Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

チャック・パラニューク『サバイバー』とみっつの奇跡

 

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

 

 

0. 

 ブラックボックスがある男の半生を語りだす。飛行機をハイジャックして、乗客全員とパイロットを降ろしたあと、ひとりで機内に残って墜落を待ちながら、ブラックボックスにむかってじぶんの人生を吹き込んだ男の半生だ。破滅を目前にした男の最期の自分語りだ。427 ページ、47 章からはじまって 1 ページ、1 章にむかって遡っていくこの小説はそういう体裁を取っている。

 男の語る半生は以下の通りだ。

 クリード教会では長子のみが家産を相続し、次男以降の男子および他家の長男に嫁げなかった女子は、十七歳になると共同体の外に出される。かれらはそれまでみたこともない、堕落した「外の世界」で富裕層のハウスキーパーとして働き、稼ぎのすべてを教会へ送金する。かれらには出生証明すらない。この異常な制度を密告された教会は FBI の捜査を受ける前に集団自殺した。『サバイバー』の主人公、テンダー・ブランソンはこうして十年前に集団自殺して消滅したカルト教団の生き残りだ。教団は崩壊したが、かれはまだその教えに従って、ハウスキーパーとしての慎ましやかな生活を送っている。

 テンダーのように「外の世界」に取り残されたために死にぞこなったものは多かったが、あとを追って自殺して徐々に数を減らしていった。その上、どうやら、さいきんこうした生き残りを、自殺にみせかけて殺す事件が起こっているようだ。こうしてテンダー・ブランソンはクリード教会最後の生き残りとなった。

 カルト教団最後の生き残りであるテンダーを使って金稼ぎをしようとするエージェントに操られて、テンダーは筋トレし、ステロイドを飲み、髪を染め、予知能力のある少女ファーティリティの手を借りて奇跡を起こす。

 そこに死んだと思っていた兄、アダム・ブランソンが現れて……。

 

 テンダー・ブランソンの人生は常に他人によって決定されてきた。クリード教会の教義、雇い主が定めたスケジュール、テーブルマナー、ケースワーカーが押し付けてくる DSM 診断基準、エージェントによるプロデュース。

 ようするにこれってカルトに洗脳されて自己を失った*1青年が、波乱万丈ひととのかかわりを通じて自分を取り戻そうとするっていう話なんですか? 道具立ては豪華でも、やってることはオールドファッションじゃないですか?

 それに、なにがあったのかしらないけど、けっきょく飛行機をハイジャックして自殺するんでしょ?

 

 わたしもむかしそう読んだ。でもその破滅へ向かう軌跡が美しいのだとおもっていた。再読してみたら、ぜんぜんちがう話だった。ということで以下は人間がいかにあからさまなしかけに気づけないかの実例のひとつ。致命的なネタバレを含むので、未読者はぜったいに以下の記述を読まないこと。

 

 1. ひとつめの奇跡

 ところでこの小説はブラックボックスに吹き込まれた音声だ。なんでわたしたち読者はこの男の話を信じるのだろう。男が死を目前にしているからだ。死ぬ前にわざわざ嘘をつくやつなんていない。なんで男が死ぬと確信しているのだろうか。本人がそういってるし、じっさいに目の前に事故機があるからだ。ブラックボックスが録音を停止する*2そのときまでこの男がずっとしゃべり続けているからだ。

 8 ページを読み直してほしい。テンダーにハイジャックされた乗客たちは命乞いのために貴重品を通路に積み上げた。品目は以下の通り。「財布や腕時計、ラップトップパソコン、携帯電話、マイクロカセットレコーダー、CD ウォークマン、結婚指輪の山」カセットレコーダー? 貴重品か、それ?

 テンダーはトイレに行くふりをして、トイレの中で最後の数分間分の叫びを事前に録音しておいた (pp. 424-5)。パイロットを降ろすためにニューヘブリディーズで積ませたパラシュートは六個あった (p.3 )。ほんとにほんとの最後の数分間、テンダーは録音した叫びをカセットレコーダーから流してブラックボックスに聞かせ、そのあいだにパラシュートを使って脱出した。カセットテープは墜落の衝撃で粉みじんになるが、ブラックボックスは無傷だ。あんまりにも応用性のない脱出トリック!

 こうしてテンダーはケースワーカー、エージェント殺し、そしてクリード教会の残党殺しの汚名を雪いだうえで、周囲には自分が死んだとおもわせることに成功した。そして、ファーティリティが待つ地上にパラシュートで降下したのだ。

 そんなご都合主義、アリ? 伏線はよくできてるけど、オチとしては自殺より陳腐じゃない? 教条的なバッドエンド至上主義者は首をかしげるだろう、そのへんは趣味の問題だからいい、ただ、テンダーが起こした奇跡を、あとふたつだけみていってほしい。

 

2. ふたつめの奇跡

 テンダーの人生は他人によって決定されているとさきに述べたが、より上位の決定論が当然かれを支配している。決定論というか、運命論というか。これを象徴するのがファーティリティの予知能力だ。彼女の予知は百発百中で、未来が決定されていることを表している。

今日の午後一時二十五分、この街からシドニーに直行する二〇三九便は、狂信者にハイジャックされ、オーストラリア奥地のどこかに墜落する。(p. 18)

 じっさいに二〇三九便はテンダーという狂信者によってハイジャックされ、オーストラリア奥地のどこかに墜落する。ファーティリティの予知は百発百中だ。

 ほんとうに?

