Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『未必のマクベス』の文体論

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)

(※この文章は第二十五回文学フリマにおいて東京大学新月お茶の会会誌『月猫通り 2158号』を購入された方に配布したペーパーに掲載した書評をほんのわずかに修正したものである。)


 物語の必要性に追いかけられて書けば文章は窮屈になる。文彩にばかり気をとられれば物語は停滞する。一人称視点の文体はカメラの移動に制約をかけ、下手をすれば情報の密度は下がりかねない。その上、この小説はとにかく多くの情報を扱う必要があるプロットを持っている。それでも気軽に神の視点を入れるわけにはいかない。この物語は旅する王の僭称者が自分語りをしていることに意味があるのだから。
 さて、『未必のマクベス』が文庫化した。単行本発売時には不幸にも多くの人に届かなかったらしいこの小説が、この機会に読み込まれることを切に願う。さいわいにもこれは「読めばわかる」小説だ。そして、そのわかりやすさは著者の早瀬が注ぎ込んだ技巧によって実現されている。効果的な技巧というのはそれが用いられていると気づいていない人にも効果を与えるからこそ優れていて、それを分析するのはフィギュアスケート選手の跳躍の瞬間、足元をコマ送りでチェックするような無粋であることは承知しているが、それでも物語の美しさを表現するための技巧も極まればそれ自身美しさを持つものだとわたしは信じている。

 本題に入る。ここではii章冒頭部のみを取り扱う。『未必のマクベス』における語りの技法と、テーマとの関わりがもっとも特徴的に表れている箇所だからである。
 i章が物語全体の予言とビジュアルイメージの提示のために費やされたため、ii章が実質的なストーリーの起点となっているが、やるべきことは伴と鍋島(と中井)を物語に導入し、伴=バンクォーであることを示唆し、鍋島と主人公の中井の間にあった情緒的なものの萌芽を示すことだ。そして、早瀬はこれをたったの7ページで手際よくやってみせる。
 「中井」は席が二つ後ろの「伴」の自己紹介を聞くために後ろを向く。席順は五十音順だから、必然的に、、、、「鍋島」のことが視界に入る。章の冒頭でかれらの入学した高校が旧制高校から続く中堅高であると描写されたことは、最初は描写として、次にはシェイクスピアを引用する老英語教師を登場させるための伏線として機能する。さらに、中堅高という設定は受験期の文理別クラスという設定を自然に導入する。この文理の別と、中井と鍋島の席が連続している描写を用いて、「三年間中井と鍋島の席の配置が変わらなかった」というエピソードが生み出される。鍋島は理系であるにもかかわらず、中井と同じクラスになるために文系クラスを選択したのである。
 このように、視線の移動/誘導は論理的かつ物理的で、一度使われた描写が次の展開のための伏線となる。属調に転調すればもとの調の主和音トニック下属和音サブドミナントになるように。しかも、描写の直後に展開が来るのではなく、あくまでも無意味に、楽しく読んだ描写が、少しの間隔をおいて次の展開へつながることが、文体をリズミカルで、音楽的なものにしている。その小気味よさの繰り返しでこの小説はできている。描写と情報開示が読む楽しみとスピード感を失わせないまま、寸分の隙なく続いていく。
 一度ある意味を持って読まれた文章が、別の意味をまとって再度用いられる。あるいは、再度用いられることで別の意味になる。この構造は今分析したようなミクロな規模だけでなく、マクロにも当てはまることをみていこう。
 たとえば、ii章冒頭の7ページで鍋島がとるアプローチはすべて中途半端で、期待する効果をあげることはなかった。ここまでなら青春のほろ甘いエピソードとしか映らない。(おそらくほろ苦くはない。鍋島の用意した義理チョコは甘いだけの不二家の板チョコレートである。)しかし、鍋島はこの物語全体を通してこうなのだ。鍋島は控えめに手を伸ばす。目いっぱい腕を伸ばせば届く距離だというのに。この届かなさは作中で何度も繰り返される。それは最初のうち変奏であることを隠してなされる以上、ここでネタを割るわけにはいかないが、勘のいい読者なら、あるいは幸せな再読者であれば、ある登場人物との初対面のシーン、マホガニィの大きな机を挟んで*1なされた会話がすでにその変奏であることを悟るであろう。
 ii章冒頭の分析においてわれわれが席順に注目したのも当然無意味な深読みではない。数百ページをおいて、541ページには「中井の背中を見る鍋島」というこの席順が物語全体を占っていたことの答え合わせがある*2

 一度使った文章を印象的に再登場させる技巧は、心ある作家ならだれでも行っているというのも真実ではあるが、『未必のマクベス』においてはそれがあらゆる規模において徹底されている。われわれはいま鍋島についてみてきたが、同じようなことは中井についても、伴についてもできる。フィクション世界には、書かれていない細部が決定されていないという根本的な弱点があるが、本書のような、文章同士が有機的に絡み合う文体は、この世界を実在世界であるかのように錯覚させる*3
 また、この著者にとってはひたすら負担となる文体が採用されたことにはもうひとつ理由がある。
 ここまで文体について強調してきた、『再登場』とそれに伴う『意味の変容』という技巧、これはこの物語全体のトリックにもなっている。最終盤になってある人物が物語に登場することで、ある人物との数百ページにわたるすべてのエピソードは何倍もの意味を獲得する*4文体が全体と対応している、、、、、、、、、、、、のだ。というわけで、タイトルにある「未必」というのは、少なくとも著者の創作に対する態度としては大嘘である。すべては確定的故意のもと書かれているからだ。
 
 一点だけ不可解なことを挙げてこの小文を終えよう。一人称小説であるはずなのに、なぜ中井は全体を前提とした文体を用いることができるのか? この小説は自分語りであることに意味があると言ったが、あくまでも、作者早瀬による中井の自分語りの再構成にすぎないのか?
 xiv章のラストによって、この文章そのものを「物理的に」中井が書いたという解釈は否定される。あとに残るのは中井の内心で起こった語りを、作者という神が拾い上げたという可能性と、中井の語りを作者がねつ造したという可能性の二つ。自分語りであるということに意味を持たせている以上、前者の解釈を取りたいが、前述の通り、結末を予知した技巧がその解釈を許さない。しょうがない、意図する作者の存在を認めてやるしかないか。いや、諦めるのはまだ早い。では、こう考えるのはどうだろう。
 中井は娼婦の占いを、秘書の後ろ姿に感じた予感を、自己成就予言としたのだ*5

*1:この距離感は最終的にスターバックスの二人がけのテーブル一つにまで縮められる。

*2:涼宮ハルヒか?

*3:ここまで一切触れてこなかったが、エキゾチックな固有名詞の多用もおそらく同様の効果を企図している。

*4:堕天使拷問刑か?

*5:もちろんこれは放言であって、実際にはxiv章までを中井が事後に構成的に書いた/考えたもの、xiv章ついてはリアルタイムの内心を神が拾い上げたものとして、語りの性格になんらかの変化があったものとして読むのが穏当かと思われる。xiv章の最後の†以降における語りがほぼ現在形で書かれていることがこの説を補強する。