続きますとかいってから一年以上が経ってしまいました。すみません。というわけで続きからやっていきましょう。今回は「分析 2 ドネーションを分析する」です。どういう趣旨の企画かは上の記事の 0. を見てください。
1. 「ドネーションを分析する」
1.1 作中分析の矛盾
テルの募金箱に一万円を寄付した男性について、作中で不自然とされた外見、振る舞いは以下の通りだ。
a) スーツやワイシャツはくたびれているのに、腕時計だけやたらと高級なこと。
b) 小銭も持っているふうだったのに一万円をためらいなく寄付したこと。
c) 右利きであろうと想定されるのに、右胸のポケットから財布を取り出し、左手で寄付したこと。
d) その後コンビニに入ったが、ATM を使うこともなくオニギリ一個を買ってでてきたこと。
e) 乗客の少ないバスで先頭の座席に座ったこと。
f) バスの中でケイタイをみたりしまったりを繰り返したこと。
テルは a) - e) に「印象付け」というキーワードを用いて分析した。しかしアリバイ工作であれば顔を監視カメラに撮らせるのはおかしい。そもそもアリバイ工作の直後に家族と遊園地に行くというのも不自然である。というわけで三雫 (= Wilhelm) によってテル説は却下される。三雫が代わりに出した回答は、海外赴任説である。
三雫説は以下のように進行する。
男は左に腕時計をしていることから明らかに右利きで、右利きの男が右胸のポケットに*1財布を入れていたのは、それがスペアの小銭入れだったからである。
なぜスペアの財布を持ち歩いていたかというと、男が海外帰りだったからである。
海外赴任帰りのために、小銭入れのなかには海外の硬貨しか入っていなかった。だから、募金箱の前でつい取り出したはいいものの寄付することができなかった。しかし、引っ込みのつかなくなった男は、唯一入っていた日本円である一万円札を寄付した。
コンビニに入ったのは、バスに乗るために小銭を作ろうとしたため(スペアの小銭入れには一枚しか札が入っていなかったが、〝メインの〟財布にはほかに札が入っていたのだろう、だから ATM を利用することはなかったのであろう)。
バスの先頭に座り、ケイタイをちょっとづつ確認したのは、車に酔いやすかったから。
鮮やかでほとんど完璧な再分析だ。もうこれが結論でよくないか? 隠された真相とかこの回に限ってはないだろ、裏分析もこの回にはほとんど触れてないし……そう思って一年間放置してしまいました。すみません。
ところが、ちゃんと読めば三雫説には矛盾がやっぱりある。
三雫説によれば男は右利きである。であればなぜかれは左手で寄付したのか。ためしに利き手とは反対側のポケットに入れた財布を利き手で取り出して、お札をしぜんに取り出してみてほしい。
利き手で取り出した財布を反対の手に移し替え、利き手で札を取り出さなかっただろうか?
ようするに、
また、「海外硬貨しかなく、一万円札をやむなく寄付した」のであれば、なぜ「
バスに乗るために小銭を作ろうとしてコンビニに入ったというのもおかしい。小銭がないのに電車に乗れたのであれば、交通系 IC カードを持っていると考えてまず間違いない。であれば、バスにも乗れるはずだろう。小銭を作るためにオニギリを買うというのも不自然だ。お昼前の時間なのであれば、飲み物でも買ったほうがよい。このあとお昼時に家族と遊園地で落ち合うのであれば、そこで食事をとる可能性も高いだろう。なおさら小腹を満たすのはおかしい。
また、海外赴任帰りであったとしても、「手ぶら」なのはどういうわけか? 飛行機中の手荷物すら持っていないのは明らかに不自然だ。というか、国内に単身赴任していたとしてもこの疑問は残るのだが。しかも、海外赴任帰りの男をふつう遊園地に連れていくだろうか?
1.2 真相
男はほんとうに左利きであった。であれば、右胸のポケットに入れていた財布はメインの財布である。また、一万円を寄付したのは「引っ込みがつか」なくなったからではなくて、「ためらうことな」い意図的な行為だった。男は海外帰りでもないし、ということは財布のなかには日本円の小銭も入っていた。
かといってテル説に帰ることももちろんできない。印象付け説はすでに破綻している。
さきに挙げた a) - f) の疑問点のうち、c) だけは解決された。残りを整合的に説明できる解釈はあるか。
ある。
男が
男の出張先とは刑務所であった。身だしなみが整っていないのは当然だ。入所時の持ち物は着ていた服も含めて領置(保管)される。出所時にもちろん返却されるが、クリーニングされるわけでもないのでくたびれたままである。
「あまりに生気がな」く、四十代なのに白髪交じりで、「疲れ切っ」ているのは(84 頁)、「久しぶりに見たらやつれ」ていたのは(117 頁)、長いお勤めを終えてきたからだ。
コンビニで「お弁当の並んでいる棚をずっと見て」いるのは、シャバの飯をみるのが久しぶりだからだ。小銭を作る必要もないのに、このあと妻子と会うのにオニギリを買ったのは、死ぬほど腹が減っていたからだ。あるいは、一万円を寄付したせいで、弁当を買うほど小銭が残っていなかったのかもしれない。ATM を使わなかったのは、刑期中にキャッシュカードの有効期限が切れてしまったからではないか。
乗客の少ないバスで先頭に座ったのは、刑務所でほんとうに「前から順に詰めていく、そういうしつけを受け(104 頁)」たからだ。
ケイタイをみてはすぐ画面から目を離していたのは——ひさびさに娘の写真をみてこみ上げる涙をこらえるためだ。テルはおそらくこのあたりで真相に気づいた。だから、男が泣いていることに気づかれないように、めぐるちゃんを前方の座席から呼び戻したのだ。
手ぶらだったのは、衣服以外の荷物、受刑者が刑務所内で個人的に購入したもの等は、宅下げで家に郵送したからだ。明日届くという荷物(116 頁)はこれだ。
まだ幼い娘に対しては収監されていたことを隠すことに決めた夫婦は、夫が収監されていることを「単身赴任」として説明した。だから娘の前では、あたかも夫が単身赴任していたかのように会話をする(117 頁)。もちろん、娘には隠しているので、刑務所まで出迎えには行けない。遊園地への現地集合になったのはそのためである*2。
さぞ「長旅」だっただろう! 「単身赴任先でもその時計着けていたの?」は、ふつうに考えればおかしいセリフだ。単身赴任先で腕時計を付けていることにふつうに考えてなんのおかしな点もない。この妻のセリフは、「お父さんの腕時計、家にないと思ったら刑務所まで持っていってたのね」ということだ。もちろん刑務中は領置されていただろうが、それを承知で、この男は収監時にもこの時計を着けていったのである。
テルの誤った分析が犯罪者などと言い出して物騒なのも、彼女がこの真相に気づきながら、それを迂回する偽の分析を作り上げたからである。テルの分析が誤っていたことをトキオは「犯罪者がどこにもいなくて良かった」(119 頁)と述懐するが、たしかにそのとおりで、もうここには犯罪者はいない。元犯罪者がいるだけなのだから。
さて、では男はなぜ一万円をためらうことなく寄付したのか。こればかりは想像するしかない。テルが募金のテーマとして社会問題などを選ばずに、「病弱な身内」というテーマを選んだのは、純粋な善意による寄付、「思想と良心だけに支えられた事物」(79 頁)を分析したいと望んだからであった。
この男が、なけなしの作業報奨金から一万円を、罪滅ぼしのためにためらうことなく寄付したと考えたいと思ってしまうのは、すこし優しすぎるだろうか。