たまにはこっちのブログも更新しないと忘れられちゃうねってことできょうは玩具堂先生*1の新作『奇想怪談×天外推理 今日も彼女と“溜息”のオカルト研究会』(MP エンタテイメント)について。ネタバレなしです!
個々の短編の感想については別の場所でやるとして*2、ここでやりたいのは「反証主義」の話。
ヒロインの宇都機理世先輩はオカルト大好きでオカルト研の部長なんですが、学内のネット掲示板に書き込まれる怪談の真偽を検証するってのがその活動なんだそうです。まぁミステリなので合理的な解釈が付いちゃうわけですが、いつか合理的な解釈ができない現象に遭遇したらそれがほんものの怪異なのではないか、というわけ。おお、推理を尽くしてほんものの奇蹟を追い求めるウエオロくん(井上真偽の『その可能性はすでに考えた』に出てくる探偵)のオカルトバージョンだ……。あるいはつねに切羽詰まってる刀城言耶みたいなもんですかね(?)
ところでそんな彼女が口にするのが以下のような理屈。
「(……前略……)反証主義って、知ってる? 科学的論理っていうのは、実験や観測で確認できる事柄に限るって、考え方。たとえば……「ピンポン球は水に沈まない」と言われたら、「待ちな、沈むかもしれないぜ」と、水に浮かべてみれば確認できるから、科学。逆に「死後の世界は存在する」と言われたら、どんな方法でも検証できないから、科学では、ない……幽霊にアリバイ無し、だね。
オカ研が求めるのは、それ。本物の、それ。だから、怪談に果たして反証可能性は、あるのか……取材して、疑って、徹底的に検証するんだよ」
なるほど。理世先輩は自認反証主義者であり、反証主義的な検証によっていつの日にかほんものの怪異に出会おうとしているらしい。ところが、彼女の主張に反して、
- 理世先輩がこだわっているのは反証可能性ではなく反証の存在/非在である
- 理世先輩がやってるのは単なる反証主義というより論理実証主義(あるいは自然主義、あるいは経験主義)と結びついたそれである
- 理世先輩は彼女の方法論的手段のせいで怪異と出会うことは不可能である
というようなことがいえるのではないかと思う。
どういうことか。まず 1. について。理世先輩によれば、「怪談に果たして反証可能性は、あるのか……取材して、疑って、徹底的に検証するんだよ」とのことだが、「取材して、疑って、徹底的に検証する」ことによってある理論や仮説が反証可能性を持つかどうかは判定できない。むしろ、反証可能性を持つ理論や仮説を「取材して、疑って、徹底的に検証する」ことでその理論や仮説がじっさいに反証されるかどうかがわかり、それをもってその理論や仮説の真実相当性が高低するというのが反証主義の理屈である*3。
さて反証可能性が問われるのはまずもって命題に対してである。「天狗」そのものは反証可能でも反証不可能でもあり得ないが、「天狗は実在する」という命題については反証可能性を問いうる。「天狗は実在する」が反証可能であるかどうかについては、「天狗は実在する」という主張において「天狗」「実在する」という単語をどのような意味で用いているかが判明であり、どのような観測データがあればこの命題が反証されるかが定まっていて、アドホックな仮説を無限に追加することで当初の主張に固執することがない(あるいはそういった手段が当該仮説を含む理論にあらかじめ用意されていない)ときかつそのときに限り反証可能である*4*5。ところで理世先輩(およびおそらく用いる用語から彼女が依拠しているであろうと推察される井上円了)にとって怪異が実在するという命題は反証可能であるという前提がすでに受け入れられている。反証可能性は証明の対象ではなく前提である。彼女はすでに「怪異が存在する」という命題に反証可能性を認めており、彼女がこだわっているのは反証可能性ではなくじっさいの反証の有無である*6。
