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Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

ハーラン・エリスン「死の鳥」(とすっぱい葡萄)について

書評
愛って何か知ってる?
ああ、知ってるとも。
少年は犬を愛するものさ。(「少年と犬」)
 
 
 
ハーラン・エリスン『死の鳥』(早川書房、2016)を読んだ。
表題作である「死の鳥」を読んで感じたことを少し書く。文章が散漫なのは自覚している。直したいので気づいたところがあれば指摘してほしい。
ハチャメチャにネタバレなので未読の人間は気を付けてほしい。
一読しかしていない人は、二回目をおすすめする。
 

 

 
「死の鳥」のストーリーは単純である。
旧約聖書の神は超越的な造物主などではなく、宇宙のなんらかの知性的な種族であった。太古の昔、この種族は旧約聖書では蛇とされている別の知性的な種族と地球の管理権を巡って争いをし、《神》と呼ばれるほうが(今回は)勝った。《蛇》種族は自らの種族のうちから一人を地球に残し、あとは去ることが義務付けられた。残された《蛇》――名をダイラという――は、《神》による地球の支配が失敗に終わったとき、「死の鳥」と呼ばれる装置で地球を終わらせることができる。
現代から二十五万年後の地球で、ネイサン・スタックは目を覚ます。ほとんど終末を迎えている瀕死の地上で、ネイサンはダイラに連れられて山を登る。
神は狂っていた。神は自らのおもちゃである地球にピンを刺して遊ぶような幼児的な精神の持ち主だった。とても、文明の管理者としては認められなかった。
ネイサンとダイラは山の頂上で、宮殿のうちの神と対峙し、これに打ち勝つ。終末を迎えつつある地球にネイサンはとどめを刺し、「死の鳥」が死んだ地球を優しく包み込む。
 
過剰に詩的な表現、神話の再構築、ここまでならゼラズニイと一緒だ。「フロストとベータ」なんか思い出すといいだろう。
「死の鳥」が異常なのは一読してわかるように、その構成だ。
この小説はテストの体裁を取っている。これはテストだ。そのつもりで。とはいえ文中の設問のほとんどは意図が見え透いている。
四章の論述問題からいくつか取り上げてみよう。
 
一、メルヴィルの『モービィ・ディック』は、「わたしをイシュメイルと呼んでいただこう」から始まる。われわれはこれを、一人称で語られているという。創世記は何人称で語られているか? だれの視点からか?
→答えは三人称である。三人称というのはつまり神の視点であるが、創世記は神が主人公であり書き手でもある物語なので、これは同時に一人称でもある。
 
四、なぜ「主」(LORD)という語はつねに大文字で表されるのか? なぜ「神」の語頭は大文字なのか? 「蛇」(serpent)の語頭もまた大文字にすべきではないのか? すべきではないとすれば、なぜか?
→答えは創世記が神によって、自らの特権性を示すために書かれた書物だからである。同時に、蛇の存在を貶めるために書かれているからである。(まあ大文字、小文字という議論は英語でしか成り立たないのだが、そこはどうでもいい。)
他の問もだいたいは旧約聖書の”偏向報道”を読者にほのめかすために用いられる(問二、三、十)。
また、創造主としての神の全能性と善性からは世界の最善性が当然に導かれなければならないが、実際の世界は到底最善の物とは思われない。このことをはじめとする旧約の矛盾点を問五、七、八、九は示唆する。
どうだろうか、そんなに難しい問いではないだろう。愚直に”正答”を探すとはったりのように見えるが、問題を置いた意図だけ考えればそう複雑な話ではない。
 
