Akosmismus

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『中世思想原典集成 精選 6』

 

中世思想原典集成 精選6 大学の世紀2 (平凡社ライブラリー)

中世思想原典集成 精選6 大学の世紀2 (平凡社ライブラリー)

 

 

トマス・アクィナス「知性の単一性について」De unitate intellectus contra Averroistas

  アヴェロエスの知性単一説とはそもそもなんだったのかをまず振り返ってみよう。以下の記述はタカハシ 2019*1 から。

 

前提

・知性は受動的な能力 virtus passiva である。
・知性は身体でも身体的能力でもないので可変的ではない*2

 
図式*3

         表象能力
            ↓
能動知性→表象像/志向的概念(可能態)→思惟的対象(現実態)→質料的知性

 

  アヴェロエスにとって知性は単一であるというよりもまずもって非質料的なものである。非質料的なものはアリストテレスに従えば個体化されない。よって単一である。
 では質料的知性が単一であるにもかかわらず個人的な思惟が存在するのはなぜか? という当然の疑問が呈される。
 アヴェロエスの答えはこうである。可能態にある志向的概念が生成消滅するものだから。志向的概念は身体的な能力である表象能力のうちに存在するのである。

 

 この図式について容易に起こりうる疑問とその回答は以下の通り。
Q1. 知性が質料的・個体的な存在者ではないにもかかわらず、なぜ私たちの認識は各主体によって相違が存在するのか
Q2. 非質料的であるかぎりで不変のはずの思惟的対象が、なぜある種の生成を遂げるものとして存在しうるのか

A1. 可能態にある志向的概念が身体的な能力である表象能力によって生み出されるから
A2. 能動知性によって可能態にある志向的概念が現実化されるプロセスを反映している

 この複雑な図式によってアヴェロエスは個人のうちの多様な経験と普遍的な学知というアポリアにある種の調停をなしているのである。

 

トマスの反駁

 では上記のアヴェロエスの知性論をトマスはどのように解釈し反駁したのだろうか。

 

 知性単一説は知性が質料に基づかないという前提からくるものであったが、その結果正統な信仰にとって不都合な事態が生じる。

 もし人々のあいだから知性の相違がなくなれば、知性だけが魂の諸部分のなかで不滅で不死のものであることは明らかであるから、死後には単一の実体としての知性のほかに、それぞれの人の魂は何も残らないことになるからである。その場合には報いとしての賞罰もその多様性もなくなることになる。

  トマスは知性を多数化、個体化する必要がある。そのうえでその知性の不滅を保証しなければならない。


 そこでトマスはアリストテレスの『霊魂論』De Anima の 第二巻にある「魂は自然的、有器官的物体の第一現実態である」という記述に注視する。
 魂は身体の形相である。身体の形相であるならば質料に基づいているので魂は多数であり、個体化されている。


 アヴェロエスが生きていたらどう反論するだろうか*4

アリストテレスにとって思考的能力とは個別的判別能力であり、一般的にではなくて個別的にだけものを判別する能力である。思考的能力は感覚的事物の意味を、その表象された影像によって判別するところの能力以外のものではない。この故に指向的能力は肉体の中に存在する能力の類に属する。……理性的判別能力は実に個別的ではなくて、一般的な意味を判別するのである」

  アヴェロエスにとって身体の質料によって個体化されているのは「表象能力」「思考的能力」だけである。知性は魂のうちに含まれない。

 いっぽうトマスによれば知性は魂に属するものであるが、魂のほかの部分から区別されるものである。

知性は肉体の現実態である魂に属するものであるが、それにもかかわらず魂に属する知性は、魂のほかの能力が有しているように肉体のいかなる器官も有してはいない 。

 トマスによるとアヴェロエス派の上記のような立場の源泉はアリストテレス

感覚的能力は肉体なしには存在しないが、知性は離れている。intellectus est separatus (429b3-4) 

