Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』「ドネーションを分析する」を分析する

akosmismus.hatenadiary.com

 続きますとかいってから一年以上が経ってしまいました。すみません。というわけで続きからやっていきましょう。今回は「分析 2 ドネーションを分析する」です。どういう趣旨の企画かは上の記事の 0. を見てください。

 

 

1. 「ドネーションを分析する」

1.1 作中分析の矛盾

 テルの募金箱に一万円を寄付した男性について、作中で不自然とされた外見、振る舞いは以下の通りだ。

a) スーツやワイシャツはくたびれているのに、腕時計だけやたらと高級なこと。

b) 小銭も持っているふうだったのに一万円をためらいなく寄付したこと。

c) 右利きであろうと想定されるのに、右胸のポケットから財布を取り出し、左手で寄付したこと。

d) その後コンビニに入ったが、ATM を使うこともなくオニギリ一個を買ってでてきたこと。

e) 乗客の少ないバスで先頭の座席に座ったこと。

f) バスの中でケイタイをみたりしまったりを繰り返したこと。

 テルは a) - e) に「印象付け」というキーワードを用いて分析した。しかしアリバイ工作であれば顔を監視カメラに撮らせるのはおかしい。そもそもアリバイ工作の直後に家族と遊園地に行くというのも不自然である。というわけで三雫 (= Wilhelm) によってテル説は却下される。三雫が代わりに出した回答は、海外赴任説である。

 三雫説は以下のように進行する。

 男は左に腕時計をしていることから明らかに右利きで、右利きの男が右胸のポケットに*1財布を入れていたのは、それがスペアの小銭入れだったからである。
 なぜスペアの財布を持ち歩いていたかというと、男が海外帰りだったからである。
 海外赴任帰りのために、小銭入れのなかには海外の硬貨しか入っていなかった。だから、募金箱の前でつい取り出したはいいものの寄付することができなかった。しかし、引っ込みのつかなくなった男は、唯一入っていた日本円である一万円札を寄付した。
 コンビニに入ったのは、バスに乗るために小銭を作ろうとしたため(スペアの小銭入れには一枚しか札が入っていなかったが、〝メインの〟財布にはほかに札が入っていたのだろう、だから ATM を利用することはなかったのであろう)。
 バスの先頭に座り、ケイタイをちょっとづつ確認したのは、車に酔いやすかったから。

 鮮やかでほとんど完璧な再分析だ。もうこれが結論でよくないか? 隠された真相とかこの回に限ってはないだろ、裏分析もこの回にはほとんど触れてないし……そう思って一年間放置してしまいました。すみません。

 ところが、ちゃんと読めば三雫説には矛盾がやっぱりある。

 三雫説によれば男は右利きである。であればなぜかれは左手で寄付したのか。ためしに利き手とは反対側のポケットに入れた財布を利き手で取り出して、お札をしぜんに取り出してみてほしい。

 利き手で取り出した財布を反対の手に移し替え、利き手で札を取り出さなかっただろうか?

 ようするに、テル説(印象付け)を取らない限り、、、、、、、、、、、、、、、、 、つまり、そこになんらの作為も存在しないのであれば、右利きの男が左手で寄付をすることはありえないのである。よって、男は真に左利きである。左利きでも左に腕時計をすることはある。

 また、「海外硬貨しかなく、一万円札をやむなく寄付した」のであれば、なぜ「ためらうことなく、、、、、、、、 男はその紙幣をテルの募金箱にねじ込んだ」のか(85 頁、強調引用者)。

 バスに乗るために小銭を作ろうとしてコンビニに入ったというのもおかしい。小銭がないのに電車に乗れたのであれば、交通系 IC カードを持っていると考えてまず間違いない。であれば、バスにも乗れるはずだろう。小銭を作るためにオニギリを買うというのも不自然だ。お昼前の時間なのであれば、飲み物でも買ったほうがよい。このあとお昼時に家族と遊園地で落ち合うのであれば、そこで食事をとる可能性も高いだろう。なおさら小腹を満たすのはおかしい。

 また、海外赴任帰りであったとしても、「手ぶら」なのはどういうわけか? 飛行機中の手荷物すら持っていないのは明らかに不自然だ。というか、国内に単身赴任していたとしてもこの疑問は残るのだが。しかも、海外赴任帰りの男をふつう遊園地に連れていくだろうか?

 

1.2 真相

 男はほんとうに左利きであった。であれば、右胸のポケットに入れていた財布はメインの財布である。また、一万円を寄付したのは「引っ込みがつか」なくなったからではなくて、「ためらうことな」い意図的な行為だった。男は海外帰りでもないし、ということは財布のなかには日本円の小銭も入っていた。

 かといってテル説に帰ることももちろんできない。印象付け説はすでに破綻している。

 さきに挙げた a) - f) の疑問点のうち、c) だけは解決された。残りを整合的に説明できる解釈はあるか。

 ある。

 男が刑務所帰り、、、、、であった場合である。

 

 男の出張先とは刑務所であった。身だしなみが整っていないのは当然だ。入所時の持ち物は着ていた服も含めて領置(保管)される。出所時にもちろん返却されるが、クリーニングされるわけでもないのでくたびれたままである。

「あまりに生気がな」く、四十代なのに白髪交じりで、「疲れ切っ」ているのは(84 頁)、「久しぶりに見たらやつれ」ていたのは(117 頁)、長いお勤めを終えてきたからだ。

 コンビニで「お弁当の並んでいる棚をずっと見て」いるのは、シャバの飯をみるのが久しぶりだからだ。小銭を作る必要もないのに、このあと妻子と会うのにオニギリを買ったのは、死ぬほど腹が減っていたからだ。あるいは、一万円を寄付したせいで、弁当を買うほど小銭が残っていなかったのかもしれない。ATM を使わなかったのは、刑期中にキャッシュカードの有効期限が切れてしまったからではないか。

 乗客の少ないバスで先頭に座ったのは、刑務所でほんとうに「前から順に詰めていく、そういうしつけを受け(104 頁)」たからだ。

 ケイタイをみてはすぐ画面から目を離していたのは——ひさびさに娘の写真をみてこみ上げる涙をこらえるためだ。テルはおそらくこのあたりで真相に気づいた。だから、男が泣いていることに気づかれないように、めぐるちゃんを前方の座席から呼び戻したのだ。

 手ぶらだったのは、衣服以外の荷物、受刑者が刑務所内で個人的に購入したもの等は、宅下げで家に郵送したからだ。明日届くという荷物(116 頁)はこれだ。

 まだ幼い娘に対しては収監されていたことを隠すことに決めた夫婦は、夫が収監されていることを「単身赴任」として説明した。だから娘の前では、あたかも夫が単身赴任していたかのように会話をする(117 頁)。もちろん、娘には隠しているので、刑務所まで出迎えには行けない。遊園地への現地集合になったのはそのためである*2

 さぞ「長旅」だっただろう! 「単身赴任先でもその時計着けていたの?」は、ふつうに考えればおかしいセリフだ。単身赴任先で腕時計を付けていることにふつうに考えてなんのおかしな点もない。この妻のセリフは、「お父さんの腕時計、家にないと思ったら刑務所まで持っていってたのね」ということだ。もちろん刑務中は領置されていただろうが、それを承知で、この男は収監時にもこの時計を着けていったのである。

 テルの誤った分析が犯罪者などと言い出して物騒なのも、彼女がこの真相に気づきながら、それを迂回する偽の分析を作り上げたからである。テルの分析が誤っていたことをトキオは「犯罪者がどこにもいなくて良かった」(119 頁)と述懐するが、たしかにそのとおりで、もうここには犯罪者はいない。元犯罪者がいるだけなのだから。

 

 さて、では男はなぜ一万円をためらうことなく寄付したのか。こればかりは想像するしかない。テルが募金のテーマとして社会問題などを選ばずに、「病弱な身内」というテーマを選んだのは、純粋な善意による寄付、「思想と良心だけに支えられた事物」(79 頁)を分析したいと望んだからであった。

