——三年がかりで模索し洗練し修正し拒絶し選択し続けてできあがった文章が、
あかの他人に、三十分にも足らない時間で、味わわれたり、読まれたりする
ポール・ヴァレリー
ウィリアム・ギャディス『JR』は特徴的な文体の小説だ。その叙述の特徴を見、それがどのような方針に基づいているのかを確認しよう。その方針はどのような問題意識から要請されているのかを考察しよう。そしてその叙述の特徴は物語内容となんらかの関係を持つのか、持つとすればそれはどのようなものなのかをみてみよう。
1. 特徴
・ほとんど会話文から構成されている。(F1)
・間投詞、言い間違い、繰り返し、口癖、口ごもり、等、現実の会話では普通に見られるが小説では通常刈り取られてしまう表現の多用。(F2)
・改行、カギカッコ、省略形のピリオドといった発音されない記号の忌避。(F3)
・場面転換を登場人物の移動や電話によって行う。(すべてのシーンは空間、時間、登場人物のいずれかによって前のシーンと連続する。)(F4)
・地の文(としてみなせる)描写では「ものや人の動き」などが、誰が書いても同じようになる文体でごくわずかに書かれるのみである。(F5)
2. 方針
・物語世界内の音声をメインに描写を組み立てること。(P1)
・音声によって説明できないことはいわゆる「地の文」によって説明してもよい、ただし、物語内、物語外の「語り手」の存在を想起させるような表現は廃する。(P2)
まずは特徴と方針を列挙した。以下で少し詳しく説明する。
P1 について。物語世界内の音声*1とは物語世界内の登場人物が聞き得る音のことである。そして、P1 の徹底から F1~F3 が出てくる。
・小説という物語世界内において音声はほとんど会話であることから、会話文が主体となる。(F1)
・聞こえた音声はそのまま*2文字にされる。(F2)
・「ジェイアール」という発音を J. R. と記述したとしたらそれはたとえば「ジェイアール」を「J からはじまるファーストネームと R からはじまるミドルネームが省略された愛称として認識する」という解釈が(どこかで)行われていることが含意されてしまう。「ジェイアール」という発音だけからでは J. R. という表記は導くことができない。こうして非音声的な記号は極力退けられる*3。(F3)
P2 について。物語世界内の描写は 基本的に P1 に基づく音声的な描写でなされなければならない。そのため、ほとんど会話文だけであらゆることを描写するためにいくつかの特徴が出てくる。
・発話者を示す「――と○○は言った」のような標識はもちろん書かれないため、そのままでは無意味な口癖や間投詞が発話者の特定に用いられる。(F2)
・大きな出来事ですらその事件が起こっている場面を直接描写されず、事後的に登場人物が話題に出したタイミングで読者に情報が与えられることがある。(F6)
そして、たとえ会話文だけで描写することができない場合補助的に地の文が用いられるが、この地の文は限りなく透明な*4ものでなければならない。
・場面転換が登場人物の移動や電話のコールなど、「物語世界内で起こること」に付随して行われるのは「語り手」が「場面転換」という行為を行うことができないためである。(F4)
・地の文におけるすべての文は単純な構文の命題で表され、モダリティ*5表現は用いられない。(F5)
3. 問題意識
さて、ではなぜ『JR』はこんなややこしい*6文体を採用したのだろうか。ポストモダン文学だから?
