前回の続き。
2. Good Old Neon について(もうちょっと細かく)
2.1 GONe と明白な隠喩
隠し立てや韜晦をするにはあまりにも自分のアイディアの普遍性と明晰さと決定力に自信がありすぎたのだろう、Good Old Neon を読むにあたって、隠喩を読み解くための微妙な官能や細部を検討するための陰湿な記憶力は求められていない。ニール Neal が自殺した理由は本文中に明記されているように明らかで、自身のきわめておおきな空虚感と、容易に操作される周囲への絶望と、愛することができないのではないかという恐怖と、これらすべてがアメリカ人の陳腐なクリシェにすぎなかったという事実である。GONeを読み解くにあたって、シーモア・グラスが自殺した理由を思い描くためにミュリエルの俗物性やシビルがすでにイノセンスを失いつつあることを描写の細部から読み解いたり*1、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ルージンを自殺に導いた強迫を理解するためにその小説が子ルージンが小学校に入学して名ではなく姓で呼ばれる存在になったところからはじめられたことを記憶しておいたり*2する、そうしたなかば手品か超能力めいた読書術を身につけている必要はない。もちろん GONe に隠喩をはじめとする表現の綾がないということにはまったくならない。さっきからかってに GONe と省略しているが、タイトルの頭文字をこうしてとればこの小説が「逝ってしまった」ニールの物語であることを表していることは明らかだし、ニール Neal がネオンサイン Neon によって象徴されているのは、ネオンサインが(たいしてよくもないものをよいものと誤認させて売るのが仕事である)広告業界の象徴であること、派手な光を発するネオン管はその内部がほとんど真空(姉のファーン Fern の名前がこれだけ頻繁に登場するのにもかかわらず、ニールの名前は一度しか登場しない)であることを考えれば巧妙というほかなく、DFW の文学的才能がメタファーの次元で劣るところがあったと主張するのには無理があって、じっさいあのミチコ・カクタニも「どうやらなんでもできるらしい超絶技巧の才能を持つ作家」と述べているわけだし*3、たださいしょに述べたように DFW はあまりにも自信がありすぎたのだろう、テーマを堂々と披歴して議論する(表現するというよりそういったほうがてきとうにおもえる)ことになんのためらいもなかったし、そのことでメタファーが自明なものになるというちょっとしたパラドックスにはなんの掻痒もおぼえなかったらしい。ちなみに、これ以上続けてもお互い時間の無駄だろうから紹介するのは控えておくが、自明な、つまり本文中に明記されていることとまったく同内容のことしか伝えないメタファーや仄めかしならまだまだあって、たとえば、Neal はラテン語の nihil(無)の縮約形 nil と同音であるし、Neal が Neon であるとするならば、姉の名前、Fern は Ferrum(鉄)のことであろう。ネオンは希ガスできわめて安定性が高く、というよりまったく変化せず、ネオンについては化合物が発見されていないいっぽう、鉄は容易に化学変化する。これは4 歳のころから詐欺師的な人格で、そのまま変化することのなかったニールと、子どものころから変化しつつ成長し、内実の伴った(とうぜんだがネオンより鉄の方が比重は高い)魅力的な大人として成長したファーンの対比となっている、うんぬんかんぬん、というようなことである。
2.2 GONe と文体について
このようにちょっと真似してみただけでぐったりしてきたが、GONe の文体は異常だ。もっとも長い文章で 450 単語以上ある。これは日本語に翻訳すればおよそ 2 ページ以上一文が続くということになる。DFW はなぜ異常な長文を採用したのだろうか? それが作風だから、というのがたぶん答えなのだが、DFW が書いたほかの文章を読んだことのない強みを活かして、すくなくともこの小説のなかでこの文体がどう作用しているのかを考えてみよう。
2.2.1 言語の再帰性 Reflexivity
GONe の英語が長文になってしまうのにはいくつか理由があるが、そのひとつに従属節の多用が挙げられる*4。
[H]is oblique, very dry way of indicating this to me betrayed a sort of serene indifference to whether I even understood that he saw right through me that I found incredibly impressive and genuine [...] (p. 164)