じつのところこの小説の読解を困難にしているのは二つの挿話である。
 
一つは犬の挿話。少年のころ飼い犬を隣家のクソ婆に殺された経験を持つ男は、動物愛護施設で一匹の子犬を買う。
子犬はアーブーと名付けられた。アーブーと男は友情をはぐくみ、そしてアーブーは年老いて衰弱する。
最期の瞬間、もう食事もとることができないほど弱ったアーブーを、男は安楽死させることに決める。
「見たくなければ、こちらで処置してもよい」獣医はそう言う。
「知らない連中のところにおいていかないでくれ」アーブーの目はそう語る。
アーブーは男の腕の中で息絶えた。ところでこの男の名前はエリスンという。
 
もう一つはネイサンの母親の死をめぐる挿話。
ネイサンの母親は死の床についていて、見舞いに来た息子にタバコをねだる。
ネイサンがこれを断ると、じゃあ注射をして逝かせてくれと言う。
かれはふたたび断るが、トム・ゴールデンを殺したのが父親であるかどうかを聞き出すことと引き換えに、母親に注射をする。
死の間際に母親はトム・ゴールデンを殺したのはわたしだと言う。
 
これらの挿話はなぜ存在するのか?
表面的にみれば、この二つの挿話はどちらも高瀬舟である。
アーブーを安楽死させ、母親を逝かせた行為はとして解釈されるべきであろう。
そして、このことのアナロジーから、本筋のストーリーで、ネイサンが滅びゆく地球にとどめを刺す行為も同様にとして読み解かれる。
そんな単純な話でないことは分かっている。でも、十分に理解した気になれない箇所である。
Ahbhu という綴りは YhWh を想起させるといっていいのだろうか? Tom Golden のなかにはたしかに God が見いだせるが?
アーブーの挿話の直後に挟まれる設問は特に難しい。
「汝は神なり」という語句はどう読み取られるべきか? これはハインライン(『異星の客』)か? 詩編 82:6 か?
 
ただの壮大な神殺しであったはずのストーリーが、そうではないと深みをほのめかす。
《神》が狂える異星人であるのはわかった。だが、《蛇》が人間に知性を与え、《神》への反抗を促したことは、果たして正義なのか?
《神》でなく、《蛇》に支配されていたとしたら、地球は幸福であったのか?
ダイラは物語の後半でネイサンの友達になるが、それでいいのか?
せめて愛する者に自己を決定させることこそが愛なのではなかったのか?
狂える者の支配から自決を取り戻したかのように見えるストーリーは、すべて《蛇》の善導ではないか?
二つの挿話とそれに付随する設問は、異種族、異性間、異世代間、つまり他者との間に愛が成立するかを問うている。
もし成立するならば《蛇》が人間(地球)を愛するというストーリーは成立する。
成り立たなければ、成り立たない。
 
 
ところで。ネイサンは過去にファウストだったことがある。ファウストはメフイストフェレスに魂を売り渡し、死後の救いを否定し、現世に生きることを強く志向する。
もちろんこんな男は地獄に落ちてしかるべきである。しかし、地獄は「死の鳥」において限りなく肯定的に描かれている。(213ページ)
《神》はこんなことを許可するわけにはいかないので、いいわけ(189ページ)をこしらえた。
ファウストのラストは有名で、マルガレーテの祈りによってファウストの魂は救済される。
そう、この取って付けたかのような救済は、《神》の作為なのである。
ファウストについては簡単な話だから、読者のほとんどがこのくらいのことには気づくだろうが、それでもこれは文中に明言されているわけではない。自分の頭で考える必要のあることである。
 
