えている。しかし、フランはゲイルが死ぬ前からおかしかった。彼女はじぶんの生物学的な複製物に執着しすぎていたのだ。人生とは不確かなもので、強くそれにしがみつきすぎて壊してしまうこともあれば、私の代父*19のように、それを愛することもできる。ウォルトはかれの娘を、戦友を、妻を、そして私の母を喪ったが、それでも即興演奏をやめなかった。私はかれが南フロリダでピアノを弾いているのをみたことがある。かれは満面の笑みを浮かべながら、むかしのショー音楽を爆音で演奏し、マンションの未亡人たちが踊っていた。死につつある世界にも、新しい愛が生まれ続ける。

 

 

 

 

 

*1:が、アンチも多い。ここでは詳しくは書かないけど……。

*2:それどころか、小説にも鳥の話が出てくる。『フリーダム』はミズイロアメリカムシクイの話だ。

*3:"We would do a thing together that we would then, for the rest of our lives, have done together." この旅行で三週間いっしょに過ごせれば、残りの人生もいっしょにいられるのではないか、みたいな、フランゼンもけっこうかわいいところある。

*4:彼女と行けなかったから乗り気じゃなかっただけだと思うんですけど……。

*5:ハッチンスン夫人か?

*6:"loosened their death grip." よく意味がわからない。death grip はゴルフ用語かなにかか? loosen したのは Fran の furnishings の formal さ? あるいは、家具たちがゲイルの持ち物をやっと手放す気になったことを表しているのか。こっちのようなきもしてきた。

*7:入国料みたいなもの?

*8:野外で鳥の種を同定するための識別特性みたいなものだとおもう。

*9:南緯六六度三三分(= Antarctic Circle, 南極線)以南の地域のこと。

*10:どういうジョークなのか、マゼンタ・ラインがなんなのかはよくわからなかった。

*11:たぶんこれもなんか元ネタがあるんだろう。"every person onboard"

*12:ペンギンが腹這いで進むあれのこと。

*13:フランゼンからしたら、人間の子どもがかわいいのはペンギンに似ているからなのであって、その逆ではないのでは?

*14:Jacq なので Jacqueline.

*15:アラスカの犬ぞりレース。

*16:ビートルズ

*17:ファウンデーションズ。

*18:godmother.

*19:godfather.