受験英語みたいだが、うえの文章を日本語にしてみてほしい。
かれがそれを示唆する遠回しでドライなやり方は、俺が信じられないほど印象的でほんとうらしいものをみつけたことをかれがお見通しだということに俺がきづいているかどうかにかれがある種の静かな無関心を保っていることを示していた(……)
みたいなかんじになればひとまずよい*5。
日本語でも一読でどういう意味かつかむのはなかなか難しいのではないだろうか。
1) 俺が信じられないほど印象的でほんとうらしいものをみつけたこと
2) をかれがお見通しだということ
3) に俺が気づいているかどうか
4) にかれがある種の静かな無関心を保っていること
という入れ子の構造になっている。whether や that を使えば、文を文の要素として使うことができる。言語のこうした再帰性 reflexivity*6は便利なものであり、たとえばカエサルのガリア戦記が名文と呼ばれるのは「叙述の対象となる事実の本筋と、その背景や付帯状況とが、実に手際よく主節と従属節と独立奪格句とに振り分けられており、それらの従属節における接続詞や時制や法がすべて完璧なまでに適切である」からなのだそうである*7。とはいえ、この多重入れ子をやりすぎると人間はなにが書かれているのか理解できなくなってしまう*8。レーモン・ルーセルの『新アフリカの印象』なんかはそのよい例で(知らんひとは検索してみよう!)、さすがに DFW はルーセルほど極北に行ってしまったわけではないけれども、それでも人間の認知能力に負荷をかけるような文体をあえて採用していることは変わりない。
なぜだろうか。詐欺師のパラドックスがまさにこうした入れ子の構造を取っているからである。詐欺師のパラドックスに取りつかれた人間は、自分のふるまいだけを考慮してふるまわず、つねに自分のふるまいが相手に与える印象や影響を考慮してふるまっていて、そうしてふるまっていることを気に病んでいる。詐欺師の頭のなかは "a vicious infinite regress (悪質な無限後退)" でいっぱいである。詐欺師はこの無限に高階に積み重なっていく認知に疲れきっていて、われわれはこの文体を通してその疲れを疑似的に体感することができる。言語の再帰性 reflexivity は内省的 reflective なこころのうちを表しているのである。
2.2.2 感情の表出として
また、ピリオドを抽出してみるとわかるのだが、このやたらと一文が長い小説は、後半に行くほどさらに一文の平均文字数が多くなる。死の瞬間に圧縮された思考の様式が表されていると同時に、文体の粗密が内容の主観的な軽重とある種の連動を保っているとおもえる部分もある。たとえば、「At the same time, what actually led to it in causal terms, though... (しかし、いっぽうで、因果的にいって、なにがじっさいにそれに導いたかというと……)(p. 168)」からはじまる段落はそんなに長くないセンテンスが続いたあとに、「And, sitting there, when I suddenly realized that...(そして、座りながら、俺がふたたび自分自身を騙していて……)」という 333 words あるきわめて長いセンテンスがくる。ここの箇所はちょうどニールが自殺を決意する箇所である。
あるいは、「Now we’re getting to the part where I actually kill myself.(いまや俺がじっさいに自殺するところまできている。)(p. 173)」からはじまる段落。これもそんなに長くないセンテンスが続いたあと、段落の最後、ファーンへ(じっさいに)まごころを込めた手紙を書きながら、同時にその情景がドラマのようであることを自覚している、最後の詐欺と自己嫌悪を表す場面ではとつぜん 453 words のセンテンスが登場する。
異常な長文とちょっと長いセンテンスの粗密は、独特のリズム感をつくりながら、詐欺ばかり繰り返す男のナマの感情の揺れを伝えている、のかもしれない。
2.3 GONe と語り手の問題
ちょっと待ってくれ、ここまでの内容をまとめると、GONe のメタファーや文体はニールの抱えている問題や感情の揺れを表すのに役に立っているらしいじゃないか、でも、この小説ってニールが書いたんじゃないんだろ?