 この男が、なけなしの作業報奨金から一万円を、罪滅ぼしのためにためらうことなく寄付したと考えたいと思ってしまうのは、すこし優しすぎるだろうか。

 

 

 

 

 

*1:そもそもスーツのジャケットに〝右胸のポケット〟なくない……? と思ったが、ここでは〝右の内ポケット〟と解するべきであろう。

*2:そうはいってもこの妻は車を運転できるらしいのだから、駅前まで迎えに行けばバスに乗らずに済んだのでは、と思うのだが、この疑問はそもそもどんなシナリオを取っても意味不明なままだ。

去年書いた小説について (2)

まえのやつの続きです。

 

桐始めて華を結ぶ

結華って「推しに一早く認知されること」が特技らしいです*1。その割に結華のことを知っているアイドルの描写ってあんまりありません。美琴も結華のことを「認知」はしてないみたいですし(「アイドル同士の会話:美琴→結華」)。原作でそういうエピソードが回避されてるのは、そんなの書いたらややこしくなりそうだから、というのが大きいんでしょうが、じゃあややこしいことに、するか……となっていろいろ考え始めました。

 ところでわたしはあんまりアイドルとか配信者とか、ようするに生きている人間という形のコンテンツを熱心に推した経験が(あまり)ありません。でもそういうの推してるひとはまわりにけっこういて、しかもだいたい死ぬほど楽しそうで、死ぬほど苦しそうでした。

 理由は明らかで、趣味はいつか飽きるからです。わたしは小説が趣味でわりとずっとやってますが、それでもあんまり読まなくなったジャンルとかやっぱりあります。

 さて、人間は小説よりタチが悪くて、昔はよかったのにいまの芸風は嫌い、とか、パフォーマンスはいまでも好きだけどスキャンダルで炎上して……とか、そういう理由でもかんたんに冷めることができます。そういうのがなくてもやっぱり飽きます。人間を愛し続けることは難しいのです。人間にハマることのタチの悪さはまだ続きます。ものに飽きてもそんなに罪悪感ってありません。せいぜい、おなじ趣味を持っていた人たちと、今後どう付き合っていこうかな、となるくらいでしょう。でも人間に飽きてしまったら? アイドルも木石にあらねば――もう好きでいてあげられなくてごめんね、どうしてもそうなるんじゃないでしょうか。罪悪感に終着しない好意がこの世にいったいどれだけあるでしょうか。

 そういうわけで、ヤフー知恵袋をちょっと検索すれば冷め期を迎えたかわいそうなオタクの鳴き声が無数に出てきます。好き嫌いやたぬきはとんでもない勢いで書き込み数を伸ばします。やはり、ひとびとは推し事からとんでもない量の苦しみを得ているようです。

「推しは推せるときに推せ」みたいなフレーズが一時期流行りました。これが「いま好きなアイドルもいつ卒業したりグループが解散したりするかわからないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、「あなたの推したいという気持ちがそもそも永遠ではないのだから、推せるうちに推しなさい」という意味なのか、わたしはよく知らないのですが、どちらの意味だったとしてもずいぶん悲しい格言です。

 こんな悲しい世界で、ひとはどうして推しに認知されたがるのでしょうか。いつか飽きたとき、もっと苦しくなるだけなのに。  事態は逆で、認知されたいと思ってしまうほどの愛が、いつか衰弱して消えてしまうほどに、それほどまでに飽きの力は強大なのでしょうか。結華はオタクとして生きてきて、そんな「飽き」の強大な力に晒され続けて、すこしも歪まなかったのでしょうか。

【NOT≠EQUAL】の結華はこうして好きであること、好きになることに臆病です。彼女が選んだ(ひとまずの)結論は、立場に由来する関係でした。アイドルとプロデューサーという関係であれば、すくなくともコントロールが効きます。結華がアイドルを全うする限り、プロデューサーとしてのかれは傍にい続けるはずです。ただ、その立場はすでに同カードの TRUE END「……頼ってもいいですか?」でまっさきにほころびをみせるわけで、ようするに結華はこわごわと咲くタイミングをうかがっているつぼみのようなものなのでしょう。

 なにかを好きになってもそれが続くとは限らないこと、それでもなにかを好きになってしまうこと、そのジレンマをどうしたら癒せるかは――むずかしい話だと思います。いまのところ、わたしはああいうことを考えています。きれいごとに騙されたり、目を覚ましたりしているうちに人生は終わるのでしょう。

 れいの四字熟語については名前をみた瞬間からわりと思いついていました。出身も福島で、福島といったら会津桐ですしね。結華の出身が福島のどこなのかって議論はありますが――アニメイトのある郡山だろ説とか――ここでは都合よく捏造しました。すみません。

 

聴こえなくても鳴っている

 透といえば生物デッキと五感だなと思ったので安直に行きました。いうほど安直か?

 ところで五感とその対象の存在論的身分については現象論的立場と実在論的立場があると思いますが、透のシナリオにおいて意識されてるのは明確に外界の対象についての実在論だと思います。というのも、【10 個、光】「2 こめ」において、透はバスの停車ボタンについて「昼光ってるものって 見えないんだね 夜なら見えるのに」と述べています。それに対してプロデューサーは「もう光ってるもののこと―― 昼の間も、ちゃんと光ってるもののこと」の話をします。こうして透は現象ではなく、現象の向こうにある(はずの)実在――それは一番星だったりセミだったりミジンコだったりしますが——に目を向けるようになります。

 というような話を視覚じゃなくて聴覚でやりたいなと思ってできたのがこの話です。ただおなじ話をしてもしょうがないので、存在論の話を無理やり存在感の話に拡張しました。透と聴覚の話はおもに【つづく】で行われていますが、『海に出るつもりじゃなかったし』第 2 話「風のない夜」で透がいっていた、「どれだけ先の音も伝えられる 透明な空気」というセリフも見落とせません。音が実在と現象を仲介するメディアであるなら、音のメディア(媒質)である空気は透明でなければならない、音は歪んでいてはいけない――そんなニュアンスがかんじられますね(もちろんぜんぶ妄想です)?

 さて、ノクチル、とくに透は透明感をモチーフにしていますが、にもかかわらずキャッチコピーは「さよなら、透明だった僕たち」です。いつか透明でなくなる媒質は、透の音を歪ませるでしょう。そのときに歪む音は、でもポジティヴなものだろうなと思いますし、そうであるべきでしょう。

 悪ふざけみたいな萩原朔太郎の引用はべつに空中からでてきたわけじゃなくて、【途方もない午後】「所感:」で「とーるくん、とーるくんって 音みたいな感じで……」といっているように、透がじぶんの名前の響きそのものを弄んでいたらいいなと思ったところからでてきました。やっぱりほとんど霊感じゃん! すみません。

 語りが現在形なのはいちおう理由があって、透はへんな語順でしゃべるわけですが、あれはべつに正文があってその語順を入れ替えてるわけではなくて、あの通りにリアルタイムに単語が浮かんで、そのまま並べているんだろうな、と考えると、透の主観は現在時制が支配的なんだろうなという、そういうところからきています。まぁ日本語のル形/タ形って必ずしも現在/完了じゃないんですけどね。あとは透の名前がそもそもル形だから。というとさすがに与太すぎますが。

 

 

いつか壊れるしかくい祈り

 人間は一日で小説を書けるのかチャレンジの成果として生まれた産物です。大晦日の AM 2:00 にとつぜん小説を書きたくなって、元旦の AM 1:00 に完成しました。じゃっかん間に合ってないのがご愛敬だね。摩美々のやつ書いてたときは、ほとんど毎日数時間くらいかけて、それでも一か月まるまるかかったことを考えると、だいぶ手は早くなった気がする。

 お正月といえば小糸ちゃん、ということで小糸ちゃんを出すことはすぐに決まって、まぁノクチルのみなさんがワイワイいってれば書きやすいだろうということも決まって、初詣に行かせて、女連れの P でも目撃させるか! となりました。『明るい部屋』のパクりっちゃパクりですが、ノクチルのひとたちってそう素直に脳を破壊されてくれなさそうですよね。

