米澤穂信の(とくにさいきんの)小説をほめるのはとても難しくて、それはいわゆる美人さんをほめるときのあの難しさに似ている。要素をつかみ出してみれば特に目新しいところはない。この鼻の曲線が……とか、このトリックの独自性が……とか、この目の色と髪の色が……とか、このプロットのひねりが……とか、そういうことを言えないのだ。ただ遠くから眺めてみると、適切な位置に適切なパーツが整然と並んでいて、全体として統一感があるし、見ていてなんとなくさっぱりとした気持ちになる。性的ではない美しさというか。
というわけで、米澤穂信をほめる言説のだいたいは陳腐なものになる。キャラクターの行動の逐一を同人誌的関心から騒いでみたりだとか、青春のほろ苦さがどうのこうの言ってみるとか、まあ、どうでもいいようなことしか言えなくなってしまう。要するに評論向きじゃないのである。
とはいえなにかしゃべってみよう。というのも、ブログの更新をさぼると広告が出るようになってしまったらしいからである。
こんかい話したいことはひとつだけである。千反田えるについてである。
いままでの古典部シリーズはわりと奉太郎、里志、摩耶花(……名前を列挙していて思ったが、どれも変換しづらいが、不自然ではない名前であり、こういうところの細かい芸というかセンスが米澤穂信のキャラクタの実在感の九割を形作っている)について掘り下げられてきた。氷菓、愚者のエンドロールあたりでこの三人の行動様式みたいなものはだいぶ周知されたので、それがいかにして形作られてきたか、歴史が少しづつ語られてきたというかんじ。「長い休日」で奉太郎のモットーの根っこが明かされたし、里志については「手作りチョコレート事件」があるし、摩耶花も「わたしたちの伝説の一冊」でわりと説明がついてきた。ところで、千反田えるは?
アニメ版氷菓の評価*2として、千反田えるが白痴的でとても見ていられないというようなのがあったとおもうが、あれはちょっと仕方のないことで、じっさいに千反田えるは中身をのぞき込むとちょっとぞっとするくらいなにもない。このなにもなさをアニメではああいう風に消化するしかなかったのだが、それは千反田のキャラ設定の失敗だったのか? 違う。
このまま高校を卒業して、大学に入って、サラリーマンになって、それでいいのか、というような人生の意味の欠落にたいする漠然とした不満みたいなのが奉太郎にはあって、そこに穴を空けるのが千反田えるだった。名家のお嬢様で、将来は家を継ぐという。じぶんの夢を持たない奉太郎はいともかんたんに千反田えるのこの人生設計に意味の体系を托卵する。この辺は『さよなら妖精』とまったくおなじ構図なわけだが、マーヤは首を撃たれて死ぬことになる。
さて、ワトスン役ですらない(語りが探偵だから)千反田えるがなぜ存在するのか。ミステリをやるのに千反田えるは必要ない。とはいえ、いると便利である。「気になります!」、これである。奉太郎が世界とのかかわりにおいて長い休日に入っている以上、だれかが謎を持ち込まないといけない。というわけで千反田は当初創造された。狂言回しとして作られた千反田をそれでも奉太郎は徐々に信仰するようになる。奉太郎のモノクロームの視界に、千反田えるは目的と興味に彩られた世界の持ち主として現れた。
ところが千反田えるの見ている世界はたしかに極彩色ではあったが、彼女がそこに住んでいるわけではなかったというのが問題である。
「気になります!」というのはテレビの向こう側への興味でしかない。千反田えるのあの無邪気さは観光客の無邪気さであった。千反田えるは、彼女の住む世界が今後一生大きな変化がないことを前提していた。マーヤもそうだったが、彼女たちは気軽に「知見を広める」みたいなことを言う。広げられる前の核となる世界観がすでにあるからだ。