そう、この小説を読んでいてびっくりしてしまうのは、最後の段落にいきなりデイヴィッド・ウォレス David Wallace なる人物が登場することだ。あきらかに David Foster Wallace を思わせる(以下、実在人物としてのデイヴィッド・フォスター・ウォレスはいままで通り DFW と、作中人物のデイヴィッド・ウォレスはデイヴィッド・ウォレスあるいはウォレスと表記することにする)この男はだれなのか。かれはニールの死亡記事を読みながら、なにがかれを自殺に追いやったのか想像する。ウォレスがまばたきをする一瞬によぎったその考えが、まさにこの Good Old Neon のそれまでの記述であった、というのが素直な解釈である。
しかしポストモダニスト連中がつぎつぎに繰り出すメタフィクションに慣れたわれわれはそんな語りのズレにいまさらビビったりはしない。ふむふむ、つまりこれは詐欺師のパラドックスにとらわれたままのニールが、みずからの詐欺師のパラドックスについて正直に語ることができないから、こうしてウォレスというメタを用意したのだな、とか、ウォレスが想像したニールの悩みがこうであるということは、つまるところこれはニールの抱えている悩みではなくて、ウォレスの抱えている問題でもあり、小説は全体としてウォレスが真の主人公だったわけだ、とか、こうしてまばたきのあいだに想像されるくらいでしかないこの悩みが陳腐なクリシェにすぎないということをアイロニカルに示唆しているのだ、とか、いろいろ考えることができる。でも、それって正解なのか?
2.3.1 デイヴィッド・ウォレス作者説
ウォレス作者説を取った場合のデメリットは端的にいってひとつ、それまで抱いてきたニールへの共感が失われることである。われわれはこの小説を読みながら、ニールの抱える悩みの深刻な陳腐さに痛ましいまでの共感を覚えていたはずだが、それがウォレスの想像にすぎなかったとなれば、われわれは共感の対象を失ってしまう。DFW が創造したニールであればわれわれは真に共感することができるのに、ウォレスが想像したニールにはなぜ共感できないのか?
現実世界に存在する DFW は物語世界内に存在するニールに対して真にメタに立っているのに対し、ウォレスはニールと同じ世界の存在者だからである。ウォレスが想像したニールは、ウォレスと同じ世界に存在するニール、じっさいに死んだニールとは実在的にはなんの関係もない、よって、ウォレスの想像したニールがいかにかなしい存在だったとしても、それはわれわれがその死を悼んでいるニールとはなんの関係もない。ウォレスにはニールを想像/創造する資格がないのである。
2.3.2 ニール作者説
わたしが支持したいのはこちらである。数十ページにわたって語られた告白はやはりニールの口から出たものである。われわれは共感を捨てさることを求められない。そして、この解釈を維持するのはそう難しいことではないようにおもえる。
たしかにこの小説の真の語り手は、最後の最後で、ニールの死亡記事をみて、まばたきする瞬間にいろいろなおもいをめぐらせているデイヴィッド・ウォレスに言及する。ただ、デイヴィッド・ウォレスのこのいろいろなおもいが、ここまでの語りと正確に一致する、つまり、ウォレスがここまでの文章の作者であったと想定する必要は全くない。なぜか。
もしウォレスが真の作者であったならば、じぶんが真の作者であることに言及する必要がまったくないからである。もしウォレスが真の作者で、ニールの死の瞬間にかれのあたまのなかに去来したであろうものを想像して小説仕立てにしてみました、とここで告白していたとして——それがエンタメ的などんでん返し以上の効果を持つだろうか?