 タイトルは【思い出にもならない】「いつか忘れる本の題名」からです。わたしはこの【思い出にもならない】がぜんぶ好きすぎて、それは小糸が「当たり前」が「当たり前じゃない」(『今しかない瞬間を』)ことを自覚していることがはっきり伝わってくるからなんですが、じゃあなんでこういう話を書くんですか? すみません。

 頂点が移動する四辺形というアイディアは Vi ノクチルを手持ちで組もうとしてリンクアピールの経路を書いていたら思いつきました。ただ、その頂点の移動は自由なものではなくて、なんらかの制約があるはずで――そう考えたら、やっぱり円周上にあるのかな、と、これまた安直ですが思いつきました。原点 Origin と点 Point はまったくべつのものであることに小糸が気づいていることに気づいてくれた読者がいて、わたしはいい読者に恵まれているなぁと思いました。ちなみにノクチルは偶数ユニットでセンターがいないという理由で原点は O であって C ではありません。

 あとアングレカム花言葉は「祈り」「いつまでもいっしょに」です。まぁ、べつに、それはどうでもいいんですけど。

 

 

 

 

 今年もいろいろ書けたらいいなと思います。よろしくね。

 

 

 

 

*1:公式プロフィールの「特技」欄って、いちおうあの世界での公式プロフィールらしく、たとえば灯織は透の特技が「人の顔を覚えること」であることを知っています(「アイドル同士の会話:灯織→透」)。それを考えると結華がプロフィールでこういったことを書くとは思えないのですが、まぁ初期は公式プロフィールの扱いとかがそう定まっていなかったのでしょう。

去年書いた小説について (1)

 去年はむっつも小説を書きました。えらい。うちいつつはアイドルマスターシャイニーカラーズの二次創作です。二次創作は生まれてはじめてやった(ちょっと嘘)んですが、原作パワーかいつもよりみんなが読んでくれてうれしかったです。

 

 ところで小説のあとがきとか自作解題のたぐいがわたしは苦手で、というのも、書くべきことがあるならそれは小説のなかに書かれているべき、読み取れるようになっているべきであって、あとからごちゃごちゃいう必要があるようならようするにそれは失敗作にすぎない、という、ちょっとケッペキすぎる信念があるからなんですが、じゃあなんでいまからそれに類するようなことをしようとしているのかというと、コミュの感想をおもいついても、ツイッターとかで書くより小説にしようと思ってメモ帳に秘蔵してしまうせいでまったく感想をいえてないのがやや悲しいというのと、まぁあとはたんじゅんに結構書いたものに愛着があって、やっぱり愛着があるものについてはちょっとくらい話したいというのがおもな理由です。

 というわけで、以下で書くのはわたしが書いたものについてというよりも、わたしが原作のどういう部分をみてああいったものを書くにいたったかという、生成についての話になると思います。

 また、もちろんこんなのはたかだか書いたにすぎないひとがいっているたわごとなのであって、もし小説そのものを読んだひとが――もし――なにか感じたところがあったなら、それが無条件に正しく、尊重されるべきであると思います。

 前置きが長くなりました。それでは妄言が続きます。

 

続きを読む

 実家の犬が逝った。2006 年 3 月1 日生まれの赤の柴犬で、十五年とちょっと生きた。名前はジョンといって、これはレノンが由来だが、途中からロックだったことになって、わたしのペンネームもロックから取ることにした。まあ、レノンもロックのジョンだけど。

 そもそも三年くらい前から徐々に心臓を病み、肺に水がたまり、と健康を損なってはいて、そのたびにお医者さんからもらう薬の種類は増えたが、その代わりに薬はまあまあ効いて、散歩も距離を控えて続けていたし、エサもそこそこ食べていた。まあ爺さんだし持病が増えるのはしょうがないな、くらいの気分でいた。わたしとしては病気をきっかけに外飼いをやめて室内飼いになったのが楽しかった。ずっと庭で気楽な一人暮らしをしていた犬はしばらくリビングで居心地悪そうにしていたが、そのうち定位置を作り出して、人間が毛布をかけてテレビをみているとわざとその上に乗ってくるようになった。

 夜中にたまに粗相をするようになったから、リビングの南半分をペットシーツが占めるようになっても、すぐに疲れてしまうから散歩をやめても――もとからそんなに散歩が好きな犬じゃなかったし――、だからといって死ぬかもしれないと考えた考えたことはなかった。けっきょく四本の足で歩いてご飯を食べて、起きてるときは漏らさなければそんなに心配にならないものだし。

 様子がおかしくなったのは今月の 15 日くらいからで、まずトイレに行かせても尿が出なくなった。エサも食べなくなって、水も飲まなくなった。吐くようになった。腎不全だそうだ。というのを、19 日に実家に帰ったわたしは母親から聞いた。勤め人をはじめて数年前に 23 区内で独居をはじめたわたしだったが、犬に会いに毎週末実家に帰っていたのだ。また犬でも揉むか、とおもって帰ったら、母親からもうそろそろかもしれない、と、とつぜん聞かされたことになる。

 その日はまだ危篤というのを実感していなかったとおもう。たしかに帰宅したわたしの目の前で吐いたし、夜中にトイレに出してやったときはふらふらしていたが、これまでも何回か病気になったし、そのたびになんだかんだでまた日常に戻っていったから、こんかいもまた薬が効いて、ちょっと元気を失うけれどもまだ生きていくのだろうとかおもっていた。

 次の日の朝起きてきたらまた目の前で吐いた。腎不全ってどういう病気なんだ? とおもって検索した。腎臓は 25 % 残っていれば機能するらしく、症状がでるということは 75 % 以上ダメになっているということなのだそうだ。また、腎臓の機能は回復しないのだそうだ。ようするにいままでとは事情が違うらしい。心臓病と肺水腫から立ち直った犬が、腎臓みたいななんだかよくわからない臓器のせいで、尿が出せなくなって体に毒が溜まるくらいのことで死ぬなんて信じられなかった。

 ことさらにことさらなことをするのは気が進まなかったから、横たわる犬に一日中よりそって優しく語り掛けたりはしなかった。家族全員そんなかんじだった。仮に死ぬのだとしても、もう 15 年生きたのだから、動じずに送り出してやろうとおもっていた。そうできるとおもっていた。シャワーを浴びていたら、いま泣いてもだれにも気づかれないな、とおもって、その瞬間に涙が止まらなくなった。

 日曜日になって区内の自宅に帰った。もしものことがあったら平日でも帰ってくるか? と両親に訊かれたので、そうする、と答えた。自宅でタンスに服をしまいながら涙が止まらなくなったのでもう一度実家に帰ることにした。べつに実家からでも職場に通えないことはない。

 仕事が終わって家に帰るたびに容態は悪くなっていった。口内炎で口から血を流すようになったし、白く不健康そうな目やにが大量に出た。トイレはなんとしても外でしようとふらふらの足で立ち上がったが、廊下で力尽きて漏らすこともあった。なんといってもわたしが心配だったのはエサをまったく口にしないことで、吐いてる量を考えたら、病気でなくとも死んでしまうのは明らかだった。ちゅーるかなにか、あるいは点滴とか、そううろたえるわたしを横目に、母親は「食べたくなかったら、食べなくてもいいよ」といいながらジョンをなでていた。心の底から道徳的だと思った。うちの両親の実践理性は、そのはたらきかたを知悉しているからこそうまく働くタイプのものではなかったが、かといって原理を知らぬままに微分積分の小テストに完答する高校生のようなしかたでもなくて、なんど放っても的に当たる達人の矢のようにかならず正しくふるまうのだ。

 22 日に桜が満開になって、職場の前の道路の桜の写真を見せてやった。数年前のちょうどこのころ、わざわざいつもの散歩コースとはちがうコースをたどって、近所の体育館の裏手の桜並木をみせてやったことを思い出した。24 日はわたしの誕生日で、朝起きたとき犬がまだ生きていたので安心した。数値はまったくよくなっていなかったが、対症療法としての各種の薬が効いているのか、静かに寝ている時間も多かった。このままあと一か月くらいいられるのかな、とおもっていたら、金曜日に帰ってきたときは起きようともがいて立ち上がれないみたいだった。深夜にはタール便が出た。