たしかに錯綜した文体がエントロピーうんぬんを表している*7みたいな観方が無効なわけではない。ジャック・ギブズは熱力学第二法則を説明しながら物語に現れる。というかエントロピーといえばピンチョンだし。とはいえ、小説が閉じた系かどうかはよくわからない*8し、そもそも文体のエントロピーってなんなのかもよくわからない*9。作家ギャディス自身にそうした意図があったとしても、あまり面白くない隠喩なのでここでは取り上げない。
あるいは、この文体はそのままアメリカの現代の喧噪や金融業界を表現しているとする意見もある。こちらはまだ有望な見方だ。
しかし、ギャディスがこんな文体を用いたのは積極的になにかを表現するためでなく、むしろこうすることしかできなかったからではないかと考えたほうが納得がいく。ギャディスはふつうに小説を書くことに耐えられないのだ。そのことを確認するために以下かなり遠回りをすることになる。
3.1 全知の語り手を殺す―—フローベール
いきなり文学史の話になるが*10、小説における文体はディエゲーシスからミメーシスへと移行していったという歴史がある*11。そもそもディエゲーシスとミメーシスとはなにか、説明すると逸脱がひどくなるので註で簡単に説明するにとどめる*12が、ディケンズのような典型的ディエゲーシス優位の文体を破壊するために19世紀後半からの作家たちはさまざまな手法を開発した。
全知の語り手たる作家が自由に場所や時間を移動し、あらゆる登場人物の心中に立ち入って、物語世界をなめらかに語り尽くす。19世紀前半までの小説とはそういうものであった*13。この時期までの作家にとって語り方 discours は物語 histoire を伝えるための手段にすぎない。
とはいっても、地の文で「かれは……と思った」と書いたその数行後に「彼女は……と思った」と書けるお前は何様なのだ?
語り手の都合で物語世界を語らせないこと。そのためには、語られるべきことを物語内にある材料で表現しなければならない。19 世紀後半からの作家たちにとって、新しい語り方の開発が急務であった。
こうして、地の文に作中人物の視点を溶け込ませるために発明されたのが先の注の中で言及した自由間接話法だ。
芳川泰久訳『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、2015)の訳者解説では
階段に足音が聞こえた、レオンだわ。
という文が自由間接話法の例として挙げられている。自由間接話法が用いられているのは「レオンだわ」の部分である。この「レオンだわ」は全知の語り手による物語世界内事実の描写ではなく、ボヴァリー夫人がそう思った、という情報である。
これのどこが文学上の技法の一大変革なのか。それは情報を登場人物の視点から制御するようになったことである。
日本語だと直接法のセリフをただ地の文に紛れ込ませただけのようにしか見えないが、フランス語原文では地の文の語りと時制が一致しているのがわかる*14。三人称を用いて語られる地の文が、ボヴァリー夫人という作中人物の視点による情報量の制約を受けるのである。
この場面でエンマは部屋の暖炉のそばで夕食を食べているので、階段の足音を聞いた時点ではそれがレオンであると確信することはできない。これがもし「階段に足音が聞こえた。レオンだった」と書かれていれば*15、それは神の視点がエンマの知らない情報を語っているということになる。小説をじっさいに自分でも書いてみればわかる。そういった書き方をすると、というか、していることに気づくと*16、なぜか気持ちが悪くなる。
なぜわれわれは全知の語り手を物語から追放したいのか。全知の語り手がすべてを知ったうえで、読者にとって知る価値のある情報をかれの望む順序で与えることによって物語世界を想起させるというやり方は、物語世界の語り手に対する従属を意味するからである。
小説を読む人間は当然それが作り話であることを知っているが、それが作り話でないと信じているフリをしながら読んでいる。物語世界のリアリティを信じようとするその努力を無駄にするのが全知の語り手による説明的な描写なのだ。全知の語り手が物語世界をディエゲーシスするごとに語り手の作為性や編集が鼻につくのなら、物語世界内の声に語らせる=ミメーシス度を高めることで抗うしかない。
3.2 全知の語り手を殺したら――ジェイムズ
全知の語り手の亡き後を語る前に少しだけもっと過去のことを見ておく必要がある。
