Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

「マジック・フォー・ビギナーズ」、読むこと、演じることと解釈すること

 

 

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

 

 

0.

 アメリカの家庭はしょっちゅう崩壊しては再生する。あるいは、再生しようとする。わたしはじっさいのアメリカ文化を見聞きして知っているわけではないので、これはアメリカ文学を読んだ限りでわたしが認識するアメリカ家庭の話である。

 ケリー・リンクの代表的中編「マジック・フォー・ビギナーズ*1」においても家庭は一瞥して崩壊しかけている。その崩壊はなにに由来するのか。その再生はなにを頼りに行われるのか。愚直に直截的で、もはやデリカシーに欠けるテーマ設定といってもよさそうだが、リンクを読むときにその綺想*2に引きずられて独創的な読みをしようとしたり、曖昧性や解釈の透らなさに積極的な意味を見出すべきではない。批評というのは常に負け戦で、たとえ作家に勝つ*3ことができても作品に勝つ*4ことは原理上できないものであるが、だからと言ってこちらから首を垂れてやる必要は全くないのである。

 そういうわけで、本論の 1. から 4. では「マジック・フォー・ビギナーズ」における家庭の崩壊と再生、そして片手間に未成年男子とはなにか、というつまらない、、、、、問題を、本文に即して扱っていく。くわえて、そこで得られた議論や印象を手掛かりに、5. で議論は一段階跳躍する。


1. 寓意(ジェレミー/ゴードン/アリスの三角関係における)

 細部から始めよう。主人公ジェレミー・マーズとはなにであるか。本である。
 かれはテレビドラマ『図書館』の登場人物である。図書館の中にあるものといえば、ふつうはまず本であると考えられる。また、かれの父親のゴードンは作家であり、母親のアリスは司書である。作家によって生み出され、司書によって管理されるものをわたしたちはふつう本という。

 ジェレミーが本であり、両親が作家と司書であることは、どのように家庭の崩壊につながるのであろうか。ここでまずは本の「書かれた存在であり、解釈されることを待っている」という性質に着目してみよう*5

 ジェレミー・マーズが本の寓意であることはどのように家庭の問題を反映しているのだろうか。

 ジェレミーは父親によって書かれた本である。そして、たいていのことは水に流してうまくやってきたアリスが、決定的にゴードンを否定するのは、「ゴードンがジェレミーのことを小説に登場させ、しかも殺した」ことによる。

 登場人物への歪んだ愛においては右に出る者のいないジョージ・R・R・マーティンが、自らの業について書いた歪んだ小説が「子供たちの肖像」である。レイプされた娘のことを小説として書いてしまった作家/父親の業がここでは描かれているが、ジェレミーについても問題は同じである。作者は自作の登場人物に対して好むと好まざるにかかわらず神のような力を持つが、ゴードンがこの力を行使して、しかも息子を殺すのに使ったことに対して、司書のアリスは激怒せざるを得なかったのである。

 ゴードンが「書店から本を万引きすること」もまた象徴的な意味を持つ。というか、375 ページではもっと直接的に、

僕の人生を盗んじゃったのもいかにも父さんらしい

と書き込まれている。

 このように、作者としてゴードンは子どもであり本であるジェレミーに対してメタに立つ。子どもから見た父親の像を、本からみた作者という構図に象徴しているわけである。

 一方、司書たる母親と本たるジェレミーの関係はどのようなものであろうか。
 司書は本を通読しない。管理し、部分的に利用するだけである。それは彼女の人生に対する態度として表されていて、たとえばシャワーの時間を気にする夫のけち臭さを彼女は努めて無視することができる。万引き癖にも目をつむることができる。ゴードンがアリスに「怖いページを糊で貼りあわせて読めなくした特別版を贈る」のもまた印象的だ。アリスはものごとには良い面と悪い面、自らの趣味に合う面とそうでない面があることを知っていて、それでもものごとを全体的には良いものとして受け入れる術を知っている。(そして、そんなアリスですらゴードンの今回の暴挙には耐えられなかったのである。)

 ただし、この態度は息子のジェレミーに対して全的な承認を与えられていないという感慨や、どこかつかみどころのなさを与えている。

ジェレミーの母親は、何かを隠しているように、秘密にしているように思える人物である。(354 ページ)