 今朝、わたしが昼頃に起きてくると、姉が犬の前足を握っていた。痙攣が止まらないようだった。大丈夫? と声をかけながら頭をなでていてやったら、その数分後に動かなくなった。正午ちょうどだった。苦しみのときが短かったことだけが幸いかもしれない。犬は隠しきれなくなるまで体調不良を隠すというから、もっとずっと苦しんでいたのかもしれないが。それでも逝くときは眠るようだった。

 誕生日を待ってくれたんかな、起きるまで待っててくれたんかな。あんまり撫でられるのが好きな犬じゃなかったが、耳の後ろだけは嫌がらずに触らせたから、そこばっかり撫でてやった。お疲れさまとありがとう以外の言葉はでてこなかった。死んでも驚くほどかわいかった。毛布にくるんで、抱いて車にいっしょに乗ってお寺まで行った。ぐうぜん空きがあって、すぐに焼いてもらえた。お経もあげてもらえた。骨壺のなかに収まっている。お寺の駐車場では境内の桜が散り始めていた。ちょうど釈迦や西行とおなじころに死んだわけだな、とおもった。

 お骨はしばらくしたら床の間に置いてやろうとおもうが、いまのところリビングのれいの定位置――南東側の隅――に置いている。スマホをいじりながら、風呂から上がって髪の毛を乾かしながら、利き手とは反対側の手が一瞬犬を探して空中をためらった。

 二千回は毛をむしり、五千回は散歩に行き、一万回はエサをやった犬がいないというのはやっぱりいまでも信じられない。そういえばジョンが家にきたときに、業務用の六千枚つづりのポリ袋のロールを買った。あまりにも太くて、これを使い切るのなんて無理だと思った。それでも、あまりに太いそのポリ袋のロールをみながら、糞を拾ったり、むしった毛を入れておく用で、およそ平均して一日に一枚使うわけだから、これを使い切るころにはもう寿命だということだ、というようなことをうっすらと考えた。さっきみたらそのフェルミ推定はおよそ正しくて、のこりは数十枚くらいになっていた。

 とにかく眠るのが好きな犬だった。名前はなんでもいいが、死後の世界というものがあって、そこはわれわれの住んでいる世界よりもよっぽどすばらしい場所で、あらゆる苦痛から解放されていて、そこではジョンが幸せにずっと大好きな昼寝を続けているのだという紋切り型の観念が、ここまで心を安らかにするとはおもっていなかった。

 ケイタイをスマホに変えた時からすべての写真が Googleクラウドにかってに保存されているから、2009 年からはすべての写真がカメラロールに残っている。まだふわふわで暖かい匂いがしたころの写真をみながら、焼きすぎたチーズケーキみたいな色をした、四本足の、わたしの唯一の友だちのことを考えている。

理想の犯人当てについて

 さいきん犯人当てミステリを書いて公開しました。以下は寝言です。

 
0. 消極的要件

 理想の犯人当てがすべからく有すべき性質とはなにかと問われたら、たいていのひとは論理性とか解の唯一性とか、ちょっとキマってるオタクなら健全性と完全性とか答えるのではないでしょうか。数学あるいは数理論理学との類比でミステリを語る試みってなんだか昔から人をひきつけるみたいで議論の蓄積もはなはだしくて、そこに屋上屋を架する必要もないとおもうんですが、それはともかく、そういう数学的な意味での「論理性」ってたしかに理想の犯人当てには求められるけど、あくまでも消極的要件であって、積極的要件ではないですよね、つまり、複数人(あるいはゼロ人)妥当な単独犯の候補がでてきたり、推論ではなく神託で犯人を当てていたとしたら理想の犯人当てではないというだけであって、数学的な意味で論理的だからといって「理想の」犯人当てになるとは限らないということです。たとえば容疑者はふたり、片方は右利き、各種証拠から犯人が左利きなのは明らか、よって犯人はもう片方――利き手モデルとします――というような謎解きは、論理的ですがおもしろくなくて、まったく理想ではありません。

 もちろんこの消極的要件こそが満たすのが難しいわけで、各作家は苦心惨憺するし、評論家による哲学的な議論があるわけです。たとえば利き手モデルでいえば飲めば一時的に利き手が逆転する薬が存在する世界ではないことを証明する必要があるのでしょうか? ただ、けっきょく数学的な論理性を用いた議論は、あらゆる犯人当ては不完全でしかありえないという結論にいたるとおもいます。べつにゲーデルは必要ないです。

 うえに挙げたような数学的な論理性はその性質上、備えているか備えていないかのどちらかであって、グラデーションではありません。小学生が書いたピタゴラスの定理の証明も成功しさえしていれば完全に論理的です。

 現実的(現実に起こり得そうな)な事件を有限の文章で表現するフィクションにおいて、数学的な論理性を備えることは難しい(公理にも推論規則にも諸前提にも必要なだけの表現力と抽象性と厳密性を持たせることができないでしょうから)ことを考えると、実作者にとっては理想の犯人当ての積極的要件を追求するほうが生産的でしょう。

 上記の問題意識を踏まえて、理想の犯人当ての要件を、消極的要件のみならず積極的要件についても考慮しながら検討していきましょう。

1. 論理性(消極的要件)
2. 意外性(積極的要件)

 -a 距離

 -b 前提の再検討
3. 競技性
 -a 公平性(消極的要件)
 -b 困難さ(積極的要件)

4. 芸術性(積極的要件)

 

1. 論理性

 まずは消極的要件としての論理性を検討しましょう。
 いやいや、論理性はミステリにおいて成立しなかったんじゃないのか――それはそう、数学的な論理性は成立しないでしょう。ただ(この名称がふさわしいかどうかはわかりませんが)、文学的な論理性は別です。説得性といいかえてもいいでしょう。

 文学的な論理は、たとえば無矛盾律*1排中律*2を採用し、演繹的な外形を持ちます。

  演繹的な推論とはどのような形を持つものでしょうか? いちれいとして三段論法が挙げられるでしょう。「すべての P は M である、ある S は M ではない、よってある S は P ではない」というような推論形式*3が存在しますが、これを模倣する形で、たとえば、文学的に論理的な推論は「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」というような形を取ります*4

 ぎゃくに、「さきの事件でも鈴木が犯人だった、今回の事件でも鈴木が犯人に違いない」「神託があった、犯人は鈴木である」は演繹的な推論ではありませんから文学的な論理においても認められません*5

 なぜ認められないか? 適切な反論のしかたが存在しないからです。非演繹的な推論(枚挙帰納法でもアブダクションでもなんでもいいですが)においては、前提が真でも結論は必ずしも真ではありませんから、いくらでも言い逃れができてしまいます。ところが、演繹的な推論であれば大前提か小前提の真偽を問うことができ(文学的に論理的な推論は演繹的な外形を持っていますが、繰り返すように数学的に演繹的なわけではないので、その証明するところが真かどうかはほんとはわからないのですが、そのへんはいまはとりあえずおいておきます)、かつ、前提の真偽さえ合意が取れれば、結論の真偽についてはさらに疑いを容れることはできません。われわれが演繹的な推論に求めるのはこの結論の強制性、言い逃れのできなさです。

 ところで論理性と 2. の意外性はまったくもって噛み合いが悪いです。数学的に論理的で妥当な推論において、結論は諸前提のうちに潜性的にすでに含まれています。個々の推論はあたりまえの結論しか導き出せないということです。しかし、推論の全体に意外性を持たせる手段は複数あります。以下にみていきましょう。

 