実は、19 世紀的な全知の語り手による三人称小説というのは 18 世紀までの一人称の報告体による小説へのアンチテーゼとして生まれたものだった。一人称の報告体小説というのはつまりロビンソン・クルーソーを想像すれば早い。そこでは語る人物が視点人物であり(事後的な報告だから物語世界内の時間と語りの時間にずれはあるが)、先に説明したような物語世界のリアリティを損なうような陥穽はない*17。ではなぜ作家たちは全知の語り手による多元的三人称の語りを生み出したのだろうか。
話は単純で、一人称小説では書けることが私的なスケールにとどまるからである*18。
というわけで、先述の全知の語り手が物語世界の実在性を脅かすことの解決策として、ただ過去の一人称小説に回帰することはできない。
そこで現れたのが自由間接話法なわけだが、作家たちの創造性はさらに次の手を繰り出す。たとえば意識の流れがそうだ。自由間接話法を取り入れて発展したこの手法では個人の意識を書くことそのものを主題化した。というより、個人の意識を書く手法を主題化した。
ここではモダニズム直前の作家、ヘンリー・ジェイムズを取り上げよう。「メイジーの知ったこと」である。
メイジーは幼い女の子で、両親は離婚したが互いに親権を譲らない。そのためメイジーは半年ごとに両親の家を往ったり来たりするという複雑な生活を送る羽目になるのだが……というあらすじの小説だが、あらすじよりも重要なのはこの小説の地の文がメイジーの視点から書かれていることだ。とはいっても、六歳の女児の語りによる一人称小説という意味ではなく、この小説の語り手はメイジーの視点から物語世界を語るという意味である*19。
三人称を用いて書かれた小説で、かつ物語世界内の一人の人物の視点、情報を用いて語るという手法は 19 世紀の小説の語りを超えるものだが、「メイジーの知ったこと」の面白いところはその手法を主題のために奉仕させたところにある。
物語のはじめのメイジーは六歳児なので当然その現実認識や価値判断は大人のように判明ではない。そんなメイジーを視点に据えることで大人たちの汚い欲望渦巻く世界を相対化し、思いっきり皮肉を利かせることができる。愛憎渦巻く世界を、その愛憎からもっとも離れた登場人物から描くことがジェイムズの目論見であった。そして、この小説は当然メイジーが「知る」ことで変化するという話でもあるが、これも視点を固定することによって成功している。
まとめよう。あまり紹介するといくら時間があっても足りないので割愛するが、ジェイムズやそのあとのモダニズム作家たち*20は 19 世紀的な小説の語りの節操のなさへの批判から、語り方のスタイル、形式に強烈な執着を見せた。かれらが物語るときは、「誰が」「どこから」「なんの資格で」語っているのか、常に自覚的であったと言っていい。
全知の語り手が成形した物語世界は消え、「誰か」の視点から物語世界を描くことが可能になった。しかも、えてして説明的な(ディエゲーシス度の高い)心理描写は抑えられ、物語世界に現れた素材(セリフ、身振り)からそれを推察させたり、三人称の語りに自然と物語世界内の人物の内心を溶け込ませることで、かなりの程度小説から「作り話」感を味わわせるような興ざめは消えた、はずだった。
4. そして物語世界が歌い出す
——くそ、問題は声に出して
こんなに物語とその語り方は進歩したのに、ギャディスはまだ気持ち悪さを覚えていた。かれの目にはそれまでの文学における語りがすべて嘘に見えている。
語り手が存在する限りこの気持ち悪さは消えそうにない。語り手はどうやったって物語世界内にある素材から自由にそれを取捨選択し、配列し、加工し、編集する。さきの「メイジーの知ったこと」の例で言えば、たしかに物語世界の語り手はメイジーの視点からつつましく自らの判断を交えずに物語世界を描いている。しかし、メイジーの見聞きしたものからテーマに関連するものを選んで記述したこと、そもそもメイジーの視点を採用したこと、文章表現上に直接現れないところに語り手の権力は依然強く働いている。
文学はその表現の細部でディエゲーシスすることをやめ、ミメーシスするようになってきたが、小説全体の構造としては相変わらず物語世界をディエゲーシスするなにものかがいる。ギャディスにはそれが耐えられなかった。
ギャディスの頭の中に物語世界はある。この物語世界にそのまま語らせたいというのがギャディスの願いだった。語りの作為性から逃れたがるギャディスの潔癖な戦いがはじまる。