自分の頭で考える? エリスンの要求はそれに尽きる。
エリスンの小説はどうもその光彩陸離たる文彩ばかりが取りざたされてしまう傾向がある。凝りに凝った構成、文体、極限まで圧縮された描写は確かにそれ自体一つの価値ではあるが、その奥にあるものをともすれば考えようとしない読者を生み出しかねなかった。
なぜか読者というのは文体がすごいと中身が伴っていないのだと考えたがるし、文体が稚拙だと中身に見るべきものを見出そうとするのである。
なにも考えていないくせにバランス感覚は披露したがるおぞましい愚物根性!
しかし、この自分の頭で考えろというエリスンのメッセージはかれの読者たちのいい加減な読みに対する挑発からのみ生まれたものではない。
なぜなら、挑発的な構図を取って、読者の思考を促すだけなら、どんなテーマの作品でこれを実践してもいいわけである。
あえて、「死の鳥」においてこの構図を取った理由は、蛇が我々に与えた贈り物が「知恵」であったことを思い出すだけで明らかだろう。
「死の鳥」は故意に没入を防ぐような書き方がなされている。思考停止して物語に身を任せていないで、自分の頭を使え。物語の外部にある作者とか、帯とか、批評家たちじゃなくて、物語自体がそう主張する。
これはテストだ。そのつもりで。まさか、この書き方がハッタリだと、読者を驚かせるためだけのクラッカーかなにかだとお思いか?
アーブーの話はエリスン実話だ。無加工の実話が、小説の中に紛れ込んでいいはずがない。この挿話は泣けるだろう。存分に泣くがいい。
そして 19 章末尾の設問 4 番の選択肢 A を読んだとき、鳥肌が立つ。ぼやっと目の前に現れた文章を流すことが許されていなかったことに我々は気づく。
そして死の鳥の咆哮が宇宙に響き渡ったあと、この物語は唐突にマーク・トウェインに捧げられる。
もしかしてあの有名作家のことだと思ったか?
違う。Mark Twain というのはほんらい、蒸気船の測深手が水先案内人に「航行に安全なギリギリの深度がある」と告げる業界用語だ。
もちろん、Twainというのは中期英語の語彙で、現代英語では Two だ。つまり、ハーラン・エリスンは「二つのことに注意しろ」と言っている。
なぁんてね。
 
これはテストだから、真剣に読まなきゃいけない。でも、論述式のテストで満点を取ったことがある? 私はない。
テストだという宣言はつまり同時に、せいぜい合格点が取れればいいということを意味する。真摯な読者の真摯な誤読に対してエリスンは寛容だ。
Mark は「気を付けろ」という意味でもあるし、「採点する」という意味でもあるよね。
 
 
 
 
 
 
 
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ところで、こんな書評があった。
慶應義塾大学SF研究会による「ハーラン・エリスン「死の鳥」書評」というタイトルのものである。
ここまで愚かな書評を見たことがないので呆れてしまったが、いくつか思うところがあるので書評を評してみようと思う。
 