「今日の午後一時二十五分」とは? 二〇三九便は朝の八時に(おそらく西海岸、サンフランシスコかロサンゼルス*3)を出発するシドニーへの直行便だ。ところがこのハイジャックは搭乗前からファーティリティそのひとを人質として行われている。3 章をみよ。つまりテンダーによるハイジャックが行われたのは午前八時のすこし前であって、午後一時二十五分にはすでに二〇三九便はハイジャックされて空のうえである。ファーティリティの予知は「テンダーのハイジャック」を予知していない。ファーティリティが予知したのはあくまでも午前八時に出発した二〇三九便が午後一時二十五分にだれかにハイジャックされるという現象である。

 テンダーはファーティリティの予知を書き換えている。たしかに飛行機はハイジャックされた。だが、乗員乗客はすべて安全に降機させられた。たしかに飛行機は墜落した。だが、テンダーですらも逃げ出した。ファーティリティの予知を大筋で残しながら、解釈の余地のある部分を変更しているのだ。

 テンダーにはファーティリティの絶対の予知能力、決定論的な未来を部分的に変更する能力がある。

 

3. みっつめの奇跡

 そんなの詭弁だ、テンダーがひっくり返したのはたかだか小娘の予知であって、決定論的世界そのものではない。それに、"At 1:25 this afternoon, Flight 2039, nonstop from here to Sydney, will be hijacked by a maniac and crash somewhere in the Australian outback" を「午後一時二十五分にハイジャックされた」と読まなきゃいけないわけじゃない、午後一時二十五分に crash somewhere in the Australian outback したのだ、と読むこともできないわけではないだろう。

 それも無理だ。朝八時に西海岸を飛び立ったボーイングは、どうしたって現地時間の午後一時二十五分までにオーストラリアまで到着できない(だいたい、ロサンゼルスの朝八時はシドニーではすでに次の日の朝三時だ(夏時間込みで))。

 じゃあ墜落したのはいつなんだ——

 この物語が終わるのはだいたい二月の中旬くらいだ。なぜわかるかというと、物語終盤でテンダーが結婚式を挙げるのがスーパーボウルの日だからだ。スーパーボウルNFL の決勝戦)は二月初旬の日曜日に行われる。というわけで、そこから逃避行の期間を加算して、二月の中旬くらいにテンダーとファーティリティが飛行機に乗ったことがわかる。

 そして、二月の中旬ということは、オーストラリアは夏の終わりだ。この時期の南半球での太陽の動きを即答できるだろうか。正解は以下の通り。東南東の地平線から出てきた太陽は北天高くを通り、西南西に沈む。

 さて、最期の最期の場面において、「太陽は真円で、燃えていて、ちょうど目の前に浮かんでいる(p. 420, p. 1)」。太陽が「ちょうど目の前」に浮かぶということは、時間帯は日の出か日の入りのどちらかに近い時間帯だ。夏の太陽は高く昇るから、飛行機の上といっても*4、日中の太陽は北天をみあげなければみることができない。みあげなければみることのできないものを「ちょうど目の前」とはいわないだろう。だから、目の前に見えている太陽はぜったいに日の出か日の入りかどちらかなのだ。

 二〇三九便は「南西に向かう直線」を飛んでいる。もし南西に機首を向ける機内から、東南東の日の出をみようとおもったら、機首の方向を零時として、七時か八時の方向を向かなければならない。そんな方向に窓はない。よって、素直にコックピットから進行方向に浮かぶ西南西の日の入りを直視していると考えるのが正解である。

 さらに、午前八時にアメリカ西海岸を出発した直行便はおよそ十五時間弱でオーストラリアに到着する。時差と、ニューヘブリディーズで一、二時間ロスしたであろうことを加味すれば、オーストラリアではちょうど日の入りの時間になる。

 テンダーは沈む太陽に向かって飛んでいる。西へ。地球は東向きに回転しているから、西に向かって一定の速度で進むことで、時間を止めることができる。

そんなわけで僕はいま、オートパイロットに頼り、マッハ〇・八三または真対気速度時速四百五十五マイルで西へ向けて飛んでいる。この速度と緯度では、太陽は一点から動かない。時間が静止する。(p. 422)

  べつにわざわざアリストテレスを持ち出すまでもなく、天体の運行といえばもっとも規則的で、予定通りで、不可変なもので、決定論的世界観の発想の源で、神の意思や力そのものであると考えられてきた。だれにもそれは変化させられない。

 テンダーだって地球の自転を止めることはできない。見方によってはなにも変わっていない。いくら猛スピードで西へ進んだところで、地球も太陽もいつも通り動いている。

 それでも、亜音速のジャンボジェットは日没をその場にとどめたのだ。沈んでいく日を空中にとどめたのだ*5。これを奇跡といわずになんと呼べばいいのだろう?

*1:おじろく、おばさみたいですね。

*2:いっぱんにブラックボックスはエンジンが停止すると録音も停止される。

*3:物語の最後でテンダーとファーティリティがいるのはポートランドから州間高速五号線で南に行ったところにあり、かつシドニーへの直行便がある都市はあまり多くない。6 章をみよ。

*4:そりゃ太陽光線は平行光線だから

*5:ちなみにオーストラリアのような中緯度帯では太陽の見かけの速度はあいかわらず時速 1,200 キロメートル以上あって、たかだかボーイングの最高時速 900 キロメートル程度では日没を空中に完全にとどめておくことはできない。遅らせることができるだけである。