物語世界にそのまま語らせたいのであれば、盗聴器と隠しカメラ*21を使うのが一番である。こうして『JR』の語り手(そう、どれだけあがいても語り手は存在するのだが)は『JR』の物語世界における舞台のそれぞれに盗聴器と隠しカメラをセットし、マサピーカ郊外のバスト邸からその録画と録音を再生し、息をひそめる*22。以降この語り手はシーンを移動するわずかな瞬間のみ顔を見せることになる。
盗聴器は物語内の音をすべて録音し、再生する。語り手は手を加えずにそれを文字に移す。注 3 のようなルールも使えば、声を文字にするのはそんなに難しくない。小説というのは単線的な表現形式なので、一度に描写できるのはどうしても一場面である。そのため、場面は移動する必要があるのだが、F4 のように、物語世界内の人物の移動や電話によってこっそりと場面移動を行うことで、語り手の都合によって場面が切り替えられた、という印象は極力抑えられる。
ある場面で語るべきことをすべて語ったら、改行を挟んで、「別の日……」式の場面転換は語り手の強権の乱用に他ならない。ギャディスは視点移動においてすら、語りの内的論理より物語世界の秩序を重んじた。
さすがに音声だけでは描写しきれない*23ので隠しカメラも使う。ただし、そこに語り手の主観的な評価はさしはさまず、誰が描写しても同じになるように、「○○が××した」とだけ描写する*24。価値語でない、客観的な形容詞や副詞は用いてもいい。
ところで、なぜ視覚情報より音声情報を優先するのか。答えは音声情報のほうが文字列に変換する際の齟齬が抑えられるためである。
発話するという行為それ自体は「音を出す」行為である。発話された「音」は高低や強弱などのイントネーション、声色、話すスピードなどの文字列に移し替えられない要素を多々持っているとはいえ、われわれが発話するときに想定されている「音素の並び順」そのものはアルファベットによって完全に写し取ることができる*25。
ところが、視覚情報は一度抽象されないことにはまず文にすることができない。今あなたが見ている景色そのものを文章化することを考えてみてほしい。いや、あなたは今わたしのブログを読んでいるのだが、視界の端にはモニタのベゼルが移っているかもしれない。机の上には『JR』もあるはずだし、この本は大きいから視界に入っている可能性も高い。それなのに、あなたはいま見ている景色を「わたしはいま『JR』について書かれたブログを読んでいる」とだけ表現するかもしれない。しかもこの表現には無数のヴァリエーションがありうる。この記事を読んでいないなら、「『JR』について書かれたブログをモニタが表示している」と書いてもいい。結局のところ視覚情報の文章化はそれを抽象化して語る人間の当座の関心によって大幅にぶれるのだ。
そのため『JR』の語り手は、よりミメーシス度の高い音声情報に重点を置き、視覚情報はあくまでその補助として用いることを決めた。音声情報によって物語られる物語世界の補助という目的に限れば視覚情報の文章化にも一定の制約がかけられる。
強烈なまでのミメーシスへの欲求、と、いうよりも、語ることへの忌避感がなければ、こんな特異な叙述形態にはならなかったということが理解できるだろうか。
4.1 補足
「地の文が視覚情報を「○○が××した」という形式で描写するのならば、それはディエゲーシスではないのか?」という疑問は当然であるが、ここで「○○が××した」という文がミメーシスである会話文の補足という性質を持っていることを考慮してほしい。物語世界内で起こっている無数のことから語り手の判断によって抽象、把握され、語られた文であればそれはディエゲーシス度が高いと言えるが、『JR』における「地の文」は事情が少し違うことがわかるだろう。もちろん完全なミメーシスではないが、完全なディエゲーシスでもない。
5. 『JR』の物語世界
ここまで『JR』の叙述の特徴とその方針、背景にある問題意識を見てきたが、これでやっと『JR』の物語世界そのものについて話をできることになる。
さて、『JR』の叙述の特異さがじつはなんらかの積極的表現を追求する実験というよりも、ギャディスの潔癖が要求するものであったといちおう結論しているわけだが、潔癖が要求したというだけでこんな文体の小説を書かれても、ただちにそれが美的な価値を持つわけでは全くない。ギャディスの潔癖をよく表現しているから美なのだとするのであれば別だが*26、この表現様式は当初の目的とは別のところで積極的な意味を持つようになったと考えた方がひとまず有益であるように思える。
では『JR』の主題は? 金と芸術だ。
5.1 文学史と金