最初に述べておくと、この評者のいうブレヒトの言葉は全く知らなかった。勉強になった。
評者の意見をまとめると、
  1. 「死の鳥」は難解である。難解さはテストという形式によるものである。
  2.  テストという形式をとることは、この作品が持つテーマ、内容に対して一歩引いたところから見ることを読者に要求する。
  3. しかし、この作品がそういった読みを要求するような深遠な深みを持っているとは思えない。
  4. 晦渋な書き方をしているポストモダン思想家の思想のうちいくつかは『「知」の欺瞞』という書籍の中で明らかにされたように見掛け倒しのインチキであった。
  5. 「死の鳥」も晦渋な書き方をしているが、ポストモダンと同じように、中身はなく、見掛け倒しのインチキだ。
1, 2 までは完全に同意できる。だが、3. からおかしくなってくる。
まず、『「知」の欺瞞』が”実証”したのは、「ポストモダン(の少なくとも一部)が見かけ倒しのインチキであったこと」ではない。
かれらの使う自然科学的なアナロジーが不適切であったことである。もちろん、これを述べることで不適切なアナロジーに依拠した議論の信ぴょう性はかなりの部分そがれたことだろうが。
5に至っては意味不明である。『「知」の欺瞞』を例に引いてきて評者が主張できることは、
「難解な見た目を持つテクストの中にはそれにともなった内容がないものがある」
ということである。ここから、
「難解な見た目を持つテクストは内容がない」
というのはどうやっても導けない。なぜかわからない人は論理学をやるとよい。
あるテクストに中身があるかどうかはその作品に対して真っ向からあたることでしか判断できないだろう。
そもそも、小説が「伝えるべき中身」を持っていて、読者はそれを素直に受け取るだけでいい。もし読書がそういうものであるとするならば、晦渋なスタイルに何の意味もないだろう。むしろ読書体験を混乱させる、積極的な害悪とさえいえる。
おそらく、難解で理解しがたいものをありがたがる風潮に嫌気が差す、という感情がある。これは私も理解できる。
大学のサークル棟の一角の部室でこんな会話が繰り広げられるのだろう。「おい、エリスンの『死の鳥』、お前読んだか?」「ああ、読んだよ」「お前、あれ、分かったか?」そしてニヤニヤ笑い。
ソーカル事件において根本的に指摘されたのは大陸哲学の風通しの悪さ、土壌汚染だった。
しかし、難解なものすべてをそれでもって「内容がないはずだ」「読み取ってやる義理はない」と断ずるのは、いかにも浅薄ではないか。
「評者としては、スペキュラティブという言葉に見合うだけの内容があると信じたい。しかし、そう信じるにはあまりにもこころもとないのだ」だそうだ。
なにがこころもとないんだか、さっぱり説明はなされない。ほんとうにこころもとないのは誰の文章なのだろう。
「同じにおいがしないか?」だそうだ。
たしかにこの評論(といっていい代物かどうか怪しいが)からは難解な理論の権威を借りて、自らの論証は用いずになにかを断言したがる人たちと同じにおいを感じる。
 
この評者と同じ人物かはわからないが、藤本という人物によるこのような記事もある。
ご隠居の印籠のように繰り出される「知」の欺瞞、ソーカル事件である。
権威づけのために用いられる不適切な自然科学的なアナロジーを攻撃したはずの『「知」の欺瞞』が無思慮な人間によって権威として不適切に用いられているというのは笑い話にもならない。
哲学論文に対する批判をそのまま文芸評論に持ち込むのもお笑い草だ。
 
なにも私はエリスンの小説は読み取るべき内容があると積極的に擁護したいのではない。
もしかしたら私の読解はすべて間違いで、エリスンの小説はほんとうに見るべきところがないのかもしれない。
しかし、それはエリスンの作品に当たることによってはじめて判明することである。『「知」の欺瞞』という”聖書” ”権威”を曲解することによってではない。
藤本は「世界の中心で愛を叫んだけもの」について、『「狂気」や「戦争」に関する曖昧かつ未熟な思念』と述べている。
残念ながら、どう「曖昧かつ未熟」なのかは一切示されていなかった。ただただ、エリスンは知的煙幕を張っていると主張するだけである。
難解なものについてわからないことはおかしなことではない。私も「死の鳥」のほとんどのシーンについてわかったとは思えない。
だが、そこでなぜそれを文学的なごまかしだと即断できるのだろう。わからないと言っておきながら、わかると言っているのである。ようは、矛盾しているのである。
このような読者に、エリスンがほほ笑むことはないだろう。「ぼくは十四、五歳の少年や彼らの母親を対象に小説を書いているわけではない」からだ。(『世界の中心で愛を叫んだけもの』の序文、「まえがき――リオの波」から引用。)
 
 
 
 
 
田島正樹という日本の哲学者がこうした「独断的価値判断を下しながら、理由を示して発言に責任を取ろうとはしない」人間に対して述べている文章がある。とても好きな文章なので引かせてもらう。
「このような断言(理由や説得に対するシニカルな忌避)、これこそが、自分自身では自由な判断をする能力も勇気もない性格の弱い意気地なしたちに、蜜のように甘く囁きかける。もちろん、そんな連中でもいっぱしの「判断」ができる(しかもその理由を詮索されることなく)かのようにお墨付きが与えられるからである。」