また、ウォレスが真の作者であったとするならば、死の瞬間に起きる時間感覚の変容や、死後の「内側に一度に全宇宙のすべてのものが入るくらいおおきな空間があって、それでいて、出ようとしたら古いドアノブのしたにあるちいさな鍵穴からなんとかはい出さなきゃいけないような。まるで俺たちみんながおたがいをちいさな鍵穴を通してみているかのような (p. 178)」感覚について語る必要はない。なぜなら、ウォレスはじっさいには死んでいないからである。知らない感覚に嘘をついてまで、こうした描写を入れる積極的な動機がウォレスにはひとつもない。
さらに、この小説の末尾は【→NMN.80.418】という暗号じみた文字列で終わっているが、これが "Neal, my given name. '80's, .418 hitter," つまり、「俺の名前はニール、80 年卒業、四割一分八厘打者」を表しているとしたら——ウォレスを主題化する解釈にわたしは賛同することができない。
いっぽう、ニールが作者だった場合、つまり、小説全体がじっさいにニールの告白だった場合、問題になるのはウォレスの脳裏に去来したさまざまなおもいと、ニールの実人生が被るのか、という問題である。じっさい、かぶらなくたってまったく問題はない。ただ、ニールは死後の拡張された認識において、「自分自身の多様な形やアイディアや相のうちで、ドアを開けてだれの部屋にでも入っていけるだろう (p. 178)」と述べている。死んだニールは物語世界でまだ生きているウォレスに不思議な意味でメタに立っている。そして、これはまったくの無根拠なのだが——ウォレスが想像したニールの人生と死は、大枠で間違っていなかったのではないかとおもえるのである。そうした奇跡が起こったことを、ニールはわざわざウォレスに言及することで伝えたかったのではないかとおもえるのである。
2.3.3 あんた
ところで、ニールが作者だとしたら、「あんた」ってだれのことなんだろう。この小説は、ニールが死後の世界から「あんた」に語りかける形式を取っている。
「あんた」が気にしているのは「死ぬのはどんなかんじで、なにが起こるのか (p. 178)」らしい。「あんた」はまさにニールが事故を起こした瞬間の車内で、ニールの隣に座って話を聴いているらしい(「高火力の機械のなかで俺の隣に座って、こうやって話してることについて……(p. 169)」)。
さて、「あんた」はどういう人間だろうか?
唯一の脚注のあと、この小説の本文は以下のように再開する。
さあ、泣きたいだけ泣くがいい、だれにもいわないから。
しかし、心変わりをしたとしても詐欺師だということにはならない。なんとなくそうしなければならないとおもってやるのは、悲しいことだろう。(p. 180)
なぜ「あんた」は泣くと思われているのか? なにから心変わりするというのだろうか。そうしなければならないとおもって、なにをやるというのだろうか。
答えは明白である。ニールが語りかけている「あんた」は自殺を考えている。
だからニールは「あんた」に死がどのようなものか、死後がどのようなものか、丁寧に教えてやる。そこにいたるまでの人生も、動機も。べつにニールは「あんた」に自殺をやめてほしいわけじゃない。じっさいにニールが自殺を決意したのはみずからの問題がクリシェにすぎないことを認識したからだった。「あんた」が抱える悩みもまたどうせクリシェだ。自殺に関するクリシェはひとを自殺に導くだろうか?
どちらともいえない。切れ味の鋭いクリシェには、明らかにひとを生かす力がある。
ウェルテルを書くまえ、ゲーテは婚約者のいる女に横恋慕して失恋し、自殺を考えたが、かれを自殺から救ったのは、友人が人妻への恋に失敗してピストル自殺したという報せだった。
どちらともいえない。切れ味の鋭いクリシェには、明らかにひとを殺す力がある。
デイヴィッド・フォスター・ウォレスは 2008 年に首を吊って自殺した。
*1:J. D. サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」
*2:ウラジーミル・ナボコフ『ルージン・ディフェンス』
*3:"a writer of virtuosic talents who can seemingly do anything,"
Kakutani, Michiko. "A Country Dying of Laughter. In 1,079 Pages." The New York Times. Feb. 13, 1996. http://www.nytimes.com/1996/02/13/books/books-of-the-times-a-country-dying-of-laughter-in-1079-pages.html
*4:等位節もあたりまえのように多用されるけれども。
*5:His...indicating this までを S, betrayed を V, a sort of serene indifference to wheter... を O とした。betray は「裏切る」ではなくて「秘密をうっかり漏らしてしまう」のほう。誤訳だったらこっそり教えてください。
*6:ここではひとまず recursivity ではない。