なぜ文学は金の問題を扱うのだろうか? もっと深い人間理解に到達するために、たとえば愛のことだけ書いたらよいではないか。それでも作家たちは執拗に金の問題を描写し続けた。
リアリズム作家にとって金銭の問題を描くことは現実世界とそこに生きる人々を写し取るのに必須だったし、リアリズムや自然主義者たちの手法がモダニストたちに否定されたところで、当のモダニストたちが金銭の問題を好んで描いている。
なぜ金か? わたしは昔から文学作品において登場人物が金の話をするシーンを見ると興奮してしまうところがあった*27。ボヴァリー夫人がルルーに金を借りる描写は何度も繰り返され、しかもそのやり取りの細部への執関心は執拗としかいいようがない。ゾラの『獲物の分け前』なんかはそのまま 19 世紀半ばのパリの経済ゲームを主題にしている。ヘンリー・ジェイムズの後期作品、とくに『黄金の盃』はアメリカの富を扱っている。ヴァージニア・ウルフなんか作品どころか本人が年収 500 ポンドを欲しがっている。日本文学でも事情は同じだ。夏目漱石はとくに金銭の貸し借りに執着した作家だ。『三四郎』では「三四郎、美穪子、宗八」の三角関係より「三四郎、美穪子、与次郎」の三角関係(つまり三四郎は与次郎に金を貸し、そのため金がなくなった三四郎は美穪子から金を借りる)のほうがよっぽどエロティックだ。三四郎は美穪子に三十円の借りがあるが、そういえば西洋文明の根幹にはれいの銀貨三十枚分の借りがあるのであった。
金の貸し借りのあるところには人間同士の強い結びつきが生まれる。その結びつきは愛情や友情、あるいは敵意などの感情的なものからくる結びつきよりよっぽど強い。作家たちはそれに気づいていたからこそ、むしろ金銭的な力関係を軸に人間関係を描けると考えたのではないか。
ロドルフは平然とボヴァリー夫人を捨てることができた。その絆がたかが恋愛であって、金銭でなかったからだ。反対に、ルルーとボヴァリー夫人の結びつきはロドルフとボヴァリー夫人のそれの何倍も強い。結局のところボヴァリー夫人が破滅するのはルルーのせいなのだ。
しかし、愛よりも金のほうが重い、この事実にいち早く気づいたのはリアリズムを待つまでもなく、まずゲーテその人だった。
H. C. ビンスヴァンガーは『金と魔術*28』の中でゲーテの『ファウスト』が「近代の経済現象の本質は錬金術的なものである」というテーゼの元に構成されていると主張した。
錬金術は二つの目的を持つ。一つ目の目的はエリクサーを作り出し、永遠の若さと長寿、精力を生み出すこと。二つ目は固体の金を作り出すこと。
戯曲『ファウスト』は周知のとおりファウスト博士と悪魔メフィストーフェレスの賭けをめぐる物語である。メフィストーフェレスの勝利条件はファウストを心の底から満足させること、その人生最高の瞬間に対して「とまれ、お前はいかにも美しい」と言わせることである。
かくして『ファウスト』の第一部は錬金術の一つ目の目的に対応する。メフィスト―フェレスは永遠の若さ、長寿、精力をもったファウストがグレートヒェンとの愛の享楽を経験することで先のセリフを言わせようとした。しかしこの試みはもちろん失敗する。
第二部は二つ目の目的に対応する。地中に埋蔵されたありもしない財貨を担保に兌換紙幣を発行する(!)というきわめて経済学的なあらすじだ。途中を端折ると、結局のところファウストが上記の「とまれ、……」を言ってしまうのは、かれが皇帝から得た土地が繁栄するヴィジョンを幻視したときである*29。
愛の享楽よりも経済的な達成こそを人間が欲求することをゲーテは描いていた。
じつに脱線だらけだが、文学が金の問題を書くことがそれほど奇妙なことでも、邪道なわけでもない、むしろそれが伝統的な素材であることが確認できたとしよう。
5.2 『JR』と金
JR もまた金に取りつかれたキャラクターである。JR のお金もうけは確かに最初はかれの金銭的欲求によって始動されたが、そのあとの展開はむしろ金の動きそのものに JR が引きずりまわされていると言った方がふさわしいようなものになる。JR の金儲けはストックを増やすことではない。フローを拡大し続けることだ。というか、近代以降の経済におけるすべての金儲けはこういう形をとるしかない。そこでは人間が経済を動かすだけではなく、むしろ経済が人間を動かしている。
JR のひたすら拡大し続ける事業は必然的に周囲の人間を巻き込む。この小説の語り手は前述のように非常に限られた権力しか持たないので、ストーリーを展開させる力が非常に弱い。ギャディスはこの経済が拡大しようとする力を物語の進行に使うことにした。また、エドワード・バストが JR の事業に手を貸すことになったのは金銭の貸し借りが原因だ。経済の前に進んでいく力と、金銭の貸し借りが人を縛る力の二つを用いてこの小説は物語られていく。
