Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』

 

  つまら~ん。

 『論考』の世界観をパロディしたというよりは、論考を最大限に誤読したアホの世界観をパロディしたようなかんじがする。論考の独我論を現象主義的なそれとして真に受けて、それを表現するために世界に一人だけという設定にして、さらに5.6~5.641あたりを目いっぱい誤読して「私の言語」が世界を記述する唯一の方法だということにして*1、そういう世界観で書いたことを自分でどんどん自己否定することで世界の像がぼやけていくかんじを出したかったのかもしれないが、なにもかもおもしろくない。ぜんぶありがちな誤解だし。誤解に基づいているから愛人なのか? しょうもな~。

 ツイッターとかで感想みても「何がなんだかわからないが、すげえ」*2みたいな感想ばっかでうんざりする。何がなんだかわからないのはわたしも一緒だが、どこがすごいんだかさっぱりわからない。みんな無理して読んで、若島正柴田元幸*3と DFW が褒めてるんだから褒めないわけにはいかないとおもってがんばって感想ひねり出してないか? 感想に困った人間はだいたい「孤独感」がどうのこうのと言い出すが、それは前述のように悪質なパロディで表現されてて評価する気になれないし、ほかにも文体のリズム感とかグルーブ感がどうのとかいってるけど、これはだれにでも真似できる文体じゃんね、やらないけどたとえば『愛人』と同じような文体で書かれた文と『愛人』そのものを比較して、なぜ後者のほうが優れているのか具体的に説明できないかぎりは『愛人』の文体がすごいとは言いたくない。ていうかほんとにこの小説の文章読んでておもしろかったか? ほんとに? それとも『愛人』はこういうコンセプトとそれを表現するための文体をおもいついたことそのものが評価の対象になるべきであって、実作を読む必要がない——デュシャンの泉を十全に正当に評価するために美術館に行く必要がないように——ってこと?

 けっきょく絶対的本質ってなんだったんすか? なんか INTERPRET-ME 文学がどうのこうのいってだれも一ミリも INTERPRET しようとしてないし、わたしもわたしにわからないものが即座に価値がないというほど愚かなわけではないけど、現状だれもこの小説の良さとか成功した狙いとか文体の美しさとかを説明してくれないので、集団幻覚やってるようにしかおもえない、国書刊行会は万人受けしなさそうな本を出すのは大歓迎だけどミーハーな読書人を恐喝して無理やり褒めなきゃいけない空気を作るのをやめろ! どう考えても難解な小説を「知っている作家や画家がところどころで言及されるのを楽しむのも一つの読書法だし、記憶の不確かな語り手の話が行ったり来たりする様を客観的に眺めるのも別の楽しみ方だ」みたいな言い訳を用意してやることで雑に読み飛ばしてしまったひとにもそれっぽい感想で言い逃れられるようにしてあげたりとかそういうのって優しさなんですか? ほんとに知ってる作家や画家の名前が出てきたらうれしいか? センスのある人間なら実験的な文学のよさを細かいことはよくわからなくても感得できるはず! みたいな素朴な美的センスへの信仰をくすぐるのはやめろ! この本の良さがわかってるセンスのあるはずの人間たちみんなセンスのある感想書いてませんが。

 いやまあみるに値しそうな評が出てきたらまた考えを改めるかもしれませんが、いまのところは海外文学界隈の下品さに嫌気がさしましたとしかいいようがないです。おわり。

*1:原文確認してないからあれだけど、TLP 1 が「世界はそこで起きることのすべてだ」とか意味不明な訳をされてるのもそういう誤解に引っ張っていく感じがして気持ち悪い。 この本を読んだあと「少しだけウィトゲンシュタインが近づきやすくな」ることは絶対にないことだけは断言できる。

*2:これは冬木糸一。

https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2020/07/22/080000

*3:『愛の見切り発車』で『愛人』について触れてるけど、オチが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」で笑った。「語りえぬものについては~」を「よくわかんないことについては黙っといた方がいいぜ」くらいのしょうもない道徳的な要請を述べた箴言だとおもってるタイプの人間にはおすすめできます。