 ジェレミーは母親によって十二分に解釈されている(≒全的な承認を与えられている)ように感じられていないし、母親を十分に解釈できているとも思えないのである。


2. 寓意(ジェレミー/エリザベス/タリスの三角関係における)

 両親と子のすれ違いがさまざまな寓意で表現されていることは上で見てきたが、ところでこの小説はもちろんジェレミーと二人の女の子をめぐる青春小説でもある。こちらについて触れないのは片手落ちになろう。

 ジェレミー・マーズは火星である。Mars なんだから火星なのは当たり前だろというのはさておき、このことはこの作品の舞台がヴァーモント州プランタジネットを舞台にしていることからも裏付けられる。というのもヴァーモント州にプランタジネット Plantagenet なる地名は存在しないが*6、存在しない地名をわざわざ使ったのは、Plantagenet が Planet を暗示するからである。

 ではジェレミーはなぜ火星でなければならないのか。火星の惑星記号が♂だからだ。ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。

火星についての本があるみたいに、女の子についての本があったらいいのにとジェレミーは思う。(中略)ただし、「火星」という言葉をつねに「女の子」に置き換えて。

(325-6 ページ)

 ジェレミー・マーズは女の子の対義語なのだ。

 また、惑星とは Planet つまり Wandering Star の直訳であるが、これらの名称は惑星が天球上の固定された一点を占めず、ときに逆行することから名づけられたものである。ジェレミーも二人の女の子の間を揺れ動く。

 ジェレミーには女の子ってものがよくわからない。ジェレミーはタリスに言う。

でも君、透明じゃないじゃない。(388 ページ)

 ジェレミーには女の子の内面が見えない。女の子がわからないので、エリザベスとタリスのどちらに恋をしているのかわからない。ただし、エリザベスとタリスはどちらもジェレミーに好意を抱いているようだ。

 そして、この小説の中ではAがBを愛することは反射としてBがAを愛することをほのめかす*7。愛に能動性と受動性のどちらをも見出す*8それは、おそらくわたしたちの実感ともそう異ならないだろうが、ジェレミーはもっと主体的に人を愛したいはずだ。わかったうえで、愛したいはずだ。


3. ジェレミーと主体性の問題

 主体的に? そう、ジェレミーの抱える問題はほぼすべて、かれの主体性のなさ、受動性に由来する。それもそのはずで、基本的には「本」として表象されるジェレミーがなんらかの主体的能動性を発揮することはあまりない。ジェレミーは自己認識においても自らを「テニスボール」だと認識している。

なんだか自分が、プレーヤーたちにものすごく愛されているテニスボールになった気がする(362-3 ページ)

 ジェレミーは父親によって書かれ、母親によって(部分的に)解釈され、女の子たちに愛され、しかし自らはそういった周囲に対してどのような態度を取るのが正解なのかわからない。

 ところで、『図書館』に登場する飲み物、ユーフォリアのキャッチコピーは

図書館員にパワーを 注意深さだけでは不十分なときに(345 ページ)

で、これは物語を象徴するフレーズとして作品が始まる前にも掲げられている。注意深い観察的態度から能動的、主体的動きへの変化が作中で重要視されていることは明らかだ。

 そもそもジェレミー Jeremy という名前は旧約の預言者 Jeremiah に由来するが、Jeremiah には悲観論者という意味がある*9。とはいえエレミヤは与えられた祖国滅亡の預言に唯々諾々と従うばかりではなかった。さて、ジェレミーの問題解決はどのようにして行われるのであろうか?

 といってもジェレミーの具体的行動によって家庭問題やエリザベス、タリスとの恋愛関係が即座に解決されるわけではない*10。問題が解決されるのかどうかはフォックスの生死が象徴する。


4. マジック・フォー・ビギナーズ

 Magic for Beginners の Magic とはなにか、Beginners とは誰のことか、ついでにいえば for は利益の for なのか用途の for なのか*11