2. 意外性

 積極的要件としての意外性を検討しましょう。

2-a. 距離

 意外性を出すもっともかんたんな手段は推論を連続させること、つまり、推論 A の結論をつぎの推論 B の前提とすることです。たとえば、
「すべての犯人は左利きである、ある人物佐藤は左利きではない、よってある人物佐藤は犯人ではない」だけでは意外性がありませんが、「すべての右利きの人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は右利きではない(=すべての犯人は左利きである)」という推論*6が前に追加されたらどうでしょう(この推論が妥当かどうかはともかく*7)。こうして推論はいくらでも延長することができ、さいしょの推論の前提と最後の推論の結論はパッと見でははなはだ無関係なものにみえることでしょう。にもかかわらず、1. で議論したように、演繹的(にみえる)推論がもつ結論の強制性によって、パッと見無関係な前提と結論のつながりを認めざるを得ません。これが意外性につながります。桶屋が儲かるでも九マイルは遠すぎるでもなんでもいいですが、論理性と意外性を結びつける古典的な方法のひとつです。

2-b. 前提の(再)検討

 さきに演繹的な推論は諸前提の真偽を問うことで反論の余地があるといいましたが、文学的に論理的な推論は登場する単語の定義が明確でないため、これを逆用して前提の真偽を問います。

 たとえば、
「ある現場は密室であった。すべての密室は脱出不可能である。ある現場は脱出不可能であった」という推論があり、そのせいで犯行が可能だった人物が存在しなくなってしまったとしましょう。この場合探偵がやるべきことはなんでしょうか?

「ある現場は密室であった」という大前提を否定することです*8。たいていの場合、密室の定義を定めていないでしょうから、トリックの解明などを付け加えることで「ある現場は密室ではなかった」が真であることを新たに示せばよいのです。

 作者の書き方に誘導されて自明だとおもっていた前提が覆されるわけだから、とうぜん意外性があります。これもまた古典的な意外性の演出といえるでしょう。

 さて、この「前提の(再)検討」で行われているのは、論理的な操作ではありません。具体的にここで行われているのは、「密室」という単語の意味するところの解明です。これは根本的に論理的な操作ではないのでじっさいなにをやってもいいわけですが、だからといって、解決編にいたってとつぜん新事実が追加されたり、特殊な知識を要したりするのはアンフェアとみなされる危険が高いです。

 

3. 競技性

 アンフェアではなぜいけないかというと、それが競技性要件に反するからです。理想的な読者は犯人を指摘することが可能でなければなりません。が、かといってそれが著しく容易であってもいけません。
競技性要件ははなはだ心理的なもので、明確に定義することは難しいですが、およそ以下のような要素から構成されるでしょう。

a) 公正性(消極的要件)
b) 難易度(積極的要件)

3-a. 公正性

 およそ世の中で論理的でないといわれている犯人当てのほとんどは公正でないだけだとおもいます*9。では公正さとはどのようにすれば担保されるのか。必要なすべての情報を読者に提示することで担保されるでしょう。

 さて即座に問われなければならないのが「必要なすべての情報」と「提示する」の実態です。

 もちろん、犯人を特定する推論に登場する前提を構成する証拠はすべて提示されている必要があるでしょう。また、1., 2. から、探偵あるいは読者が行う推論は前提の(再)検討を含みますから、その再検討の材料となるべき証拠も問題編の段階ですべて提示されているべきです。

「提示する」とはどのような意味なのでしょうか。「被害者がカレーの匂いに気づかず、なにを作っているのか確認しようとして料理中の鍋を覗き込んだ」という情報が地の文に書かれていたら、それは「被害者は嗅覚障害者である」という命題を真とするに足る記述でしょうか。そうでしょう。これはかなり(巧妙ですが)直接的な記述です*10

 では、あることを記述しないことで、それが存在しなかったことを証明するのはどうでしょうか。

 たとえば、「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた」という情報から「財布から何者かが金を抜き取った」という命題は導き出せるでしょうか? それで物取りを疑い始めた警察に探偵が「財布の中にはポイントカード、レシート類のみが入っていた、つまり持ち主以外の第三者の皮膚片などは入っていなかった、よって金を抜き取った何者かなど存在しない」と推理を披露したらどうなるでしょうか*11

 ということで、公正な証拠の提示方法には一定の基準が求められるでしょう。ただ、その基準の探索はもはや論理学ではなく、認識論(知識論)に譲るべきでしょう。(古典)論理学における結論は真偽の二値ですが、認識論にはグラデーションがありますから、「この作品は〝ある程度〟論理的である」というような意味不明なものいいをやめて、「この作品における諸前提の認識論的正当化はある程度の妥当性を持っている」というようなきもちのいい言葉遣いをすることもできるというメリットもあります。

3-b. 難易度

 演繹的な外形を持つ推論を作り、必要に応じて認識論的に正当な諸証拠による推論の前提の再検討を行い、より適切な推論を作り上げ、それを繰り返すという、文学的に論理的かつ意外性がありかつ公正な謎解きを作ることができたとしましょう。それでもまだこの犯人当ては理想の犯人当てではありません。そのプロセスがあまりにも容易だったり、至難だったりしてはいけないからです。

 公正性要件を満たすためにはおそらく情報の提示をできるだけ明示的に行った方がよいでしょう。さらに、書かれていない細部はすべて常識(現実世界の常識でも、作品が属するジャンルの世界観の常識でもかまいませんが)と一致していたほうがよいでしょう。

 そのうえで難易度を上げるためにはどうしたらよいか? 方法論としてわかりやすいものが存在したとしたらだれでもベストセラー作家でしょうからここではわかりやすいものしか挙げられませんが、

i. 手がかりを増やす
ii. 手がかりを間接的にする

などは単純で効果的でしょう。

3-b-i. 手がかりを増やす

 容疑者の数が増えれば検討する材料が増え、認知的な負荷で謎解きは難しくなるでしょう。たとえば、ある容疑者がコンタクトレンズをしていたことが犯人特定の重大な情報になる場合、ほかの登場人物の眼鏡やピアスなどについても平等に言及することで焦点となる情報から目をそらさせることができます。

3-b-ii. 手がかりを間接的にする

 さきに意外性を出すために推論を延長するという方法について言及しました (2-a) が、難易度を上げるためにもこの手法は使えます。たとえば、「ある容疑者 A だけがコンタクトレンズをしていた、現場にコンタクトレンズが落ちていた、よって犯人は A だ」というような推理はかんたんすぎますが、「現場の血痕にはその上に膝をついたようなあとがあった、血痕にあとが残るのはそれが乾くまでの短時間のあいだだから、あとを残したのは犯人だとおもわれる、血痕のうえにわざわざあとを残してまで膝をつくようなシチュエーションとして、犯人と被害者がもみあってコンタクトレンズがその拍子に外れたというものしか考えられない」という推理はどうでしょうか*12

 

4. 芸術点

 ここから先は美意識の問題になるでしょう。どのような犯人当てであれば美しいと感じるか?

4-1. 共犯、外部犯、自殺の可能性を否定すること

 犯人当てであればこの辺は自明視するというか、読者への挑戦*13であらかじめ断っておくこともあるでしょう。それでも、できるならば作中の推論でこれらの可能性を消去するような理屈を立てておいたほうがよいとおもいます。

4-2. 別解を用意し、別解潰しをすること

 けっきょくのところ真犯人以外の容疑者は難易度を上げるための道具に過ぎないのですが、別解を用意することでかれらにも存在する意義が与えられます。別解潰しのメリットはやると推理の見かけ上の妥当性が上がることで、デメリットは読者のほうがさらなる別解の可能性の追求に目が行って、その後の推理に求められる妥当性の水準が上がることです。

4-3. 犯人特定には二個以上のロジックを必要とすること

「これこれの条件から犯行ができたのは A だけ、よって犯人は A である」というような積極的な条件ひとつで犯人が一発で特定されてしまうと、ほかの要件を検討する意味がなくなってしまいます。たとえば容疑者が A, B, C, D, E の五人だったとして、「A, B は左利き」かつ「A, D, E がコンタクトレンズをしていた」とき、「犯人は左利きかつコンタクトレンズをしている」ということがわかれば、犯人が A であることがわかるでしょう。4-1 とあわせて、容疑者のスコープを特定したうえで、最低二回以上消去法を行うこと、といいかえてもいいかもしれません。

4-4. 正答への誘導があること

 たとえばハウダニットを追求するとフーダニットが解けるというのはシンプルながら王道パターンでしょう。じっさいに読者がどのような順番で推理をするかはともかく(こいつが怪しい、こいつが犯人だとしたらこうやったに違いない……という手順で解くパターンのほうが多いとおもいます)、理想解では推論 A の結論を前提として推論 B があり……というような形になっていると美しいとおもいます。

 

 

 

 

 なんだか考えていることをだらだら書いていたらあたりまえのことばかり書いてしまった気がします。とはいえ、これをすべて満たした犯人当てを書くのもそれはそれで至難のこととおもいますし、むしろ独創的なトリックや魅力的なキャラクター、奇抜なプロットを思いつく方がよっぽど重要かもしれません。それはそれとして、本格探偵小説のいちばん根っこの部分について考えていることをまとめるのもそれはそれで無駄ではないかなというきもする。みんなもじぶんだけのさいきょうの犯人当てを書いてみよう!