 と述べていることにあるとしているが、トマスは separatus をアヴェロエス派のように肉体から知性が離れているという意味では解釈しない。むしろ、同じ記述を自説(知性は魂のうちにあるが、ほかの部分と身体的器官の有無によって区別される)の根拠とする。

 

 思惟の個人性はトマスの批判にも関わらずアヴェロエス説でも保持することができる。知性は単一だが魂の能力の一つである思考的能力(表象的能力)は身体的なものであり、個別性を持つからだ。

 トマス説では身体の形相であるとして知性も質料的なやり方で個体化されていたが、それならば個人の肉体が消滅しても魂の知性的な部分がその個人と同じ意味において存続するという宗教上の信仰をトマスはどのように擁護するのだろうか。その困難を重々承知でトマスは 580 行目から霊魂の(というか知性の)不死性をアリストテレスに基づいて擁護しようとする。

 魂の知性的な部分は身体の形相でありながら肉体のいかなる器官に存在するものでない。そして、器官を持たないがゆえに「離れて」いる。身体の形相である以上知性は身体に先立っては存在しないが、身体(質料)の滅亡後の知性(形相)の存在身分についてはアリストテレスが明言していないのをいいことに、なんやかやで身体の滅亡後も知性が存続することにしようとする。

  知性的な魂は、身体をともなわない作用を有するから、その存在はかならずしも質料との結合のみに依拠しているのではない。したがって知性的な魂が質料から引き出されるとは言えない。むしろ外的な根源から由来すると言わなければならないのである。そのことは「残るところ、知性だけは外から来るのであり、これだけは神的であることになる」というアリストテレスの言葉から明らかである。アリストテレスはさらに次のように付け加えて、その原因を指摘している。「なぜなら知性の作用には身体の作用と共有するものが何もないからである」

 このように知性は身体の形相としては身体に依存するけれどもその働きとしては身体的なところはない、というのがトマスの知性不死論のひとつの論拠であるようである(難しくてこの辺はよくわからん)。

 しかしそもそも身体の形相としての由来を持つ知性と、肉体を失ったあとの知性は全く同じものと言えるのだろうか? 肉体を離れた知性は表象をともなうことなくいかにして知性認識するのか?

 

その後

 トマスの知性単一説論駁は哲学の土壌で非正統説と対抗しようとした点で価値あるものであったが、決定的に魂の不死を論証できたと思った人はカトリック内でもそう多くはないようだ。

 例えばスコトゥスがすでにアリストテレスを論拠とした魂の不死論に疑義を呈しているし*5、ポンポナッツィも同様にトマスの魂不死論が人間精神を相対的に可滅であるが絶対的に不滅であるとしていることに不満を持ち、人間精神はむしろ絶対的には可滅であるが相対的に不滅であると考えようとした*6

 

memo:

John Duns Scotus Philosphical Writings : John Duns Scotus

The Renaissance Philosophy Of Man

 

 思えばスピノザも身体とともにあるものとしての精神、しかも「このわたしの」人間精神の永遠性を確保するために遠大な概念装置を要した哲学者であった*7*8

 

*1:アダム・タカハシ「アヴェロエス『知性論』の基本原理」(『白山哲学』53巻、2019年)

*2:質料的なものでないので個体化されていない→非質料的で単一なもの。

*3:この図式の上段が前知性的な能力で下段が知性的な能力

*4:田中千里「知性の単一性について——アヴェロエス説とトマスの反駁論」(『中世思想研究 』21 巻、1979 年)による。

*5:江川義忠「中世哲学における魂不死の論証について(1)—―特にドゥンス・スコトゥスの場合—―」『立正大学人文科学研究所年報 』7巻、1968 年

*6:山田弘明「ポンポナッツィとトマス・アクイナス—―魂の不死性をめぐって」『中世思想研究』19 巻、1977 年

*7:柏葉武秀「スピノザにおける精神の永遠性――ライプニッツの批判に抗して」(『北海道大学文学研究科紀要』124 巻、2008 年)

*8:秋保亘『スピノザ 力の存在論生の哲学』(法政大学出版局、2019 年)