そして、なぜ JR は子どもなのか? 大人が金を求めるときには動機がある(ようにふるまう)からである。JR においては金の流れの自律性こそがテーマであったから、金が金を求めることを表現するためには、まったく無目的に、金をそれが金であるという理由で求める子どもを主人公に据える必要があったからだ。
5.3 『JR』の芸術家と金
——して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、
三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
夏目漱石『草枕』
『JR』のもう一つの大きな主題が、こうした暴力的な現代の経済の中に芸術家はいかに生きているのかという点にあるのは明白だろう。
『JR』には五人の芸術家が登場する。エドワード・バスト、ジャック・ギブズ、トマス・アイゲン、シェパーマン、シュラムだ。かれらはそれぞれに挫折している。バストは金がないために自分の創作をすることができない。トマス・アイゲンは一度傑作をものしたが、今では生活のためにスピーチ原稿を作成している。シェパーマンは絵を描くために血を売り、金を持っているパトロンに認められずに苦悩する。
ウルフが挙げた年収 500 ポンドと鍵のかかる部屋という条件を取り上げてみよう。ウルフが述べたのは女性が文学をものするための必要条件だったが、エドワード・バストの創作活動を阻害しているのもこのふたつの条件だ。ただし、ウルフの言う年収が不労所得で、鍵のかかる部屋はプライバシーのために必要だったのに対して、バストが求める年収というのは JR からの賃金やスポンサーからの収入だった。バストが求めているのはプライバシーなどという高尚なものではなく、静寂な自分だけの時間だった。バストの部屋には鍵がかかるが、多くの人間が訪れるし、無数の郵便物が届くし、そもそも鍵がかかっていたところで電話はかかってくる。
ウルフの時代から数十年、芸術家の要求はだいぶ慎ましくなった。芸術はほかに不労所得のあるものが余暇でするものではなくなり、芸術家は自らの芸術を社会やパトロンに認めさせることで、あるいは芸術とは全く関係のない仕事で生計を立てることを自然に受け入れている。
そんなふうに世間と経済的なかかわりを持ちながら生活することを受け入れた芸術家たちにとって、世間に自らの芸術を、評価させることは大きな関心事となる。芸術が好評を博し、金銭的な見返りを得ることは、次の創作のために必要なことであるからだ。
そんなわけでエドワード・バストは JR に芸術の価値を認めさせようとするが、JR にはもちろんカンタータの良さがわからない。映画のために作曲を依頼してきたクローリーは楽器の違いさえわからない。それでもかれらは金を渡してくれる。
では、『JR』は、美的には愚鈍だが金を持っている層にへつらって芸術の世界に生きようとする崇高な芸術家たちに希望を見出すという筋書きなのだろうか。『JR』のテクストはむしろ芸術家たちにも冷めた目線を注いでいるように見える。
現代世界で芸術を成り立たせているのは金を持っている側だ。エドワードが芸術の価値を人に語るとき、それが金のためであるとは認めないだろうし、本人もそうは思っていないだろう。しかし、かれらの真の動機を金を持っている側は見抜いている。
そしてバスト君、わしの信頼を示す証拠として、手付金を二倍に引き上げさせてもらおう。(551 ページ)
芸術だの文学だのとご託を並べている連中が本当に言いたいのは原稿料の前払いをたんまりよこせってこと、(638 ページ)
しかも、かれら芸術家たちはじっさいに芸術的に優れた能力を持っているかという点についても『JR』の記述はあいまいだ。バストの作曲は難航し、オペラを作るはずが最後には組曲を作る計画にまで後退している。ギブズの文章はどうみても浅薄な引用の寄せ集めでしかない。
じつは、『JR』の中で真に芸術的な世界に生きている存在は、一人しかいない。知的障害を持つフレディ・モンクリーフである。フレディについて、自身芸術家であるはずのギブズが寄宿学校時代を思い出してこう言っている。
知恵が遅れ*30ていることによって理性という一角を欠いた三角の世界に住んでいるフレディのみが真に芸術家であると読み取るのはいきすぎだろうか?