つぎに、2. について。彼女によれば「死後の世界は存在する」は反証可能な命題ではない。どのような観測データがあれば「死後の世界は存在しない」といえるのかが明らかではないということだ。「死後の世界は存在する」という命題の意味を、「ある人格がその死後もなんらかの形で保存され、なんらかの形で思惟活動を行う」というふうに理解すれば、そして「思惟活動は脳などの特定の物理的な機関が生化学的に機能していることを必要条件とする」「死は脳などの特定の物理的な機関の生化学的な機能が停止したことを意味する」というふたつの前提を容れれば、当初の命題は分析的に偽であるからトリビアルに経験的に反証不可能である*7。脳などの特定の物理的な機関が生化学的に機能していることを思惟活動の必要条件でなく十分条件として捉えたとしても、(つまり他のなにか*8によっても思惟活動が実現されると仮定したとしても)「われわれの経験的探究は物理的事実に還元できないものにアクセスできない」という経験論的な仮定を入れることで、当初の命題は経験的に反証不可能になる。ここまでの理屈を否定する人間はまぁ現代人にはあまり多くなかろうと思う。
いっぽうこうした現代人的な前提を受け入れなければ「死後の世界は存在する」は反証可能な命題となる可能性がある。意志や意識、思惟が物理的な存在者や既知の自然法則にとらわれないのだとすれば、そしてわれわれは物理的事実に還元できないものについてもなんらかの手段でアクセスすることができるのだとすれば、特定の「実験(――たとえばこっくりさんなど)」によって「死後の世界」が反証されたりされなかったりすることが可能であろう。
いや待てこっくりさんだなんてそんな手段は「科学的」ではない――そういいたくなるところだが、いま当の「科学的」というタームを反証可能性を用いて定義していることを思い出そう。「科学的な手段を用いて反証可能性を定義できるものが科学的なのである」とするのは明白な循環論法である。よって反証主義者は「科学」と「疑似科学」*9を弁別するのに、反証主義だけに頼ることはできない。ふつうは反証主義に科学的実在論や自然主義、経験論をミックスしてわれわれは「科学*10」としている。しかし、反証主義とそれらの結びつきは論理的に必然的なものではなくて、偶然結びついているにすぎない。
彼女が反証の有無を検討する方法論について「実験や観測で確認できる事柄に限る」といっているのはむしろ論理実証主義や自然主義、経験論を強い方法論的前提として置いていることを想起させる*11。
3. について。ところで理世先輩の研究対象はオカルト的な存在者である。オカルト的な存在者にもツチノコ、カッパから超能力者、呪い、幽霊などいろいろあるであろうが、これらの存在者が実在するという命題は理世先輩のような論理実証主義的、あるいは自然主義的、あるいは経験論的手法に基づく反証主義のなかでほんとうに反証可能性を持ちうるのであろうか? 反証可能であるにも関わらずあらゆる手を尽くしても反証できなかった命題であればなんでも真実らしくなるわけではないのではないか、ということだ。
オカルト的な存在者は二様に分類可能である。
a. 未確認/未発見であることが本質的に定義に含まれるもの
b. 超常的、超越的、反自然的であることが本質的に定義に含まれるもの
のいずれかだ(重なることもある。幽霊は a. かつ b. だろう。)。
a. はツチノコやカッパである。ツチノコとはなにか? 槌状の蛇に似た生命体である。ここに Wikipedia とかに書いてある諸特徴(「チー」などと鳴き声をあげる、とか)を任意に加えてもよい。これらの特徴を全て有する生命体がたとえば山梨県で発見されたとしよう。その生物がさる大学機関に寄贈され研究され、既存の生物学の研究対象に組み込まれ、学名が付与されたとしよう。さてそれは「ツチノコ」か? あるいはもはや単なる新種のヘビか?
