Akosmismus

Me, poor man, my library was dukedom large enough.

『なめらかな世界と、その敵』

 

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 
「なめらかな世界と、その敵」 ★★★★


 葉月*1はなぜK056をばらまくという決断をしたのだろうか。幼馴染のマコトの意識がこの世界に固定され、かつその「目が気になる」という恐怖に共感したためである。
 しかし、複数の理由でこの説明に同意することは難しい。

 

1. そもそも乗覚障害は治療可能である。

 「なめらかな世界」のルールでは世界間の意識の移動に記憶の移動も伴うらしい。葉月は乗覚障害の治療法が存在する平行世界からこの世界*2に治療法を輸入しようとするが、技術レベルの懸隔によってこれを諦める。
 しかし、かけ離れた技術レベルが問題なのであれば、逆に、近い技術レベルの世界間での技術や知識の継承は可能であるということである。乗覚障害の治療方法を持つ世界から少しだけ技術レベルの劣る世界、その世界からさらに少しだけ劣る世界、と経由することによってこの世界にまで治療方法を輸入することは可能である。

 

2. そもそも「目が気になる」という恐怖は存在しない。
 「目が気になる」という恐怖は乗覚障害を持たない人間にとっても同様のリアリティがあるはずである。あるいは乗覚障害になることではじめて非対称性からその恐怖に気づくということなのかもしれないが。p. 40 に「この世界の健常者ならだれもが知っていながら、本当には分かっていないこと」とあるように。しかしこの説明をうのみにしていいものだろうか?
 より根本的な問題点がある。「なめらかな世界」の存在者たちは日常的に無数の平行世界を移動している。そのため、対話している相手がその瞬間に「意識」を偶然持っている可能性は無限にゼロに近い*3。よって「なめらかな世界」に生まれた存在者は自分以外の存在者が「意識」を有することに特権的な価値を見出すようにはならないはずである。

 


 もうちょっと突っ込んで考えてみよう。
 おそらく「なめらかな世界」のルールは以下のようなものである。

1. 平行世界間にはなんらかの意味での同時性がある。あるいは、同時性を持つ平行世界にしか意識を移動させることはできない。
2. 平行世界間での意識の移動先は到達可能な平行世界において貫世界同定される個体への移動に限定される。
3. 意識の移動は記憶の移動を伴う。
4. 意識を持つ肉体が死亡すると意識もなんらかの意味で損なわれる。

 このような世界に生まれたある「意識」が我々と同じような価値観や倫理観を持つようになるだろうか、はなはだ疑問である。われわれの行動を左右する価値観には様相的な推論がたぶんに含まれるわけだが、平行世界へ意識を自由に移動できる意識にとって様相は存在せず、物事は「あり得る(論理的に可能)」か「あり得ない(論理的に不可能)」かの二通りであり、そのような存在者の価値観は、われわれが持つような価値観とはその在り方が異なってしかるべきである。不確定な未来に対する様相的な推論をもとにした価値観が存在しない生き物にとって、行動(この行動には意識を別の世界に移動させるという行動ももちろん含まれるが)の原因や指針は短期には目前の生物学的な欲求くらいしか考えられない。目先の欲求が行動の原因となるのであれば、殺して犯して奪って捕まる前にほかの世界に移動するというのが、「なめらかな世界」の存在者の最適な戦略にならないだろうか。もちろん長期的な目線では「この意識」が何かを達成することが行動の原因や指針となるだろうが、それは「この世界」で達成する必要はない。

 また、ルール 3 から諸平行世界は因果的に閉じておらず、これを要するに平行世界のそれぞれは形而上学的な意味での「世界」ではない。同時性を持つ平行世界の束に、その時点で存在する諸意識を加えたメタ世界、これを今まで「なめらかな世界」と呼んでいたのであるが、これのみが「世界」の名に値する。ところで、因果的に閉じていない諸平行世界はある意味で最善な世界に収束する動きを有することにならないだろうか。
 たとえば、「1. そもそも乗覚障害は治療可能である。」で挙げた治療方法の平行世界間での伝播は、実際には葉月の寿命と学習速度を考慮に入れると起こりえない、という反論が考えられる。しかし、世界間での意識の移動はすべての存在者に許されているため、ある世界で乗覚障害の治療法が開発されたなら、その最近傍世界にすぐその治療法は伝播するし、その繰り返しですべての世界が治療法を共有することになるだろう。同様の理屈はあらゆる知識や技術について言える。平行世界間で技術や知識レベルに差があるという想定がそもそも不可能なのである。
 また、平行世界間を移動できる存在者であるはずの葉月がこの世界に主軸を置いていて、平行世界は「必要に応じて」訪れているように見えるのも不思議である。意識ごとに愛着する世界があるのだろうか。諸平行世界は完全に同格の存在ではなく、現実性に重みづけがあるのだろうか。

 

 形而上学的には首をひねらざるを得ない点も多いがまぁ「学校を出よう!」とかもそういう弱点にもかかわらず面白かったのであって、本作も複数世界をまたにかけた徒競走とかそういう美しさがメインディッシュなのではないか、ただ前述のような疑問点が解消されない限り、どうしても幼馴染と顔と顔を合わせて対話するために世界に毒をまくとかそういったエモは絵にかいた餅*4に思えてしまう。

 うーん。どうにも乗覚障害者であるわれわれの視点から都合よく想像したエモさに過ぎない気がするんだよな。複数世界の可能性を夢見たからこそこの世界を愛するしかないのだ、と確信するのはまあSF的には温かみのある話ではあるが、神や天使には神や天使の道徳があるのであって、それを人間の地平まで引きずり下ろしたところでルサンチマンでしかないのである。巨大感情とかいうわけのわからんもんに騙されてはいけない。

 

ゼロ年代の臨界点」★★★

 いいね、こういうのでいいんだよこういうので。

 

「美亜羽に贈る拳銃」★★★★

 後半の疾走感がむしろパズルのからくりを逐語的に説明していることから生まれてるってのがいかにも同人誌っぽいというか若書きっぽいところではあるがそれも含めて元気いっぱいでいい作品。なんか SF オタクの職人芸みたいな前評判だったけどこういうごつ盛りのエンターテインメントがむしろ本領なのでは。

 

ホーリーアイアンメイデン」★★

 ふーん……。

 

「シンギュラリティ・ソヴィエト」★★★

 設定のほうが本編より面白いというか……。

 

「ひかりよりも速く、ゆるやかに」★★★★★

 ド傑作。ありがとう。あまりにも美しいな。ていうか愛はさだめじゃなくて故郷から一〇〇〇〇光年なんだね。おれはどっちかっていうと「断層」だと思ったけど、でもやっぱり「故郷へ歩いた男」かもしれない。異常な設定の外挿が最悪に皮肉で、どんなことでも小説を書けてしまうことの悪趣味さは「子供たちの肖像*5」だ。こんなに悪趣味なのに古典的な SF らしい力技でファーストコンタクトものになるのも天才だ。なによりさわやかだ。興味深くて異常だが重たい設定にひきずられて首を垂れてる感のあった他収録作と比較すると物語の運びにも破綻がない。伴名練サイコー!

 

 

 

*1:この世界で呼ばれる意識

*2:以下「この世界」とはマコトの意識が固定されてしまった世界、物語の主要な舞台となっている世界のことを指す。

*3:ヴァン・インワーゲンの確率説みたいな。
ピーター・ヴァン・インワーゲン「そもそもなぜ何かがあるのか」『現代形而上学論文集』(勁草書房、2006)

*4:そもそもエモの語源は「エに描いたモチ」だからな。

*5:みかんさんそれ好きだねえ。