とにかく、『JR』は四角の世界に生きる芸術家たちとそれを取り巻く資本主義社会についてできるだけ中立な観察をしようと試みている。そう結論付けておきたい。
6. まとめ
いろいろあって、『JR』は複雑化した現代経済、現代社会の混沌を描いており、またそこに生きる芸術家の姿を描こうとしている、というきわめて穏当な、というかたぶん常識的な読み方に落ち着いた*31。
ギャディスはたぶんポストモダン作家ではない*32。一目には強烈に特異な文体も、形式へのこだわりから生まれたものであって、しかも物語世界に対する愛着やテーマに対する真摯さはかれのなかで非常に強いものだ。
モダニズム文学はどれだけ実験的な手法を用いても、それは表現を真に迫らせるためであり、作品に統一的な意味を持たせるためだった。文学におけるポストモダニズムは*33ある種の開き直りから、不確定性や虚構性に耽溺し、書くことは真剣な主張をすることではなく、それまでの文学のまじめさに対する批判的な目線を持って、自覚的に言語で遊ぶことになっていった。そういう意味で、ギャディスはポストモダン作家ではない。
ギャディスはたぶん大真面目に現代社会で芸術をするとはどういうことなのか、について考えていた。『JR』の描写はまじめすぎて、明白な答えを与えてくれるわけではない。『JR』は資本家にも芸術家にも等しく辛辣であるし、とはいえ現代社会から遊離して生きることはできない。
加速し続ける資本主義経済と喧騒のアメリカ社会のうちで、いかに芸術家は存在できるのか。それでももしこの問いに答えらしきものがあるとするならば、はじめて世に問うた著作が無視され、賃金労働をしながら、諦めずに自らのやりたいことを追求した大作を完成させることができたウィリアム・ギャディスという作家そのものに求めるべきだろうか? それではロマンチックすぎるだろうか。
*1:映画論で diegetic sound と呼ばれるもの。ただし映画論における diegetic という単語はもちろん diegesis に由来するが、ナラトロジーにおける Diegesis とは違う意味合いを持っているため混乱のもとかもしれないと思って注に回した。
*2:「音声をそのまま文字にする」ことが可能であるのかは別に論じる必要がある。後述。
*3:また、日本語訳では適宜補われているが、原文では句読法も標準的な用法からかけ離れている。
竹本憲昭「 雑音と断片 : ウイリアム・ギャディスの「JR」について」(『 奈良女子大学文学部研究年報』42巻、1998 年)
たとえばこの論文で紹介されている
——Yes no wait look listen Mister Davidoff {...}
という箇所は木原訳では
——ええ、いえ、待って、あの、聞いてください。デビドフさん、
と訳されている。
原文においてダッシュ "——" はおそらく発話者が変更されたタイミングで挿入され、リーダ "..." はその箇所では(たとえば電話先の)相手がしゃべっているため沈黙していることを表している。電話の相手がその場にいないために盗聴器が録音できなかった沈黙を埋める記号ということだ**¹。また、カンマは文の意味とは無関係に、息継ぎのタイミングで挿入されている。つまり、発音されない記号もすべて音声を機械的に反映する形で用いられていると考えられる。
**1 ただし、電話相手の声が叙述に現れるシーンもある。736 ページ下段のような例だが、ここでは受話器が地面に落ちていることに注意。受話器が落ちることでその場面の盗聴器は電話相手の声を拾うことができるようになったのだ。
*4:後述。
*5:「きっと」「もちろん」「まさに」「~ね」など、「話し手の判断や感じ方、主観的な態度」を表す部分。文は命題を表す部分とモダリティを表す部分でできていると考えられる。
*6:ただし、発話の内容や形態(敬語法など)から発言者や状況を推測する必要があり、句読点やカギカッコに頼ることができない点だけでいえば日本語の古文と大差ない。
*7:Thomas M. Sawyer "JR: The Narrative of Entropy" International Fiction Review 10 (2), 1983
木原善彦『実験する小説たち』(彩流社、2017)
*8:定義による。
*9:定義による。
*10:以下、文学史に詳しい方は 4. まで読み飛ばしていただいてかまわない。
*11:阿部吉雄「ディエゲーシスからミメーシスへ : 虚構言語における状況定位表現の歴史的変遷」(1)~(5)『独仏文學研究』他に掲載。