ツチノコやカッパはたしかにそれだけで物理法則に反するわけではない。しかし、かれらについての観測データが伝聞やあいまいな目撃証言以上のものになったとしたら、それはもうツチノコやカッパではなくなり、そういう種類の新種の生物になってしまうだろう。UMA はその定義からして Unidentified でなければならないからだ。そして、Unidentified なものの実在は、証明することも反証することもできない*12。そういうわけで a. に属するタイプのオカルト的な存在者が存在するという命題はその定義上反証可能でも反証不可能でもない。
b. は超能力(超能力者)、呪いなどである。これらはただちに定義から反証可能性が問えなくなるタイプの存在者ではないが、論理実証主義(あるいは自然主義)を含む限り反証可能でも反証不可能でもなくなってしまう。なぜなら論理実証主義や自然主義において「観測」が可能なのは、あるいは有意味であるとみなされる観測データは、物理的な量に還元可能なものでありかつ既知の物理法則にしたがう/あるいは既知の物理法則と矛盾しないなんらかの法則にしたがうものであるという前提があるからである。ひるがえって超能力や呪いなどの超常的存在者はなんらかの奇蹟あるいは法則破りをその定義に含む。たとえば超能力者の持つ超能力がこれまで未知だった素粒子やなんらかの力、しかし既知の物理法則と矛盾しないそれらによって説明されたら、それは超能力ではなくそういう種類の自然的な能力になってしまうだろう。
これをようするに、法則破りをその定義上に含む存在者の実在を、経験的な観測によって擁護することはできない*13し、ぎゃくに経験的な観測によって否定することもできない。
理世先輩はオカルト的な現象を多角的に検討して合理的な解釈を施す。それがいつの日か挫折して「ほんもの」の怪異と遭遇することを夢見ている。しかし、彼女の推理、解釈の試みをどれだけ強固に執拗にはねのける現象があったとして、それが最終的にオカルト的な存在者の実在を認めることにつながることは絶対にない。彼女が採用してしまっている反証主義と自然主義がそれを論理的に認めないからだ。
天狗の事件では誤解や思い込みという解釈で自然的な範疇で天狗現象に説明がついた。しかし、なぜほんとうに天狗がいたのではいけないのだろうか? 天狗はいて、子どもをさらい、歴史を改変したのかもしれないではないか。ひとを狂わせるおかしな家は既知の科学的理論によって説明された。ではなぜそれを真正の呪いとみなしてはいけないのだろうか? これらの解釈を認めないのは彼女が採用している方法論である。彼女が積み上げている反証は賽の河原の小石にすぎない。
そもそも怪異とは論理が世界を埋め尽くせなかった片隅にひっそりと生きているようななにものかではない。論理の小島がそこに浮かぶ海原のすべて、論理の星が輝くその背後でうごめく闇のすべて、そういった憧れと恐れのなかに住まうものが怪異だったはずなのだ。そしてそのことは――たぶん理世先輩もとっくに理解しているのだ。
*1:東京創元社に苗字付けられたのなんなの? うちはお堅い出版社どすから苗字ついてないと出版させまへんでみたいなのかんじてあれなんかイヤでした。いやただ作風の違いで自主的に名義を変えただけなのかもしんないすけど……。
*2:二話目の「羅切丸の怪」がいちばん面白かったです。ネタ的にというよりも首切りもののヴァリエーションとして首切りではできないことをやってるのが新奇性あってよい。
*3:いちおう教科書的な説明をまとめておくと反証主義とは 1. 反証可能性を科学的であるかどうかの判定基準にする 2. 反証可能性を持つ命題や理論が科学的に有意味な仮説であるとする 3. より厳格な反証テストを耐え抜いた仮説ほど真実らしいとする というみっつを受け入れる立場のことである。
*4:ところでポパーのもとのことば遣いだと存在命題はその存在領域が設定されてないと反証可能性があるとはみなしづらく、もっぱら全称命題が反証可能性の理想像とみなされていたみたいだが、まぁそのへんの細かいことはポッパリアンにまかせましょう。以下この稿でいう「反証主義」はポパー的なそれではなく理世先輩的に解釈されたものとしてのそれを指します。
*5:あとこのさいデュエム=クワイン・テーゼとかには触れません。
*6:おそらく彼女は反証可能性を de dicto な様相としてではなく de re な様相として理解してしまっているのではないか、あるいはふたつの様相を混同しているのではないか。
*7:分析的に(=単語の意味のみによって)偽だから経験的な観測データによって反証する余地がないという意味である。「結婚している独身者が存在する」という命題を真にしたり偽にしたりする観測データなどというものが存在し得ないことを想起すればよい。
*8:たとえば息、たとえば魂、たとえば能動知性……。
*9:ここでの「科学」が「科学的であるつまり反証主義的である」を意味しないことに注意。ここでの定義による「科学的」ではなく、より実質的な意味での「科学」である。
*10:経験‐科学とでもしようか。経験論的でない反証方法に頼る科学として霊的科学とかなんかそういうのもありうるだろう。これも十分に反証主義的であるという意味では科学的である。
*11:科学哲学に詳しい人は論理実証主義では科学が誤り得ることに説明が付けられないとかそういういろんな弱点があるから反証主義がでてきたんだろというような感想を抱くかもしれないが、その反証主義内部における科学と疑似科学の境界設定問題として改めて理世先輩は論理実証主義(的な態度や以下略)を境界画定に用いている(のではないか)という意味である。
*12:Unidentified が定義に含まれる存在者の実在を確認すればそれは Unidentified ではなくなってしまい、確認できなければ実在するかどうかわからない。
*13:形而上学的に擁護することはできるかもしれないが。ルイスの局所的奇跡みたいなやつだ。