 といっても第一の点については答えはすでに本文中にある。389 ページだ。

『図書館』ってただのテレビだよ


観る誰もが、これがただの演技でないことを願ってしまう。それが魔法であること、本物の魔法であることを。

 Magic は奇術と魔法の二通りに訳しうるが当然後者で、ここでは『図書館』がただのテレビ番組ではなく、登場人物たちの演技もただの演技でないこと、つまりは『図書館』とわたしたち(というのはひとまずは小説「マジック・フォー・ビギナーズ」の作中人物ということであるが、後述するようにそれは文字通り「わたしたち」のことにもなりうる)の生活する現実世界がなんらかの意味で地続きであることを指す。テレビ番組が現実世界と地続きであることがどう魔法なのか、通常の意味ではつかみづらいかもしれないが、これはそう積極的に混同していくことを魔法と呼んでいるのである。
 先に答えから述べた方が楽だという理由で残り二点についても解答してしまおう。Beginners とはジェレミーを含む人生の初心者であり、for は利益の for でもあり用途の for でもある。

 ジェレミーは主体性を獲得し、フォックスの命を救おうとする。ところがフォックスはジェレミーにとってはフィクションの中の人物である。ふつうに考えればジェレミーがフォックスに対してできることはなにもない。これを可能にするためには、フィクションと現実の境界を破壊する必要がある。
 作中ではまるで魔法の力が働いて『図書館』とジェレミーの住む現実が接続されたかのように見えるが、その端緒となったのは電話をかけたことである。夢の中のフォックス-エリザベスが電話をかけてくれと言ったことをきっかけに、ジェレミーは電話の向こうにフォックスがいるのではないかと想像しながら電話をかけるようになった。フォックスがジェレミーに電話をかけてきたのではない。ジェレミーがフォックスに電話をかけた、、、、、、、、、、、、、、、、、、のである。

 フィクションと現実の境界を積極的にあいまいにすることがこの魔法の中核をなす。とはいえそれはフィクションの中に逃避することを意味しない。逃避はあくまでも現実とフィクションの峻別を保ったままフィクション側に移行することであるが、この魔法においてはさっきまでフィクションであったものとさっきまで現実であったもののどちらをも包括する世界を創造し、そこで登場人物としてふるまうことになる。

 つまるところジェレミーは書かれた/死んだ/固着したテクストであることをやめ、登場人物となるのである。もちろん、ジェレミーは最初から『図書館』の登場人物だったのだが、かれはそのことに気づいたのだ。

 登場人物はもちろん創作物であるが、同時に台本=世界の解釈者であり、その表現者としての行動主体でもある。

 『図書館』の登場人物の演者は固定されていない。これは誰でも登場人物になりうるということでもある。つまり、世界を物語視し、解釈し、意味を与え、登場人物として関与していく魔法は誰だって使うことができるということだ。


5. 蛇足

 魔法は誰だって使うことができる。そう、わたしたちもだ。

 「マジック・フォー・ビギナーズ」の叙述について、一見奇妙な点を指摘して本論を終えよう。

 (少なくとも英語では)小説は過去時制で語られることが多い。それはそうだ。たいていの物語は起こったあとに話す必要があると認められてはじめて物語化される。じゃあ「マジック・フォー・ビギナーズ」が現在時制で書かれている、、、、、、、、、、、のには理由があると考えた方がいいんだろうか。

 さいきんのアメリカの(とくに短編)小説家はさしたる理由もなく現在時制を選択しているように思えることはたしかにある。ライヴ感を出すため? まあそれも理由の一つであることは間違いない。しかし、そのコスト*12に見合ったメリットを得ているだろうか。

 すくなくとも「マジック・フォー・ビギナーズ」において現在時制はかなり意図的、戦略的に選択されているし、というか、こういう書き方しかできなかった。

 なぜならこの小説はテレビ番組の実況中継だからである。書き出し二段落目からして「『図書館』のある回で」とはじまるこの小説は 399 ページにおいて「でもこれは本じゃない。テレビ番組だ。」と念押しまでしている*13

 ジェレミーが本からテレビ番組の登場人物になったように、この小説も小説でありながらテレビ番組であることを志向する。その中間点として実況スタイルが取られたのだ。

 さて実況スタイルを取ることでこの小説は現在時制で語られることになったわけだが、そのメリットはなにか、デメリットはエスケープされているのかどうか。

 デメリットから片付けよう。注 12 で現在時制は情報量の面で制約を受けると書いた。現在時制で書かれた小説の語り手は小説内時間より未来のことを語る権利を持たない。予言的な構成や伏線ですら嘘くさくなってしまうデメリットがある。とはいえ、これは現在時制は現在時制でも実況中継の時制だ。「マジック・フォー・ビギナーズ」と『図書館』のどちらに対してもメタに立っている実況者の「私」はすべての情報を自由に扱うことができる。

 「私」?