*12:「ディエゲーシスとミメーシス」は「説明と描写」「語ることと見せること」と言われるとわかりやすいことが多いようだ。ディエゲーシスにおいては物語世界内の出来事は物語世界の外から客体化して語られる(物語世界内の始点が物語世界を客体化して語ることもできるが)。ミメーシスにおいては物語世界内の事物がそのまま模倣される。「メロスは激怒した」という地の文がディエゲーシスで、「「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ」」というセリフがミメーシスである。セリフは完全にミメーシスだが、地の文がすべて完全なディエゲーシスであるわけではない。たとえば自由間接話法は地の文にミメーシス性を持たせる試みの一つとみなせるだろう。
*13:物語世界外の語り手が異質物語世界的で焦点化ゼロの語りを行う。
*14:« Elle entendit des pas dans l'escalier: c'était Léon. »
*15:ちなみに筑摩版全集の伊吹武彦訳では「階段に足音が聞えた。レオンであった。」となっている。
*16:だいたいは自分が語っている物語に夢中で気づかないだけ。
*17:ただし、一人称の報告体小説においては語り手がみずからの体験=物語世界をディエゲーシスしていることには注意が必要だろう。語り手はその体験を語る価値があると思っていて、物語の形に編集している。そこでは物語世界が直接語るのではなく、あくまでも語り手が体験をもとに創作した物語を語っている。
*18:デフォーの、つまり近代小説の起源には決義論の影響が見られる。一人称小説が最初に主題にしたことは一人称の語りによって扱える、かつ一人称の語りで扱うのがふさわしい題材、つまり良心の問題であった。
河崎良二「デフォーと十六、十七世紀イギリスの決義論」『人間文化学部研究年報』8(帝塚山学院大学、2006)
*19:物語世界外の語り手が異質物語世界的だが固定内的焦点化された語りを行う。ちなみに、『ボヴァリー夫人』の語りは不定内的焦点化に分類できる。ただし、語りの水準と人称は極めて複雑。
*20:マルセル・プルースト、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ……
*21:登場人物に意識されない感覚器官であればなんでもよかったので最初は「一個の不可視の耳と目」とか言おうと思っていたのだが、『実験する小説たち』で「盗聴マイク」という比喩が使われていて便利だと思ったのでマネすることにする。
*22:いわば、物語世界内の非人格的な装置が異質物語世界的で外的焦点化された語りを行う、とまとめられよう。
*23:面白いのはこれだけ寡黙な地の文が、セックスを描写するときだけやたらと饒舌になることである。人は行為中にあまりペラペラとしゃべるものではないので仕方ないが、それにしてもこの表現上の外れ値はなにか注目すべきであるようにも思える。たとえば 594 ページからの描写はほとんど普通の小説みたいではないか?
*24:注 4 の「透明な地の文」とはこれを指している。
*25:ただし、再現されたアルファベットの並びからもとの音素の並び順を再現することが完全に可能というだけで、発話された音素の並び順から一意にあるアルファベットの並びを導くことはできない。同音異綴語や、わかち書きの問題を考えれば明らかだ。結局のところ語り手は実際に発話された音声だけから文を作っているように見えて、発話者の頭の中にある言語をこっそりと参照している。書かれたことばと話されたことばについては
野間秀樹『言語存在論』(岩波書店、2018)が参考になる。
*26:じっさいそう結論することは可能ではあるが。
*27:誰にも趣味を理解されたことがない。
*28:ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー『金と魔術』(法政大学出版局、1992)
*29:かれが干拓工事の進捗する音と聞き間違えたのは、じっさいにはかれじしんの墓穴を掘る音であった。
*31:まだ一回読んだだけなので二回目、三回目と読んだら感想は大いに変わることだと思う。
*32:ちなみにこんな益体もないリストが存在する。けっこうおもしろい。『JR』もポストモダン文学に括られているが、まぁ『ハムレット』もここではポストモダン文学だとされているようだし……。
*33:といってもじつはあんまり読んだことないが……。