*1:A is B かつ A is not B ではありえない。

*2:A is B は真か偽のどちらかである。

*3:アリストテレスやさんのことばづかいでいえば第二格の Baroco です。

*4:「すべての犯人は左利きである」という文章に不自然さを覚えるかもしれませんが、「犯人であれば必ず左利きである」くらいの意味だとおもってください。

*5:もちろん、先の事件の犯人は今回の事件の犯人であるという大前提を付け加えることができるならば前者も演繹的な推論になりますし、神託の告げるものはすべて犯人であるという大前提を付け加えるなら後者も演繹的な推論になります。じっさいそういうことをやってるミステリもないわけではないでしょう。

*6:第二格 Cesare

*7:「¬右利き=左利き」ではない(両利きもある)ので、「すべての左利きでない(右利きあるいは両利きの)人物はマウスの右左を反転させない、すべての犯人はマウスの右左を反転させていた、よってすべての犯人は左利きでないことはない(左利きである)のほうが妥当でしょうね。それにしたって右利きあるいは両利きにもかかわらずマウスの左右を反転させてるひともいるかもしれませんが。

*8:ほかにも、「脱出不可能な現場で殺人事件を起こすことはできない」という次の推論の前提となっているであろう命題の真偽を問うこともできます。たとえば遠隔殺人、機械殺人等の可能性を提出することで。

*9:ほんとに作中の推論が古典論理などの既存の論理体系の構文論からして破格で非論理的である可能性もありますが。たとえば「左利きでない人間はマウスの右左を反転させない」という命題から「左利きの人間であればマウスの右左を反転させている」を導き出したらまちがいです。

*10:ちなみにこれは有栖川有栖『双頭の悪魔』で用いられていた手がかりです。ネタバレかというと、この手がかりが登場し、かつそれが鼻づまりとかじゃなくて嗅覚障害であることが登場人物の口から確証されるのが解決篇より前なので、謎解きのネタバレではないとおもいます。

*11:ここで、適切な中項を導入して推論化すればその論理性を判定できるなどの寝言をいい出さないでください。なぜなら、当該推論も、推論の前提の再検討も、すでにそもそも数学的に論理的ではない、繰り返しになりますが、この推論に登場する概念はあらかじめ十分に定義づけされていないし、することもできない(フィクションの世界は細部の確定性を持たないから)、よって、やってることはさいしょからすべて認識論的妥当性をめぐるライン引きなのですから

*12:書いてて質の低い推理だなとおもいますが、質の高い推理をおもいついたらじぶんで使うので許してください。

*13:よく考えたら読者への挑戦は犯人当てに対してメタレベルですね。

チャック・パラニューク『サバイバー』とみっつの奇跡

 

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

 

 

0. 

 ブラックボックスがある男の半生を語りだす。飛行機をハイジャックして、乗客全員とパイロットを降ろしたあと、ひとりで機内に残って墜落を待ちながら、ブラックボックスにむかってじぶんの人生を吹き込んだ男の半生だ。破滅を目前にした男の最期の自分語りだ。427 ページ、47 章からはじまって 1 ページ、1 章にむかって遡っていくこの小説はそういう体裁を取っている。

 男の語る半生は以下の通りだ。

 クリード教会では長子のみが家産を相続し、次男以降の男子および他家の長男に嫁げなかった女子は、十七歳になると共同体の外に出される。かれらはそれまでみたこともない、堕落した「外の世界」で富裕層のハウスキーパーとして働き、稼ぎのすべてを教会へ送金する。かれらには出生証明すらない。この異常な制度を密告された教会は FBI の捜査を受ける前に集団自殺した。『サバイバー』の主人公、テンダー・ブランソンはこうして十年前に集団自殺して消滅したカルト教団の生き残りだ。教団は崩壊したが、かれはまだその教えに従って、ハウスキーパーとしての慎ましやかな生活を送っている。

 テンダーのように「外の世界」に取り残されたために死にぞこなったものは多かったが、あとを追って自殺して徐々に数を減らしていった。その上、どうやら、さいきんこうした生き残りを、自殺にみせかけて殺す事件が起こっているようだ。こうしてテンダー・ブランソンはクリード教会最後の生き残りとなった。

 カルト教団最後の生き残りであるテンダーを使って金稼ぎをしようとするエージェントに操られて、テンダーは筋トレし、ステロイドを飲み、髪を染め、予知能力のある少女ファーティリティの手を借りて奇跡を起こす。

 そこに死んだと思っていた兄、アダム・ブランソンが現れて……。

 

 テンダー・ブランソンの人生は常に他人によって決定されてきた。クリード教会の教義、雇い主が定めたスケジュール、テーブルマナー、ケースワーカーが押し付けてくる DSM 診断基準、エージェントによるプロデュース。

 ようするにこれってカルトに洗脳されて自己を失った*1青年が、波乱万丈ひととのかかわりを通じて自分を取り戻そうとするっていう話なんですか? 道具立ては豪華でも、やってることはオールドファッションじゃないですか?

 それに、なにがあったのかしらないけど、けっきょく飛行機をハイジャックして自殺するんでしょ?

 

 わたしもむかしそう読んだ。でもその破滅へ向かう軌跡が美しいのだとおもっていた。再読してみたら、ぜんぜんちがう話だった。ということで以下は人間がいかにあからさまなしかけに気づけないかの実例のひとつ。致命的なネタバレを含むので、未読者はぜったいに以下の記述を読まないこと。

 

*1:おじろく、おばさみたいですね。

続きを読む

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』「ラブレターを分析する」を分析する

 技巧的な論証は、ほかの技巧的なものがすべてそうであるように、ただ選択の問題です。
何を話し、何をいい残すかを心得ていさえすれば、どんなことでも好きなように、
しかも充分に説得力をもって、論証することができるものですよ。

——アントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』

 

 

赤村崎葵子の分析はデタラメ (電撃文庫)
 

 

0.