 そう、迂闊な読者は見逃していることであろうが、この小説は一人称、、、現在時制で書かれている。

ヘアカットはジェレミーも私もまあ許せる。私たちはただ、テレビ番組のことを訊きたいだけだ。(329 ページ)
喧嘩の原因をあなたに明かす権限を私は与えられていない。(336 ページ)

 「私」が顔を現すのは地の文中この二か所のみである。『ボヴァリー夫人』の « nous »のように*14、あるいは「エミリーに薔薇を」の "we" のようにひそやかに、しかし重大に。

 この二か所の「私」は当然無意味に挿入されたわけではない。そのどちらにもテクスト上の意味はある。

 前者は『図書館』を見る「私」が番組に対して抱く感想で、実況中継としてはこういった箇所がないとどうしても不自然になるという理由で挿入された。後者は「権限」という言葉遣いに明らかなように、「私」はこの物語を語るにあたって十全な知識を得ている(そして語りをコントロールしている)ことを示唆している。メタに立つ「私」にとって情報量問題は発生していないのだと。

 次は現在時制のメリットだ。といっても、現在時制を用いたことによるこの小説に特有のメリットはたった一つしかない。

 先に「魔法は誰だって使うことができる」と書いた。この魔法を「物語と現実を積極的に混同して、新しく生まれた世界の登場人物として生きること」と定義したが、この内容なら、わたしたちにも実践できる。

 この小説が現在時制で書かれたもっとも大きな理由はここにある。「私」はわたしたちに、魔法を使ってみろとうながしている。過去形ですでに物語られた物語に今から入りこんでいくことはできない。だからこそ、「マジック・フォー・ビギナーズ」は現在形なのだ。


 わたしたちの解釈は成功したのだろうか。「向こう側には沈黙があるのみ」(375 ページ)である。しかし、電話の向こうのその沈黙は、「穏やかな、こっちに興味を持ってくれている沈黙」なのだ。そしてこの沈黙は、解釈を受け入れる作品の沈黙でもあるし、魔法を使い、今や登場人物として表現者となったわたしたちの演技を観る観衆の沈黙でもある。

*1:ケリー・リンク著、柴田元幸訳『マジック・フォー・ビギナーズ』(ハヤカワ epi 文庫、2012)収録。翻訳、引用ページ数表記等も同文庫に拠った。

*2:十分定義づけされていて、そのうえでなんらかの意味を持つ単語であるとは到底思えないが。

*3:作家ですら知らなかった作品の魅力を見出す。

*4:作品が持つ美質以上のことを唱えればそれは「その作品の」「批評」として成功したわけではなくなってしまう。

*5:またテクストについてのテクストか! きっと心ある読書子はそう思ったことであろう。まあ諦めてついてきてほしい。

*6:389 ページで「プランタジネット」「それも実在の場所だよ」とわざわざ書かれていることからも、この地名が存在しないことがわかる。

*7:カールはタリスがジェレミーの夢を見たことからジェレミーがタリスを好いていることを推論する。346 ページ。また、「エリザベスがエイミーに言ったんだよ、お前のこと好きだって。だからお前もやっぱり、エリザベスのこと好きなのかなって」347 ページ。

*8:一種トマス・アクィナス的ですらある。

*9:もちろん 327 ページの「楽天家なのだ」は反語である。

*10:また、そんな小説をわたしたちは読みたいわけでもない。

*11:つまり、Beginners のためになる/あるような Magic なのか、Beginners が使うための Magic なのか。

*12:現在時制の語りは(とくに一人称の場合において)情報量の面で制約を受けることになるが、ひとびとは都合のいい時だけルールを無視することでこのデメリットと向き合っているように思える。

*13:もちろんこれは「マジック・フォー・ビギナーズ」が本ではなくテレビ番組であることと同時に、ジェレミーが本ではなくテレビ番組の登場人物であることも意味している。

*14:« Nous étions à l’étude. »