『赤村崎葵子の分析はデタラメ』(以下『赤村崎葵子の分析はデタラメ』を「正」、『赤村崎葵子の分析はデタラメ 続』を「続」と略記する)は多重解決ものかつ信頼できない語り手ものの小説とみなされているし、じっさいにそうである。しかも、多重解決ものでありながら、作中ですべての真相が開示されるわけではない。作中のテルの分析、章間の(おもに Wilhelm による)再分析、巻末の裏分析を経て、なお作品世界の事実は組み尽くされていない、というか、記述には無数の矛盾や不整合が残されている。それは語り手のトキオを含めた登場人物たちが事実を歪曲、隠蔽しているため、そして、テルや三雫の分析が、彼女たちの実力不足ないし上記の歪曲及び隠蔽のために不正確かつ不徹底だったためである。

 にもかかわらず大半の読者は裏分析の水準で満足し、矛盾の数々を等閑視するか、そもそも気づかない。深読みをするのは面倒だし、難しいし、時間がかかるし、それに見合うほど楽しく有益なことである保証がない*1からである。とはいえ深読みや真相に拘泥することを忌避するのはべつだんおかしなことでも悪いことでもない。与えられた解釈を疑わず、それに安住する(できる)という人間の機能がまさに信頼できない語り手という文学の技法を可能にし、それに価値を与えてさえいるのだから。

 そういうわけで以下でわたしが行うのはなくもがなの落ち穂拾いであり、それが作中世界の事実と一致する保証はないし、もちろんすべての未解決点を網羅するものでもない。なのになんでそんなことをするかといえば、わたしが黒胆汁質の人間だからにほかならないし、(これは『ウィトゲンシュタインの愛人』の感想でも書いたようなきがするけど)「この作品には深読みや解釈の余地がある」とだけいってじっさいに深読みも解釈もしない(できない?)ここ掘れワンワン型の人間にはなりたくないからでもある。

 

1. 「ラブレターを分析する」を分析する

1.1 作中分析の矛盾

 正・分析 1 の「ラブレターを分析する」事件は、作中で「神田なつみがトミノに宛てて送ったラブレターをトミノが兄のトキオに転送した」と分析されているが、この物語が作中の事実だとしたら以下のように作中の記述と矛盾する、あるいは不自然さが残ることになる。まずはそのことを確認しよう。

a) なぜ神田なつみが屋上におらず、それどころか教室のなかにいたのか。

b) なぜ4 月に入学してきたばかりの高校一年生に「あなたは私のことをよく 知らないと思いますが私はあなたのことをよく知っています」「学校ではいつもあなたを目で追っていました」という内容のラブレターが届いたのか。

c) なぜテルは変装し、カメラを持って屋上にいたのか。

 a) から。神田なつみは屋上にいなかった。トキオとトミノが屋上に着いたとき、そこにはテルしかいなかった。屋上には隠れられそうな場所といっても給水タンクの陰くらいだが、テルはそこにいたのであり、しかもテルは放課後すぐに屋上に来たというが、それから誰も屋上には来なかったという。つまり放課後すぐテルが屋上に来てから、トキオとトミノが来るまで、神田なつみのみならず、だれも屋上には来なかったと考えられる。

 屋上にいなかったのならば神田なつみはどこにいたのか。教室だ。トミノがトキオの腕を取って見せびらかすように一年の教室が並ぶ廊下を歩いていたとき、「信じられないものをみたように顔をひきつらせる女子」がいたが、これが神田なつみである。そもそも高校一年生の女子生徒が男子生徒の腕を取って歩いていたところで、ふつうは囃したてこそすれど、それが「信じられない」ものであるとは思わないはずで、この描写が当てはまるのは、思い込みが激しく、嫉妬心の強い神田なつみだけである。

 しかも、神田なつみがラブレターの差出人だとしたら、教室に残っているのはおかしい。時間指定が「放課後」だけだった場合、テルのように放課後すぐに屋上に行くのがふつうである。神田なつみとトミノは同じクラスであるから、トミノが教室を出ていくのも確認できたはずで、そのあとも教室に残っているわけがない。よって神田なつみはラブレターの差出人ではない。

 

 続いて b) だが、トミノは「四月に入学したばかり」である。四月に入学してきたばかりの人間が通常「いつも見ていました」という内容のラブレターを受け取ることはない。あるとすれば中学、あるいはそれ以前から所属が同じだった場合だが、だとすれば差出人はその属性を隠す必要がない。舞台となる高校は私立高校であり、同じ中学から来た生徒が皆無ではないにしても多数ではないことが予想されるし、どうせ相対すれば誰だかわかってしまうのだから、手紙の時点でじぶんが以前からトミノのことを知っていることをアピールしたほうがよい。

 あるいはこのラブレターが真摯な思いを伝えるためのものではなく、狙撃でも嘲弄でもなんでもいいが、トミノを屋上に呼び出すためのものだった場合でも、「いつもあなたを目で追っていました」は不適切だ。高校一年生を相手にそういったいたずらを仕掛けるならば「一目見てあなたに興味を持ちました」のほうがふさわしいだろう。よってトミノはラブレターの名宛人ではない。

 

 c) テルは長いかつらで変装し、カメラを持って屋上で待機していた。それは「分析調査」「部活動」の一環で、かつその変装は「人に好かれやすい外見的シンボル」として選ばれたものであるらしい。しかし、テルがじっさいにトキオたちの前で行った分析といえば、スーパーボールを利用した傾斜の測定で、これには変装もカメラも必要がない。つまり、テルは屋上にいる理由をふたりに隠している。

 

1.2 真の差出人

 a), b), c), を総合するとラブレターの差出人は神田なつみではなく、名宛人はトミノではなく、しかもテルは屋上にいる理由を隠している。ところでトミノが名宛人でないならば残りの「加茂」はトキオだけであり、ラブレターの名宛人はトキオだと考えられる。差出人はだれか。その日の放課後屋上にいたのはトキオとトミノを除けばテルだけである。よって差出人=呼出人はテルだと考えられる。目的は? 魅力的な女子生徒からラブレターを受け取ったトキオの反応と表情を観察するためだろう。(じっさいにはすぐ変装を見破られたとはいえ、)魅力的にみえるような変装をしたこと、カメラを持っていたことがそれを裏付ける(カツラについて訊かれたとき、「もちろん、分析結果の検証をするためだ」と答えている)。

 ようするに、テルはトキオを放課後屋上に呼び出すためにラブレターを書いた。呼び出すためのものであるから差出人の名前がなく、具体的なエピソードや思いに欠け、便せん二枚という分量でありながら「屋上にこい」としかまとめようがない文面になってしまったのである。トキオがトミノを伴って現れたため当初の予定は崩れ、自らの真の動機を隠すためにいい加減な分析で煙に巻いたのだ。

 

  

 ところで。こんな分析で説得されているようではまだまだ甘い。この物語を採用したくとも、即座に次の疑問が浮かぶはずである。

d) だとすればなぜトミノは兄が告白を受けに行く場についてきたのか。

e) 封筒と便箋の折れ目はなぜ一致しないのか。

 トミノ転送説では問題にならなかったが、トミノがトキオに着いてくる d) のは明らかにおかしい。トミノは人を信じやすいが非常識ではない。すくなくとも、兄が告白を受けに行く場に、いくら兄が断るつもりだとはいえ、同行するような人物ではない。占いの結果を信じ込んでいるから? まさか、身内に優しくするのが目的なら、なおさら兄の人間関係にひびを入れるような行動をする意味がない。一緒に帰りたければ告白が終わるまで待っていればいいだけの話である。

 さらに、転送説を破棄した場合、封筒と便箋の折れ目が一致しないのも問題として残る。いくらテルでもラブレターを装った手紙を作るにあたってそれらしい封筒を用意しないわけがない。無骨な封筒に入れるというのはありえない。

 結論からいおう。トミノからトキオへの転送は行われた。だとすればなぜトキオ宛てのラブレターがなぜトミノの下駄箱に入れられたのか。テルが誤配したからである。

 

1.3 誤配

 なぜテルは誤配したのか?

 同じ苗字とはいえ、学年の違う兄妹の下駄箱を間違えたりはしない――ふつうは。しかし、この事件が起こったのは四月である。四月といえばだいたいのひとがやったことがあるとおもうが、前のクラスの教室や下駄箱に足を運びがちなものである。それと同じことが投函時に起きた。

 しかし、テルも二年生なのに、一年生の下駄箱と混同するだろうか? とはいっても、たとえばラブレターを下駄箱に入れるとき、登校して自分の下駄箱に靴をいれ、その足で鞄からラブレターを取り出して投函するだろうか?

 テルは寮暮らしで三雫と同室だが、寮で便せん二枚もの分量の手紙を三雫にバレずに認めるのは難しそうだ。学校の、たとえば分析部(将棋部)の活動場所である第二会議室で書いたと考えてもよい。テルは一度登校してから、第二会議室かどこかに事前に書いてあった手紙を回収し、それから下駄箱に入れに行こうとしたのではないか。その際、まだ学年が変わってすぐということもあり、誤って一年生の下駄箱へ向かってしまった。二年生の下駄箱には学籍番号の記載しかないらしいが、「他学年のところはどうなっているか知らないけれど」というトキオの記述が示唆しているように、トミノの下駄箱には「加茂」の記名があったのではないだろうか。去年トキオが使っていた下駄箱、あるいはその近くにある下駄箱は、苗字が同じトミノが偶然――といっても、もしトミノのクラスが去年トキオの在籍していたクラスだったとしたら、苗字が同じなのだから学籍番号、あるいは下駄箱の位置が同じ、もしくは近い位置になることはそう低い確率とも思えないが――使っていたのではないだろうか。

 こうしてテルはトキオ宛の手紙をトミノの下駄箱へ誤配した。もちろんすぐに誤りに気づいたかもしれないが、確認しにいったときにはすでに登校したトミノが回収してしまっていた。

 トミノは誤配された手紙を開封する。通常ラブレターを受け取っても見て見ぬふりをするトミノだが、無記名で「ずっと見ていた」という内容のラブレターが入学したての自分に届けられたという事実にはさすがに違和感というか、恐怖を覚えた。ストーカーに近い人物に狙われていると考えても不思議はない。あるいは、そういったことをしそうな人間――神田なつみ――のことが脳裏をよぎったかもしれない。いつものように見て見ぬふりをするのは不安だ。だから兄を使ってどのような人物が差出人なのか確認し、親密さをアピールすることで推定ストーカー氏を牽制しようとしたのである。

 トキオの下駄箱に届けられたラブレターの封筒と便箋の折り目が一致しなかったのは、封筒に差出人の名前が記載されていたため再利用できず、転送時に別の封筒を用意する必要があった、という理由ではなく、(むしろ封筒も無記名であった可能性が高いのだから、)単純に、常識的に考えて、トミノ開封済みの封筒を再利用するほど非常識ではなかったからだ。カッターで切ったか、糊を手で破ったか、いずれにせよ開封済みの封筒を再利用すれば形跡は明らかで、だからトミノは無骨でも新規に封筒を用意しなければなかったのである。

 しかし、そういう事情ならなぜトミノは正直に兄に経緯を説明しなかったのか? 彼氏のフリ作戦は迂遠で失敗する可能性も高いのに。それはトミノが二年前の事件をトキオが起こした暴力事件として認識しているからである。トミノは当時の記憶を失っており、あの事件について、兄弟の別居の理由について、トキオが発作的に暴力事件を起こし、母親を事故に合わせた、という物語で認識している。じっさいにはそうではなかったのだが。そんなトキオにストーカー被害を告げたら、暴力的な手段をよもやまた取るのではないか、そう慮ったかもしれない。そうでなくとも、いったい誰が自分の兄に、自分がラブレターをもらったと教えたがるだろうか。トミノが天真爛漫に見えて策を弄しがちなことは続第一話でも描かれており、とくにキャラクター設定と矛盾するわけではない。

 

1.4 囁き

 これだけ辻褄合わせをすればさすがに矛盾や不自然さはなくなっただろうかといえば、なんと、まだある。正・分析 3「ディテクティブを分析する」では神田なつみが差出人でトミノが名宛人、かつトキオに転送されたという説が前提として犯人の分析が進められているのだ*2。この点を解消してようやく誤配・転送説は成立するといえよう。

 

 ところで、「ヴィルヘルムがそう囁いている」――これはテルのキメ台詞だが、このセリフが出てくるタイミングには明白な法則がある。ふつう探偵がキメ台詞を吐いたら、それは真相を言い当てることの前兆だが、分析者にすぎないテルのキメ台詞は、そんなつまらない物語上の機能なんて一切担っていない。「ヴィルヘルム」のことをトキオはさいしょテルの副人格かなにかだと勘違いしていたが、それは自殺した大戸輝明のことだった。ヴィルヘルムの囁きがテルの耳に告げているのは真相ではない。助けを求めるひそやかな声だ。正の分析 2 であればサラリーマンが自殺を考えているのではないか、という懸念が囁きとして聞こえたし*3、だれかの苦しみがテルにはヴィルヘルムの囁きとして聞こえるというのは正・続のほかの用例をみても明らかだ。

 ところで、であれば、ラブレター事件においてテルはだれのどんな声を聞いたのだろうか。もちろんトミノが助けを求める声だろう。

 

 そもそも、誤配した時点でテルは誤配された「加茂」氏を屋上で待つ理由はなかった。それをわざわざ屋上で待っていたのはもし「加茂」氏が呼び出しを受けて屋上に来てしまった場合に説明をするつもりだったからだろう(正・分析 2 で善意の募金者に返金しているように、テルは分析活動のために他人に迷惑をかけても、道理を通すことは忘れていない)。だが、屋上への階段を上る足音がふたつ、そして、呼び出しに失敗したはずのトキオの声と、知らない女の声がするとあって、給水塔の陰に隠れた。

 トミノがトキオの妹であることは会話の流れですぐにわかった。であれば、テルにはすぐトミノがトキオにラブレターを転送したことがわかったはずだ。手紙が兄宛であることに気づいて、気を利かせて転送してくれたのか? それだったらトミノがついてくるはずがない、とすれば、トミノは誤配されたラブレターを自分宛だと思っていることになる。自分宛のラブレターを兄に転送し、その兄について屋上に来たトミノの真の目的は……。

 胡乱な分析をしながら、テルはトミノが誰かに好かれており、そのために迷惑、困惑していて、兄を使ってそれを牽制しようとしていることに気づいた。この段階でテルの目的は「兄のトキオにそれを悟らせずにこの状況に説明を付けること」になり、それは見事に成功した。テルはほんとうにトミノの状況に気づいていたのか? 気づいていたことは作中の記述から明らかだ。「書いた人間と送った人間は別なのでは?」と一度転送説の真相に触れているし、それにトミノが「な、なるほど!」と肯定的な反応を見せている。かつ、その直後に「ではトミノちゃん、いま付き合ってる人か、気になってる人がいる?」と訊いている。これにトミノがイエスと答えたことで、テルはトミノが誰かに迷惑な行為を向けられて困惑していると確信した。確信した以上、あとは真相に触れずにトキオを騙してこの場を収束させるだけでよく、こうしてはじめてテルは「狙撃/嘲笑説」を唱える。トキオは気づいていないが、狙撃説は「書いた人間と送った人間は別」という従前の分析を破棄している。

 また、おそらくテルはその後アフターケアとしてトミノに事情を説明したに違いない。テルが分析の実力の一端を示し、トミノの事情に気づいていることを仄めかしさえしていなければ、正・分析 3 でトミノが分析部に助けを求める動機がないからだ。

 そして、正・分析 3 でラブレターの著者が神田なつみであるとされていることが矛盾であると先にいったが、これはトキオからのまた聞きで勘違いしている三雫だけが採用している結論だ。【ケイタイ電話の通話にて】で、テルは一度も「神田なつみがラブレターの差出人だった」とは言っていない。

 

 こうしてすくなくとも正・分析 1 についてはようやっと作中の明示的な記述と矛盾しない物語を作り出すことができたようである。おなじような遊びはたぶんほかの章についても行えるし、行うべきなのだろうが――ちょっと疲れたのでまたこんど。

 

2. 続きます

 すくなくとも『赤村崎葵子の分析はデタラメ』についてはもっともっともっともっと語るべきことが山のように残されている。今のところ、二年前の夏の事件の表に出てこなかった真相についてまとめたいと思っているし、それを踏まえたうえで、ヴィルヘルムから託されたウィリアム・テルの帽子の意味をテルが勘違いしていることを証明したいとも思っている。がんばりま~す。

*1:し、ほかに読みたい本も読まなきゃいけない新刊もいっぱいある。

*2:ちなみにべつに神田なつみじっさいにはラブレターを書いていなかったとして、第三話の分析にはなんの影響もない。

*3:裏分析でトミノが「笑っているから気づいていない」と主張しているが、笑いの意味はどうとでも取れるのであって――たとえばこの程度のことで自殺を疑う自分の神経過敏を自嘲した、とか――、そう重篤な指摘とは思われない。